隅田川神社のすぐ近くにある、「医学士須田君之碑」の写真から書き取った漢文をおおまかに訳してみた。この碑に注目したのは、「撰」が鴎外との確執で有名な上司の、石黒軍医総監だったからである。この碑の漢文の要約については「医学士須田君之碑」という以前のブログを見ていただきたい。確執の原因の大きなもののひとつは、鴎外のドイツでの恋人を別れさせたことだったと記憶して居て、それをブログに書こうと思ったが、鴎外のドイツでの恋愛については、石黒軍医総監はもちろん、親類縁者も無視するがごとくで、詳細が不明なので、鴎外の本を図書館に探しに行った。
そこでズバリこの本を見つけたのである。「舞姫」はドイツ留学中の恋を題材にした物語であることは有名である。ところが、本書の内容はそればかりではなかった。本書の意図は鴎外の恋人の名前などの特定で、推理ものの一面があったが、結果的に鴎外の一部の伝記ともなっていた。読み進むと小生が、二葉亭や漱石に比べ、鴎外の心の遍歴の肝心の部分をほとんど知らないことを実感した。鴎外は留学先で、哲学の議論をして相手のドイツ人を公衆の面前でやりこめたなど、外では傲慢に振舞いながら、家庭では母と二番目の妻茂子の間に立っておろおろして生活していた、と言う程度の知識である。
女性に対してやさしかったはずの鴎外が、わずか一年で離婚したのは、恋人(以下アンナという)が忘れられなかったからであった。「普請中」などに淡々と書かれている、日本でのアンナとの再会は、単にアンナが勝手にドイツから押しかけてきたのではなく、軍を辞めてでもアンナと日本で結婚することを固く決意した鴎外・森林太郎が、アンナと示し合わせて、鴎外の一便後の日本行きの船にアンナが乗っていたのだということ。そのことを知らされた石黒は、帰国の船で鴎外と漢詩のやりとりを繰り返しており、石黒は、軍人は外国人と結婚してはならぬ、と説いたのだった。
鴎外は、日本に戻るや、家族にアンナとの結婚を許すよう説いて回り、一度は陸軍の大物が進める縁談を断るが、結局は母・峰子の強い意思に挫けてしまった。鴎外にとって母は絶対的存在だったのである。一度断った女性と結婚させられたのだから、この結婚は互いに不幸の元だったのは当然であろう。
特定された鴎外の恋人の名はアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトだった。ところが鴎外は関係を隠すため、アンナをドイツにいた当時普段からエリーゼと呼びならし、「舞姫」の主人公の名に、似た響きのエリスとつけたのもそのためであった。鴎外は子どもに全て、洋風の命名をしているが、後妻茂子との間に生まれた子供の名を杏奴と類と名付けたのは、アンナとルイーゼの名を刻みたかったのだというが、その心情は小生には解せぬ。
名をつけられた子供たちは、名前が実の母ではなく、かつての深い思いの恋人の名前に由来する、と知ったらどんな気がするだろうと思うからである。ちなみに鴎外の子供たちは、私の知る限りアンナのことについて多くは語ってはいない。
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鴎外の有名な遺言
前略・・・死は一切を打ち切る重大事なり。奈何なる官憲威力と雖、此に反抗することを得ずと信ず。余は石見人、森林太郎として死せんと欲す。・・・以下略
という激越な遺書は単なる反骨ではなかった。アンナとの結婚を邪魔した軍関係者に対する反感と、自身の無力に対する激しい悔恨であったろうと小生はようやく理解した。鴎外とアンナとの関係を軽く見ようとする通説は、妹喜美子などの親類縁者や石黒ら陸軍関係者の、ためにする言説によるものであろう。生涯アンナを深切に思うことができた鴎外は、大きな不幸の中にも一縷の幸せを見いだしていたのだと、小生は思いたい。