戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」と書かれていたから日本兵は捕虜にならずに自決や玉砕を選んだ、と言うのが今では定説の如くである。同時に捕虜にならないよう教えられていたから、当然のように投降する連合軍兵士を虐殺するのだと言う。
結論から言えば後者は明らかな間違いである。戦陣訓をきちんと読むがよい。誰も引用しないが、戦陣訓には
苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈伏せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。
ともあるのである。意味は説明しなくても分かろう。激しい戦闘があっても、戦闘が終え降伏した敵は、慈悲の心で大切に扱え、と言っているのである。戦陣訓を忠実に守って死ぬような人間が、この条文だけ無視するなどと言う事は考えられない。日本軍の残虐行為、などと言う作られた物語を信じる人間は、たとえこの条文を知っていても無視するのである。
そもそも私には、支那事変開戦以来幾年も経て、大東亜戦争開戦の1年前にもならない昭和16年の1月に作られた戦陣訓が、その後の兵士の行動を決定するほど徹底していたとは信じられないのである。日本兵であった山本七平は、戦陣訓などは聞いたこともなかった、と言っているが、これが真相であろう。極端に現実的な日本人が、一片の紙に書かれた言葉のために、恐怖を乗越えて敢えて死を選択するのが一般的であったとは考えられないのである。兵士であった父から、金持ちの子弟が軍に寄付をして将校になるのをカネ少尉と言うのだが、実力がないからカネ少尉は部下に馬鹿にされて、かえってつらい思いをしたと聞いた。
親が軍隊で楽をさせようと思ったのが災いしたのである。また、指揮が下手で威張り散らす上官は、戦闘中に後ろから来た弾で戦死する、という噂があったそうである。真相の真否は確かめようもないが、うわさがあったことだけは事実らしいのだ。忠君愛国教育が徹底していたと言われる戦前の日本人も、このように現実的なのである。それだから一片の文章のために投降しない、などというのは到底信じられないのである。
そもそも戦陣訓が作られたのは、長引く支那事変で兵士に厭戦気分が蔓延して、軍紀が弛緩していたのを引き締めるためである。その中に捕虜になるな、と言う条文が入れられたのは、支那事変の最中に支那兵に捕縛された日本人が残忍な方法で殺害されていたからだ、ということである。支那兵が敵を殺害する方法は長く苦しみを与える残忍な色々な方法によっている。それならばいっそ自決した方が苦しくはない、と言うのは本当の話だろう。支那兵による惨殺体は数多く目撃されており、日本兵は支那兵が残虐行為をするのが当たり前であることを知っていたのである。そのことは日清戦争の折にも、既に帰還兵士の体験談として、多くの日本人に知られていた。
それならば大東亜戦争の場合はどうか。私たちは、捕虜を人道的に扱う連合軍、捕虜を虐待する日本軍、と言う嘘を信じ込まされている。ここでは米軍の残虐行為を記述した事で有名な「リンドバーグの戦時日記」の関連部分を引用する。1944年の項である。ちなみにチャールズ・リンドバーグは、大西洋単独無着陸横断飛行に初成功し、著書「翼よあれがパリの灯だ」や映画で一躍英雄になった人物である。彼は民間人として米軍とともに行動したのである。以下に米軍の日本兵扱いの記述を示す。
話が、たまたま日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、一人の将校が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」 「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。・・・中略
わが軍の一部兵士が日本捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ蛮行をやってのけていることも容認された。わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋におけるこの戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。・・・中略
ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない、なぜなら両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るより明らかだから。・・・中略」
「海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる物はいないかと質問する。英語を話せる物は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。
以上のリンドバーグの証言でお分かりだろう。戦争の初期には日本兵にもかなり投降者はいたのだ。そして投降をしなくなったのは拷問され、あるいは殺されることを日本兵が知ったからである。米軍に拷問されたという日本兵の証言は知る限りほとんどない。ところがリンドバーグの証言のように、日本兵への拷問は行われたのである。これは何を意味するか。拷問の挙句に殺されたのである。そして生き残った捕虜は優遇された。こうして人道的な米軍と言う伝説が戦後流布されることになる。米軍は「文明ための戦い」の宣伝をしたのである。
太平洋の島々では日本軍は万歳突撃をして玉砕した、と言われる。しかし兵頭二十八氏は、ほとんど全員死んだのは、米軍が戦傷者を殺したからであるという。リンドバーグの証言からも、これは納得できる。万歳突撃して射撃を受けても負傷して戦闘不能となり生存する兵士は残る。通常の戦闘では戦死者の2~3倍程度の負傷者は出る。万歳突撃が死亡の比率が高くても同数の負傷者が死体の間に意識を失って倒れているという可能性は充分ある。米軍は負傷して呻いている日本兵にとどめを刺したのである。これについてもリンドバーグが次のように書いている。
わずかな生存者は茫然自失の状態で坐るか横になっているかして、アメリカ兵を目にしても身じろぎさえしなかった。第一報では一名だけ捕虜にしたとあったが、後刻、歩兵部隊の将校が私に語ったところによれば、「一名も捕虜にとらなかった」という。「うちの兵隊きたら全然、捕虜をとりたがらないのだ」
説明の必要はあるまい。米軍は戦闘終了後の生存者を、原則全員殺したのである。そして洞窟に無傷で残った日本兵は、米軍の残虐行為を恐れて自決した。これで玉砕、という訳である。戦陣訓に書いてあったから日本兵が捕虜にならなかった、という伝説が間違いであることがご理解いただけたろうか。
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