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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
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中島飛行機のプロペラ後流影響思想について

2019-06-07 00:18:16 | 軍事技術

中島飛行機のプロペラ後流影響思想について

 世界の傑作機シリーズNo.108艦上偵察機「彩雲」に尊敬する航空技術者の鳥養鶴雄氏が、中島飛行機の設計思想について次のように述べている。

 

中島の技術者は「・・・プロペラの後方にあるナセルや単発機の胴体は、プロペラを通過する空気流が、前面と比べると、後方では圧縮されて、流速が速くなり、流れの断面積が小さくなる収縮流の中にあるから、エンジン後方の胴体は絞った方がいいと考えていた。それを実行したのが陸軍の九七式戦闘機、「隼」、「鍾馗」だった。「彩雲」は三座機だったから絞り込むことは出来ないが、最小断面の平行部のある細い胴体を目指した。」

 

とまあ、こんな記述である。航空機設計のプロであった鳥養氏には申し訳ないが、この中島の設計思想には、事実関係にいくつか疑念がある。まず、九七戦の胴体形状である。確かに平面形を見ると、エンジン最大径部分からカウルフラップ後端までかなり急激にしぼられていて、後方の胴体と、折れ曲がるように接続している、流体力学の単純な常識的には不利な形状をしている。しかし、側面形はそうはなっていないのである。前方視界の関係からカウリング上面は直線的であるのは分かるが、下面は絞ることができるのに、そのようにはしてはいないのであるのが、整合がとれていない。

 実は、九七戦のカウリング設計は、NACAカウリングの過渡期として説明できる。NACAカウリングが、低抵抗の空冷エンジン用カウリングとして普及するまでは、空冷エンジンの単発機は、九試単や九六式一号艦戦のように、細い胴体の先端に大直系のカウリングをつけて、冷却空気がスムーズに流れるようにするタウネンドカウリングを採用していた。その場合の胴体断面の寸法はパイロットの居住空間、燃料や搭載機材の必要寸法から、狭くされていても支障がなかったのである。ただし、冷却空気の流量を制御できないから、過冷などになる不具合もあったのである。

 後年の液冷エンジンを積んだ飛燕は、液冷エンジンの幅ぎりぎりにに合わせて、840mmという最小幅としていても、胴体幅としては足りていたのである。諸外国の液冷エンジン搭載機も似たり寄ったりであった。つまり初期にNACAカウリングを採用した九七戦は、エンジン直径と関係なく、最小の胴体必要幅を採用したから、平面形が急に絞られているようになったのに過ぎない。実は、意外な類似思想の機体が米国に存在した。カーチスP-36である。この機体も平面形は頭でっかちで、胴体は細い。

 つまり、P-36も同じように初期のNACAカウリング採用の過渡的な存在なのである。世界の傑作機No.23の陸軍5式戦闘機に、これに関連する記述がある(P55)。細い飛燕の胴体に、空冷エンジンを搭載しようとしたら、直径が大き過ぎて胴体寸法と合わなくて、空気抵抗の増大が懸念されたのである。高さの方は、胴体下面に膨らみを付けることで簡単に片付いたが、平面形がどうにもならない。そこで風洞実験をしたが、そのひとつに九七戦のようにしたものがあった。

 すると、絞った部分に渦流が発生して、使い物にならないと判断されて、小規模ながら胴体の幅を膨らませ、不足分は胴体側面に推力式排気管を配置して対策した、と言うのである。鳥養氏のいうように九七戦がプロペラ後流の影響で胴体を絞ったと言うのなら、キ-100の場合も問題はなかったであろう。風洞実験ではプロペラ後流の影響は試験できない。それなら風洞実験の結果はどうあれ、プロペラをつけた実機では問題ないはずだ、と判断されたはずだが川崎航空機と陸軍の技術者はそう判断しなかった。結局は九七戦方式は採用されなかったのである。現に、タウネンドカウリングからNACAカウリングに変更した、九六式二号二型艦戦以降では、胴体を全面設計変更して太くし、カウリングと胴体の段差を最小となるようにしているのも、川崎航空機の判断と一致している。

 そうすると逆の疑問が生じる。九七戦は問題なかったではないか、と。世界の傑作機の筆者はこのことに言及していないので、小生の推定を紹介する。キ-100に比べると九七戦の主翼はかなり、カウリングに食い込む前方にある。つまり、カウリングが絞られたあたりに、主翼があることによって、トータルとして断面積の減少を補正できる。完全にではないにしても、実用上支障ない程度に過流の発生は少なかったのだろうと推定する。

 なお、遷音速域では、胴体と主翼を含めた断面積の変化を少なくすると抵抗が少なくなる、というエリアルールがある。遷音速に至らなくても飛行機の抵抗増大などの空力的不具合は、やはり機体や主翼の断面変化の影響がいくらかはあるのではなかろうか。現にホンダジェットでは主翼上面にパイロンを設置して、エンジンを取り付けているにもかかわらず、配置の検討の結果、わざわざパイロンを後方に張り出して、エンジンが主翼直上にこないように配置している。これもエンジンと主翼の干渉を避けたのであろう。

 そうすると、P-36の場合はどうなのだ、と。実はある本(*)に、P-36の輸出型であるカーチスホーク75Aの初期型の平面図(P65)があるのを見つけた。これを見て驚いた。何と主翼と胴体の平面形が配置も含めて、九七戦と瓜二つなのである。もちろん、風防と尾翼は全く違うがそれ以外はそっくりなのである。わずかな違いは、主翼のアスペクト比と、主翼前縁が九七戦が全く後退角がないのに比べ、75Aはほんのわずかに後退角がついていること位である。

例によって、九七戦は、この機体を参考にしたのではないかと疑ったが、どちらの原型機も完成時期が近いので、断定はしない。いずれにしても、この時期のNACAカウリング採用単発機は、いずれもカウリング平面形を後方でやや絞っている、という共通点があるから、やはり設計者に共通の迷いがあったものと想像する。なお、P-36の原型機と初期の75Aは、空冷単列星形の大直径エンジンを採用しているが、P-36の実用機と後期の75Aは、二重星型でより直径が小さいものに換装しているから、カウリングの絞り込みの空力的影響が少ないものと考えられる。九七戦の練習機で小直径エンジンを採用したものも同じことになっている。

 以上のように、鳥養氏の言う、中島飛行機のプロペラ後流の収縮流の影響、というのには、疑義を持たざるを得ない。もっとも鳥養氏は中島の設計思想を淡々と述べているだけで、正しいとは判定はしてはいない。エンジンがなくプロペラだけが空気流れの中で回転していることを仮想すると、空気流の最高速度はプロペラ断面通過位置となる。すると流体力学の原理により、空気の流れの断面積は、プロペラ断面位置で最少となるから、プロペラより後ろで空気の流れが絞られる、ということは考えられない

実はこのことが、プロペラによる収縮流の影響と言う考え方(俗に日本の飛行機マニアの間で「縮流理論」ともいう)に疑問を持ったきっかけである。さらに鳥養氏は、彩雲は三座機であるため、「最小断面の平行部のある」長い胴体となっていると書いておられるのは、実は正確ではない。実際には世界の傑作機No.108の断面図のように、エンジン防火壁直後から、徐々に幅が絞られて、厳密には平面図で見た胴体幅の平行部分というのはない。これは揚げ足取りではない。

