昨日は「ミッション千葉」という
宣教区の集まりがありました。
なぜか、私が説教することになっていて、
しかも「共に生きる教会」というテーマが与えられていて、
マルコの福音書10章13~16節から語りました。
メッセージのはじめに、
自己紹介がてら、
一つのエピソードを話しました。
私が神学生の時、
一人の外部講師がチャペルで話されたのですが、
その先生が、
日本の教会には男性が少ないことを嘆いて、
「日本の教会は女、子どもの教会になってしまっている」
と言われたのです。
私はそれを聞いて、
なんだか悲しくて、
悔しくて、
腹が立って、
「よし、
もし神さまが将来私を牧師にしてくれたら、
女、子どもの教会をつくろう」と、
心に誓ったのでした。
このエピソードがウケたようで、
帰り際、何人かの人が、
「女、子どもの教会をつくろう!」
と声をかけてくださいました(笑)
説教は下に貼り付けますね。
「共に生きる教会~神の国の価値観」
マルコの福音書10:13~16
皆さんは「2030年問題」をご存じでしょうか。2030年には、日本の超高齢化社会がさらに進み、国内人口の3人に1人が65歳以上になると想定されています。また、高齢者が増える一方、少子化が進み、生産年齢人口が減少するため、労働力不足など多くの諸問題が発生するという問題です。これは何も日本社会の問題だけではありません。2030年、日本基督教団の信徒は半減し、福音派も50歳以上が9割になるとの予測がされています。2030年からの新型コロナウィルスの流行は、これに拍車をかけ、教会の信徒は減り、教会の統廃合に拍車をかけました。日本同盟基督教団は、当初から比較的若い献身者を多く生み出してきたのですが、近年は献身者が減っています。近い将来、いえもう始まっているかもしれませんが、新しく派遣される教師より、引退する教師の方が多くなり、後継者を迎えられないまま、教会が閉鎖されていくということが現実のこととして起こってくるのです。
私は今日、このマルコの10章13節から16節までのみことばを選ばせていただきましたが、何も同盟教団が栄え続けるために、子どもやユースの伝道をがんばろう、信仰継承に励もうと言おうとしているわけではありません。もちろんそれは大事なことですし、私たちの教会も、あの手この手で、地域の子どもたちの伝道に力を入れています。けれども、私はこのテキストから、むしろ今教会は、価値観の転換をはかるべきではないかと思わされたのでした。主が喜ばれる教会はどんな教会でしょうか。教会財政が豊かなこと、大きな会堂があること、人数が多いこと、よく奉仕すること、教会に若い人があふれていること、それが祝福された教会、神さまが喜ばれる教会なのでしょうか。
「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。」 (v.13)
当時子どもたちをラビのところに連れて行って、祈ってもらうということはよくありました。けれどもここでは、なにもひとりひとり手を置いて祈ってもらおうなどと贅沢を言うつもりは、だれもなかったようです。ただ「触れていただきたかった」。ここに書かれている「人々」はこの子たちの親であったことは自明でしょう。少子化の今でこそ、子どもは大事だという社会通念もありますし、子どもの人権が叫ばれるようにもなりましたが、当時の子どもたちはどうだったでしょうか。未熟なもの、役に立たない、邪魔な価値のないものだったことは容易に想像できます。けれども親にとっては、やはり大事な子どもたちでした。ですから、せめて、イエスさまに触れていただこうと、そうすれば祝福のおこぼれに与かれるのではないかと、親たちは子どもを抱っこして、あるいは手を引いて、イエスさまのもとに連れて行ったのです。
ところが、弟子たちが彼らを叱ったのです。悪気はなかったでしょう。イエスさまは、多くの人を教え、癒しのわざを行い、時にはパリサイ人たちと議論し、疲れていました。イエスさまは、言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」そして、この時はガリラヤ宣教の終わり、これからエルサレムに向かう頃、時は緊迫していました。弟子たちが期待し、待ち焦がれているローマから解放される「神の国」が完成に向かっているときなのです。少なくとも弟子たちはそう思っていました。だから子どもなんかの相手をしている暇がない!ということです。そして弟子たちは、その親たちを叱りました。どんなふうに叱ったのでしょうか。想像することしかできませんが、こんな感じではないでしょうか。「こらこら、イエスさまはお忙しいのだ」「こっちにくるんじゃない!」「邪魔だ」「あっちに行け」「子どもなんかにかまっている時間はない」
「イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。 (v.14a)
