主の計画と恵みによって
Ⅱテモテ 1:3~14
こうして伝道師就任前にあかしの機会が与えられたことを心から感謝します。あかしとは言っても礼拝の中の位置づけとしては、説教に代わるものなので、初めにみことばを読ませていただきました。テモテは、ギリシャ人の父、ユダヤ人の母を持つダブルの背景をもっています。そして、母方は信仰に熱心な家系だったようで、このテモテへの手紙を書いたパウロは、3代までにさかのぼって、名前を記しています。しかもお父さんやおじいちゃんではなく、お母さん、おばあちゃんの名前というのは面白いことです。初代教会も今と同じく、教会を支えているのは婦人たちの熱心だということでしょうか。きっと当時の教会の中ではモニカやロイスといえば、だれもが知る名物おばあちゃん、名物おかあちゃんだったのでしょう。テモテはこうして、母方の純粋で(第三版)偽りのない(2017)信仰を引き継いだのです。
私の場合もどちらかと言うと母の影響が大きかったように思います。もちろん、父は牧師として、みことばによって私の信仰を養ってくれたのですが、私はむしろ母に伝道者魂みたいなものを見せてもらった気がします。母はいつも早く起きて祈っていました。寒い冬、当時の石油ストーブで背中をあぶり、体を揺らしながら祈っていた母の姿が非常に鮮明に思い出されます。私が大学や神学校時代、夏休みなどの長期休暇に帰省すると、母は早朝に私を起こし、トラクトを配りに行くのに付き合せました。母とそうやって伝道するのはとても楽しくて、今でもいい思い出です。その母ももう13年前に召されました。私たちが台湾に行って二年目、母が65歳の誕生日を目の前にしてのことでした。ちょうど昨日3月30日が召天日です。
さて、こうしてテモテはよい信仰をベースに、忠実に伝道者、宣教師、牧師としての任を果たしました。彼に与えられた賜物は、福音を恥とせず臆することなく伝える大胆さ、状況が緊迫してもパウロと苦しみを共にする誠実さ、忠誠心です。実際テモテは、およそ20歳という若さで、第二次伝道旅行以来パウロに同行し、同じところで共に働くだけでなく、パウロが去ったのちにもその地方に留まって働きを続けました。またパウロが監禁されているときには、彼の存在は大きな慰めとなったと記されています。
さて前置きが長くなりましたが、今度は私自身がどうやって信仰に導かれたのかをお証ししたいと思います。先ほど申しましたように、私は牧師家庭に生まれました。両親は青森五所川原の出身ですが、結婚してすぐに岐阜に引っ越したので、私は岐阜出身です。5人兄弟の二番目長女です。家はいわゆる貧乏人の子沢山で、牧師夫婦は家庭を顧みず、牧会伝道に励むのが美徳とされた時代でした。今は違います。私が牧師と結婚して子どもが生まれたとき、母と同じようにしようとしていたら、母に「ああ、あれは間違ってた。子どもをかわいがって、家族を大事にしなさい。」と言われた時には唖然としました。間違えて育てられたのだと。(笑) また、当時、両親が所属していた宣教団体はドイツアライアンスミッションで、両親はドイツ人の宣教師夫妻と協力して教会開拓をしていました。子どもと犬はドイツ人にしつけさせろと言われるほど、厳しいしつけをするドイツ人に倣って、うちの両親はずいぶん厳しいしつけをしました。例えば、夜は8時には寝かされていましたから、8時過ぎても騒いでいようものなら、容赦なく外に出されました。またムチという習慣も健在で、よく箒の柄でたたかれました。うちの箒の柄の竹の部分は縦に割けてバリバリになっていました。親が言うには、こんな風にばりばりに割けた竹は音ばかりで痛くないのだと言っていましたが、いやいや痛かったです。それでも私は二番目の長女という位置にあったせいか、いつも要領良くというか、うまく立ち回って、難を避けていましたので、他の兄弟に比べるとそれほど親に叱られることもなく、大きくなった気がします。
そんな私がイエス様を個人的な救い主として受け入れたのは、小学校3年生の夏でした。はじめて教団のバイブルキャンプに参加したのです。岐阜の山奥、淡墨桜で有名な根尾にあるキャンプ場です。もともと私は超が付くほど恥ずかしがりやでした。幼稚園の頃から吃音もあったので外では口数も少なく、人間関係がいつも受け身でした。ですからキャンプの雰囲気になかなかなじめなかったのかもしれません。楽しいプログラムについてはほとんど記憶がないのですが、一人のカウンセラーの先生に信仰を導いていただいたことだけ覚えています。赤沢先生という名前でした。ショートカットで黒縁眼鏡をかけた中年の女の先生でした。先生は、川遊びの休憩時間やキャンプファイヤーの後などを利用して、個人的に丁寧に福音を語ってくれました。イエス様はわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと。それは、私の罪の刑罰の身代わりだったということ。