 他の偵察機の例を見ても、当時の偵察要員や機材などを搭載する必要幅は、誉エンジンの幅よりずっと少ないのである。それでも、彩雲の胴体の幅がかなり後方まで絞られ方が少ないのは、別の意味で「三座機」だったからである。彩雲は艦上機であり、偵察機であるため、視界確保を重視した。そのため、風防幅が大きい。幅の大きい風防を操縦員から、最後席まで長い区間を「平行」にして幅を確保している。そのために後方胴体を急に絞ることが出来なかったのである。

 ちなみにP-36に戻ると、液冷エンジンに容易に換装でき、P-40となったのは、元々胴体幅が狭かったから液冷エンジンにすると丁度良かったのであって、偶然に運が良かったのである。キ-100のために弁ずれば、土井技師が空冷換装に苦労したのはエンジン寸法の違いばかりではない。エンジンなしで生産されてしまった多数の機体を、最小限の改造で金星エンジンを装着しなければならなかったからである。むしろ全て新造なら九六式二号二型艦戦のように、胴体の全面設計変更した方が設計の苦労は少なかったのである。土井技師たちの苦労は想像以上だったと思う。

 また、通説では、鍾馗の胴体は「縮流理論」によって、エンジン後方の胴体が、急に細く絞られている、とされている。ハセガワの1/48のキットがこの通説に従っている。しかし、平面形を上空から写したものや、真後ろから撮影されている写真をいくらみても、胴体が絞られて凹んでいるようには見えず、単にほぼ直線的に成形されているようにしか見えない。この胴体形状はFw190のAシリーズとそっくりである。それでは直線的に成形するメリットは何か。鳥養氏の説明のように、胴体表面積が最小になって、摩擦抵抗を最小にできるのである。

ハセガワの鍾馗のような胴体形状は、渦流の発生や表面積を大きくする、という二点で流体力学的にはあまり好ましくはないのである。雷電や烈風のように、最大断面積を全長の40%位置にするために、わざわざ胴体幅をエンジン最大断面積より大きくするのは、摩擦抵抗が増えて好ましくはない、と鳥養氏が言うのは流石にプロだと思う。

 通説では、海軍航空技術廠の権威は大きく、それで堀越技師は雷電や烈風の設計で、空技廠の最大断面積を全長の40%位置説に従ったとする説があるが、彩雲の例はそれを否定している。要するに堀越技師は自信がないので空技廠説を採用したのである。堀越技師の見識を疑うひとつの例である。

ちなみに、Fw190D9あたりの胴体断面積がエンジン最大断面積より大きくなっているのは、空冷エンジンの胴体設計を極力流用した結果に過ぎない。前のタイプの設計の流用は、設計の手間ばかりではなく、製作治具の共用などの、生産上のメリットも大きいことを付言しておく。

 

*COMBAT COLOURS Number4という大東亜戦争初期の日本機と連合軍機の塗装図集

 

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何故航空母艦の艦橋は右舷にある?

2019-06-03 17:47:17 | 軍事技術

 航空母艦の艦橋は右舷つまり後方から見て、必ず右にある。私の知る範囲では、左舷に艦橋があるのは、日本海軍の赤城と飛龍だけである。これには明白な理由があるのに違いない。だが私の知る限り、この事を明瞭に説明した、日本の市販の出版物はない。

 古本に属するが、手元にある潮書房刊の軍艦メカ3、全特集、日本の空母のp10に、「この方式は気流に乱れを生じて不具合であることが判明し」と説明されているだけである。私の知る範囲では日本では大抵そう説明されている。

 しかし前後関係と違い、右と左は条件が対称だから、条件に相違が出る理由がないから、左舷に置いたほうが右舷より気流の乱れが出るというのでは、説明にならないのは明白である。この理由は物理の初歩知識があれば簡単に片がつく。

 ご存じないだろうか。プロペラ機を後方から見ると、ほとんどの機体はプロペラは時計方向に回転している。その反対は、稀な例外しかない。すると飛行機は左方向に旋回するトルクが働く。特に離陸上昇でエンジンの馬力が最大になっているときに激しい。

 これでお分かりだろう。左舷に艦橋があると、このトルクによりパイロットは衝突しやすいという気持になる。実際にはトルクは舵で修正するから問題はないが、心理的にパイロットには大きなプレッシャーになる。着艦に失敗した場合も、パイロットは飛行甲板上の真ん中でフルスロットルにするから、左に舵を取られやすいので、左舷艦橋は怖い。
 
 ちなみに戦時中、零戦に追いかけられた米軍機は、加速して右に横転して逃げろと教えられた。これは零戦は高速では舵の効きが悪くなるため、米軍機よりエンジントルクに逆らって右横転する性能が悪かったためである。

 それでは、プロペラのないジェット機の時代にも、何故航空母艦の艦橋は右にあるのか、という疑問は当然である。ジェット機にもプロペラはないが、コンプレッサーはある。コンプレッサーとは小さなプロペラが沢山ついたようなものである。

 そしてこれを整流するために、固定のタービンが付いている。これがコンプレッサーの反動を受けるから、程度の大小は知らないが、結局同じ向きのトルクが発生する。だが、それがどの程度になるのか、定量的なことが分からないので、確信はない。また、プロペラ式艦上機はまだ存在する。私が疑問に思うのはそればかりではない。なぜこれほど単純なことを、多くの雑誌等のライターが分からないか、ということである。ちなみに、上記の主旨を「世界の艦船」という雑誌に投稿して採用された。すると翌月に投稿の反応があった。それは、小生の主旨は分かるが、そればかりではなく、航法上の規則も理由にあるのではないか、と書いてあった。

だが、航法上の規則の理由は絶対的ではない。航法上の規則から不都合があっても、パイロットは左舷艦橋に反対するのは間違いない。それは航法上の規則から左舷艦橋が適する場合だつた仮定してみても、プロペラの回転方向が変わらない限り、左舷艦橋をパイロットは嫌がるからである。つまりプロペラトルクの問題が第一次的な原因で、航法上の規則の問題は二次的な原因に過ぎないからである。

皮肉なことに、後期型のスピットファイアは、ロールスロイス・マーリンとは逆回転する大馬力のロールスロイス・グリフォンエンジンを使った。それに対応するシーファイアを艦上機として採用した英海軍は苦労した挙句、プロペラのトルク問題を解消するために、二重反転プロペラを採用した。スパイトフルの艦上機型のシーファングも、原型は5蝶プロペラだったが、量産機では二重反転プロペラを採用する予定だったのも同じ理由である。それにしても、当時簡単に二重反転プロペラを採用できる英国の機械工業技術の高度さは、日本の航空技術者には、うらやましい限りだったろう。
 
 私は、空母の右舷艦橋の明快に説明できない原因は、多くの艦船や航空機関係の雑誌のライター諸氏は、工学の素養がないとしか思われない人が多いのではないかという疑問である。工学の素養とは工学部系の大学や工業の専門学校で学んだことがある、という事では必ずしもない。独学でも何でもいいから、工学の基礎を学んだか、という事である。

