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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

米海軍のゲリラ戦法

2016-07-25 13:18:03 | 大東亜戦争

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 大東亜戦争の緒戦、日本の空母部隊が、ハワイ、インド洋で我がもの顔に行動していた時、戦力が劣ると見下されていた米海軍は、指を咥えて見ていたわけではなく、日本海軍の隙をついて、ゲリラ戦で戦果を挙げていた。そのことが以前紹介した「凡将」山本五十六に書かれている。(P107)長くなるが引用しよう。

昭和17年のことである。二月一日早朝、日本防衛戦最東端のマーシャル諸島が、米空母エンタープライズとヨークタウンの艦載機に猛烈な空襲をうけた。さらに、同部隊の重巡洋艦は、艦砲射撃まで加えてきた。・・・司令部はクェゼリン島にあったが、この奇襲によって大損害を受け、司令官八代祐吉少将も戦死した。

 二月二十日には、空母レキシントン、重巡四、駆逐艦十の機動部隊が南東方面最大のラバウルに空襲をしかけてきた。ラバウルからは、中攻十七機がこれらの攻撃に向かった。しかし、敵の対空兵器と戦闘機のために十五機が撃墜され・・・大損害を受けたのである。わが中攻隊には護衛戦闘機が一機もついていなかったのがその最大の原因であったのであるが、大型の陸攻が雷撃を仕掛けて、容易に対空砲火の餌食になったことも原因である。マレー沖海戦で、英戦艦が二隻もいながら、中攻をわずか3機しか撃墜できなかったことと比較すると、米海軍の対空火器は威力があったのである。援護戦闘機も含めて、総合的に米艦隊は、防空能力が優れている、という戦訓を日本海軍は得られないのである。。

 二月二十四日には、空母エンタープライズ、重巡二、駆逐艦六の機動部隊が、昨年末に占領したウェーク島を、これ見よがしに襲撃してきた。艦載機による空襲と重巡による艦砲射撃であった。

 超えて三月四日には、同じくエンタープライズの機動部隊が、傍若無人に南鳥島にも空襲をしかけてきて、日本側に相当な損害を与えた。

三月十日には、空母レキシントンとヨークタウンの起動部隊が、ニューギニア東岸のラエ、サラモア沖の日本艦船に、約六十機で空襲をしかけてきた。軽巡夕張が小破し、輸送船四隻が沈没、七隻が中小破という大損害を受けた。日本海軍の対空火器は、またしても何の役にも立たなかったのである。

 千早正隆は、その著「連合艦隊始末記」・・・で、米機動部隊について、次のように書いている。

-アメリカが守勢の立場にありながら局所的に攻撃を取る積極性、その反応の早さ、その作戦周期の短さ、その行動半径の大きさ等については、何らの注目の目を向けなかった。それらについて、真剣な研究をしたあともなかった。

 ただこれら一連のアメリカの空母の動きから、日本海軍の作戦当局が引き出した一つの結論は、首都東京に対する母艦からの空襲の可能性が少なくないということであった-

 本来ならば、南雲機動部隊がこれらの宿敵をどこかの海面に誘い出して撃滅すべきであった。その最も重要な目標に向かわず、やらずもがなの南方のザコ狩り作戦に出かけて、長期間精力を使い減らしていたのである。

 

 というようなものである。千早の言うザコ狩りとは、昭和十七年早々に南雲部隊が、インド洋などに出かけて長躯小敵を求めて航走し、大した戦果のない割に将兵を無駄に疲れさせたことである。日本海軍は緒戦の勝利に驕慢し、強敵米国と戦っていることを忘れていて、開戦時の緊張感を失っていたのは、多くの識者の指摘する所である。

千早氏の指摘もどうかと思う。結局艦隊を使うのは、作戦目的を果たすためであって、敵艦隊の撃滅は作戦目的達成の手段である。千早氏も結局敵艦隊を誘い出して撃滅すべき、などというミッドウェー作戦のようなことを言っているのに過ぎない。常に日本海軍の首脳の考えは、日本海海戦の結果から敵艦隊を撃滅すること自体が、作戦の目的であった。

日本の機動部隊が「南方のザコ狩り」をしたのは、米国に勝つために次にどんな作戦をすればよいか、アイデアがないため、暇つぶし作戦しか、参謀連中が考えられなかったからである。その上戦線を際限なく拡大していった。もちろん、日本海海戦はバルチック艦隊を撃滅させること自体が目的ではなかった。ウラジオストクに入港して、その後の対日戦を有利にしようとやってきたバルチック艦隊を、できるだけウラジオストクに到着するのを阻止しようとしたのである。艦隊決戦自体は結果的に生起したのであって、目的ではない。

 米軍の方はマリアナ沖で日本空母部隊を殲滅したのは、マリアナ諸島を攻略し、B-29による本土攻撃の基地を得る作戦行動の結果であった。B-29の基地は、本土空襲を行い日本を屈伏させるためであった。事実上連合艦隊が撃滅されたフィリピン沖海戦も、米軍のフィリピン攻略のために生起したものである。

