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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

体当り専用機ではなかったキ-115

2016-08-13 15:21:03 | 軍事技術

 48のプラモのキ-115(剣)を作った時、意外なことを知った。モデルアートのエデュアルドの製作記事である。執筆者は加藤寛之氏であった。記事には「主任設計者の青木邦弘氏によれば、剣はロケット噴射で加速して離陸し、脚は投下してしまう。身軽となった機体で沿岸に押し寄せる敵艦艇へ投弾、引き返して胴体着陸する。操縦者は生還し、エンジンは再利用する構想だったという。その証拠に、調布に残された機体には爆弾投下安全弁が付いていたことが確認されている。製作から審査の時点になると、剣は体当り攻撃機となっていた。」とある。

 日本航空機総集など既存の資料には、知る限り全て体当り専用機と書かれている。機体自体が脚投下式などを含めて全体的に簡素なものだから、素直に信じていた。しかしこの記事によれば、少なくとも計画設計時点では、体当り専用機ではなかったというのである。そこで記事の青木邦弘氏の本を探すと「中島戦闘機設計者の回想」と言う本が図書館の蔵書にあった。

青木氏は明治43年生まれで、本書は1999年に刊行されているから、かなりのご高齢になられてからの執筆である。それによれば、剣の開発の着想は、キ-87のようなまともで高級なものは、あの時点では戦争に間に合わないので、簡易に作れる小型爆撃機を作ろう、ということにあった。(P181)

 戦闘機ではなく、「・・・上陸用舟艇のどまん中に瞬発信管付きの大型爆弾を放り込むだけでいい。・・・命中させる必要はない。・・・転覆させたり衝突させる効果をあげて、大混乱を引き起こすことができればよい。・・・操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる」飛行機である。

 引込脚は設計製作に時間がかかるので、投下式にして、胴体着陸すれば、最低限製造に手間のかかるエンジンだけ再使用できればよいというのである。そこで小生に疑問が起きた。オイルクーラの位置である。剣のオイルクーラは、疾風のように胴体の真下になく、右舷側それもかなり高い位置に偏って取り付けられている。胴体着陸する構想だと読んだとき、これは胴体着陸の際の地面との抵抗を減らすためではないかと思ったのである。

 完成した剣の模型を見たら間違いだと分かった。疾風のように真下に付けると、爆弾の位置と干渉するのである。それでも胴体着陸の抵抗を減らす効果は幾分かあり、うまくするとオイルクーラを破損せずに回収できるのかもしれないが、青木氏の著書にはそのような記述はない。

 剣はかなりの意味で中島の自主開発に近いらしく、隼のエンジン400台あまりが、倉庫に埃をかぶっていると聞き、青木氏はゴーサインをだした。(P187)試作機が完成すると軍民関係者で安全祈願式をしたが、祝詞に「・・・往きて還ざる天翔ける奇しき器」という一句があったので、軍民関係者が数百人居並ぶ中で青木氏は「・・・本機は特攻機として造ったものではありません」と訂正したが、反論もなく儀式は進んだという。

 神主さんは徴用で中島の工場で働いたことがあり、戦闘機に比べ粗末なつくりのため、皆が特攻機ではないかと噂したのを聞いて、祝詞に入れたのだと判明したと言う。奇妙なことに設計主任の青木氏が試作仕様書を見た記憶がないと言う。ところが軍に提出した計画説明書を米軍のために簡略にまとめたものが、戦後かなりたってからみつかって、読み返したところ、計画書の「型式機種」は「単発単座爆撃機」で、「任務」は「船舶の爆撃に任ず」とあり、軍艦相手とは書いていない。

また「主脚は工作困難な引込式を排し、かつ性能の低下をきたさないように投下式とし、着陸は胴体着陸とし人命の全きを期す」(P195)と書いてあった。また説明書原文には「・・・速度の遅い旧式機では操縦者の生還は期し難い・・・せめてそれに代わる飛行機として本機を作る・・・」と書いた記憶があるそうである。

 剣の審査官だった陸軍将校に戦後会うと、審査報告書に「本機は爆撃機としては不適当と認む」として提出したので使われたことはあり得ない、と語った。それにしても甲型だけでも105機も作られたから、使うつもりがあったと誤解されても仕方あるまい。青木氏によるとこのころは軍も中島も相当混乱していたということだから、生産だけが進んでしまった、ということはあり得る。剣の乙型のことを肝心の青木氏は全く知らず、戦後の文献で知ったという混乱ぶりである。また相当数が生産され実戦参加した、キ-100やキ-102乙が採用手続きもなされず、制式名称もなかった時期だから。

 また「戦後の文献によると、キ-一一五は昭和二十年一月二十日に『特殊攻撃機』という名称で試作命令が出されていたことになって」いたから、特攻機と言われたひとつの理由であろう、としている。なるほどと納得する次第である。だがモデルアート誌の記事のように「製作から審査の時点になると、剣は体当り攻撃機となっていた。」ということは、青木氏の著書には書かれていない。

 ただ、青木氏も隼なども特攻機として使われたのは「『特攻機』という言葉は用兵上の用語で、航空技術用語には」なく隼や疾風なども特攻機として使われたのは用兵上の結果であり、製造した時点で特攻を予定していたのではない、と述べている。だから設計側も軍も作るときは予定していなかったとしても、本土決戦が行われていれば、剣が特攻機として使われていた可能性は否定できない、ということになる。