 公刊されている雑誌や書籍で、明らかに工学の素養の欠如している人が、堂々とその方面に言及して、間違えたことを平然と述べていることが案外多いことから、私はそう疑わざるを得ない。例えばある著名な「軍学者」が、単行本で「レシプロエンジンでは、オクタン価が高いほうがいい」、という意味の事を言っていたのに、私は唖然とした。 

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高速水上機性能の不思議

2017-10-10 15:57:46 | 軍事技術

 戦前のある時期、世界速度記録を作るのに、水上機とする例が多かった。典型的なのはマッキMc72である。双フロートを抱えているのに、709km/hの世界速度記録を出している。これは、水上機にすれば、滑走路の長さ制限がないので、主翼を最小限にして抵抗を減らせると説明されている。何せ当時の陸上機の速度記録は、566km/hだというのだから、桁違いである。

 つまり、当時なら陸上機より総合的に空気抵抗を減らせると称して、実証している。それならば、その後の引込脚の実用軍用機にはどうか、興味がある。日本では零戦から二式水戦が作られている。最大速度は533km/h/4550mから436km/h/4300mに減じている。陸上機の82%に減じている。

 以下はモデルアートNo.387からの引用である。スピットファイアも水戦を試作している。MkⅤの場合は、598km/h/5978mが513km/h/5490mに減じている。85.8%減である。もう一つMkⅨでも試作している。資料によれば、649km/h~664km/h/5900mが619km/hに減じている。95.4%~93.2%という、低い低減率である。これらは武装削減の影響もあるとされている。

もしMkⅨが700km/h出していても、低減率は90%近い。いずれにしても、二式水戦に比べて、スピットファイアのフロートによる抵抗増加はかなり少ないと言わざるを得ない。

 この場合、Mc72の例を考えれば、二式水戦、ひいては日本の水上機のフロートによる抵抗が大きすぎるように思われる。ちなみにMc72とスピットファイアなどの欧米系は全て双フロートであり、二式水戦も強風も高速を狙った水上戦闘機は単フロートである。これがどう影響しているのか分からないが、日本機の場合には水上の取廻しなどを考慮して、フロートが大きく、抵抗の増大に関係しているように思われるが判然としない。

 いずれにしても、速度を上げるために水上機にしているケースがあったのと、フロートによる抵抗の増加に悩む日本機との差は不可解としか思われない。

 

 


上陸作戦の水際阻止は当然

2017-06-21 16:56:18 | 軍事技術

 

 大東亜戦争において、日本軍は、米軍の上陸作戦の水際阻止に固執して失敗を繰り返した、と批判されている。硫黄島においては、水際阻止を諦めて、上陸後の反撃に徹したために米軍に大損害を与えた、とされている。これとて、上陸作戦を阻止することに成功した訳ではない。水際阻止はうまくいかないことの証明として、硫黄島でも上陸中に反撃してしまった一部の重砲は、またたくまに米軍艦の反撃にあい、破壊されてしまった、ことが挙げられる。

 日本軍が上陸の水際阻止に固執したのは作戦の基本からは間違いではない。作戦の常道だったからである。上陸部隊が橋頭保を確保する前の、不安定な時期に撃退する、というのは筋が通っている。日本軍が水際阻止に固執して失敗を繰り返した、と批判する論には、言及されていないことがあるように思われる。

 水際阻止は作戦の常道である、と言った。それなのに何故日本軍は繰り返し失敗したか、である。水際阻止に失敗した日本軍が守る島嶼には、敵上陸支援艦隊よりもはるかに劣る火力しかなかったから、水際阻止のためには、上陸支援艦隊を制圧できる、日本艦隊の攻撃力が必要だったのに、日本海軍は実行しなかったのである。これでは水際阻止が成功する道理はない。

 米軍は、珊瑚海やミッドウェーで、上陸開始以前に艦隊を派遣し、上陸支援艦隊を早急に排除した。水際阻止以前の時点で上陸作戦阻止に成功したのである。珊瑚海海戦では、上陸地点の空襲にすら至らなかったのである。これに対して、ガダルカナル以降の米軍の上陸作戦に対して、日本艦隊が上陸阻止を実行したことはなかった。かろうじて、第一次ソロモン海戦において、三川艦隊が、ガダルカナルに米軍が揚陸中に上陸支援艦隊に大損害を与える戦果を挙げた。

 しかし、三川艦隊はこのチャンスに、輸送船団を攻撃していると、戦場離脱前に夜が明けて、航空攻撃を受ける恐れがある、として帰投してしまった。日本海軍は艦隊決戦に固執するあまり、艦隊決戦以前に艦艇を少しでも喪失することを恐れていた。そもそも、軍艦同士の海戦を行うことは、艦隊作戦の目的ではなく、補給阻止や上陸阻止ないし、これらへの支援という作戦目的の結果として生ずるものである。

 ところが日本海軍は、第一次大戦の戦訓として、独潜水艦による輸送船団攻撃による英国の苦境を知りつつ無視し、史上空前のジュットランド海戦の英独戦艦の戦いだけから戦訓を得ようとした。ドイツ艦隊のしぶとい戦いぶりを称賛する論もあるが、本海戦以後ドイツ海軍は引きこもってしまったから、勝者は英海軍である。

日本海軍の艦隊決戦への固執は、大東亜戦争において、米軍の補給阻止に何の手も打てず、逆に米軍の補給阻止に散々苦しめられた遠因となった。米軍が対日戦を行うには、米本土からハワイを経由する長大な補給線が必要だ、という大きな弱みがありながら、日本海軍は米軍の補給作戦に高見の見物を決め込んでいたのである。

日本側には賛否両論があるが、米軍の三川中将のこの海戦の戦闘指揮に対する評価は高いように思われる。これは、三川艦隊が大戦果を挙げたことに対する称賛であるが、米輸送船団を見逃したという、臥竜点睛を欠いたことに対する安堵の念もあったのではなかろうか、と小生は勘ぐっている。

これは、敵軍による称賛とは、全面的な敗北をした場合には、必ずしも行われることはない、という例証のように思われる。米軍には三川艦隊の活躍を誉めていられるだけのゆとりがあったのである。結局のところ、日本艦隊が米軍に対する上陸阻止の先手を打てなかったのは、情報収集の不十分と、判断基準が日本に都合のよいものとなっていて、敵軍の立場に立って思考しなかったからのように思われる。

もっとも戦争末期はそれどころではなかったのであろうが。いずれにしても、日本軍が島嶼上陸の水際阻止に固執したことだけを批判するのは、片手落ちのように思われる。


零戦の優秀性はパイロットの技量による

2017-05-17 15:13:55 | 軍事技術

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 零戦の優秀性は、現代の日本国内では伝説化している様相がある。渡部昇一氏らの著書でも、零戦を日本刀に例えるなどして、優秀性を讃えている著述は多い。世界に残っている旧日本軍機の中でも数が多いだけあって、飛行可能な機体も複数あり、写真集も多く出版されていて人気も高い。

