毎日のできごとの反省

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溥儀と呼ぶおかしさ

2015-11-03 15:21:13 | 支那大陸論

 ラストエンペラーこと、清朝最後の皇帝は溥儀と呼びならわされている。この方面に知識がなければ、姓が溥で、名前が儀だと思うのに違いない。少し知識があれば分かるように、清朝皇帝の姓は愛新覚羅という長ったらしいものであり、溥儀は名前なのである。姓は満州語読みでアイシンギョロと読むのだそうだが、溥儀を満洲語で何と読むのか知らない。

いずれにしても、愛新覚羅溥儀とは満州語の音の漢字表記である。溥儀、とだけ言うのがいかに変かは、毛沢東を沢東と呼ぶのが一般的である、と想像すればわかる。日本人なら、家康、信長、秀吉と呼んで平気でいるが、これは徳川、織田、豊臣のように言うと該当者が何人もいて、誰を指しているのか分からなくなってしまうからであって、歴史書ならフルネームで呼ぶであろう。

また中国人の名前を日本人が呼びならわすときは、フルネームか、姓だけである。例えば、毛沢東なら毛、袁世凱なら袁と言っても通じるのは分かるであろう。その一方で孫文のことを孫とはまず日本人は言わない。どこかにありそうだし、フルネームでも二文字だから略すこともないのである。

このように歴史上の人物を、日本人が呼称する場合の慣例を、日本人の名前と中国人の名前を表記することを例示すると、溥儀、と呼ぶのがいかに不自然か分かる。なぜそう呼ぶかの答えは、今書いたばかりの一文に含まれている。今「中国人」と呼んでしまったが、溥儀は中国人ではない。

漢民族という意味での中国人ではないのである。あくまでも溥儀は満州人なのである。それを中国人と思わせるために溥儀、とだけ言うのではないか、というのが小生の邪推である。それならば愛新覚羅と呼べばいいのではないか、と言ったとすればこれも混乱する。日本でも案外有名なのが、弟の溥傑だからである。

そこで溥儀、溥傑と並べると、うまい具合に、溥が共通するから、ますますもって、溥が姓だと錯覚しかねない。いちいち愛新覚羅溥儀などと呼ぶのが面倒だという事で、日本流に溥儀、と呼ぶのが落ちになるのである。善意に解釈すれば、信長、秀吉と呼ぶようなものであろう。

前記のように、溥儀は中国人ではない、と言ったがこれもそう単純ではない。日本は昔から漢民族が支配する地域を支那と呼んだが、戦後になって敗戦国民の悲しさで、中国と呼ばされている。戦前使ったから蔑称だ、という訳である。ところが蒋介石政権は中華民国と自称し、共産党政権は中華人民共和国と自称したから、どちらも中国と略せる、という向こうに好都合なことになっている。

だから保守の日本人は民国と略したり、国交回復以前は中共と略すことが多かったが、この方がまともであろう。清朝崩壊後中華民国が成立し、国際的な承認を受け、戦後は中華人民共和国が成立したから、清朝の後は中国だと言い、今では過去の非漢民族王朝まで中国だというようになった。ご存知のように、各々の英語名はRepublic of ChinaとPeople’s Republic of Chinaだから日本語に直訳すれば支那共和国と支那人民共和国である。

日本語も中国語も漢字表記が共通するから、日本人は中国の漢字表記をそのまま使うのは当然だと思っているが、国際標準から言えば当然ではない。例えばドイツである。英語表記はFederal Republic of Germanyで略称Germanyである。ドイツ語では Bundesrepublik Deutschland である。略称はDeutschland である。そして日本ではドイツと言う。

英独ともに、アルファベットが共通文字であるにもかかわらず、ドイツと言う国の表記は、ドイツが使うものが使われていない。だから、日本が中国と言う先方の自称をそのまま使う必然性はない。

ある戦前の訳本で、支那共和国という言葉が使われていた。実は一般に言う中華民国のことである。訳者はわざわざ、英語表記の直訳を使ったのである。脱線したが、溥儀と言う表記を使うのは構わないが、一度は愛新覚羅溥儀、と書いておいてから、次から省略として溥儀、と言わなければ誤解される。織田信長と言っておいてから、略として信長と書くようなものだろう。一貫して苗字を省略して、溥儀と表記するのは奇妙なのである。


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