 なお海軍の最初のジェット機の橘花も「特殊攻撃機」として爆装も予定されていたから、特攻機に使用予定であったとする記事も散見するが、青木氏の論理から言うと、設計製造に手間がかかる高級なジェットエンジンを一回限りの特攻の計画で作ることはあるまい。これとて実際にどう使われるか、ということとは別問題ではある。また剣が体当り専用機として設計製造されていなかったと主張するのは、剣の計画の道義的是非を言うのではなく、事実関係をいうのである。


ハイオクは設計性能以上のパフォーマンスは出せない

2016-05-07 15:58:38 | 軍事技術

 以前の著書「技術戦としての第二次大戦」でもそうだったが、兵頭二十八氏は、近著「地政学は殺傷力のある武器である。」でもオクタン価についての無理解を繰り返している。そのことだけを指摘しておく。

 「技術戦・・・」では「レシプロ発動機では、オクタン価の効果は小さくなかったようです。ハイ・オクタンであるほど、スロットルを全開にしたときの発熱量が少なかった。」などと、述べている。これらが全くの間違いであることは、専門家に聞いたり内燃機関工学の入門書をかじらずとも、インターネットを検索すれば簡単に分かる

 それ以前の常識として、熱機関は発熱量が大きいことが、エネルギー量が大になることだから、スロットルを全開しても(出力を上げようとしても)発熱量が少ないという事は矛盾である。「技術戦・・・」の間違いは「書評」で別途説明してあるのでご覧いただきたい。

 「地政学・・・」では更に「100オクタンの戦闘機用ガソリンエンジンは、スロットルを全開にし続けても・・・・・離陸後にオーバーヒートを気にせずに急上昇することが可能で・・・」(P153)とある。氏の記述を見ると、オクタン価がノッキングという異常燃焼の抑止の程度を表しているのを、加熱(オーバーヒート)の抑止と誤解しているようである。

 例えば圧縮比を大きくして、小型軽量のガソリンエンジンを設計しようとすると、ノッキングが起きやすくなる。ノッキングが起るとシリンダやピストンを損傷し使えなくなるから、防止のためにハイオクが必要となる。実際にはエンジンを設計する段階で、何オクタンのガソリンを使うことができるか想定する。

だからハイオクで設計していないエンジンにハイオクを使っても、「基本的には」設計以上の性能が出ることはない。逆にハイオクで設計したエンジンに、低オクタン価のガソリンを使うと、出力制限などをしなければならない。誉エンジンの性能が発揮出来なかった原因の「ひとつ」がこれであることは知られている。

だから氏が「英軍機がエンジンが最新型でなくとも、米国製のハイオクガソリンのおかげで、設計性能以上のパーフォーマンスを引き出せたのです。(P154)」というのが間違いなのはお分かりいただけよう。

ついでに石油生産量についての疑問をひとつ。1939年のドイツの石油生産高は年産450万バレル、1940年のアメリカは1日に400万バレル(P157)とあり、あまりの桁違いに驚いた。ところで1939年のアメリカの原油生産量は世界の半分を占め年産1518万トン(P155)とあった。直観的に年産に比べ日産があまりに多すぎると思えた。

大雑把な計算だから、1000ℓを1tとし、1バレルを159ℓとして年間365日生産すれば、日産400万バレルというのは

400万×159×365/1000=23,1214万トン/年

となり一桁違う。もちろん、石油の比重は1より小さい。1バレルの値も時代や測るもので違うが、倍半分の相違はないから、この値が半分になることもない。半分になっても10,000万トンは楽に超える。また、年産は原油生産量とあり、日産は石油生産量だから1対1ではないのかも知れない。ところが原油生産量に対する、石油生産量とは原油から精製された石油だとすれば、石油生産量1バレルは原油に換算するとさらに大きくなる。素人計算で情報量も少ないので、何かの抜けていることがあるかもしれない。とにかく疑問を持った次第である。


米空母の抗堪性

2016-02-13 14:19:08 | 軍事技術

 現代の米空母は簡単には沈まない。支那軍がその点を勘違いしている可能性は、大いにある。大東亜戦争の日本軍機の猛攻によって、フランクリンやバンカーヒルといった正規空母は、甚大な被害を受けながら沈没は免れた。とは言ってもフランクリンは修理のための調査の結果、火災による高熱で、船体の鋼材に全面的に歪が発生していて、修理するのに新造と同じ費用がかかってしまう、というので修理されなかった、と雑誌「世界の艦船」に報じられていた。

戦死者も700人以上出している。戦傷者はその倍はいたろうから、乗員のほとんどが、死傷したことになったのであろう、甚大な損害であった。沈没した船でも救助によって、犠牲者がこれ以下であった例も多かっただろう。

 しかし、沈没したに等しいが、沈没しなかった、ということは戦意の維持にとっては大きいのである。南太平洋海戦でホーネットが沈没して以降、日本軍機による正規空母の撃沈はない。最大のもので、軽空母プリンストンは特攻によって沈没している。プリンストンは軽巡から設計変更したもので、正規空母とは言えない。