 千早氏の考えは、主力艦が戦艦から空母に切り替わっただけで、作戦目的が艦隊決戦であることに変わりはない。日本海軍は空母による東京空襲を恐れたと言うが、これは生出氏が言う山本五十六の世論恐怖症である。なぜなら、この時点で空母による散発的な空襲を受けても、ドーリットルの東京初空襲と同じで、戦術的な効果は皆無であり、心理的なものであった。日本海軍がゲリラ的な米機動部隊による攻撃から、米空母による東京空襲しか教訓を得なかったというのは、かくのごとく意味を為さないものだったのである。

 それより、米軍がこの間に米軍が動員したのは、エンタープライズ、ヨークタウン、レキシントンというわずか三隻であり、一度に最大二隻しか動員しない、という小規模なものであった。米軍は、日本軍の兵力が圧倒的である際には、敵の防備の薄い所を衝いて、散発的にゲリラ的な攻撃を仕掛けて戦果を挙げていたことが注目される。日本が敗色濃厚になった際にも、艦隊は正面からの全力攻撃しかせずに、一気に殲滅されて行ったのとは異なる。

 他にも米軍のゲリラ攻撃で、得るべき戦訓はある。前述のように、米艦隊の防空は強大であるのに、日本海軍の対空火器は無力であったこと。陸攻による雷撃は被害多くして効果少なき事。空母護衛のため米海軍が重巡しか随伴しなかったのは、当時の米戦艦は21ノットしか出ず、空母と行動を共にするには不適であったことで、27ノット~33ノット出る新戦艦はまだ就役していなかった。新戦艦が就役したら、米空母部隊の威力は絶大になるはずだった。ゲリラ攻撃は空母艦上機によるものばかりではなく、重巡の艦砲射撃も加えるという、その後も米軍が行った、ミックス攻撃であった、ということである。日本艦隊はミッドウェーでも基地攻撃には空襲一辺倒で、ヘンダーソン飛行場攻撃では、空襲はなく、砲撃だけによっている。空母による空襲は重巡に比べても、時間当たり投射弾量は少ない。まして戦艦なら桁違いであるが、何せ航空機に比べると射程が少ない。ミックス攻撃による相互補完のメリットは大きい。空襲プラス、艦上戦闘機による制空権確保の上での戦艦重巡による艦砲射撃、という攻撃を米軍は初期から活用したのであるが、日本海軍にはその知恵はなかった。


書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・補遺

2016-06-25 15:25:20 | 大東亜戦争

 前回の本書に関して書き残したことがあるので追加したい。ガダルカナルの飛行場は昭和17年8月4日に完成したとして、設営部隊から「滑走路完成 諸般の事情から考えすみやかに戦闘機の進出を必要と認む」と発信され、ラバウル司令部は翌日零戦12機をガ島に進出させた(p97)。

ところが6日に進出した零戦隊の隊長は、居住施設があまりにお粗末なので、任務に差し支えるから施設が完備するまで、ラバウルに待機するとして帰ってしまったというのだ。常時米軍機の監視下にあるあるガ島飛行場は、いつ空襲されてもおかしくないのに「寝場所がよくない」というだけで900キロも後方に帰ってしまうのは、重大な命令違反である、と慨嘆する。

 深井氏は、このエピソードは他の戦記には記録された例がない、としている。米軍のガ島上陸作戦開始は8月7日、すなわち零戦隊がついた翌日と言う、きわどいタイミングであった。ミッドウェーの敗北の後なのに、日本軍の士気がいかに弛緩していたかを証明するエピソードである。零戦隊はあっという間に上陸米軍に蹂躙壊滅させられていただろうから、結果に変わりはない、という問題ではない。

 次の問題は前回示した雑誌「丸」の記事である。レイテ沖海戦特集として、栗田艦隊の反転は、止むを得ずとする記事(Aと呼ぶ)と栗田艦隊は単に逃げたとする、深井氏や小生と同じ考えの記事(Bと呼ぶ)のふたつが掲載されている。

 特に記事Aを批評してみる。「・・・栗田艦隊は小沢艦隊が米機動部隊の誘因に成功したことを十分に認識していなかった。このためもあり、彼らはサマール沖で遭遇した護衛空母を正規空母と最後まで認識していた。」深井氏によれば、大和では旗艦が大淀に変更したことにより、囮作戦誘導成功と判断できた。しかも、大和には我空襲を受けつつあり、という小澤艦隊からの情報もあった。

 まさか小澤艦隊は「囮作戦成功」などというずばりの無電を発するはずはないから、これらの無電から囮作戦成功を判断するしかない。しかも大和司令部と栗田司令部は別組織で、栗田司令部にだけ情報が行っていないかのように言われる。これはおかしい。深井氏によれば、栗田司令部はこの時大和艦橋にいたから、大和の受信無電も共有していたはずである。

大和の通信科の受電情報を栗田司令部が共有していないことはあり得ない。あり得るとしたら、栗田司令部は、旗艦変更の大和通信科の情報が都合悪いので黙殺したのである。また大和艦橋にいた栗田司令部は、沈没しつつあった護衛空母を間近に見ていた。艦形図などで米艦艇の識別訓練をしていた軍人たちが、わずか300mの眼前の空母を正規空母と誤認していたとしたら、無能力の極みである。

 Aでは第一次大戦でフランス野戦軍を撃破できれば、パリは容易に陥落したことを例に挙げて、敵艦隊主力を撃破すれば、米軍のレイテ侵攻を頓挫させる可能性もあるだろう、としている。筆者は三川艦隊が米艦隊を撃滅しながら、ガ島上陸の米船団を攻撃しなかったために、その後の米軍の跳梁を阻止できなかったことを知っているであろう。