同じ記事は、他の共観福音書、マタイにもルカにもありますが、どういうわけは、この「憤って」という言葉を入れているのは、マルコだけです。しかもマルコの福音書の中でも、この強い表現「憤って」は他では使われていません。ここだけです。イエスさまが怒る、激する場面というと、私たちはとかく、「宮きよめ」の場面を連想します。確かに宮きよめの時のイエスさまは、激しかった。この後11章15節以降にありますが、こんな感じです。「イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。」この後です。「そして、人々に教えて言われた。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」この時のイエスさまは、オーバージェスチャーだったので、怒り心頭だったように思われがちですが、少なくともマルコは「人々に教えて言われた」と表現しています。そう思うと、弟子たちへのイエスさまの「憤り」は異常ともいえます。どうやら弟子たちは、イエスさまの怒りのツボをついてしまったようです。イエスさまの逆鱗に触れてしまったともいえるでしょう。誰にでも怒りのツボがあります。長年夫婦をしていると、相手の怒りのツボを心得ていて、夫婦喧嘩をしても決してそこに触れないように気を付けるものです。弟子たちにしたら、イエスさまの怒りのツボはここにあったのか!という感じでしょうか。そうなのです。イエスさまの怒りのツボはここにありました。「祝福を求めて子どもたちを主のもとに連れてくる人々の邪魔をする」それがイエスさまの怒りのツボだったのです。そういえばイエスさまは、同じくマルコ9章42節でも、「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです」と、想像すると恐ろしいぐらいの、イエスさまどうしちゃったの?といいたくなるような表現です。そして、「憤った」イエスさまは、怒りに震えながら言うのです。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」(v.14b)
イエスさまは、子どもの祝福を邪魔しないようにということだけにとどまらず、私たちも子どものようになることを勧めています。それどころか、子どものようにならなければ、神の国に入れないとおっしゃいました。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(v.15)イエスさまが「まことに」と言う時は、大事なことを話すときです。
「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。子どものように素直にということでしょうか?そうではありません。ここの文脈で言うと、子どもは「価値のないもの」と見なされていました。イエスさまに近づく価値のないものです。イエスさまには他に大事なお仕事がある、君たちの相手をしている時間はないとみなされたのが子どもたちでした。優先順位からいうと最下位にあるのが子どもたちだったのです。つまり、子どものように価値を認めてもらえない者になって、神の国を受け入れるのです。自分は、救われるのに値しない者。もし神の国に入れていただけるなら、それは恵みでしかない。ツロフェニキアの女が「子犬でも食卓に落ちるパンくずならいただけます!」と告白した、徹底的に低められた者。そのような者にならなければ、決して神の国に入ることができない、イエスさまはそうおっしゃったのです。なぜなら、イエスさまの救いは「恵みのみ」だからです。人間の側の努力や良い行い、そんなものは全く必要ない。なければないほど、神の恵みはあふれるのです。「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(v.16)
神の国の価値観は、なんとこの世と違うのでしょう。真逆ともいえます。私たちは、「神の国の価値観」というメガネを通してこの世界を見るべきです。先入観や自分がかたく握っている価値観、親から教えられたこと、世間一般で言われていること、一切を振り払って、「神の国の価値観」で世界を見るのです。大人が教え、子どもが学ぶ?霊的には逆です。金持ちが幸せ?いいえ、「貧しいものは幸い」です。「老い」はどうでしょうか?「教会の高齢化」、そもそもそれは「問題」でしょうか。Ⅱコリント4章16節にはこうあります。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
6月10日のNHKスペシャルで、吉田晋悟&多美子ご夫妻のことが紹介されました。先生は「百万人の福音」でも連載記事を書いています。実は二年ほど前にも、ご夫妻のことがテレビで放映されました。たまたま私はそれを見ました。コロナ禍で、病院や老人施設がどこも面会謝絶だった頃、アルツハイマーで入院しておられる妻、多美子さんを窓越して見舞う吉田先生の姿が、あまりに優しくて、愛にあふれ、美しく、その分切なくて、私に強烈な印象を残しました。そしてお二人が引退牧師夫妻だということも後で知りました。先生はFacebookで、病状が進んでいく妻の様子やご自分の気持ちなどをつづっておられ、それによって多くの認知症の家族を持つ人々を励ましています。ひとつ私の心を打ったことばを紹介します。
「妻は、もはや自分の語った言葉も記憶していないと思いますが、妻の語っていた通り、妻の人格の尊厳は失われていないことを私は確認してきました。妻の妻らしさは、衰えていく外面にではなく、内面に多く見られることも、妻を見つづけるうちに次第にわかってきました。その妻の内面の人格はアルツハイマー病の進行があっても、成長し続けていると私は思っています。」
人間を価値づけると思われている、健康や力、能力、知恵、財力など、あらゆるものが失われてもなお残る尊厳、それは神が愛してやまないその人格にあります。教会は、「神の国の価値観」で一人一人を見るべきでしょう。パウロも言っています。「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(Ⅰコリント12)教会は、誰かが教えて、誰かが学ぶところではありません。誰かが仕えて、誰かが仕えられるところでもありません。お互いに、お互いの中に、キリストに尊ばれている人格を見て、学び合い、仕え合うのです。