ただし、1発の500kg爆弾の命中により、大火災を起こし、味方から雷撃処分を受けた。これは被害が大きかったのはもちろんであるが、火災により戦闘が不利になることを考慮した結果とも言われている。

 それ以後原子力空母になってから、船体は大型化し、防御についても鋼材以外の特殊装甲まで使用されている。何よりも大東亜戦争で日本軍機の猛攻を受けた結果、ダメージコントロールのノウハウが蓄積されたのは大きいであろう。中国軍が米空母を攻撃するとしたら、潜水艦か航空機のASMミサイルによる攻撃であろう。

 中国の潜水艦が辛うじて魚雷を命中させても、致命傷に至る前にASWの攻撃で撃沈される。また航空攻撃は、旧ソ連のようにASMによる飽和攻撃を行うまでの戦力はなかろう。結局防空陣により撃退される。現代の米空母自身の抗堪性も大きい。支那軍など問題ではなかろう。

 


堀越先生から習ったのは飛行機の重量だけ

2016-01-09 14:37:24 | 軍事技術

 平成22年11月5日の日経新聞に、三菱重工相談役(当時)の西岡喬氏が「私の履歴書」に、東大航空科時代の想い出を書いている。その中に有名な零戦設計者の、堀越次郎氏の教師としての想い出を書いている。教授メンバーは守屋冨次郎氏の他にもそうそうたる人たちが揃っているのだが、西岡氏の語る堀越氏の授業は異色である。

 「習ったのは最初から最後まで重量についてだけだった。・・・週一回の講義に見えては、グラム単位で、主翼など機体の重量や重心の計算ばかりする。」というのだ。

 堀越氏の言葉で「航空機は重量が命だ。小数点以下まで細かく計算をしなくてはだめだ」というのを今でも覚えているそうだ。防大で堀越氏から授業を受けた人も、全く同じように、重量計算だけやらされた、と証言していたのを読んだ記憶があるから、どこで教えても同じだったのだろう。

 堀越氏の授業を受けた両氏とも、尊敬している風なのだ。しかし、いくら重量軽減が大切だから、と言って重量計算だけしかしない、というのは余りに偏頗ではなかろうか。堀越氏らの世代は、戦後の日本人航空技術者と違い、何機もの航空機の設計の主務をした貴重な経験を持つ。その経験から、若い技術者の卵に教えることのできることは、重量以外にもいくらでもあるのではないか。余りにもったいない気がするのである。


航空記事の怪2

2015-11-07 16:05:13 | 軍事技術

 日本の航空誌などの記事には、たまに、その方面に常識がある人が書いたとは思われない不可解なものがある。以前もいくつか紹介したが、その続きである。

 イ.キ-67

 これは昔話である。「日本航空機総集」などのキ-67、すなわち四式重爆、飛龍の解説には必ず、プロペラの回転でパイロットの視界が妨げられないように、操縦席の位置はプロペラ回転面より前に配置されている、と説明されている。今では、そんなことはなくなったが、長い間、飛龍の図面は回転面より後ろに操縦席が書かれていた。明らかなミスが何十年も指摘されていなかったのは不可解である。

 

ロ.キ-74

 かの試作長距離爆撃機であるが、この主翼は未公認長距離飛行記録を作った航研機、キ-77の主翼を流用したと書かれている。しかし、流布されている図面を一瞥すれば分かるように、平面図で主翼前縁の後退角が異なっていて同一のものとは見えない

 スペックを見ると、キ-74は全幅が27m、翼面積が80m2で、キ-77が各々、29.43m、79.56m2である。ただし、キ-74の翼端はキ-77のものから詰められている、とされている記述もある。

主翼面積は胴体と重なる部分まで含めて計算されるので、違う幅の胴体を持つ両機の主翼面積の比較は単純ではないが、全幅が2.43mほど切り詰められているのに、主翼面積がほとんど同じなのは理解しにくい。主翼付け根の部分を延長していると考えなければ辻褄が合わないが、その説明がなされた文献を知らない。

 

 ハ.キ-66

 キ-74と同様な話がキ-66にも言える。川崎のキ-96双発戦闘機の主翼は、ほぼ完全にキ-66の流用であると言うのが定説である。ところが、日本航空機総集など世間に流布されている両機の主翼平面形はテーパー比やアスペクト比などが一見して異なっている。どうみても同一の主翼とは考えられない

ところが、日本航空機総集のデータを見ると、キ-44が全幅15.5mで主翼面積34m2に対して、キ-96が全幅15.57mで主翼面積は全く同じである。全幅の相違が僅かであることを考えると、同じ主翼を使ったと言うのは事実であろう。

それにしても土井技師は爆撃機と戦闘機の主翼に同じものを使うという、思い切ったことをする人である。土井技師が次々と設計をこなしていった秘密は、こんな合理性にもあろう。

 

ニ.溶接の開先

 「アナタノ知ラナイ兵器三」P67に航空機ではないが、こんな記述がある。米海軍のギアリング級駆逐艦について、「・・・強度確保と怪我防止に溶接開先(かいさき)が90度とそれ以下の箇所はアールをつけたさりげない気遣いも光る・・・」というのである。これは開先角度のことを言っているとしか読めない。