 零戦は優秀ではなかった、とは言わないが、そこまで特筆して語る価値はなく、強いていえば、当時の日本の軍事航空技術の水準の象徴である、というのが正確ではなかろうか。堀越技師自身、米側からの事情聴取に、正直に欧米機の模倣もあると答えているそうである。当時の日本の技術水準全体からから言えば、不思議な話でも、隠すべき話でもない。

 戦後の日本の航空技術者で最も実機設計経験が多い、鳥飼鶴雄氏は、戦前の航空技術の水準について、最も得意であったと言われている空気力学についてさえ、最先端分野では欧米の技術には劣っていたと言わざるを得ない、という意味のことを書いている。その通りであろう。当時欧米では既に遷音速領域での現象に直面していたのである。

他方、零戦に対する米軍や他の連合国のパイロットの評価は、多くが陸軍の隼と混同されている。大戦初期の空冷エンジン装備の単発単座の日本戦闘機、特に隼の多くが識別の困難さから、零戦として記録されている場合がある。米軍パイロットの高い評価の中には、隼も入っている可能性が大きいのである。

 旧海軍の奥宮正武氏などは、大東亜戦争では陸軍機は全く役に立たなかったごとき酷評をしているが、実態を反映していない偏見と言わざるを得ない。確かに洋上航法の訓練のなされていない、陸軍機パイロットは洋上戦闘では、足手まといの面があったにしても、大東亜戦争全般での評価としては妥当ではない。

 梅本弘氏は「ビルマ航空戦」で、連合国側の記録との照合によって、陸軍機の意外な敢闘を証明していることを立証している。結論から言えば、大東亜戦争初期の零戦を代表とする日本機の活躍は、多くがパイロットの練度の高さによる。日本陸海軍は大東亜戦争開戦時、既に支那事変で航空戦を経験していた。

 加藤建夫、坂井三郎、岩本徹三の大東亜戦争で活躍した、陸海軍の高名な三人のパイロットは、全て支那事変で空戦を経験している。岩本は零戦を使っての、高空からの一撃離脱戦法を常用しているが、これは本人の性格によるところが大だろうが、支那事変で複葉戦闘機と戦った体験による影響もあるものと想像する。戦闘機ばかりではなく、攻撃機や爆撃機の搭乗員も同様に支那事変で経験を積んだ。

 一方の連合国のうち、対日戦の主力だった米軍は、義勇軍(!?)と称して少数のパイロットが参加していただけだった。大東亜戦争初期の、米軍の魚雷に不良品と思われる故障が多かったのも、実戦経験のブランクによるものであろう。

このパイロットの実戦経験の差が、零戦に象徴される日本軍戦闘機の優秀性として現れていたのだった。ちなみに隼はかなり初期から防弾装備をしていて、他の陸軍機も同様で、防弾装備については、海軍機の方がかなり遅れていたことは、米海軍の報告書「日本の航空機」(雑誌「丸」に連載)によっても明らかである。

また、ミッドウェー海戦で、零戦は米雷撃機を次々と撃墜して、防空の任をよく果している。しかし、これは必ずしも米艦戦より、零戦が優れていた証明にはならない。大戦後半の米海軍と異なり、当時は攻撃隊における艦戦と艦爆、雷撃機などとの連携がうまくいっておらず、零戦に手もなく撃墜された雷撃機は、艦戦の援護がなく、裸同然で突っ込んでいたのは、記録を読めばすぐ分かる。むしろ、援護なしに日本艦隊に突撃していった雷撃機や艦爆の敢闘精神には脱帽する。

逆に米艦戦の援護があった攻撃隊の被撃墜率は、ぐんと下がり米艦戦は援護の任務を十分に果たしている。ミッドウェーの艦隊防空戦での零戦の活躍は、パイロットの優秀さもあるが、それ以上に米軍の連携の悪さもあったのである。

 大戦後半になると、米軍技術陣は防弾不足による抗堪性の劣る零戦より、隼の評価の方が高くなっていた、とさえ言われる。かつては、難しい空戦技術が必要のない米軍機に比べ、難しい技術を必要とする旋回戦闘を主とした日本軍戦闘機は、大戦後半になると性能差もあって、負けていった、と書籍に書かれていたものが多かったが、そんな単純なものではない。

 マクロにいえば、大戦後半では緒戦とは逆に、日米間のパイロットの飛行時間に大きな差が出てきた、というだけである。現に生き残った日本のベテランパイロットは、性能差が大きかったと言われる米軍機に対しても、良く闘っている。それどころか昔、旧日本軍機の設計技術者から「P-51の高性能は、何でも世界一を自慢したかった当時の、米国の国をあげての宣伝によるものだ」と直接聞いたことがある。

 類似性能のエンジンを搭載した戦闘機の総合的能力は、よほど設計のまずさがない限り、格段の差が出るものではない。零戦とF4Fについてもこのことが言える。P-51は1400hpクラスのエンジンで、700km/hを超える最大速度を出していることになっているが、これは、1400hpで出した性能ではなく、短時間の戦闘出力と、燃料等の搭載量を減じたテストによるとしか考えられない。

日本の陸海軍のほうが、その点は実戦を想定した厳しいものであったと考えられる。輸入機を試験すると必ずカタログデータを下回る性能しか出なかったことが、それを証明している。実際問題として、元々オーバーホール間隔(すなわち耐用時間)が300時間程度もなかった当時の軍用エンジンで、短時間の戦闘出力を使う、というのは非現実的な話ではないが。

 不思議なことに、あれだけ速度性能差があるはずのP-47が、低空では隼より低速であったことは、米軍パイロットも認めている(世界の傑作機No.65)。P-51やP-47が低空で隼などに撃墜されている例について、遠距離を進出してきたために、帰投の燃料を節約して速度を落としていたので追いつかれた、と説明する向きがあるが、撃墜されてしまっては本も子もない。要するに実際に劣っていたのである。

 また、戦闘機は最大速度で空戦するわけではないから、必ずしも最大速度の差が単純に優劣を決めるわけではない。現にF-14とF/A-18は最大速度に大きな差がある。にもかかわらず、F-14が早々とリタイヤして、F/A-18に置き換えられた理由は周知の通りである。いくら電子化により自動化されている現代戦闘機でも、パイロットの技量は空中戦勝利の必要最低限の条件である。もちろん第二次大戦機と現代の戦闘機に求められる資質には、相違があるが。

 

 


雷電と彩雲の設計思想の相違

2017-05-10 16:48:40 | 軍事技術

雷電と彩雲の設計思想

 世界の傑作機No.108「彩雲」で鳥養鶴雄氏が書いているが、海軍航空技術廠では、胴体やナセルの形状は全長の40%付近に最大断面を置くことが、空気抵抗を最小にする、という研究報告がなされて、一式陸攻、雷電、烈風らの三菱機がこの理論を採用したのだという。雷電、烈風などは、この理論によりエンジンの最大直系位置よりずっと後方で、胴体の最大幅を最大としている。特に雷電では胴体幅とエンジン直径の差は顕著である。

 ところが、中島の彩雲は、この理論を採用せず、胴体最大幅をエンジン部に設定してそのまま後方の胴体も同じ幅としている。一般に海軍の技術陣は民間会社に対して自信を持っていて、陸軍より持論を民間会社に強制する場合が多いとされるが、この例を見れば、民間の設計陣が独自の技術的信念を持っていれば、海軍技術陣も受け入れたのだ、ということが分かる。