 敵主力艦隊を撃破するのも重要かも知れないが、上陸船団と米上陸部隊を栗田艦隊が、攻撃しなければ、誰が攻撃するというのであろうか。確かに栗田艦隊は全滅したかもしれない。それと引き換えに、少しでも米上陸部隊に被害を与えるのが任務だったはずである。

 Aでは、どうしてもレイテ湾に突入すべきだったという主張は「有力な艦隊を全滅させても作戦目的を実現すべきだと言う、合理性と狂気の共存する発想のように思える」と指弾する。それならば、小澤艦隊全滅を前提で囮にして、栗田艦隊に米上陸部隊を攻撃させる、という捷一号作戦自体を、最初から否定しなければならないのである。

 A論文は、ろくに搭載機のない空母群を犠牲に、栗田艦隊の成功を期する、という小澤部隊の行動は始めから徒労だったと言っているのである。B論文では、ジブヤン海の対空戦闘でレイテ湾突入の予定時刻が遅れることとなったにも拘わらず、なぜ西村及び志摩艦隊に予定時刻の変更を指示しなかったかと、疑問を呈している。

 Bでは「うがった見方をするならば、同時突入による戦果拡大を狙うのではなく・・・偵察機によりレイテ湾に所在が判明した敵水上部隊を西村・志摩両艦隊に向けさせておき、我にその脅威を及ぼさないよう離しておくつもりだったのではともとり得るであろう。」とまでいう。

 だが、栗田司令部が偽電をねつ造までして逃亡した、という事実が判明した以上、この見方も真実味を帯びてくる。西村艦隊は任務を確信して絶望的な進撃をし、わずかな生存者しか残さず全滅したのに、である。マリアナ沖海戦で、空母航空戦力を喪失し、残りは航空支援の期待できない有力な水上部隊でフィリピン戦を支援するしかない、連合艦隊最後の組織的作戦だと軍令部は判断していたのに違いない。

 現にその後は、帰還した艦艇は瀬戸内海で次々と米艦上機の攻撃で無力化されて、組織的作戦行動をとることができていない。何のために大和は生還したのだろう。大和と乗組員は、戦果を期待されず水上特攻として死にに行かされた。レイテ湾で沈没した方が、まだ米軍に被害を与える可能性はあったのである。

 


書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社

2016-06-18 18:18:37 | 大東亜戦争

書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社

 レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎の反転について、当事者であった著者が明白な結論を出している、貴重な証言である。深井氏は単なる一乗組員ではなく、「『大和』の兵科将校のうち、軍令承行令に定められた『大和』の指揮権を継承する資格のある士官(P258)」だった。

つまり艦長以下が次々と死傷して、指揮能力を失った時に、大和を指揮する軍人の順番が規定されている。深井氏は、その序列に含まれる重要な士官だった。だからこそ、謎の反転命令が下った時、驚いて艦橋に走って、栗田中将、宇垣中将以下の艦隊司令部におけるやりとりの一部始終を目撃したのである。そこで深井氏が見たのは宇垣中将が誰に言うでもなく「南に行くんじゃないのか!」とただ一人繰り返し怒鳴っているが、他は無言である、という異様な光景だった。

深井氏の推測は衝撃的なものである。栗田艦隊の反転の根拠となった有名な「ヤキ一カ」電は栗田司令部の大谷参謀が捏造したものだというのだ。「ヤキ一カ」電とは、北方に敵機動部隊がいる、という情報電報で、栗田艦隊はこの機動部隊を追撃する、と称してレイテ湾突入を断念し、帰投してしまった。

しかも深井氏が抗議すると、大谷参謀は「敵 大部隊見ゆ ヤキ一カ 〇九四五」と書かれた電報を見せたが、発信者も着信者も記されていない、奇妙なものであった(P218)。深井氏が捏造と断言するのも当然であろう。しかも電報に記載されていたのは、通説で言われる「敵機動部隊」ではなく間違いなく「敵大部隊」であったという。

雑誌「丸」平成27年11月号「栗田は結局はいずれかの情報を理由としてレイテ湾突入を放棄して反転したであろう」と書いてあったが、深井氏の証言は、そのことを裏付けている。同じ記事に、「栗田司令部内での正確な状況は残念ながら今日に至ってはどこからか新たな資料でもひょっこり出てこない限り、直接の関係者の死去と共に永遠に未解明のままとなるであろう」と嘆いているが、深井氏の著書はまさにその、栗田司令部での内部の状況の直接の関係者の証言である。栗田が逃げたと言う真実は、ほぼ確定したのである。

証言を続けて聴こう。深井氏は大谷に「・・・さっきは追いつけないから敵空母の追撃をやめたんじゃないですか。追いつけると思っているんですか!?」と怒鳴り、喧嘩になったが、どうにもならない。空襲が始まったので、深井氏は持ち場の指揮所に帰ったが、司令部の決定が覆るわけもない。

