書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社
レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎の反転について、当事者であった著者が明白な結論を出している、貴重な証言である。深井氏は単なる一乗組員ではなく、「『大和』の兵科将校のうち、軍令承行令に定められた『大和』の指揮権を継承する資格のある士官(P258)」だった。
つまり艦長以下が次々と死傷して、指揮能力を失った時に、大和を指揮する軍人の順番が規定されている。深井氏は、その序列に含まれる重要な士官だった。だからこそ、謎の反転命令が下った時、驚いて艦橋に走って、栗田中将、宇垣中将以下の艦隊司令部におけるやりとりの一部始終を目撃したのである。そこで深井氏が見たのは宇垣中将が誰に言うでもなく「南に行くんじゃないのか!」とただ一人繰り返し怒鳴っているが、他は無言である、という異様な光景だった。
深井氏の推測は衝撃的なものである。栗田艦隊の反転の根拠となった有名な「ヤキ一カ」電は栗田司令部の大谷参謀が捏造したものだというのだ。「ヤキ一カ」電とは、北方に敵機動部隊がいる、という情報電報で、栗田艦隊はこの機動部隊を追撃する、と称してレイテ湾突入を断念し、帰投してしまった。
しかも深井氏が抗議すると、大谷参謀は「敵 大部隊見ゆ ヤキ一カ 〇九四五」と書かれた電報を見せたが、発信者も着信者も記されていない、奇妙なものであった(P218)。深井氏が捏造と断言するのも当然であろう。しかも電報に記載されていたのは、通説で言われる「敵機動部隊」ではなく間違いなく「敵大部隊」であったという。
雑誌「丸」平成27年11月号に「栗田は結局はいずれかの情報を理由としてレイテ湾突入を放棄して反転したであろう」と書いてあったが、深井氏の証言は、そのことを裏付けている。同じ記事に、「栗田司令部内での正確な状況は残念ながら今日に至ってはどこからか新たな資料でもひょっこり出てこない限り、直接の関係者の死去と共に永遠に未解明のままとなるであろう」と嘆いているが、深井氏の著書はまさにその、栗田司令部での内部の状況の直接の関係者の証言である。栗田が逃げたと言う真実は、ほぼ確定したのである。
証言を続けて聴こう。深井氏は大谷に「・・・さっきは追いつけないから敵空母の追撃をやめたんじゃないですか。追いつけると思っているんですか!?」と怒鳴り、喧嘩になったが、どうにもならない。空襲が始まったので、深井氏は持ち場の指揮所に帰ったが、司令部の決定が覆るわけもない。
深井氏は捏造説の根拠として、以下のことを証言する。まず、「ヤキ一カ」電は、各部隊の戦闘詳報、発着信記録などのあらゆる記録を精査しても、存在せず、栗田艦隊司令部だけにある不可解なものである。大和は通信施設が充実しており、50~60名の要員がいる。さらに大和には、栗田艦隊司令部専用に同じ通信機器をもう1セット搭載しており、ヤキ1カ電はこの通信機器で受信していたということになっている。
しかし、栗田艦隊司令部は旗艦愛宕沈没のため、通信要因のうち、大和に移乗できたのは、15、16名しかいなかった。これに対して大和の通信科は優秀で、敵潜水艦の通信を楽々傍受していたと言うほどだった(P222)。これで大和の艦内に、栗田艦隊司令部の通信科と「大和」通信科が別個に独立して存在していたことの意味が分かる。
大和通信科の機材と通信要員以外に、栗田司令部用の別の通信機材がワンセットあって、これを愛宕から移乗してきた栗田司令部の通信要員が使用していたのである。だが栗田艦隊司令部の通信能力より遥かに充実しているはずの大和通信科は「ヤキ一カ」電を受け取っていない。
だから捏造なのである。大谷参謀は飛行機からの発信と主張したのに対して、深井氏らは「大部隊は我々のことで、飛行機乗りは新米だから見間違えたんです」と反論したが、大谷は「そんなバカなことはない」と言ったきり黙ってしまった(P224)。大谷参謀はさらに嘘を重ねて、嘘をつきとおしたのである。ということは、丸の記事のように機会を見て逃げ出そう、というのは単に栗田個人ではなく、栗田司令部の総意だったのに違いないのである。
一般には栗田艦隊司令部は、小澤艦隊の囮作戦成功を受電していなかったから、作戦成功か否か不明だったと言われている。しかし「小澤艦隊については、『旗艦を軽巡『大淀』に変更』との電報から、空母が沈められた代償に囮任務をまっとうしたと私は確信していた(P217)」というのだからしようもない。当初の小澤艦隊の旗艦は空母瑞鶴である。囮作戦成功の判断はできたのである。
