大東亜戦争が始まったとき「これは大変な事になったと不安に思った」あるいは「アメリカのような大国と戦って勝てるわけがないと考えた」という文章は現在では珍しくないが、これは大方嘘である。
もう散々このコラムでは「大東亜戦争」という言葉を使っているので抵抗はないと思う。実は私自身も子供のころ、両親が大東亜戦争と言っていたので、何と古臭いと思っていた。しかし、正式の呼称としてはこれが正しいことを理解してからは、自ら洗脳したのである。だから今は、太平洋戦争と言う言葉の方に違和感を感じるまでになった。
今ではよく、知られているように「太平洋戦争」というのは占領軍の検閲によって昭和二十年の秋頃から新聞やラジオを通じて普及された名称で The Pacific Warの直訳である。米国にとっては、この戦争は太平洋の覇権を争うという政治的意義があったのであるから、太平洋戦争とは米国の都合による名称である。米国が太平洋戦争と呼ぶのは勝手であるが、だからといって日本人が追従することはない。二国間の歴史的事件は双方の国で呼称が異なる場合の方がむしろ多いのである。
ところで昔母に「戦争が始まったときにどう思ったの」と聞いた事がある。意外にも「ついに来るものが来た、と思って晴れ晴れとした気持ちがした」と言った。当時の小生には大いに意外だったので、忘れもしない。母は関東大震災の年の生まれだから当時十八歳位で、充分ものごとのわかる年齢であった。当時の世間の雰囲気はよくわかっていたのである。
戦後に書かれた回想ではなく、当時刊行された新聞や雑誌などを見れば母の感想が例外ではなかったことは明らかである。
例えば詩人の高村光太郎は開戦にあたって次のような文章を雑誌「中央公論」に発表している。当時五十八歳である。
「十二月八日の記」
箸をとらうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行つてみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈といふやうな思ひもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によつて響きわたると、思はずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出たが、ひるがえつてこの捷報を聴かせたまうた時の陛下のみこころを恐察し奉つた刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。 (仮名遣は原文のまま)
この文章の意味するところは明快であるが、戦後世代がこの感覚を実感するのは不可能に等しい。しかし、これは自然な感情の発露と解するより他ない。「軍国主義者」の脅迫で無理矢理書かされたものであり得ようはずはない。高村光太郎は他にも「彼らを撃つ」と題する、現在からみれば過激としか思えない詩も発表している。室生犀星、佐藤春夫、草野心平、太宰治、坂口安吾、高浜虚子その他、開戦に感動した詩や文章を発表した文人人士は数え切れない。
余談だが、マレー沖海戦で、山本五十六は、英戦艦を二隻とも撃沈するか、一隻だけかで幕僚とビールを賭けた。山本には高村光太郎の「・・・私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出た」という精神はなかったのである。しかもこの時敵将フィリップ提督は自決して、乗艦と運命をともにしたのである。
閑話休題。ところが戦争に負けると、何故か多くの日本人は開戦時から戦争には勝てないと思ったり、内心戦争に反対であったかのような言動をすることになった。学者や芸術家などで、戦後になって全集から戦争を賛美するような文章や作品を削除したり、目立たないように編集した人は多い。筆者が故人となってしまったために、後の編集者が削除などした例もある。「君死に給うことなかれ」で反戦詩人のように言われている與謝野晶子は開戦にあたって
水軍の大尉となりて我が四郎み軍にゆくたけく戦え。
という短歌を発表している。反戦詩人というキャッチフレーズは後の世代により意図して作られたもので、晶子本人の本意とするところではあるまい。ちなみにフランス在住が長く、高名な藤田嗣冶は、戦時中帰国して、戦争画を多数書いた。それがたたって、戦後一転して世間から指弾され、嫌気がさしてフランスに戻ってフランスに帰化してしまった。藤田の戦争画を見て感動した人も、戦後指弾した人も同じ人物たちに違いないのである。ひどい話である。
最後にクイズ。「天声人語」というコラムのタイトルは昭和二十年九月六日から復活しています。それまでの戦時中のタイトルは何といっていたのでしょう。
答え「神風賦」