そして3日目によみがえってくださったことによって、私に新しいいのち、永遠のいのちをくださったことを教えてくださいました。いつも教会学校で聞いていたはずなのに、その時はとくに新鮮に響いてきました。兄弟が多く、絶えずケンカをしていましたし、いい子ちゃんぶったり、ずる賢く他の兄弟に罪を擦り付けたり、嫉妬したり、意地悪な思いを抱いたりしてましたので、自分の罪を自覚するのは、難しいことではありませんでした。私はカウンセラーの先生に導かれるまま、自分の罪を告白し、悔い改めの祈りをし、イエスさまを心にお迎えしました。それまでも天地を創造されたまことの神さまのことは疑ったことはありませんし、その神さまがいつも私のことを見ていてくださるということも知っていました。ただ、その神さまのまなざしは厳しく、わたしはそのまなざしにいつもおびえていました。きっととても厳しかった両親を重ねていたのでしょう。
そんな私にカウンセラーの先生がヨハネ3章16節のみことばが書かれたカードをくださいました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それはみ子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そのカードには、ところどころ白抜きになっている部分があって、そこに自分の名前を入れるように言われました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、千恵子を愛された。それは御子を信じる千恵子が滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そうか、天地を作られた神様は、みんなの神様だと思っていたけれど、それだけじゃない、私の神様、私を愛してくださる天のお父様なのだとわかりました。
小さな信仰の決心でしたが、確かに神様に覚えら、受け入れられました。そしてその時から、私の心に聖霊を通してイエス様が住まわれました。イエス様と共なる生活が始まったのです。キャンプが終わって、家に帰るなり、わたしは両親にイエス様を心にお迎えしたことを報告しました。両親はとても喜んで、その赤沢先生というカウンセラーの先生にお礼を言おうとして、キャンプの担当の先生に問い合わせました。ところが赤沢という名前もそれらしい名前のカウンセラーもいなかったというのです。私の記憶違いでしょうか…。あるいは天使?今も謎のままです。
今だったら、小三の子どもでも明確な信仰決心をしていれば、洗礼を授けるのでしょうが、当時は子どもに洗礼を授ける習慣はなかったので、洗礼をもって決心を表明することなくそのままとなりました。また、信仰決心した当初はとてもうれしくて自分が変わったような気がしたのですが、しばらくするとその熱も冷め、相変わらず私は自己中心で、ずる賢く、罪の中にいました。イエス様のことは大好きで、教会学校の先生の指導もあって、毎日聖書を読み祈る習慣はずっとありましたが、救いの確信はなく、洗礼を受けていないので、自分はクリスチャンだと公言もできず、なんとなく中途半端な周りに流されていく日々を送っていました。
そのまま中学生になりました。私が中学生だったころは、まさに「積み木崩し」「金八先生」の時代でした。しかも飲み屋や風俗で有名な柳瀬が学区に入っている私たちの学校は、かなり荒れていました。いつも誰かかれかが鑑別所に入っており、集まってはシンナーを吸っていたり、空き教室でツイストを踊っていたり、身近なお友だちが妊娠したりと、大変な時代だったのです。私はといえば、聖子ちゃんヘアに長めのスカート、短めのセーラー服といういで立ちでしたが、積極的にぐれる理由もないし、親も神様もこわい。でも基本NOが言えない私は、なんとなくまわりに流されて、親にうそをついては、悪い友達と連れ立って遊んでいました。
でも実は苦しかったのです。私はイエス様のことを信じていましたし、私はイエス様のことが大好きで、教会も大好きで、聖日礼拝はおそらく皆勤だったと思います。部活の試合も模擬試験、学校の行事も自分から行くことを拒んで、礼拝を守りました。週日の祈祷会も宿題があろうが定期テスト前だろうが、絶対休まないのがポリシーだったのです。実はこれにはきっかけがありました。当時私は水泳部だったのですが、初めての試合は日曜日で、私は、朝の教会学校のジュニアクラスだけ出て、その後に続く礼拝を休んで、大急ぎで試合に行ったのです。ところが私が到着した時には、私の出番はすでに終わっていて、先輩には、「ああ、キリストさんがいらっしゃった。」といやみを言われたのです。その時に、なぜが、次は早く来よう。教会学校も休もうと思わないで、「なんだ、こんなことなら来なきゃよかった」「もう日曜日の試合に出るのはやーめた。」と思ったのです。模擬試験も日曜日出てもいい点数が取れるわけではない。日曜日に運動会に行ったって、相変わらず走るのは遅い、祈祷会さぼって試験勉強したってそんなに差がない。「やーめた、やーめた、もう全部やーめた!」そんな感じです。そういうところはやたらといさぎいいというか頑固。学校の先生たちも、うちが教会だから、親が牧師だからとというと何も言えませんでした。