さらにばかばかしいのは、栗田艦隊はサマール沖海戦の空母が護衛空母に過ぎなかったのを正規空母と誤認していた、というのも嘘だった可能性が高いと言うことである。「置きざりにされた『大和』『長門』は・・・各部隊に合流すべく一路東南東へと走り続けていたが、途中『大和』の砲撃を先刻受けた空母『ガンビア・ベイ』を300メートルほどの近距離に見ながら通過する場面があった。(204)」
沈没寸前だったが、「この空母は商船を改装した護衛空母であることは一目瞭然たる事実であって・・・この空母集団は護衛空母集団であることは容易に推察できたのである。」正確には、ガンビア・ベイのカサブランカ級は初めて最初から護衛空母として建造されたものであるが、それまでの型は全て商船等を元に空母になっているから、深井氏の認識はほぼ正しい。少なくとも正規空母ではない、ということは分かるのである。そう考えれば、航空支援のない栗田艦隊に、空母が補足されてしまったという、間抜けな米空母部隊の状況は、栗田司令部でも納得できたはずである。
蛇足をふたつ。武蔵の猪口艦長は、他の艦とは違い、敵機は対空射撃で墜せるから、対空射撃の妨害となる転舵を極力避けたために、初期被害が大きくなって、被害担当艦になってしまった(P189)という。小生は他の資料でも同じ意見をみたが、逆にそんなことはなかった、という資料も見た。真相はどちらであろう。
射撃盤の構造である。氏は大和の副砲長であったが、砲撃のデータは「数万個もの歯車を用いたアナログコンピュータである射撃盤」が処理する(P134)。つまり日本海軍の射撃盤は機械式のコンピュータだったのである。主砲の射撃盤もそうだったのであろうか。
世界初のコンピュータは弾道計算のために作られたアメリカのENIACであると教わった。終戦直後に完成した真空管式のデジタルコンピュータである。しかし、それ以前にも米国にはデジタルコンピュータの萌芽はあったという。またデジタルコンピュータ以前に電子式か電気式のアナログコンピュータはあったはずである。
従ってコンピュータ先進国の米国の戦時中の射撃盤には、電子式ないし電気式のアナログコンピュータは、部分的にでも使われていなかったのであろうか、というのが目下の疑問である。少なくとも機械式よりは、遥かに演算速度や精度も良いと思われるからである。
1
他の生存者の証言と全く食い違う
当然ながら、当時大和の艦橋にいた人で戦後まで無事だった人は彼以外にも多くいますし、証言を残した方々もいます
ですが、その証言と深井氏の証言に大きな食い違いがあるのです
まず断っておきますが、深井氏の配置は副砲射撃指揮所で栗田らのいた第一艦橋の3階ほど下の階です
彼は反転後疑念に思って艦橋に駆け付けたと書いていますが、実際栗田艦隊は反転した前後は対空戦闘中であり、それが収まるのは14時30分頃、反転してから2時間も経過した後です
副砲長たる職責の彼が対空戦闘中に持ち場を離れるとは考えられません。しかし彼の発言が正しいとなると宇垣は反転してから2時間も経過しているのに未だに「敵はあっちだろ」と怒鳴っていたことになります
普通そんなに長時間怒っていたのなら他の誰かが記憶してて良いはずですが、その様な記録、証言はありません
宇垣が不機嫌そうだったという証言ならあります。しかし大声で怒鳴っていたというのは皆無です
逆に宇垣の部下だった伊藤敦夫は「宇垣長官は怒鳴っていない」とすら証言しています
2
ヤキ1カ電の捏造はあり得ない
彼はこの電文を大谷参謀の捏造と決めつけています。しかしはっきり言ってこれは資料考証をしていない素人の下種の勘繰りと同レベルの説です
まずヤキ1カ電は受信記録もなく、送信者も不明の電文であることは事実です
しかし、栗田艦隊は反転前の11時50分に南西方面艦隊司令部と第一第二航空艦隊に宛てて「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」と攻撃要請電を打っています(因みにこの支援要請がヤキ1カ電の最初の記録)
電文が栗田艦隊側の捏造だというのなら、何故彼らはその情報に則った支援要請を他部隊にするという行為をしたのでしょう?嘘がばれるのがばれてしまう、しなくてもいい無電を何故打電したのか?