 雷電などの場合は、単に設計者が、データに基づく航空技術廠の研究成果を信頼したのだということが分かる。もちろん堀越技師が海軍のデータを信頼したのは当然である。一式陸攻の場合は、胴体内に魚雷を収容することを要求されたために、胴体の全長の40%付近に最大断面積を置くことに、さほど無理はない。雷電の場合には、元々採用エンジンの直径が、出力に比べて大きいので、この理論で抵抗減少を図ろうとする意図は分かるのだが、元々小直径の誉系統を採用した烈風の場合には、別な事情があったのだと小生は推測した。

堀越技師は海軍の指定した誉の性能に信頼を置いておらず、いずれ直系が大きく大出力の三菱製のMK9Aを採用することになるだろうと考えて、あえて太い胴体を採用しておいたのだろうと考えたのである。

 これは邪推だった。胴体最大幅とエンジン直径の差は、誉装備のA7M1が170mmに対して、MK9Aを採用したA7M2でも120mmあり、疾風や零戦に比べ、いずれもずっと大きかったのである。ちなみに、この値はF6Fで152mm、コンパクト化したF8Fでも101mmある。F4Uはわずか29mmで、クリアランス径(エンジン外径とカウリング内側径の差であろう)に至っては、11mmと隙間のないものになっている。いかにF4Uの空力設計がシビアだったか分かる。

 余談になるが、疾風でも幅の差は80mmある。誉は巷間、もう僅か何mmか直系を大きく設定すれば、設計にゆとりを持たせられ、信頼性も確保できたと言われる。しかし、疾風とF4Uの数値の差をみれば、誉の小直径化の設計努力は、機体設計によって無駄にされてしまったのではないかと思うのである。

 また、エンジン直径が1218mmで、疾風の1180mmより大きいキ-100は、カウリング幅を切り詰めて、疾風の胴体最大幅1260mmに対して、1280mmと大差ないものとしている。


小型化で滅びたグラマン社の猫シリーズ

2017-03-14 15:38:22 | 軍事技術

小型化で滅びたグラマン社の猫シリーズ

 

 かつての米海軍艦上戦闘機の雄のグラマン社は、ノースロップ・グラマンとして残っているものの、久々に取り返したF-14トムキャットを最後に、米海軍艦上戦闘機のシェアを失った。もちろん、厳しい航空機産業の競争に敗れたのが根本原因である。現在のF/A-18は、もともとは、ノースロップ社のの開発である。グラマン製艦上戦闘機の終わりの始まりは傑作と言われたF8Fシリーズであるように思われる。グラマン社はF6Fのように、手堅い堅実な設計が売り物であった。それが零戦の登場により、小型軽量化の必要性に迫られたといわれている。

 だが一説によると、零戦の影響より、空冷エンジンながら液冷エンジンより空気抵抗の低減に成功した、と言われるFw-190の影響の方が大きいとも言われているが、小生にはこちらの方が真実味を感じる。米軍は零戦の設計を脆弱過ぎるとみなし、構造や空力等の技術的な参考としてよりも、空戦法の欠点探しに心血を注いだ形跡がある。

 ともかくF8Fは同系統のエンジンを搭載したF6Fより大幅に小型軽量化された。しかも、当初は主翼に過荷重がかかると翼端が飛ぶという極端な軽量化までしたのである。このような方針はジェット戦闘機の開発になっても続いた。グラマン最初のジェット艦上戦闘機F9Fは、この流れにそった軽量小型機になっている。

 軽量小型化こそが、優秀な性能発揮の根本だと考えたふしがある。ところが、同じ系列のエンジンを搭載した、F6F、F8F、F4Uの三機種のその後の運命は微妙である。F6Fは手堅い設計のため、戦時中は大いに活躍したが、終戦とともに実戦用としては外されていった。F8Fは第二次大戦には間に合わず、終戦とともに生産数は削減され、フランスなどの海外供与機となって終わった。

 ところが、新技術を多用して空力的にも洗練されたF4Uは、朝鮮戦争に参加してジェット戦闘機の撃墜まで演じている。結局F4Uはジェット艦上機時代のつなぎとしての役割を演じた。F9Fの後継として開発したグラマンF11Fも小型化の路線をいって、採用はされたが、ヴォートF8Uや台頭してきたマクダネル社のシリーズに主力の座を奪われ、性能向上もあまりされずに終わった。

 F11Fに改良を加えて日本に売り込んだスーパータイガーは皮肉なことに、徹底した小型化と空力的洗練で、迎撃戦に徹したF-104に負けた。スーパータイガーは小型機にも拘わらず、汎用機の道をいったのが中途半端だったのである。その時点でF8Fに始まったグラマン社の小型艦上戦闘機路線は長く途絶え、グラマンは艦上戦闘機から外されたと思われた。

 ところがマクナマラ国防長官の海空軍戦闘機機種統一路線が示されると、グラマン社は主契約のジェネラル・ダイナミックス社の提携先として、F-111の開発に協力して復活した。ところがところがである。複数用途の性能発揮のために採用した可変後退翼などで肥大化した機体は、艦上戦闘機としては適さず、空軍にしか採用されず、グラマンの最も望んだ、猫シリーズの艦上戦闘機の復活はならなかったのである。

 それどころか空軍ですら、F-111は戦闘機としては大型に過ぎ、ベトナム戦争の教訓として得られた、戦闘機はミサイル運搬車としての速度性能だけではソ連機には通用せず、戦闘機本来の機動性が必要、という要求から、空軍ですら、まもなく海軍機として開発したF-4を採用する仕儀となったのである。

話題はそれるが、F-35はCTOLの艦上機と陸上機、STOVLの、最低三機種を同時に開発している。F-111ですら大型化して失敗したのに、F-35はF-22よりも小型化されている、設計の手際の良さは不可思議である。

 閑話休題。これでグラマンの猫シリーズの命脈が絶えた訳ではない。空軍が大型で高価なF-4を補完するハイローミックスの、ロー側の競争試作でYF-16、YF-17から、F-16を採用した頃には、F-4も陳腐化し、F-15を開発することになった。ほぼ同時に海軍もF-4の後継機としてF-14を開発した。いずれもMiG-25に触発されたと言われる、双垂直尾翼を採用している。

 このF-14がグラマン・トムキャットである。猫シリーズはようやく復活したのである。しかも、F8Fの小型化路線をようやく脱したのである。ところが、F-14は当初から機体とエンジンのマッチングが悪く、飛行条件によりエンジンがストールを起こす傾向があり、空中戦などの機動に制限がかけられる、という問題児であった。だからほぼ同時に就役したF-15が未だに現役なのに、F-14は2006年に早くも米海軍からリタイヤした。

 小生は昭和53年頃、航空自衛隊のFX選定の時期にF-14とF-15が模擬空戦をしてF-14が勝ったと報道された時、航空自衛隊のFXは米空軍の制式機から選ばれるという、暗黙の了解があるのに、と思ったものである。それどころか、当時の小生は知らなかったが、F-14は最初から克服できない欠陥商品だったのであるから、その意味でもF-14の不採用は正しかったのである。