図に示したのはAとBの鋼板を180度の角度、つまり一枚板になるように溶接接合する、突合せ継手のX形開先の例である。

 

開先とはこの図ではX型に開いた空間を言うのであって、開先角度とは図の板Aと板Bの角度(図では180度)を言うのではない

 開先の角度とは図で矢印で示した角度を言う。この本の説明は、AとBの角度が90度以下の鋭角の開先角度では、溶接した板の角が尖ってしまうので乗員がぶつかると怪我するから角を削って丸みをつけている、と言っていると読める。つまり開先の意味を知らないのである。不思議なのは、開先と言う溶接の専門用語を知りながら、その意味を知らないことである。

 ちなみに「開先角度」とインターネットで検索すれば、開先角度の定義が説明されている。


万能機という無謀

2015-08-22 12:43:07 | 軍事技術

 ここはプラモのコーナーではありません。JSFという万能機計画が、いかに無謀かを見せるために、採用となったF-35(当時はX-35)のライバルだったボーイングX-32の不細工な姿を見せるためにプラモの写真を載せたのです。プラモの説明書によれば、JSF計画と言うのは、F-16、F/A-18、ハリアー、ジャギュアの4機種の後継機の開発計画です。少しでも、現代軍用機に知識があれば、この4機種が全く性格が異なるものか分かります。何せ、空軍の戦闘機、艦上戦闘攻撃機、垂直離着陸戦闘機、対艦対地攻撃機、とまあ、大雑把に言えばそんなものですから。それを1機のバリエーションで全部まかなおうと言うのです。

 そこで苦しんで苦しんでボーイングが設計したのが、このX-32です。会社は大真面目だったのでしょうが、素人目には、こんな不細工の極致のような機体が採用されるとは考えられませんでした。もちろん採用されたF-35も、只今大いに苦しんでいます。米空軍機を採用しなければならないことを運命づけられている、航空自衛隊もF-35の採用を決めましたが、価格が高騰して、一体どうなる事かと怪しんでいる専門家もいます。もともとこんな無理な計画をたてたのは、設計も共通部分が多く、共用部品も多くなるから、開発費も生産コストも大幅に削減できる、というものでしたから本末転倒です。

 米国やこの計画に参画した国の専門家のセンスはどうなっているのでしょう。空軍の戦闘機と艦上戦闘機とを兼用しようとしただけのF-111計画も、艦上戦闘機は不採用、空軍機も不満たらたらで短期間で生産中止。一番ましだったのは、予定外の電子戦専用機だったというざまです。結局F-14とF-15という別機を開発する羽目になりました。この損害は莫大なものになったはすです。

 余談ですが、不細工の極致、と言いながら、このプラモ完成してみると妙に可愛らしく愛着があります。最近は店頭にはありませんが、軍用機プラモマニアの方には製作をお薦めします。また小生米軍のF-22より不採用になったライバルのYF-23の方が好きで、1/72のキットのいいものを出して欲しいのです。最近48が出ましたが、巨大過ぎて手にあまりますし、昔2社が72を出していましたが、大いに不満がありました。


なぜ米軍は日本の艦船にスキップボミングを始めたか?

2015-07-16 14:50:02 | 軍事技術

 元々米軍は双発機以上の大型の機体による雷撃は、魚雷の投下場所まで直進しなければならず、しかも目標が大きいので対空砲火による危険が高すぎると見ていた。従って米陸軍も大型爆撃機に雷装はしなかった。しかし日本陸軍のように、はなから艦船攻撃を考慮していなかったのとは異なる。B-17などの陸軍の大型爆撃機による艦船爆撃も盛んにやったが、その場合も中高度以上からで命中率は悪くても、安全に攻撃していた。

 艦上爆撃機ですら、米軍は急降下爆撃によって、撃沈より損害を与えて敵艦の能力を減殺することを主目的としていて、撃沈の可能性が爆撃より大きいにもかかわらず雷撃機は、従の存在だったことからも、米軍は雷撃による被撃墜を考慮していたと推定される。

ところが戦争中期頃までに、米軍と比べると、日本の艦船の対空防御能力が著しく低いと見切ってしまった。しかし、今更爆撃機に雷装する改造を施しても、コストがかかるだけなので、爆撃により雷撃に似た効果がある、スキップボミングを採用した、という訳である。

爆弾は魚雷より遥かに安く、軽量である。しかも、魚雷より速度が桁違いに大きいから命中率が高い。舷側に命中するから、装甲の薄い艦船なら撃沈が可能である。。欠点のひとつは、海面を跳ねるように、爆弾を投下するのに技量を要することだが、魚雷とて、それなりの腕が必要である。欠点の最大のものは、波浪の高さによる爆撃実施不可能な場合があることと、一定時間飛行コースを維持しなければならず、対空砲火を受けやすいことである。

雷撃同様に、爆撃コースに入った時の対空砲火対策として、B-25などは艦船や地上攻撃用として、機首に機銃や大口径火器を固定して、銃砲撃しながら攻撃できるような型もあったから、艦船の対空砲火を制圧しながらのスキップボミングもできた。いずれにしても、スキップボミングが多用されたのは、駆逐艦などの小艦艇や輸送船など、元々日本の艦船でも防空能力と装甲がなきに等しいものであったからである。