深井氏は捏造説の根拠として、以下のことを証言する。まず、「ヤキ一カ」電は、各部隊の戦闘詳報、発着信記録などのあらゆる記録を精査しても、存在せず、栗田艦隊司令部だけにある不可解なものである。大和は通信施設が充実しており、50~60名の要員がいる。さらに大和には、栗田艦隊司令部専用に同じ通信機器をもう1セット搭載しており、ヤキ1カ電はこの通信機器で受信していたということになっている。

しかし、栗田艦隊司令部は旗艦愛宕沈没のため、通信要因のうち、大和に移乗できたのは、15、16名しかいなかった。これに対して大和の通信科は優秀で、敵潜水艦の通信を楽々傍受していたと言うほどだった(P222)。これで大和の艦内に、栗田艦隊司令部の通信科と「大和」通信科が別個に独立して存在していたことの意味が分かる。

大和通信科の機材と通信要員以外に、栗田司令部用の別の通信機材がワンセットあって、これを愛宕から移乗してきた栗田司令部の通信要員が使用していたのである。だが栗田艦隊司令部の通信能力より遥かに充実しているはずの大和通信科は「ヤキ一カ」電を受け取っていない

だから捏造なのである。大谷参謀は飛行機からの発信と主張したのに対して、深井氏らは「大部隊は我々のことで、飛行機乗りは新米だから見間違えたんです」と反論したが、大谷は「そんなバカなことはない」と言ったきり黙ってしまった(P224)。大谷参謀はさらに嘘を重ねて、嘘をつきとおしたのである。ということは、丸の記事のように機会を見て逃げ出そう、というのは単に栗田個人ではなく、栗田司令部の総意だったのに違いないのである。

一般には栗田艦隊司令部は、小澤艦隊の囮作戦成功を受電していなかったから、作戦成功か否か不明だったと言われている。しかし「小澤艦隊については、『旗艦を軽巡『大淀』に変更』との電報から、空母が沈められた代償に囮任務をまっとうしたと私は確信していた(P217)」というのだからしようもない。当初の小澤艦隊の旗艦は空母瑞鶴である。囮作戦成功の判断はできたのである。

さらにばかばかしいのは、栗田艦隊はサマール沖海戦の空母が護衛空母に過ぎなかったのを正規空母と誤認していた、というのも嘘だった可能性が高いと言うことである。「置きざりにされた『大和』『長門』は・・・各部隊に合流すべく一路東南東へと走り続けていたが、途中『大和』の砲撃を先刻受けた空母『ガンビア・ベイ』を300メートルほどの近距離に見ながら通過する場面があった。(204)」

沈没寸前だったが、「この空母は商船を改装した護衛空母であることは一目瞭然たる事実であって・・・この空母集団は護衛空母集団であることは容易に推察できたのである。」正確には、ガンビア・ベイのカサブランカ級は初めて最初から護衛空母として建造されたものであるが、それまでの型は全て商船等を元に空母になっているから、深井氏の認識はほぼ正しい。少なくとも正規空母ではない、ということは分かるのである。そう考えれば、航空支援のない栗田艦隊に、空母が補足されてしまったという、間抜けな米空母部隊の状況は、栗田司令部でも納得できたはずである。

蛇足をふたつ。武蔵の猪口艦長は、他の艦とは違い、敵機は対空射撃で墜せるから、対空射撃の妨害となる転舵を極力避けたために、初期被害が大きくなって、被害担当艦になってしまった(P189)という。小生は他の資料でも同じ意見をみたが、逆にそんなことはなかった、という資料も見た。真相はどちらであろう。

射撃盤の構造である。氏は大和の副砲長であったが、砲撃のデータは「数万個もの歯車を用いたアナログコンピュータである射撃盤」が処理する(P134)。つまり日本海軍の射撃盤は機械式のコンピュータだったのである。主砲の射撃盤もそうだったのであろうか。

世界初のコンピュータは弾道計算のために作られたアメリカのENIACであると教わった。終戦直後に完成した真空管式のデジタルコンピュータである。しかし、それ以前にも米国にはデジタルコンピュータの萌芽はあったという。またデジタルコンピュータ以前に電子式か電気式のアナログコンピュータはあったはずである。

従ってコンピュータ先進国の米国の戦時中の射撃盤には、電子式ないし電気式のアナログコンピュータは、部分的にでも使われていなかったのであろうか、というのが目下の疑問である。少なくとも機械式よりは、遥かに演算速度や精度も良いと思われるからである。


十二月八日の記

2016-06-09 16:31:59 | 大東亜戦争

 大東亜戦争が始まったとき「これは大変な事になったと不安に思った」あるいは「アメリカのような大国と戦って勝てるわけがないと考えた」という文章は現在では珍しくないが、これは大方嘘である。

 もう散々このコラムでは「大東亜戦争」という言葉を使っているので抵抗はないと思う。実は私自身も子供のころ、両親が大東亜戦争と言っていたので、何と古臭いと思っていた。しかし、正式の呼称としてはこれが正しいことを理解してからは、自ら洗脳したのである。だから今は、太平洋戦争と言う言葉の方に違和感を感じるまでになった。

 今ではよく、知られているように「太平洋戦争」というのは占領軍の検閲によって昭和二十年の秋頃から新聞やラジオを通じて普及された名称で The Pacific Warの直訳である。米国にとっては、この戦争は太平洋の覇権を争うという政治的意義があったのであるから、太平洋戦争とは米国の都合による名称である。米国が太平洋戦争と呼ぶのは勝手であるが、だからといって日本人が追従することはない。二国間の歴史的事件は双方の国で呼称が異なる場合の方がむしろ多いのである。

