毎日のできごとの反省

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陸上要塞は艦隊より強いのか2

2019-06-23 01:02:56 | 軍事

 過日、陸上要塞は艦隊より強いのか、という記事を載せたところ、小生の典不明と断って、開戦時日米海軍とも戦艦の主砲には徹甲弾しか載せていなかったそうである、というコメントに対して「風来坊」さんから、「平時から徹甲弾と榴弾は同時に搭載していたはずです。確か8:2ぐらいの割合で。」という指摘をいただきました。

 調べてみると、小生の方の出典が判明しました。学研の歴史群像シリーズで「日本の戦艦 パーフェクトガイド」の中に、軍事史研究家の大塚好古氏の「日本戦艦が搭載した主砲と砲弾」という記事です。この記事は小生が今まで読んだものでは、日本の戦艦の主砲弾の種類の歴史について書かれたもっとも詳しいものです。関係あるところだけかいつまんで説明します。

 

 「日露戦争当時の日本海軍の戦艦が使用した砲弾は、徹甲弾と榴弾(弾頭部に信管をもつ瞬発型のもの。当時は高爆弾もしくは鍛鋼弾と呼ばれていた)の2種類であった。(P181)」のだが徹甲弾でも当たってすぐ爆発するので装甲を貫徹できたのは、日本海海戦で1弾だけが、6インチ装甲を貫徹しただけであったそうである。

 明治38年の香取型「完成と同時に、被帽徹甲弾と弾底遅動信管付きの被帽通常弾が日本海軍にもたらされることになった。(P183)」とようやく弾底信管が登場するが、徹甲弾ではなく通常弾すなわち榴弾に取り付けられていることが理解不能である。

 その後外国技術の研究から、大正2年に三式徹甲弾が採用され、大正後半期まで使用されたとある。そして徹甲弾は遠距離砲戦での効果が期待できなかったため、遠距離でも効果がある、通常弾か榴弾が必要と考えられたが「検討の結果3種類を随時切り替えて砲戦を行うのが理想と考えられたが、・・・徹甲弾と被帽通常弾の2種類を搭載することが最終決定されている。P183)」ということである。

 その後ジュットランド沖海戦の戦訓から、砲戦途中での弾種変更は方位射撃盤の設定変更が必要で、多大な時間を要するなどの問題があり、弾種統一が模索されて「・・・通常弾、徹甲弾、半徹甲弾のいずれを搭載するかが研究され、大正9年に8インチ砲以上の砲については、徹甲弾の搭載が原則となった。これを受けて昭和5年頃には戦艦の搭載する砲弾は徹甲弾に統一され、太平洋戦争途中まで続くことになった。(P184)」

 なお、前回は「日米海軍とも」と書いてしまったが、本書を見る限り米海軍に関して、そのような記述はないので、訂正させていただく。また零式普通弾と書いたが、零式通常弾の間違いのようであるので訂正させていただく。本書ではさらに「・・・零式通常弾と三式通常弾が戦艦用の主砲弾として制式採用されたのは昭和19年であるが、それ以前の昭和17年中期以降から、限定的ではあるが各艦への搭載が行われている。(P185)」と書かれている。弾種から言えば、零式は榴弾で三式は榴散弾の一種である。

 採用年と実戦使用の年が合わない例はあるので、上記文中での年号が混乱しているように見えるのはさして不自然ではないと、小生には思われる。ただ、本書を読んでいただければわかるように、これだけの多くの情報を記事にしながら、出典や根拠が記載されていないのは残念である。また、大塚氏の言うように、徹甲弾しか搭載されていなかったとしても、榴弾の備蓄があったのかも知れない。日本海海戦では、装甲貫徹効果はなくても、榴弾効果だけであれだけの戦果を得ていたことに、当時の海軍で拘っていた論者が根強くいた、と大塚氏が書いているからである。

 また風来坊さんが徹甲弾と榴弾を混載していた、という根拠を教えていただければ有難いのですが。ぜひ原典にあたって調べてみたいと考える次第である。また、旧海軍の砲術のプロとして名高い、黛治夫氏の「艦砲射撃の歴史」という本を入手したので、上記の点についてどのような記載があるか読んでみたい。ただし、小生の学力で読破できるか、はなはだ覚束ないのであるが。

 なお、その後調べたら、第二次大戦で、重巡ブリュッヒャーとリュッツオウを主力とする艦隊が、ウェザー演習作戦で、陸上要塞の旧式28センチ砲と戦って、ブリュッヒャー沈没、リュッツオウ大破という大損害を受けて敗退した、けっこう有名な戦闘がありました。艦隊より陸上要塞が強いという実例である。それでもこの定説の理由は小生には判然としませんが。

 

 


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