書評・零式艦上戦闘機・清水政彦・新潮選書

2015-05-23 13:27:35 | 軍事技術

 他の本で名前を聞き、図書館で検索したら、この本が出てきた。類書は数えきれないだろうからと、期待をかけずに借りたが、予想に反して新鮮な視点から書かれていた。名の売れた航空ライターの常識にとらわれず、自ら検証している

 最大のものは、常識になった感のある、20mm機関砲の小便弾説である。20mm機関砲弾は威力はあるが、初速が低いので命中するまでに落下するために命中しにくいので、弾道が直線的なで命中しやすい7.7mm機銃をパイロットは好んだ、というのである。

 氏は簡単明瞭に「・・・たった200mばかりの射距離では、発射された弾丸が空中で『曲がる』ことなどあり得ない」(P93)というのである。小生などもそんな簡単な物理の問題に気付かなかった。

煎じ詰めれば、敵の後上方から角度を以て追撃し射撃すると、相手は前進するから、照準器の真ん中に敵を捕らえていると、少しづつ機首上げの運動になる。すると敵機に対して相対的に弾丸は下方に向かっているように見える。それが曲がって見えるのだ。7.7mm銃はパイロットの正面にあるから、同じ錯覚があっても見えにくい、ということである。

 

簡単な計算をしてみよう。水平に飛行する速度400km/hの敵機に対して、後方200mの距離から、水平に対し角度10度で降下しながら400km/hで攻撃に入り、照準器の真ん中にとらえていたとする。その瞬間20mm機関砲を初速600m/sで発射する。この時間を基準T0時とする。

以下次のように考える。弾丸がT0時の時の敵機の位置に到達したとき、前進してしまった敵機を相変わらず、照準器の真ん中にとらえ続けているとすれば、弾丸が照準器中の敵機のどのくらい下に見えるかを計算すればよいのである。

弾丸は初速プラス自機の速度で減速しないで200m移動するものとすれば、0.28s後にT0時の敵機の位置に到達する。その間に自機はわずか31mしか移動しないから、自機の降下角度は相変わらず10度としても誤差はほとんどない。簡単な幾何学計算をすると、敵機の下5.5mの位置に最初に発射した弾丸が見えることになる。

この間に実際に弾丸が水平軌道からどの位自由落下しているか計算する。計算は落下距離h、落下時間t、重力加速度をg=9.8m/s2とすれば

H=gt2/2

というのが物理の公式であり、h=0.38mとなる。この数字は「・・・この程度の時間では、ほとんど重力で落下することはなく」(P88)というのでもなく、案外大きいのだが、それでも実際の落下高さよりも15倍近く下に弾丸が見えるのだから、小便弾に見える原因は確かに目の錯覚である。降下角度を15度、20度と増やせば小便弾の錯覚は大きくなる。

 子供のころ、道路から数メートル離れて、走る車に粘土を投げたことがある。ど真ん中を狙ったつもりが、車に近づくと粘土は急に曲がって、車の後方に逃げてしまう。走っている車を目で追いかけてみるから、このような錯覚がおきる。本書の説明はこれとほぼ同じ原理である。子供も考えるもので、思い切って車の数メートル前に向かって投げたら、見事に当たった。怒った運転手に追いかけられ、田圃の中を友達と必死に逃げた、というのが落ちである。

 これも余談になるが、本書でまともに取り上げられた零戦のエースは坂井三郎だけであるが、岩本徹三という坂井よりもスコアが上だったに違いないエースがいる。彼は最初の空戦前から、50mの射距離による射撃を地上で練習し、初陣で実行したという。岩本は坂井と違い零戦の軽快な機動は使わず、優位な高位からの垂直に近い降下による、いわゆる一撃離脱に徹している。しかも20mm機関砲の破壊力を生かしたというのである。

 例えば500km/hで水平飛行する敵機に500km/hで垂直降下して、20mm機関砲を初速600m/sで50mの距離から発射すると、命中までに敵機は約9m進んでいる計算となる。100mからなら行く17m程度進む。敵前方を見越し射撃しなければ当たらないのである。岩本は操縦ばかりではなく、射撃もうまかったのである。

 本書には書かれていないが、零戦は軽快に機動して空戦していたばかりではない。支那事変では敵はI-15のような複葉機が多く、零戦より遥かに旋回性能が良いから、零戦の方が一撃離脱戦法を多用したという記録もある。岩本は一撃離脱戦法を支那事変で学習して身に着けたのであろう。特に高位からの攻撃に徹して、無理な攻撃せず、合理的な戦闘方法に徹していたことかが自伝で読める。本書で言う、カタログデータより運用次第で零戦も勝てる、という見本であろう。

 次は無線機が役に立たなかった、という常識である。「・・・軍はメーカーにその代金を払っている。もちろん使えない装備に予算を使うわけはない」(P94)という当たり前のことをいうのだ。だから納品時には使えないはずはないのだが、なぜか前線では全然使えない、と言われるのも事実である。