 ところで昔母に「戦争が始まったときにどう思ったの」と聞いた事がある。意外にも「ついに来るものが来た、と思って晴れ晴れとした気持ちがした」と言った。当時の小生には大いに意外だったので、忘れもしない。母は関東大震災の年の生まれだから当時十八歳位で、充分ものごとのわかる年齢であった。当時の世間の雰囲気はよくわかっていたのである。

 戦後に書かれた回想ではなく、当時刊行された新聞や雑誌などを見れば母の感想が例外ではなかったことは明らかである。

 例えば詩人の高村光太郎は開戦にあたって次のような文章を雑誌「中央公論」に発表している。当時五十八歳である。

 

「十二月八日の記」

 箸をとらうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行つてみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈といふやうな思ひもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によつて響きわたると、思はずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出たが、ひるがえつてこの捷報を聴かせたまうた時の陛下のみこころを恐察し奉つた刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。    (仮名遣は原文のまま)

 

 この文章の意味するところは明快であるが、戦後世代がこの感覚を実感するのは不可能に等しい。しかし、これは自然な感情の発露と解するより他ない。「軍国主義者」の脅迫で無理矢理書かされたものであり得ようはずはない。高村光太郎は他にも「彼らを撃つ」と題する、現在からみれば過激としか思えない詩も発表している。室生犀星、佐藤春夫、草野心平、太宰治、坂口安吾、高浜虚子その他、開戦に感動した詩や文章を発表した文人人士は数え切れない。

 余談だが、マレー沖海戦で、山本五十六は、英戦艦を二隻とも撃沈するか、一隻だけかで幕僚とビールを賭けた。山本には高村光太郎の「・・・私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出た」という精神はなかったのである。しかもこの時敵将フィリップ提督は自決して、乗艦と運命をともにしたのである。

 閑話休題。ところが戦争に負けると、何故か多くの日本人は開戦時から戦争には勝てないと思ったり、内心戦争に反対であったかのような言動をすることになった。学者や芸術家などで、戦後になって全集から戦争を賛美するような文章や作品を削除したり、目立たないように編集した人は多い。筆者が故人となってしまったために、後の編集者が削除などした例もある。「君死に給うことなかれ」で反戦詩人のように言われている與謝野晶子は開戦にあたって

 

  水軍の大尉となりて我が四郎み軍にゆくたけく戦え。

 

という短歌を発表している。反戦詩人というキャッチフレーズは後の世代により意図して作られたもので、晶子本人の本意とするところではあるまい。ちなみにフランス在住が長く、高名な藤田嗣冶は、戦時中帰国して、戦争画を多数書いた。それがたたって、戦後一転して世間から指弾され、嫌気がさしてフランスに戻ってフランスに帰化してしまった。藤田の戦争画を見て感動した人も、戦後指弾した人も同じ人物たちに違いないのである。ひどい話である。

 最後にクイズ。「天声人語」というコラムのタイトルは昭和二十年九月六日から復活しています。それまでの戦時中のタイトルは何といっていたのでしょう。

答え「神風賦

 


書評・最後のゼロファイター・井上和彦

2016-06-07 16:54:15 | 大東亜戦争

 最後まで生き抜いたエースの本田稔少尉の戦記物語である。痛快な話ばかりで、素直に読んでいただきたいが、意外な指摘をひとつだけ挙げる。海軍での体罰の話である。特に海軍の暴力による制裁は甚だしいと言われている。

 それについて、本田氏も「海軍精神注入棒」で尻を叩かれて気合をいれられた(P10)のだが「・・・こうした制裁は、士官連中のわかったような説教よりも打てば響くものがあり、リンチのような私的制裁とは全く意味が違うとのことだった。したがって、こうした体罰に対して反感を持つものはいなかったはずで、いたとすればそれは進路を誤った者であろう」とまで断言する。

 本田氏も戦後の多くの戦記が、ほとんど軍隊はつらく厳しいところだと実例で批判しているのを知っている。それに対して「・・・戦闘に参加してここぞ精神力という場面に出くわした。根性がなかったら命はいくつあっても足らなかったであろう。その根性こそこの予科練の間にみっちり叩き込まれたのである。」と反論している。

 命のやりとりをする軍隊の訓練が厳しいのは当然なのである。私見だが、軍隊の制裁を批判する者の多くが、大卒者ないし学徒兵であるように思われる。今より遥かに進学率の少ない時代の彼らには、無意識にエリート意識があり、制裁に反感を持ったというケースが多いように思われる。もちろん学徒兵にも勇敢な戦いをした者も多くいたことも承知している。

 父は旧制の中卒で出征したが、厳しい訓練に耐えられないのは、平素楽をしていたからで、百姓上がりの自分には少しも辛くなかった。今でも若者は一度は軍隊に行って根性を養うべきで、軍隊は金持ちも貧乏人も区別なく公平なところだと、どこかで聞いたようなことを言う癖があった。

 もちろん小生も、「注入棒」で骨折して一生まともに歩けない体になって帰省させられた兵隊がいる、という悲惨なエピソードも読んだことがある。西欧列強に囲まれて、日本は苦しい時代を生き抜いてきたのだ。既に戦後育ちの我々には、当時の厳しい世界情勢を実感できないのである。

