かの「吾輩は猫である」、にこんなエピソードがある。手元に本が置なく、記憶で書いているから正確ではない。ある人が金の儲け方を教えてやるといった。600円人に貸したとする。そして返済期限が来ても一遍に返さなくてもいい、と言ってやるのだ。月に10円づつ返してくれと言う。すると、1年で120円返すから、5年で完済となる。
しかし、借りた人は毎月毎月金を持っていくのが習慣になって、金を持って行かないと不安になって、5年を過ぎても金を持ってくるように来るようになってしまうから、5年過ぎると儲かる、というわけである。あまりに馬鹿馬鹿しいので、多分ほとんどの読者は、記憶に残っている人は少ないと思う。しかし小生は現実にこんなことはないにしても、習慣が理性の判断を曲げる恐ろしさを表わした挿話だと思い忘れられなかった。
借りた人は初めの頃は、借りたものの義務として仕方なく返しに行ったのである。しかし永年の習慣が続くと、仕方なく、ではなく、返すことが当然の義務と感じるようになってしまったのである。これに符合する事実は世の中にいくらでもある。
別冊正論に、桶谷英昭氏がNHKのラジオ番組録音で、大東亜戦争、と語ったらその後、大東亜戦争はまずいから、大平洋戦争と言ってくれと言われた。理由はNHKでは大東亜戦争は禁句である、と言うのだ。氏が拒否すると「大東亜」の所をカットして放送されたというのである。
GHQは大東亜戦争を大平洋戦争にせよと、検閲を指示した。NHKの職員とて当たり前だと思っていた大東亜戦争を使うのを「仕方なく」止めて、大平洋戦争と言わされていたのである。しかし、長い間検閲が続くと、検閲が解除されて自由になっても、大平洋戦争、と言う言葉を使わなければならない、という当然の義務感になっていたのである。
600円の借金の儲け話は単なる笑い話ではなく、人間の一面の心理をついたものなのである。もちろん、大東亜戦争が使えなくなったのは、こんな単純な話ではなく、多くの複雑な要素もあろう。しかし、原因の一部を構成しているのは間違いはない。ちなみにマスコミにも関係なく、戦後の教育も受けず、歴史に興味もなかった父母は、死ぬまで当たり前のごとく、大東亜戦争と言っていた。