 安価なため採用されたYF-17の発展型のF-18がさらにスーパーホーネットとしてF-14をリプレイスして現在に至っている。これで猫シリーズの命脈は完全に尽きた。その原因は艦上戦闘機の小型軽量化に拘り過ぎて、陳腐化や多用途化に対応できなかったためのように思われる。それを脱したF-14は、時既に遅かったのである

ところで、F8Fの模範となったとされる、Fw-190Aの発展型のFw-190DシリーズやTa-152シリーズは、日本では当時の最高性能機のようにいわれるが、テストした欧米での評価は案外高くない。これは一面ではFw-190D9が実践配備されたのは、対独戦も終了の時期であったため、Fw-190Aシリーズほど真剣にテストを行わなかったためだとも言われる。日本で人気が高い、高高度戦闘機のTa-152Hなどは一見しただけで、あの長大な主翼では、高高度ではともかく、中高度以下では強度が持たず、まともな機動はできず、高速で逃げまくるしかない。

 


日米の制空権下での艦隊決戦思想の相違

2016-12-22 13:40:47 | 軍事技術

 倉山満氏は「飛行機で戦艦を守れるようにしよう。制空権を取って艦隊決戦を有利にしようとしました。艦隊決戦主義から、制空権下での艦隊決戦主義になったということです。」(1)(P175)と書いている。一方で日本も航空機の発達から制空権下での艦隊決戦主義に移行したと言われている。だがその中身には当然相違があったと思われる。

 双方に共通しているのは、弾着観測に航空機を活用し、砲の命中精度を上げるために、観測機を守るための制空権確保、ということである。それでも違いはある。日本の場合は弾着観測機を艦上戦闘機で守ることを考えた。零戦の航続距離が異常に長いのは、艦上攻撃隊の援護や陸上攻撃機の援護のためではなく、艦隊上空を観測機援護のために長時間飛行するためである。そのことをはっきり指摘したのは兵頭二十八氏と記憶している。

零戦の開発が開始されたのは、支那事変が始まった当時であり、戦闘機無用論もあった位だから渡爆撃機の援護の重要性が全く認識されておらず、当初の要求仕様は航続距離ではなく、滞空時間で示されていた。

 米海軍の場合は、敵攻撃機は艦上戦闘機と、両用砲の対空砲火の二種類によって守ることとしたと考えられる。敵艦の中でも、特に空母を主として攻撃し、敵空母の航空機運用能力を無くすことを主任務にしていた。だから米空母の場合、艦上戦闘機と艦上爆撃機の比率が日本に比べて高く、雷撃機の比率が低い。戦闘機は艦隊防空と攻撃隊の直掩に使うからで、爆撃機は空母の飛行甲板を破壊して航空機運用能力を無くせばよく、必ずしも撃沈する必要はないと考えた。こうして制空権を握った上で、主力艦の決戦を行う。

 駆逐艦の主砲に対空兼用の、両用砲を全面的に採用することによって、他の海軍と異なり米海軍は駆逐艦にも防空能力を持たせた。大戦後半の圧倒的防空能力とはいかなくても米艦隊は効果的な対空火力を持っていた。既に緒戦の珊瑚海海戦で日本海軍の艦上機搭乗員は、そのことを身を持って知り、戦訓として上申したが海軍上層部の取り上げるところとはならなかった。

 ミッドウェー海戦では、多数の米雷撃機を零戦が撃墜し、一本の魚雷も命中させられなかったことから、敗北の結果となっても、米艦隊の防空能力の高さを認識することはなかった。運が悪かったことを意味する「魔の五分間」という神話の罪は重いのである。澤地久枝氏の「滄海よ眠れ」にも書かれているように、全体の戦死者は日本側が遥かに多かったにもかかわらず、パイロットの戦死者は米側の方がずっと多い。これは、米空母を攻撃したのは飛龍だけだったことによる。要するに、敵艦隊攻撃に参加した航空機は米海軍の方が遥かに多かったために搭乗員の被害の絶対数が多くなったのである。

 日本海軍の場合は軍縮条約で劣勢に立たされた主力艦比率のために、まず決戦の前に主力艦を少しでも減らすことを考えた。そのために艦攻による雷撃ばかりではなく、陸上攻撃機を太平洋の島嶼に配置して、攻めくる米艦隊を雷撃する、陸上攻撃機なる、他の海軍に例のない機種を発明した。

日本はあくまでも、艦隊決戦以前に主力艦をより多く撃沈する意図だったのである。だから、主力艦を撃沈可能と考えられた雷撃を敵艦攻撃の主力とした。後で再浮揚したことや戦略的要素を考慮しなければ、多くの戦艦を破壊した真珠湾攻撃は、この意図からは成功だった。マレー沖海戦は、陸上攻撃機が主力艦撃沈に有効であるという幻想を日本海軍に抱かせてしまった。

わずか90機程度の陸攻が戦艦を2隻も撃沈したのだから、陸攻に期待するのも無理はない。しかし、その後の陸攻は期待に外れ、恐るべき被害に比べて戦果は挙がっていなかった。マレー沖海戦の幻想が、戦果を過大評価させ、現実の戦果を見誤る結果となったのである。

では陸攻が海軍から無用になったのか、といえばそうとも言えない。陸攻の思想を結果的に受けついたのは、ソ連だった。ソ連は戦闘爆撃機や爆撃機に対艦ミサイルを搭載して、米空母を飽和攻撃によって撃沈しようとしたのである。魚雷に替わって対艦ミサイルがソ連の「陸攻」の兵装となったのである。

まともな空母を運用できなかったソ連は、陸上から発進する爆撃機によって主力艦となった米空母に対抗しようとしたのである。航続距離の長い爆撃機から、米空母の防空圏外から、長射程の対艦ミサイルを米艦隊の防空能力を超える多数を同時発射して、撃ち漏らした対艦ミサイルで米空母を撃沈しようとした。

正に陸攻の理想とした能力を備えたのだった。ある時期に米ソ海軍が衝突したら、この企図は成功していたように思われる。しかし、よく知られているように、米海軍はイージスシステムを開発して、敵機の同時対処能力を飛躍的に増やして対処した。ソ連がカタパルトを持たないとはいえ、正規空母を持とうとしたのは正解であろう。

しかし、本質的に大陸国であるロシアが、旅順艦隊とバルチック艦隊の全滅以来、本格的な外洋艦隊を持たないのは、ロシアの宿命であるかも知れない。ソ連崩壊によってロシアは世界帝国であることを止めた結果、外洋艦隊を持つ必要はないのかも知れない。かつてはロシア帝国とはいっても、ヨーロッパ外交の1プレーヤーに過ぎず、ソ連崩壊によって、ロシアは世界帝国から元の地位に戻ったのである。

 

(1)負けるはずがなかった!大東亜戦争・倉山満

 


日本海軍は米海軍に勝てない

2016-11-08 13:41:43 | 軍事技術

 倉山満氏の「大間違いの太平洋戦争」と「負けるはずがなかった大東亜戦争」の二著が典型であるが、倉山氏には日本軍は米英軍より強かった、という考え方がある。例えば後者には「マニラまではるばる太平洋を横断して艦隊決戦をやったところで、対米七割なら日本が勝つと日米双方の軍人が思っている。バトル・オブ・ブリテンだって結局は防者優勢なのと同じです。(P177)」