 ひとつ苦情を言わせていただくと、イージーミスがこの手の本にしては多いように思われることである。一例だけ挙げる。昭和17年の8月から9月にかけて、日本の潜水艦が、米空母サラトガとワスプを雷撃し、サラトガは米軍によって海没処分された(P30)とある。沈没したのはワスプであり、サラトガは雷撃されただけで沈没してはいない。このことは、日米海戦史を少しでもかじっていれば常識なので、不可解なミスだと思った次第である。一体、井上氏はこの手の本を書きなぐっていて、編集者のチェックも甘いのだろう。

 


書評・日本戦艦の最後・吉村真武他

2016-05-21 16:22:03 | 大東亜戦争

書評・日本戦艦の最後・吉村真武他

 大東亜戦争に参戦した、十二隻の戦艦の最期を、乗組員が個人的体験をつづったものの集大成である。滅びゆく者の物語だから凄惨なことは致し方ない。

 ただひとつレイテ沖海戦の総括で、米海軍のハルゼー提督が戦訓として意外なことを語っているので、それを書くにとどめる(P54)。

 「この戦闘から学びえたもっとも重要な教訓は、海上を自由に行動する大艦隊を、飛行機だけで無力化するのは事実上困難である。」と。

 マリアナ沖海戦で、日本の空母航空兵力は壊滅し、本海戦に参加した4空母は航空戦力を持たない、囮そのものであった。米空母は栗田艦隊本隊、西村艦隊、小沢艦隊に自在に航空攻撃を加えた。それでも沈没した戦艦は、栗田の武蔵、圧倒的な米艦艇軍に正面攻撃を加えた、西村艦隊の二戦艦だけであった。

 日本側から言えば、目的である敵上陸船団の攻撃に失敗し、満身創痍になって柱島に帰投した、完敗である。だが、米側からしても、航空機が戦艦に勝つ時代になったと言われても、航空攻撃だけでの、大艦隊の殲滅がいかに困難かをかみしめていたのである。そのことを考えれば、マリアナ沖海戦時点はもちろん、フィリピン沖海戦も戦略の立て方はあったのであろう。戦略の間違いは戦術では補えない、という。冒頭のパルゼーの言葉に、敢闘した日本海軍将兵は以て瞑すべしであろう。


東條総理は真珠湾攻撃を承認していない

2016-05-03 14:12:41 | 大東亜戦争

  「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本は、フーバー元大統領の回顧録を中心に、ルーズベルトの失政により、ソ連に漁夫の利を得させ、東欧の支配など一連の戦後の悲劇を引き起こしたことなど、多くの有意義な内容がある。しかし、1点だけ看過できない間違いがあるので、それだけを指摘しておく。

 「真珠湾攻撃は、戦術的には大成功であったが、戦略的には取り返しのつかぬ超大失敗であった。これを立案実行した山本五十六と、これを承認した東条英機の”愚″は、末永く日本国民の反省の糧とならねばならない。(P170)」(藤井厳喜氏筆)とあるのだ。

 真珠湾攻撃の評価はさておく。図上演習ではそれなりの戦果は挙がるものの、攻撃部隊が全滅に等しい被害を受ける結果となって、軍令部内で猛反対が起きたのを、山本五十六が強引に実行したことは良く知られている。しかし、東條は、真珠湾攻撃を実行することすら事前に知らなかった、という説を読んだことがあった。

 そこで「東條英機宣誓供述書」で確認することにしたが、書架に見つからない。かなり以前に読んで、各項ごとに自分なりのメモを作っていたが、それも見つからない。そこで平成18年出版の「東條英機歴史の証言」(渡部昇一著)記載の宣誓供述書でチェックすることにした。ページ番号は本書による。

 昭和16年12月1日の御前会議で開戦の決定をし(P391)、開戦までの重要事項は(一)開戦実施の準備と(二)これに関する国務の遂行の二つである。ただし「前者は大本営陸海軍統帥部の責任において行われるものであって、」政府は統帥事項には関与できない。「唯統帥の必要上軍事行政の面において措置せることが必要なものがあり」これには陸軍大臣として在任期間における行政上の責任があるが、海軍に関しては陸軍大臣あるいは総理大臣としても関与できない。

 日本特有の統帥権独立の制度があり「・・・作戦用兵の計画実施、換言すれば統帥部のことについては行政府は関与出来ず、従って責任も負いませぬ。」これは戦前の日本の統帥制度を知る者には常識であり、東條にはそもそも真珠湾攻撃という海軍の作戦を承認する権限がないのである。だからタイトルは「東條総理は真珠湾攻撃を承認できない」と書くのが正確であろう。

 これで間違いの指摘としては十分であろうが、東條はいつ真珠湾攻撃計画を知ったのか。これは供述書の記載では不分明であるが、「開戦の決意を為すことを必要とした・・・之がため開かれたのが十二月一日の御前会議であります。(P378)」とある。

 渡部氏によれば東條は陸軍大臣在任中、大本営の会議に列したことは一回もなく、それではまずいというので、昭和19年になってようやく陸相と参謀総長を兼ねた、という。(P394)11月27日の連絡会議でハルノートに対する態度を決め、12月4日の連絡会議で外相から通告文の提示があり、「・・・取扱いに付いては概ね以下のような合意に達したと記憶します。(P396)」とあり、合意の内容が記載されている。

