先週、長く自宅療養をなさっていた教会員が天に召されました。
日曜日、いつものように家族で食事をして、床に着いたのですが、夜中、2時か3時頃、太ももが痛いと、奥さんを起こしたそうです。
奥さんはご主人の足をさすりながら、礼拝説教で教えられたことなどを分かち合い、そうこうしているうちに、ご主人は再び寝入ったとのこと。
ところがその日の朝、ご主人はそのまま、静かに天に召されていたということです。
以下は葬儀の時のメッセージです。
「たとえ外なる人は」
コリント人への手紙第二 4章16~18節
ひろしさんは、2021年11月22日朝、目覚めることなく、静かに天の御国に帰られました。82歳でした。
私は元気なころのひろしさんを知りません。私が新船橋キリスト教会に赴任したのは2020年の4月で、コロナウイルスが猛威を振るい始めてきた頃でした。ほとんどのすべての病院や老人ホームは家族でさえ面会できなくなっていましたので、牧師としてひろしさんを見舞いたかったのですが、かないませんでした。数回、少しだけお話をしたぐらいです。けれども、奥様のひろこさんを通して、私はひろしさんをよく知っています。私がひろこさんに「ひろしさんはどんな方ですか?」と聞くと、ひろこさんは決まっていうのです。「凛としているのよ」「いや、凛としていたのよ」と。ひろこさんはそんな凛としたひろしさんが大好きで、心から尊敬しておられるのがよくわかりました。またひろこさんはよく「主人に叱られちゃった」とおっしゃっていました。不平不満を言ったり、誰かのことを批判したりすると、ご主人は「そんなこと言うもんじゃありません」と静かに叱られるのだそうです。かといって、いばってふんぞり返っているわけではなく、元気なころは、子どもたちの勉強をみてあげたり、教会の草むしりをしたり、会堂の修繕をしてくださったり、本当によく仕える人でした。教会には、ひろしさんが作ってくださったメールボックスや玄関のすのこがあり、それらを見る度に私たちはひろしさんを思い出すことができます。そしてもう一つ、ひろこさんのお話を伺って、いつも思っていたことは、ひろしさんは現状を受け入れること、そして今を満足することを知っておられるお方だなということです。ひろこさんが「からだが不自由になって人に世話されて、いやじゃないの?」と聞いたことがあるそうです。するとひろしさんは、「全然いやじゃないよ。できないことは助けてもらうのは、なんにも恥ずかしいことじゃない」とやはり凛とおっしゃったということです。そんなひろしさんのことを思うときに、私は、先ほどお読みした聖書の言葉を思い出すのです。
「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
わたしたちの外なる人は日々衰えます。本当にそうです。ひろしさんは一足先に天国に行かれましたが、私たちも時間の問題です。世の中の人々は「アンチエイジング」などと言って老化に抗いますが、多少老化を遅らせることができたとしても、私たちは確実に死に向かっているのです。しかしこの手紙を書いたパウロという人は、それでも「落胆しません」と言っています。なぜでしょうか。内なる人が日々新たにされているからです。私が少し前に出会った本でリチャード・ロールという人の書いた「上方への落下」という本があります。彼は著書の中で言います。「人生には第一段階(前半生)と第二段階(後半生)がある。」そして「人生の前半は、ウォーミングアップに過ぎない」とまで言っているのです。ウォーミングアップを終えた人生の後半を生きる私たちは、実は人生の本番を生きているのです。「余生」ではありません。これからが勝負なのです。そのような意味でひろしさんの生き方は、私たちのお手本です。外なる人は衰えたかもしれない、けれども、ひろしさんの内なる人はどうだったでしょうか。元気なときから少しも変わらない凛とした姿勢、そして誰に対しても誠実で、公平で、正義感にあふれ、その上なんて穏やかで平和な生き方をされたのでしょう。
外なる人の衰え、そしてそこから来る苦難は、「その苦難とは比べものにならないほどの重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」そうです。外なる人はどんどん落下していかもしれません。しかし内なる人は、上へ上へと栄光へと向かって羽ばたいて行くのです。だから、私たちは「見えるもの」「外なる人」に目を留めません。落胆もしません。むしろ「見えないもの」、「内なる人」に目を留めます。なぜなら「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」。信仰者として、神と共に歩み、内なる人を育て、成長を目指したひろしさんは、「重い永遠の栄光」をいただいて今、イエスさまのみもとにおられます。ひろしさんの人生の後半戦は、確かに傍から見ても厳しいものでした。けれどもその中で、ひろしさんの内なる人は、ますます、成熟し、軽やかに上へ上へと羽ばたいていったのです。イェルク・ツィンクと言う人が「わたしは喜んで歳をとりたい」という本の最後で、こう言っています。
「いま、わたしはもう一度若くなりたいとは思わない。わたしは喜んで歳をとってきた。そして、人生という時の境を超えて 神が共におられたことを 心から感謝している。わたしと 人生と 永遠と その境は、わたしには、いよいよなくなってきている。わたしはいま、あの夕日が沈む山の向こうの光のあるところに立とうとしている。」
お祈りします。
「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
私たちの向かう先で、重い永遠の栄光を与えようと待っていてくださる天のお父さま。人生の後半戦、私たちも見えないもの、永遠を見つめて、なおも成長し、上を目指す人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン