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漢字の簡体字は中国の近代化への一歩

2019-06-18 00:32:11 | 支那大陸論

簡体字は中国の近代化への一歩

 中国の標準語とされる北京語は、簡体字という漢字を大幅に簡略化されたものを使っている。それは漢字が字画数が多いため、一般国民が覚えにくいということが理由とされている。日本でも昭和四〇年代全般の学生運動で、大学を占領したとき看板スローガンを大書するのに使われたあの文字である。今でも数少なくなった過激派や労働組合のスローガンに使われることがある。

 彼らの多くは毛沢東にぞっこんであったから当然であろう。簡体字と毛沢東思想は関係ないのだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎しの裏返しであろう。毛沢東思想にかぶれた彼らが、師の真似をして火炎瓶や吊るし上げなどの暴力行為、仲間の凄惨な粛清な粛清をしたのも偶然ではない。


 その一方で広東語や台湾では繁体字と呼ばれる漢字を用いている。これは日本の漢字より字画が多い古来の漢字だから、簡体字と繁体字との差は大きい。日本の多くの漢学者は簡体字はもはや漢字ではなく、繁体字が漢字の正統であると言う考えがほとんどであるように思われる。それはその通りであろう。簡体字は既に漢字の領域を通り越しているように思われる。

 だが簡体字化は文字のあり方の正統から逸脱しているのかとなると答えは異なる。漢字が古来の正統のままでいなければならないと言うのは、文字の歴史の発展を止めようとする無理な行為である。現代の中国語の漢字表記は既に漢文の正統を逸脱している。意外に思われる人がいるかも知れないが、漢字はひとつの字がひとつの単語であるのが原則である。だからアルファベットや仮名などの表音文字と異なり、漢字が何万あるというのは当然である。

 これは表意文字の宿命と言える。鳥、人などの身近なものを表しているうちはいいが、複雑な概念を表すために、漢字は恐ろしく多い字画のものまで作られた。嶋を表すのに山と鳥をくっつけてしまうという強引な手法をとらざるを得ないので、字画数が多い漢字にはけっこう奇妙なものが多いのはこのためである。日本人が嶋を島と略してしまったのはスマートなやり方である。だが元の山と鳥という表意性は消えてしまっている。

 現代中国でも使われている経済や哲学などの、西欧から近代から入ってきた概念を表す単語は多くが二字になっている。これは古代支那人ならざる日本人が、近代明治になって大量生産した単語だからである。既成の漢字一字だけを使えば新しい概念を表すことができない。しかし日本人は従来の漢字を合成して新しい漢字を作り出すだけの自信はなかったのであろう。だが一単語一文字という原則は崩してしまった。

 だから現代中国語の漢字表記はこの点も含め、漢文の原則から大きく逸脱している。現代中国人が漢文を読めないのは漢文が古代支那言語の文字表記だからではない。この点は源氏物語を現代日本人が読解困難なのとは全く意味が異なる。源氏物語の文章と現代日本文には連続性があるのである。現代中国の文章は現代中国語の漢字表記である。漢文は古代支那言語とは関係なく、発音がわからなくても文字の意味を知っているだけで、相互の意思疎通を図ろうとした原始的表記である。漢文は世界史上でも特異な文字表記であるということは憶えておいていただきたい。

 だから西欧の漢文研究者は現代中国語を勉強しても意味がない。何と「満洲語」を習うのだそうである。それも満洲文字でである。満洲文字と言えば、あのモンゴル文字に似たみみずがのたうったような、漢字とは何の縁もない表音文字である。清朝の時代と言えば満洲人が満洲語を公用語として大陸を支配した時代である。
清朝の皇帝は漢文の四書五経などの全ての古典を満洲語に翻訳して、満洲文字で記録させた。満洲語の文章は満洲語の満洲文字表記だから、英語などの言語表記と同じで系統的学習が可能なのである。