結局南方基地の超高温・超多湿環境で、進出直後故障してしまい、部品の供給ができない外地では修理ができなかったというのである。ソニーが戦後トランジスタ・ラジオを輸出したら高温多湿の船倉内でほとんどが腐食してだめになった例を挙げて証明にしている。以前、九六式艦戦の無線機はよく聞こえたのに、零戦のは全く駄目だった、という記事を不可解に思ったが、主として補給も整備もよい本土近くで使われていた九六式ならそうだったのかも知れない。

 また無線封止のため調整できなかったことや、周波数帯が狭く設定されていることに原因があったことから、運用のまずさがあったらしいことも突き止めている。それ以外にも、氏は空戦の敗因にも、運用のまずさが起因しているものが多く、初期には米軍もミスを犯していたが、次第に改善されていたことを指摘している。

 防弾装備については、米軍機も8mm厚の装甲だったから7.7mmには有効でも、13mm機銃弾に対しては終戦まで防弾しておらず、日本陸軍機と独軍機は対13mm装甲を施していた、(P181)というのであるが、陸軍機の場合には防弾板の有効性に優劣があったと言うことを米軍のレポートで読んだことがある。隼あたりでも防弾装備により、大戦後半では零戦より米軍の評価が良くなっていたそうである。

 本書は139ページ以降は戦闘についての描写がほとんどになっている。その中で一般的には、戦闘方法や作戦等の考慮や後方支援により、飛行性能よりも重要な結果がもたらされている、ということが強調されている。氏のいうように、日本の航空ライターはカタログデータにとらわれ過ぎているのである。

 ただ全般的には、小生の持論である、対空火器の効果の優劣がほとんど評価されていないのには疑問が残る。珊瑚海海戦の海軍の戦訓についても、この点の言及はないが、パイロットの記録には、対空砲火の凄まじさが書かれている。ただミッドウェー海戦の戦訓として対空砲火が極めて不正確で1000~2000mもそれていた(P221)と書かれている。また、ガダルカナルでも、米軍も食料が尽きかけ、重火器もほとんどない、という状態の危険な時期があった(P240)と述べられているが、海軍の航空攻撃と陸軍の攻撃との連携のなさについては言及されていないように思われる。

 ミッドウェー海戦については、簡単に述べる、と言っている割には陸上機と艦上機の連続攻撃について時系列的によく整理されている。これを読めば、いくら防空隊が連続攻撃をうまく排除し続けたとしても、日本艦隊はいつかミスを犯して、致命傷を負う確率大であると納得できる。巷間では作戦がばれていたことや索敵がお粗末だったことばかりがいわれているが、ミッドウェー攻略は土台強襲だったのであって、リスクは元々大きかったのである。米軍の上陸作戦が艦艇、航空機ともに圧倒的優位な条件で戦っていたのに対して、ミッドウェー攻略では航空戦力ですら日本軍の方が劣っていた

 最後に「紫電改」にも負けない活躍(P343)と書かれている。氏の言うように巷間の紫電改伝説はあまりに出来過ぎなのであろう。紫電改は優秀ではあったとしながら「・・・集団戦では飛行性能と戦果は直結しない。戦果を決定する要素は、運用・戦術とチームワーク、そして火力。」として五二型丙では火力では紫電改に劣らなかったので、戦い方次第では新型機と同等かそれ以上のスコアを上げることができた、と述べているのが本書の結論なのである。

現に隼Ⅲ型や五式戦なども、カタログデータは圧倒的に米軍機に劣っているが、使い方次第では米軍機に優位に戦っている。恐ろしく鈍足のはずの隼で檜与平氏は低空で逃げるP-51を追いかけ回して、逃がさず撃墜している。いずれにしても従来の航空ライターにない視点は実に面白い。


書評・零戦と戦艦大和・文春新書

2015-05-10 15:00:39 | 軍事技術

このブログに興味を持たれた方は、ここをクリックして、小生のホームページもご覧下さい。ブログより内容豊富ですので。

 ありがちなタイトルだが、案外他にはないようである。九人の論者の討論形式である。タイトルにふさわしいと思われたのは、前間孝則、戸高一成、江畑謙介、兵頭二十八の四氏であった。小生は普通は半藤一利氏は忌避するのだが、本書では比較的まともなことを言っている。 

◎勝てるはずだったミッドウェー(P54)

 重巡・筑摩からの索敵機が米機動部隊の上空を飛んだが、索敵の原則に反して雲上を飛んで見逃し、有名な利根四号機が帰りに発見して初報を出した。秦氏に言わせれば、雲下を飛んでいれば勝てた、という。確かに米雷撃隊は、護衛戦闘機を連れずに行って、零戦にほとんど撃墜されて戦果皆無であったなど、当時の米軍の攻撃は勇敢だったが拙劣であった。

だが急降下爆撃隊は判断も適切であった。珊瑚海海戦の結果を見れば、零戦の強さは別として、米海軍は対空防御は強く攻撃も積極的であった。珊瑚海海戦は祥鳳が滅多打ちで沈没、ヨークタウンと翔鶴が中破し翔鶴は戦列を離れたが、ヨークタウンは飛行甲板を修理して戦線に留まった。瑞鶴はスコールに隠れた幸運で助かった。レキシントンは被害は大きかったが、戦闘航海に支障のなかったのだが、ガソリン誘爆という不運で沈没した。

