毎日のできごとの反省

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芸術と形式

2019-09-09 22:51:24 | 女性イラスト

 

 本論に入る前にイラストについて一言。全体は思い切ってラフにしてグラデーションもありませんが、洋服にだけ力を入れました。画材はポスターカラーが基本です。

さて本論の芸術と形式。

「形式」という言葉に拒否反応を示さないでいただきたい。芸術家の表現の形式とは言語で言えば、英語やフランス語といった言語の種類に例えられる。芸術家は固有の言語を持つ。このような例えは必ずしも適切ではないのだが、2人の画家が同じ油彩を使って同時に同一人物を描いたとしても、同じ絵画はできない。 

 それは見た映像を画家固有の言語で表現するからである。これが表現の形式である。多くの場合ある芸術家の表現の形式は先人のものまねである。漫画家に典型的なそれを見る。手塚治虫の弟子は手塚治虫の真似から始まる。だがそれでは芸術家として独立したことにはならないし、その芸術家の技量がそれを許さない。修練を重ねることによってその人独自の表現の形式を作る。だがそれで止まらない。 

 常に形式は発展しなければならないのである。発展し続けることが芸術家の健全さの証である。従って芸術家はまず自己の表現の形式を作ることを目標とし、次は不断に表現を進化させる。これは意識されるものではなく、本能がそうさせているというべきである。 

 同一の条件、例えばポーズ、表情などの選択も芸術の表現の手段のひとつである。これを著しく限定されることは表現の自由度を低下させる。ある程度低下すると、芸術としての表現能力を失う。芸術ではなくなるのである。同一条件を強制されるのは習作にすぎない。こう考えれば写真にも言語がある、表現の形式があるということがわかるだろう。あり得ない仮定だが、あらゆる条件を完璧に統一して写真を撮れば同じものにしかならないのは明らかである。これは自由度0の状態である。これは芸術とはならない。題材の選択から始まってあらゆる条件の選択によって芸術家固有の作品ができる場合だけ写真が芸術になりうるのである。 

 秋山正太郎と篠山紀信の写真の作風が異なるのは容易にわかる。これが表現の形式が芸術家で異なることの実例である。芸術家の使う形式が言語であるといった意味はこれだけではない。英語しかわからないものに日本語は理解できない。音は誰の耳でも聞こえる。絵は誰でも見える。 

 だから音楽や絵画は古今東西、老若男女誰にでも理解できるという誤解がある。表現の形式を言語に例えたのはこの意味である。ある芸術家の言語を理解しなければその作品は理解できないのである。絵画表現の場合に言語より思考レベルが情感に近いので全く分からないというのではないにしてもある程度分からない場合が多いと言った方がよいのかもしれない。


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