毎日のできごとの反省

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日露戦争で日本はナポレオンの教訓は考慮できなかった

2016-02-06 15:23:54 | 軍事

 ロシアがナポレオンに勝ったのは、退却戦で戦線を伸ばし、広大な領土に引き込んだ結果である。別宮暖朗氏の、「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦、では奉天からのロシア軍の撤退は、日本軍の大勝利の結果である、としている。現にクロパトキンは満洲軍総司令官を降格された。

氏によれば、講和は、敗北を認めた側が、勝者に申し込むのであって、これ以上の継戦が困難だとして政府に講和工作をした児玉は間違っていた、という。講和を望むのなら戦争を続けるべきであり、それまで不足していた砲と砲弾も、奉天会戦後には、充足されていたのだという。

だが、ナポレオン戦争でも、好んで退却し、敵をロシア領深く迎え入れたのではない。負け続けていたのに過ぎない。奉天からの撤退を世界の大勢がロシアの敗北と判断したのも当然である。結局、講和が成立したのは、日本海海戦に奇跡的な勝利をおさめ、ロシア国内の不安定が拡大したため、日本のこれ以上の勢力拡大を望まない米英が、講和をロシアに斡旋したからである。米英は、ロシアの東亜での勢力拡大を、日本の軍事力で抑えられれば良いのであって、それ以上の日本の勢力拡大は無益であったどころか嫌悪する所であった。

ナポレオン戦争の時代と異なり、ロシアは国内事情によって講和を受け入れるしかなかった。たとえ海軍が全滅しようと、ロシアの国内不安がなく、陸戦を徹底して戦うことができれば、ロシアは最終的には勝てたであろう。そのような可能性まで検討した結果、日本は日露戦争を決断したのではなかった。

制海権が日本にあっても、日本の兵站が切断されないだけで、ロシアの兵站も可能である。まして、西方に進撃する日本軍の兵站は延びる一方で、ロシアは逆である。それでもナポレオンの敗北の教訓を考慮する余地は日本にはなかった。日本は戦うしか生きる道はなかったと判断したから開戦したのである。

それならば、大東亜戦争の開戦を間違っていた、と言える日本人はいない。明治の元勲なら開戦を選択しなかったとは言えないのである。ただ一部の識者が言うように、大東亜戦争にも勝てる戦略はあった可能性はある。正確に言えば、不敗の体制を確固として、米国を厭戦に追い込む、ベトナム式の戦略である。しかし、米軍の戦争テクノロジー、特に海軍のそれは開戦時点では英独をすら遥かに凌駕していた、といえるから米国相手の「勝てる戦略」は極めて困難であろう。大東亜戦争は、海の戦いであった。

別宮氏の講和についての考え方は、意外に思われるが正しい。結局相手に徹底して勝てなければ、相手は講和しないのである。現に大東亜戦争の終戦工作は、敗北を認めた日本が行ったのである。ベトナム戦争の場合は、北ベトナム軍が敵の首都サイゴンに突入し、南ベトナム政府が崩壊して終わった。講和ではなく、無条件降伏である。支援したアメリカは、勝てない長期の戦いで厭戦に陥って、南ベトナム軍が敗北する前に撤退したのである。これでも米国の敗北ではある。米軍は敗北しなくても、米国は敗北したのである。

日露戦争が、結局日本の勝利と言う形で講和が成立したのは、ロシアの国内事情と米英の思惑による、という極めて例外的なものである。その意味で、山本五十六が「城下の誓い」をさせることが絶対不可能と知りながら、緒戦の徹底的な勝利で、米国を厭戦気分にさせて講和に持ち込むことが唯一の勝利の道だと考えていたとしたら、大間違いである。唯一の勝利は、ベトナム戦争と同じく、長期持久戦略によって、米国を厭戦に追い込むことである。

 


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