陸軍はさておき、小生は日本海軍は米海軍には、到底歯が立たなかったと考えている。倉山氏の日本海軍優勢論は、海軍の戦闘システムや技術が、第一次大戦当時のもので止まっていたというのが前提である。

 第ニ次大戦時点での米海軍が日本海軍より、技術的に圧倒的に優れていたということを一部の例で説明したい。海軍と言うのは、兵士の敢闘精神や技量は当然として、ベースには技術力が必須である。海軍の戦力とは、その時の技術の粋を集めたものである。技術力の優劣が勝敗を決定する。小生は米海軍が急激に変貌して優秀となっていったのは、第一次大戦の経験以降である、と考えている。また、大東亜戦争初期の不利な時期にも米海軍軍人は、優れた敢闘精神を発揮したことが伝えられている。

 まず戦艦である。よく、世界一の戦艦大和とアイオワが一対一で戦ったら、という仮想話が軍事雑誌などに書かれている。主砲の単位時間投射弾量や装甲や速度の差などの、巷間に流布されたカタログデータを比較して、大和の勝ちというのが大抵の落ちである。

 ところが、元自衛官の是本信義氏は、アイオワの完勝と断じている(海軍の失敗)。アイオワは初弾データからの距離と方向の修正を同時に行うので、初弾命中が3分45秒で済む確率が高い。大和は試射3回8分15秒で初弾命中する確率が高い。この時間が短ければ、初弾が先に命中する可能性が高いばかりではなく、艦の進路などの変化の影響が少ないので、確率の差は更に広がるというのである。

 さらに射撃データを計算し、砲を動かす射撃盤の性能に格段の差があるというのは、この想定外であるというのである。そこで、射撃盤の文献を調べた。当時の射撃盤自体は機械式のアナログコンピュータであるが、計算データで砲の方向と伏仰角を制御のため、日英はステップモータを使っていたのに、1920年に米海軍はセルシンを全面的に適用した新砲火制御システムを完成させた。(Vol.32、No.12・O plus E「第9光の鉛筆」による)セルシンはステップモータに比べ、精度と応答速度が格段に優れている。

 セルシン自体は、射撃盤本体ではないが、射撃盤自体にも米国製には一部電子部品が組み込まれた高度なものでなかったかと小生は考えている。しかし、前述の文献には、日・独・伊の射撃式装置には、英B&S社の技術が反映されている、と書かれているが、米国を含め射撃盤の詳細は分からない、と書かれている。

大和とアイオワとの戦いには、セルシンとステップモータの差もさらに加わる。要するに日米には砲のトータルの射撃管制システムに格段の差があった。海軍の黛治夫氏が昭和10年ころ渡米して演習データを見たら、日本側の主砲の命中率は米の3倍だったと報じている。戦前の米海軍の最新型のコロラド級の竣工は1921~1923年であるが、先の文献によれば、最初に新システムを搭載したのは1923年に就役したウェスト・バージニア(コロラド級の一艦)だから、他のコロラド級を含む米戦艦には、新システムの搭載が間に合わず、黛氏が見たのは古いシステムの艦のデータだったのであろう。

だから、黛氏のいう日米の命中率の差は、射撃管制システムの差ではなく、ほとんど練度の差であったろう。だが、少なくとも1941年以後竣工したノースカロライナ級以降の10隻は間違いなく新システム搭載で、真珠湾で被害を受けて大改装された旧式戦艦数隻も、新システムに変更していた可能性は大である。

ちなみに光の鉛筆を引用した花園史学(2013年11月号)には、日本海軍が「セルシンモータ」を採用した、と書かれている。ところが引用元の光の鉛筆には、日本の多くの文献には、金剛にセルシンが採用されていると書かれているが、実はステップモータであったと否定しているのは、花園史学の筆者の読み忘れであろう。光の鉛筆の記述が間違いである、と書かれていないからである。また、この件についても後述の両用砲についても、英海軍は採用していないから、案外米英の技術協力は進んでいなかったのである。

次は米の海軍航空戦技術の差について考察する。是本氏の著書(1)には「・・・アメリカ海軍は、日本海軍の真珠湾攻撃を手本にし、急遽、戦艦主体の編成、戦法などを空母機動部隊中心に切り換えたというのが通説として定着しているが、それはまったく違う。アメリカ海軍は、空母機動部隊の打撃力の有効性を早くから(1930年代の初頭)認識し、空母に護衛の巡洋艦、駆逐艦の戦隊を配属した任務部隊として運用していた。(P51)」と書かれている。

このことは、ハードウエアの面からも例証できる。是本氏によれば(1)、日本の12.5cm高角砲と米軍の5in.両用砲の命中率は0.3%対30~50%という驚異的な差があったという。現に氏が戦後米軍の5in.砲を射撃したところ、初弾から命中して驚いた、という。当然レーダー照準ではあるまい。小生は父の影響でずいぶん戦記を読んできた。読めば読むほど不思議に思えてきたのは、日本機のパイロットは米艦を攻撃すると、駆逐艦ですら猛烈で正確な対空砲火で反撃され、接近すれば確実に撃墜されてしまうと書かれているのに対し、米機は戦艦にすら悠々と機銃掃射して、対空要員を倒したのに日本の対空砲火は手も足も出なかったと、正反対のことが書かれていたことである。

これも前述の命中率のおそろしい差をみれば納得できる。両用砲と言ったが、これは対水上艦兼用の高角砲である。駆逐艦を比較すると米艦は対空用火器管制システムを装備し、両用砲を持っているのに対して、日本では対水上用砲と対水上用火器管制システムしか持たない。つまり米駆逐艦は防空能力を持つのに、日本艦は機銃しか防空用にしか使えない。駆逐艦は戦艦や空母の対空護衛には全く使えない。元日本海軍の関係者は駆逐艦秋月級の防空能力を自慢するが、大量生産されたごく普通のフレッチャー級にすら、遥かに及ばないのはこれで理解できる。

丸スペシャルNo.19駆逐艦朝潮型秋月型には「・・・いかに高角砲のメカニズムが優れていても、レーダー付き射撃照準装置と使用砲弾にVTヒューズを欠いたことは、第二次大戦における一流の防空艦としての条件に満たなかったというべきで、おそらく大戦末期にあっては米海軍の通常型駆逐艦であるフレッチャー級にすら、その実質の防空能力は数段劣っていたものと評さざるを得なかっただろう。」とある。

これも典型的なレーダー、VT信管神話である。第二次大戦当時のレーダーは現代で言う射撃照準能力は持たず、現代の観点で言えば最良のものですら、捜索レーダーのましなものに過ぎなかった。光学式射撃管制システムにおいても日本海軍では、遥かに劣っていたのである。いくらVT信管があっても、15m程度以内に砲弾を通過させなければ有効ではないから、射撃照準能力の劣る日本のシステムでは、VT信管はほとんど威力を発揮できない。しかもマリアナ沖海戦時点でも、5in砲弾の4分の1しかVT信管は供給されていなかったし、大戦終了まで5in未満の砲弾のVT信管は開発されていなかった。だから日本はVT信管を持たなかったから不利だったと言うような記事も日本でよく見られる、秘密兵器神話である。