そして日本艦隊はポートモレスビー攻略を放棄した。この戦訓から考えられるのは、双方で攻撃隊を出して交戦していれば、日米叩き合いで同程度の被害を出したであろう。そこに陸上機が日本艦隊に襲い掛かっていたら、日本の大敗である。いずれにしても、ミッドウェー攻略は放棄したのに違いない。

先制攻撃しても必ずしも米艦隊には勝てない、という傾向は既に珊瑚海海戦からあったのである。搭乗員の損失は日本側の方が少ない、ということを澤地久枝氏が検証している。しかし日本が全力で先制攻撃できなかったからそうなったのであって、攻撃していたら搭乗員の被害は惨憺たるものになったであろう。

マリアナ沖海戦では、米軍は先制攻撃せずに待ち構えた。これは仮説だが、米軍は自軍の防空能力に自信を持っていたばかりではなく、ミッドウェーの戦訓から日本艦隊も米軍程ではないにしても、それなりの防空能力があるから、先制攻撃すれば攻撃隊に、かなりの被害を受けるだろうと判断したのではあるまいか。現に南太平洋海戦も、もろに叩き合いになったが撃沈戦果だけは日本の勝ちである。

しかし、搭乗員の被害は甚大であった。以上閲するに、巷間言われるようにミッドウェー海戦は、索敵が適切で驕慢さがなければ勝てた、というのは妄想である。単にこれらのミスは空母全滅という、一方的敗北というさらにひどい結果を招いたのに過ぎない。現に作戦前の図上演習でも日本軍敗北という予想が出ていたのに連合艦隊司令部、すなわち山本五十六以下は強行したのである。 

◎勝つために必要な覚悟(PP113)

 福田和也氏がドイツの暗号を解読に成功したので、コヴェントリー空襲の日時を正確に知っていたにも関わらず、避難命令を出せば暗号解読がばれる、というのでチャーチルはコヴェントリー市民を見殺しにしたという、比較的有名なエピソードを語っている。それに反して日本では平時の論理を戦時に持ち込んで、人事でも戦略でも失敗したというのである。特に山本五十六の人事は日本的である。ミッドウェーの敗北の責任も取らなかったばかりか、部下にも情けをかけすぎている。その癖黒島人という異常な人物を好んで使っている。情実が客観的判断に遥かに優先されているのである。

 

◎エリートがパイロットに(P155)

 父ブッシュは名門出身なのに真っ先に海軍に志願して二回も日本軍撃墜されている。ブッシュはアベンジャー雷撃機のパイロットで撃墜され、同乗者は戦死したとは聞いたが、二度も落とされているとはしらなかった。だから「・・・日本では、中学にも行けないような貧しい人々が兵隊としてパイロットになり、逆に学徒動員が悲劇として語られる文化です。本当は悲劇ではなく、ようやく欧米並みになっただけでしょう」というのが真実である。

 後年大統領になった人物では、ブッシュは撃墜され、ケネディーは撃沈され後遺症を負い、ジョンソンだったと思うが、B-26に乗っていて、撃墜王坂井三郎機に発見されて撃墜されかけた、というエピソードがあるが、米軍記録によれば、その時ジョンソン機はエンジン故障で引き返したということになっている。フォード大統領も志願し、太平洋戦線で軽空母に乗り組んでいて、台風の被害で危険な目にあっている。これらは全て対日戦であり、欧州戦線ではこのようなことはなかった。やはり対日戦は米国にとっても熾烈だったのである。

 ちなみに、後の大統領で、若かりし頃第二次大戦の前線に居た経験がある者は、ケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォードの四人であるが、いずれも太平洋戦線であったのは偶然であろうか。将来のエリートは楽な大平洋戦線に配属されたとは言えまい。そのうち二人は戦死してもおかしくなかったのだから。

◎造船と航空産業の差(P179)

 兵頭二十八氏が堀越氏の「零戦」を読んで烈風の誉エンジンのプラグが汚れてうまく動かないのは、ガソリンのオクタン価が低いからだ、と書いてあったことに初歩的な疑問を感じた、というのである。プラグが汚れる原因には、ピストンリングやシリンダーの工作精度が低かったことによる、外部潤滑油の混焼もあったのではないか。

 とすれば堀越推薦のMK9Aエンジンでも同じことが言えるのではないか。堀越氏は、実際のものつくりの最前線や量産ラインを知らずにいたのではないか、というのである。一般的には堀越氏が生産現場に通じていない、というのは言えると思う。ある機械設計者に聞いたのだが、工場に製作図面を出すと、こんなもの作れるかと突っ返されることが、ままあったというのである。

 図面上では書けるが、溶接しようとすると、そこに手が入らないようなことが、あるのだそうである。設計者はこうして鍛えられているのだが、機体の設計者がエンジンの生産ラインに通じている、というのはトレーニングの場がないので困難であろう。またシリンダー内に潤滑油が入り込み混焼するのは、程度の差があれ避けられないことである。

 ピストンリング等の精度が悪ければ、混焼がひどくなるのも当然である。しかし、その潤滑油というのはクランクケースに貯められたものであって、「外部潤滑油」という別なものを想定しているのか意味不明である。別の著書で兵頭氏は、レシプロエンジンにはオクタン価というものが大切なようです、という明白な間違いを書いている。オクタン価の意味を知らない兵頭氏が堀越氏の意見を批評するのも異な気がする。