こういった疑念が出てきます
またこれを受けた第一航空艦隊側は、全く不審に思わず貴下の部隊に攻撃指令を出しています。これも捏造ならありえません
実はこのヤキ1カと似た
・発信者不明の受電記録のない敵発見報告
が全く同時期に栗田艦隊以外でも傍受され、各部隊に通知されています
第二航空艦隊
0940発の無電情報(しかし受電記録はない)として「地点『ウキ5ソ』に敵空母3隻見ゆ」が入り、艦隊司令部は前日に米機動部隊を攻撃し、周辺の友軍基地に退避していた小沢機動部隊の航空隊残余に攻撃要請を出している
ウキ5ソはヤキ1カの東側の近海
第六艦隊
11時37分に貴下の各潜水艦に0900の情報として「地点ヤンメ55に敵空母3隻南下中」という情報を流しているが、この情報の受電記録はない
ヤンメ55は艦船用の位置座標で航空用にするとノキ5ソでウキ5ソとヤキ1カの中間地点
また電文自体の目撃情報は他の艦でもあります
摩耶の主計長で当時は島風に収容されて艦橋にいた永末瑛一氏は艦橋でヤキ1カ電を見たと証言しています
軍令部の記録員だった野村留吉氏も軍令部の作戦図にヤキ1カ点に敵機動部隊の走り書きがこの時あったと証言し、作戦部長の中沢祐氏の手帳にもその書き込みが残されています
こういった事から、現在では捏造説は完全に否定されています。ところが捏造論者はこういった記録や証言を全く無視して持論を述べています。深井氏もそうです。そういった態度をしている人の証言の方こそ信用できないと思いますよ
3
ガンビア・ベイに近づいた?
これも嘘ですね
大和ほどの巨艦が沈むガンビアベイに300ⅿもの至近まで近づいたのなら米側の生存者にも証言があるはずですが、その様なものは全くありません
当時の関係者の証言などから、ガンビア・ベイに一番近づいたのは最後まで追いすがった重巡羽黒、利根であり、その後方から援護射撃をし続けていた金剛です
実際ガンビア・ベイに肉薄する重巡の写真はアメリカ側からも撮られていますが、大和はまったく写っていません
大和の生存者の他の証言にもそのような記述はありません。
ガンビア・ベイは8時40分頃停止し、9時11分に沈没しますが、大和がその間に300ⅿ以内に近づいた形跡は航路図からも見られません
これも他の証言とか資料とか考証したらすぐにばれる事ですよ
この人の証言はどうやら個人的に嫌っている栗田や大谷参謀を誹謗中傷するために作られた捏造と捉えても仕方がないぐらい偏見や出鱈目に満ちたものばかり、調べりゃすぐばれるものばかりです
そういった内容を単純に信じ込んで
「栗田が逃げたと言う真実は、ほぼ確定した」
と大文字にして決めつける行為こそ、どうかしていると思います
貴方はこの人の証言をちゃんと考証してるのですか?
考証もせずに文面や講演を見聞きして単純に「嘘を言っていない」と信じるのは単純にお人よしだと言わざるを得ないですよ