さらに両用砲を持つ駆逐艦が計画されたのは、ロンドン条約を契機として計画された、ファラガット級(1934年竣工)を嚆矢とする。この時期は是本氏が「アメリカ海軍は、空母機動部隊の打撃力の有効性を早くから認識」していたという時期と符合する。それ以降、ほんの一部の例外を除いて駆逐艦の主砲を両用砲としている。特に初期のものは対水上用専用に比べ重量が重く、対艦船用としては難点があったとされる。それでも、欠点をおして採用したのは、航空戦重視の現れである。

日本海軍は、ワシントン条約以降逐次制限のない駆逐艦を整備してきた。一方の米海軍は、第一次大戦参戦のため、大量の駆逐艦を保有していたため、日本海軍に比べ年々大量の駆逐艦が旧式化していった。ロンドン条約では駆逐艦などの補助艦艇にも制限を加えた。その結果米海軍は、旧式駆逐艦を軍縮の美名のもとに大量に廃棄し、両用砲と新型の火器管制システムを備えた新型駆逐艦を整備した。ロンドン条約で補助艦艇の制限がされたのは、このような米海軍の事情が大きく影響しているという説もある。

日米の差は動力にもある。ほとんどの軍艦に使用されるボイラは、蒸気の圧力と温度が高く効率の良いものを米海軍は採用しているため、馬力当たりの機関の容積や重量は軽量化されている。砲や魚雷の数などのカタログデータこそ、日本海軍の駆逐艦の方が優れているように見えたが、実質的戦闘能力は米海軍の方が優れていたのである。当然戦艦や巡洋艦でも同じことである。

これらはハードウエアの差の一部の例に過ぎない。日本海軍が、日本海海戦時とほとんど進歩がなく、司令官、艦長、参謀などの個人的連携によって戦闘を指揮していたのに対して、米海軍はソフトウエアとして現代にも通じる、C3Iといった戦闘指揮システムを開発していた。小生は知識がほとんどないので、これ以上言及しないが、要するにヤマ勘的戦闘指揮と情報を的確に分析判断する系統的組織的戦闘指揮方法の違いである。

倉山氏は、艦隊決戦では勝てないから、米海軍は通商破壊しかないと結論した(2)(P178)と書くが、世界が通商破壊の恐ろしさを認識したのは第一次大戦である。ところが日本海軍もそれを知りつつ、準備出来なかったのは、艦隊決戦に回す戦力ですら余裕がないのに、護衛艦隊などと言う後ろ向きの装備のゆとりがなかったからだろう。もちろん倉山氏の言う民族性の差もあるだろう。

以上のようにガチンコの艦隊決戦をやっても大東亜戦争時点では、日本海軍は米海軍に勝てるはずは、なかったと思う。もちろん陸軍の話はさておく。ちなみに英海軍は空母本体は立派だが、ほとんどまともな艦上機を開発できず、日本海軍の空母の敵ではなかったと思われる。しかし自前でではなく、米国製艦上機でなんとかしていた。

ドイツ海軍との戦いでも、数でねじ伏せるしかない、効率の悪い最悪の戦いをしている様子を見ても、主力艦による水上戦闘には、日本海軍には歩があるが、通商破壊対策で鍛えた、対潜能力だけは圧倒的に日本海軍の負けである。またアメリカよりも先を行っていたレーダーもあるが、英海軍が有効に活用できていたのだろうか。

 

(1) 日本海軍はなぜ敗れたか

(2)負けるはずがなかった大東亜戦争

 


カタパルトとスキージャンプ

2016-09-08 14:30:44 | 軍事技術

 別項で日本海軍の航空戦艦伊勢級のカタパルトは、米英のように飛行甲板上の艦上機をそのまま射出できず、台車に載せると言う運用上の制約が多い方式であることを書いた。ドイツの未成空母のグラーフ・ツェッペリンはカタパルト装備とされていたが、図面を見る限り日本海軍と同様に台車方式のようである。異色なのは英国空母のスキージャンプ方式である。これなら、機体もいじる必要はなく、高度な技術の蓄積が要るカタパルトも不要だと飛びついたらしいのが旧ソ連である。

 だが、ソ連製空母がスキージャンプ方式を通常離陸方式のCTOLの発艦に採用したのは感心できない。カタパルトを開発使用した経験がある英海軍がスキージャンプ方式を発明採用したのは、艦上機が垂直離着陸機(VTOL)のシーハリアーだったからなのである。シーハリアーは垂直離陸するためには、爆弾等の兵装が制限される。兵装の搭載量を増やしたり、航続距離増大のために燃料搭載量を増やすためには、垂直離陸を諦めて短距離離陸にしなければならない。

 もちろん兵装や燃料を消費して軽量となった状態なら垂直着陸できる。搭載量を増やすと短距離離陸しなければならないのは、離陸速度の不足ばかりではない。ハリアーの主翼は離着陸にはいらないから、CTOL機に比べかなり小さい。これは空気抵抗が小さいから高速飛行には有利である。逆にいえば、ある程度の速度がないと機体重量に釣り合う揚力が発生しない

ハリアーの垂直離陸時の揚力は全てエンジンの鉛直方向の推力である。従って離陸重量が重くなると不足するのは、この鉛直方向の推力である。そこで爆弾などの搭載量を増やすには、短距離でもいいから滑走して主翼やフラップによって揚力を補うことが必要である。

 それともうひとつ、別に鉛直方向推力を補う方法があればよい。スキージャンプ台は大きな傾斜をしているから、台を通過することによって、鉛直方向のベクトルの力が機体に与えられる。それがエンジンの鉛直方向推力を補うのである。

 ところがロシアや中共海軍のように通常離着陸機(CTOL)で搭載量が大きいと短距離しか滑走していないから、スキージャンプ台を過ぎても失速速度を十分に超えておらず、台で上に放り出された勢いが残っているだけだから、失速して海面上に降下してしまう。それを防ぐには、飛行場から離陸する場合より、艦上機の搭載量を制限しなければならないのである。もちろんスキージャンプで与える垂直方向速度ベクトルは離陸の補助にはなるが、カタパルトに比べて充分ではない。

 このように、元々スキージャンプ台はハリアーの搭載量を大きくするために発明されたのであって、カタパルトの代用品ではないのである。現に英国のスキージャンプ台を備えた、最新鋭の大型空母クィーンエリザベスは、短距離離陸垂直着陸機(STOVL)機としてF-35Bを運用する設計である。前述のように現代の重い艦上機を短距離で離陸速度まで加速するカタパルトは、高度な技術を必要とする。

 ロシアや中共は、当面カタパルトを実用化できないから、スキージャンプに飛びついたのである。従ってCTOLの戦闘機や攻撃機の運用は極めて制限が大きく、一機当たりの打撃力が小さい。その上遼寧の場合は、動力がオリジナルのものが使えなかったので、カタログデータの30ktは到底出ないと見られている。なんちゃって空母と呼ばれるゆえんである。