 その証拠に「康熙帝伝」にはフランスから派遣された多数の神父たちが漢文の学習に挑戦したが、わずか一人が成功したに過ぎないと記録されている。反対に満洲語は全員が容易に習得したとあるから、漢文が普通の言語体系ではない得意なものであることが分かる。逆に中国語を全く知らない日本人も漢文を読めるのはその特異性が原因である。

 また漢字は一字一単語であると同時に、一音節で発音される。簡単に言えば一音節とは一気に発音するという意味である。日本語は平仮名一字が一音節だから「漢字」というのはか・ん・じの三音節である。だが世界の言語の多くは元々は一単語一音節から始まった。英語のスプリングspringは一音節である。6個文字があるのにくっつけて一気に発音する。日本語ではスプリングと5音節になる。

 ある人が英語は早口言葉であると言ったが、これは必ずしも英語のヒヤリングができない者のひがみではなく、多音節の単語を聞きなれた日本人には、その通りなのである。だから英語で基本的な単語は一音節であり、二音節以上ある単語は何らかの合成語であることが多い。たとえばreviewは再びの意味のreと見るのviewから合成したもので、おさらいするというような意味を表している。だから日本人が二字漢字による新概念の表記は言語の進展の当然の傾向に従ったのであって、漢字が二千年間当初の用法に固執して変化しなかったのは、世界の言語史上稀なことであるが、これは人間社会の現実の発展に対する言語の文章表記による対応を困難にしたものと言わざるを得ない。

 だから簡体字の「発明」は中国大陸の文字史上に、画期的な進展をもたらす可能性を秘めている。現代では世界の文字は表音文字が主流であり、漢字は稀有な例外である。実はどんな文字であっても元は表意文字から始まっており、抽象化の過程で元の意味を失って音を表すことになった。もちろんアルファベットも例外ではない。ハングルと満洲文字は始めから表音文字であった例外である。ハングルは漢文の困難さから解放されるために、朝鮮語を直接表記するように李王朝の命令で発明され、満洲文字も満洲語を表記するため、モンゴル文字を真似て皇帝の命令で作った人造文字で、自然な生成過程を経ていないから始めから表音文字なのである。

 仮名は、日本語の文章を意味に関係なく漢字の音読み表記を並べて当て字したことから始まる。例えば「た」は「太」の崩しから生まれたが、た、には太いという意味は完全に失われている。同様に簡体字も現在ではまだ、漢字の表意性は残されているが、目で見て意味を理解できるという本来の表意性は失われ始めている。その意味で簡体字の進歩は漢字の表音化への一歩である。毛沢東は最初、漢字の習得困難さから、中国語のアルファベット表記を志向した。

 しかしやってみると中国の方言といわれる言語が全く別な表記になることに気付いた。北京語、福建語、広東語などの全ての言語は表音文字のアルファベット表記をすると、英語、フランス語、イタリア語などのように別な言語になることが分かったのである。これらの言語は同じくアルファベットを使いながら異言語であることに何の支障もない。西欧言語ではないベトナム語も今ではアルファベット表記して何の支障もない。

 これらのことは毛沢東に中国が、北京国、広東国、福建国などの民族国家に分裂する可能性を想起させ、毛沢東は戦慄してアルファベット表記の計画を中止した。中国は漢字という共通性がなければ、多数の民族をむりやり統一した、帝国を維持することがいずれできなくなると正確に理解したのである。だが簡体字という形で中国言語の表音表記はいずれ実現する。それは千年先かもしれないが中華帝国の崩壊と多数の民族国家の生成を意味する。

 中国は古代ローマ帝国と同じく、歴史の発展過程から言えば、古代の帝国の時代に二千年間止まっている。そのことは中国人の意識にも反映されている。聖火リレーに対する傍若無人な対応や、他国に押しかけて中国国旗で埋め尽くす無神経は民族主義の高揚ではなく、中国人の意識が近代人ではなく、古代人に止まっていることを意味する。簡体字の発展は中国大陸の近代への脱皮の可能性を示唆している。



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