 小生は、さらに堀越氏の説明を兵頭氏より深読みしたい。オクタン価が低すぎるガソリンで運転すると、エンジンはブースと圧等の使用制限をしないとノッキングにより使えないので、性能が下がるのは当然である。加えて堀越氏が低オクタン燃料でプラグが汚れてうまく動かない、と言っているのは、使用制限による性能低下に加えて、異常燃焼によるプラグの汚れによって、さらなる性能低下をもたらす、と言っているのではなかろうか。とすれば堀越氏は使用現場を知っているのである。

 ◎後継機ができなかった(P178)

 ここでも兵頭氏はの高高度爆撃機を迎撃するエンジンは、空冷ではだめで液冷が必要である、という持論を言っている。しかしP-47のように空冷大馬力のエンジンに高高度飛行用の排気タービンをつけて成功した例は珍しくない。むしろ多気筒化による大馬力化が可能なエンジンは、空冷の方が作りやすい。なるほど液冷は冷却は確実であるが、V型12気筒が限界で、24気筒にするためにH型、X型、W型というエンジンが試みられているが、成功例は稀であり、皆例外なくトラブルにあっている。

 それでは、V型14気筒ならば、というがエンジン配置には振動に対するバランスが必要であるのと、クランクシャフトが長くなり過ぎて精度が確保できないのである。V型12気筒のシリンダ容積を増やせば良いのだろうが、冷却に必要なシリンダ面積は寸法の二乗に比例し、発熱量はシリンダ容積だから、寸法の三乗に比例する。つまり発熱に見合った冷却可能な限界が存在するのである。当時の液冷エンジンは、当時の技術水準で冷却可能なシリンダ容積の限界に達していたのである。

 本書の兵頭氏は、いつもの冴えが見えない。アイオワ級は33ノットまで出るのに、大和は27ノットしか出ないから高速空母艦隊に随伴できない(P119)、と言ったのを清水氏に、サウスダコタ級は同じく27ノットだったが、必死に空母について行っているから、作戦次第だと反論されている。その通りであろう。一体空母が全速を出すのは発艦作業するときなのだから。

米海軍で33ノットが出せたのはアイオワ級4隻だけで、ノースカロライナ級、サウスダコタ級6隻だけが27~28ノットであり、その他大勢は23ノットがやっとの鈍足だった。ただし、大和級とアイオワ級の対決となった時の速度差は、間合いの主導権を取られたであろう、という指摘は正しい。一体東郷艦隊は、優速と比較的小口径の多数の砲の、多量の射撃でバルチック艦隊を撃破した。

日本海軍はその後の大口径砲の威力の魅力に負け、常に保っていた米艦隊よりの優速というセオリーを放棄した。そもそも大和が30ノットを放棄したのは大口径砲搭載の他に、主機の温度と圧力が低く、小型で高出力の主機を設計できなかったことにある。その原因はひとえに技術力の差と言うしかない。


書評・知られざる空母の秘密

2015-05-03 13:55:50 | 軍事技術

◎艦上機と艦載機

 艦上機と艦載機の違いについては、流石に正確に書かれている。以前航空雑誌にも書いてあったが、曖昧だったと記憶している。要するにこの区別は日本海軍によるもので、艦上機は空母で使うもの、艦載機は戦艦その他の空母以外で運用されるもので、一般には水上機であるということである。

 ただ現代では、ヘリコプターやVTOLなどが登場し、強襲揚陸艦などのように空母の姿をしているものなど、艦種も曖昧になっているので、艦上機と艦載機と区別を厳格にする意味がないので、この本では全て艦載機と称するとしている。

 それでも疑問に思われることはある。例えばF-14トムキャットは日本では艦上戦闘機、と呼ぶのが一般的である。艦載機と言ってもおかしくはないが、艦載戦闘機とは言わないだろうと思うが、枝葉末節のことだろう。

 また、戦時中の報道では新聞でもラジオでも、「敵艦載機が・・・」と呼び慣らされていて、艦上機という言葉は使われていない。まさか水上機が本土空襲をするはずがないから海軍用語から言えばすべて艦上機である。その影響もあってか、国語的には艦上機も含めて、全て艦載機と呼ぶのが一般的であろうと思う。

これは小生の推測だが、海軍の広報担当が、プレス発表するとき、艦上機と知っていても、国語的に分かりやすいと判断して、あえて艦載機と言ったと思われる。それで艦載機という言葉が定着したのであろう。

 ◎艦橋が右舷にある理由

 不思議に思ったのは、本書には空母の艦橋が右舷にある理由が書かれていないことである。そもそも空母は一部の例外を除き、艦橋が右舷にあることすら書かれていないようなのである。右舷にある理由は簡単で、レシプロエンジンのプロペラは前方に向かって時計まわり回転するので、トルクで機体が左方向に進みたがるから左舷に艦橋があると危険なのである。ところが国内で刊行されている出版物で、そのことを書いたものを見たことがない。

 そこでホームページにも書いたが、同じ趣旨のことを「世界の艦船」に投書したら採用された。同誌の編集関係者にも意外だったのであろう。