ところが礼拝、祈祷会皆勤の私も罪の誘惑の前には弱かったのです。私の意志も頑固さも、罪の前には何の力にもなりませんでした。寝る前には、「神様ごめんない。今日も神様に喜ばれない一日でした。でも自分ではどうしていいのかわからないのです。神様がここから私を救い出してください。」と祈る毎日だったのです。
クリスチャンホームの子どもたちの苦悩はこういうところにあると思うのです。神様の存在はどんなしたって否定できない、神様に愛さていることも知っている、イエス様の十字架の意味も知っている、罪なんか犯したくない、でもクリスチャンのホームの子どもも、そうじゃない子どもと同じ罪人なのです。どんなしたって罪に傾いていく。ただ罪を犯すことに自由がない。幼い時から聞いている聖書の戒めが、私を責める。研ぎ澄まされた良心がチクチクと痛くて、苦しくてしょうがないのです。特に私は小三の時にイエス様を信じて、聖霊がうちに住んでいましたからなおさらそうだったのだと思います。
そんなあるとき、神様はわたしの祈り「私にはどうにもできません。神様が助けてください」との完全な他力本願、神頼みの祈りを聞いてくださいました。その日も私は親にうそをついて悪いお友だちと遊びに行っていました。そして遅くに家に帰ったところ、母が家の外で私を待っていました。母は「どこに行ってたの?」と私に聞きました。私は悪びれず、でも母の目を見ることはできず、「けいこちゃん」と出かけに母に告げておいた名前を言いました。すると母は、「うそを言うな!」と烈火のごとく怒り、私を家の中に入れると、胸倉をつかんで叱り始めたのです。私は泣きながら謝り、もうこんなことはしない、生活を改めると約束しました。そして、最後泣きながら母と祈り、内心ほっとしたのを覚えています。
そして、悔い改めを表明する意味で、中三の夏に洗礼を受けました。けれどもこれで何もかもスパッと解決したわけではありません。相変わらず罪の誘惑には弱く、NOが言えない私は何度も失敗しました。そして不思議だと思うことは、神様はわたしが自分の弱点を克服するまで容赦なく同じところを鍛えられることです。神様はわたしをあきらめない。よしよしそこまででいいよと言ってくれないのです。
また、わたしは悔い改めを機会に、決めたことが二つあります。一つは自分の罪を隠すための嘘はつかないということです。例えば、母に叱られたあの晩、「母がどこに行っていたの?」と聞きました。私は、「けいこちゃん」とうそをつきました。でも、そこでうそを言わないのです。正直に答えれば、罪に罪を重ねて身動きがとれなくなるということがなくなり、早い段階で罪を清算することができるのです。そして実はそんな生き方の方がずっと楽です。
またもう一つは、罪の問題は自分で解決できると思わない。聖霊さまにより頼んで祈るということです。罪の前に自分の意志や努力はなんの力にもならないことは、痛いほど思い知らされていましたし、多くの場合そういう努力は的外れです。頑張りどころがずれてるんです。これからは、神様のまえに素直になって、何でも神様にお頼りして助けてもらおうと思いました。
以上がわたしの救いのあかしです。救いのあかしというのはそれぞれオリジナルストーリーですし、私の場合は、牧師家庭に育っていますから、皆さんにとっては、よく理解できないこともあると思います。確かに牧師家庭の子どもたちの中には、自分の境遇を恥じ、マイナス面ばかりを見て牧師家庭に生まれなきゃよかったと自分の境遇を呪って信仰を捨てる人も少なくないです。私のアメリカ人宣教師の友達が、アメリカの宣教師家庭の信仰継承率は3割だと言っていました。日本の牧師家庭はどうなのでしょうか。けれども、クリスチャン人口1パーセント未満の日本で、クリスチャンホームに生まれ、しかも牧師家庭に生まれ、教会の中で育ち、みことばと賛美のシャワーを浴びて育つというのは、どんなに大きな恵みでしょうか。神さまはどうして、私を牧師家庭に生まれさせてくださったんでしょうか。罪の前に弱くて、すぐに神さまを裏切ってしまうような私を見捨てないで、救いに導いてくれたのでしょうか。それどころか両親と同じ道へ、伝道者としての道へ導いてくださったのは、わたしに何か良いものがあったからでしょうか。そうではないことはわたしが一番よく知っています。すべては神さまのご計画と恵みのゆえでした。
第二テモテ1章9節【新改訳2017】
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。