 その後に「真珠湾攻撃其の他の攻撃計画及び作戦行動わけても攻撃開始時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。・・・私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。」と書かれている。

東條は参謀総長から、非公式ルートで聞かされたのに過ぎない。従って東條が真珠湾攻撃計画を知ったのは、11月27日~12月4日の間位であろう。既に艦隊は真珠湾に近づいていた。時期から推するに、真珠湾攻撃計画決定はおろか、出撃時点でも何も知らなかったのであろう。権限からも時間的にも、東條が山本の「立案実行を承認した」ということはあり得ない。気になるのは藤井氏が「東條」ではなく「東条」と書いていることである。東條本人が気にする人物かどうかは別として、旧字でないのは変であろう。侮蔑的なにおいがするのである。実は小生も恥ずかしながら昔は「東条」と書いていた。しかし、旧字体が正しいことに気付いてからは「東條」と書いている。

また渡部氏は日本外交史の書を多く著している、岡崎冬彦氏が「戦争の勝負を別とすれば、東條さんは日露戦争の首相桂太郎より偉いだろうという主旨のことを言って」おられたのは卓見である、(P10)と書いている。現代人で東條をここまで評価するのを寡聞にして知らない。小生は日本の昭和史上の人物で、東條英機を昭和天皇の次に尊敬しているから、嬉しい評価である。


書評・蒼海に消ゆ・祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯・門田隆将

2016-04-17 16:21:34 | 大東亜戦争

書評・蒼海に消ゆ・祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯・門田隆将

 本論に入る前に一言する。門田氏は本書以外でも「大東亜戦争」ではなく、「太平洋戦争」と書くのを常としている。小生は太平洋戦争と呼ぶ日本人を、東京裁判史観の影響から脱し切れていないと判定している。氏は多くノンフィクションを書いているが、戦史が主ではないからかも知れないが、本書の内容が申し分ないものだけに残念に感じる。

 ところで、以前「神風特攻隊員になった日系二世」という本を読んだのを思い出した。改めて、その本を手にしてみると、著者の今村茂男氏こそがタイトルの二世で、自伝でしかも英語で書かれたものを、他の日本人が翻訳したものであった。今村氏は志願して特攻隊員になったものの出撃せず、人生を全うしている。

 本書の主人公は二十三歳で特攻隊員として出撃して戦没している。若くして亡くなりながら、短い人生をせいいっぱい生きたことがよく書かれているが、その点は読んでいただくしかない。そこで、本書に書かれた意外な情報を少しだけ紹介する。従って書評にはなっていない。主人公松藤と同じく日系二世で、日米の二重国籍を持つタンバラ氏は戦時中一度だけ特高警察に呼び出された(P171)。

国籍を聞かれるから「アメリカです」と答えると、親はアメリカに住んでいるのか、と聞かれ「はい、私はアメリカ人です。」と答えると、取り調べはそれで終わったというあっさりとしたものだ。戦後流布されている伝説からすれば、とてつもなく意外である。鬼のような特高警察なら、アメリカ人と知れば、厳しく取り調べ、その後も監視されるのであろうという想像をしがちである。我々はいかに、日本人に対する悪意に満ちた情報に囲まれているのか。

それどころか、タンバラ氏は戦時中に普通に東京に住み続けていたというのが、事実である。松藤は二重国籍の日本人として、学徒兵で徴兵されたが、アメリカ国籍である、ということで拒否することができたのだそうである。現にタンバラ氏は早稲田の経済に通っていたが、徴兵されていない。文系なので学徒の徴兵猶予の対象ではないのである。

二世の仲間から一緒に海軍に入らないか、と誘われると「何を言っているんだ、頭がおかしいんじゃないのか?」と答えたそうである。その後大学を出て日本の電機関係の会社に就職した。戦時中の日本人はかくもおおらかだったのである。米英では学徒出陣などと言う大仰なものはしていないが、それは自ら休学して志願した学生が多かったからである。彼等は強制されなくても、エリートの義務として自発的に出征したのである。

この意味で、米英の方がこの時代は、より軍国主義的だったのである。これは悪い意味で言うのではない。国民に総力戦と言う自覚ができていて、積極的に戦争協力したのである。アメリカが日系人を全員強制収容所に入れたのは知られているが、本書では「全部監獄に入った(P280)」と証言されている。

松藤の弟リキはアメリカ人だとして、強制収容所を出ることができ、ナイトクラブでミュージシャンとして働いたが、マネージャーが危険だからと「君は今日からディック・ウォングだ。君は中国人だ」と言ったそうである。リキは「お客さんは全部白人だし、私も日本人とバレたら怖かったよ(P281)」と証言した。日本国内の大らかさに比べ、米国内の人種差別のひどさが想像できる。

ちなみに先のタンバラ氏は、特高警察に調べられている。戦後では、一般市民を憲兵が取り締まるようなことが書かれたり、映画等になっているものがあるが、ほとんどは嘘である。憲兵はmilitary policeすなわち、軍隊の警察であるから、取り締まり対象は軍人である。特高警察に調べられた、というのは証言が事実であることの傍証である。

海軍兵学校出の宮武大尉や田中中尉は特攻の際に、自ら部下を率いて突っ込んでいった(P218)が、これは例外で、兵学校出でこのような人は少なかったという。それどころか、皆を送り出して自分は芸者遊びばかりして、あげくに戦後航空自衛隊の幹部になった兵学校出の人物さえいたという。

海軍兵学校出身の幹部に武人というより、官僚というにふさわしい人物を多く見かけるが、やはり兵学校の教育や選抜方法に問題があったのだろうか。鍛錬自体は相当に厳しかったはずであるが。もちろん山口多聞のように、武人と言うにふさわしい人物もいたのであるが。


書評・世界史から見た大東亜戦争_アジアに与えた大東亜戦争の衝撃・吉本貞昭

2016-04-02 14:57:45 | 大東亜戦争

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 副題から分かるように、大東亜戦争が、アジア各国に独立ばかりではなく、その後の国家にも与えた影響を各国ごとに詳しく述べている。類書もあるが比較的丁寧に書かれた方であり、辞書的に読むこともできるだろう。西欧列強の世界侵略のスタートから初めて、幕末から日露戦争までが、前史として書かれているのは、一見蛇足だが、全体の流れを考えると納得できる。

 そのなかで、いくつか初めて知ったことを紹介する。マゼランは太平洋を横断しフィリピンに達して、セブ島のマクタン島で原住民と戦って死ぬが、日露戦争以前で白人に有色人種が勝った、最初の戦いなのだそうである。そこでセブ島では、この日を記念して毎年「・・・マゼラン撃退の記念式典や模擬戦闘を行っているという。(P22)」いつから始まったか書かれていないが、アメリカ大陸「発見」などという言葉に最近異議が唱えられているのと同様、よい傾向である。

 日本は清国と朝鮮の独立と改革について争ったのだが、欧米列国の公使に対して、朝鮮の中立化のための国際会議を提案していたが、清国から琉球問題を持ち出されて、頓挫した(P84)というのだが、いい発想である。ただ、当時は清国の力が大きいとみなされていたから失敗したのであろう。日清戦争に勝ったから、この構想は現実化しそうだが、清国弱しとみたロシアが南下して来たのだから、日清間の調整がうまくいっても結局はダメになったのであろう。

 日清戦争の日本の勝利は、フィリピンの独立の闘士のアギナルドにも刺激を与え、日本の国旗や連隊旗を真似た革命軍旗を作って戦った(P97)のだが、日露戦争以前に日本の勝利に勇気づけられたアジア人はいたのである。

 司馬遼太郎が、乃木大将を無能よばわりしていたことが間違いであった、という説は最近定着しつつある様に思われるが、本書でも「第三軍が強襲法」をしたことで、無駄な戦死者を出したと批判する司馬に対して、乃木が坑道戦術に切り替えたのは、ヨーロッパで同じ戦術が広く使われるようになったのは、10年後の第一次大戦中盤からであったから、乃木の戦術転換は「かなり先進的なものであった(P112)」のだそうである。二百三高地などの映画でも、坑道戦術が描かれているが、画期的なものとしては描かれていないが、やはり戦史を確認しなければならないのだろう。

 シンガポールのファラパークで、五万人のインド兵に対して、F機関の藤原機関長がインドの解放と独立を呼び掛ける演説をしたが、INAを裁くデリーの軍事法廷で、弁護側が最も活用したのが、このファラパーク・スピーチであった(P244)のだが、インパール作戦とともに、インド独立にいかに日本が貢献したか、の証左である。インパール作戦が悲惨な面ばかりではなく、インド独立に貢献したこと大である、と日本で公然と語られるようになったのは、そんなに昔からではない。

 南機関はビルマ独立義勇軍(BIA)を編成して、日本軍とは別行動でビルマ領内に入ることを、第十五軍に協議したのだが、機関長はビルマで徴兵、徴税、徴発をしながら進むと主張した。軍はこれらは住民に迷惑をかけるからと反対した。BIAがビルマに入れば徴兵しなくてもどんどん人は集まると説得したが、徴発に対してはあくまで反対で、軍票をやるから勝手に徴発するな(P324)と言った。誠に日本軍は軍規厳正だったのである。

 大東亜会議は重光葵が東條首相に提案した、という事になっていると思う。少なくとも日本人自身の提案だったと考えられている。ところが本書によれば「・・・この国際会議は、東條首相がフィリピンを訪問したときに面会したマニュエル・ロハスの発案によるものであった。(P511)」というのである。これはチェックしてみたい。

 ちなみに不思議なミスが1か所ある。山下奉文将軍の名に「ともふみ」とルビをふってある。「ともゆき」と読むのであることは、大東亜戦史を少しでもかじったことがあれば知っている。だから筆者のミスではないかも知れない。ちなみに歴史書で、最近西郷従道の名前を「つぐみち」とルビをふってあるのを見て意外に思ったのと同じである。もちろん「じゅうどう」である。

 谷干城にも似たような話がある。戸籍上の名前は「たてき」なのだが、本人も国家干城の意味から「かんじょう」の読みを好み、子孫もそう読みならわしている(谷干城・小林和幸)そうである。もっとも西郷は名前の読み方に無頓着で、どう呼ばれても間違っているなどと言いもしなかったそうだから、うんちくを述べる小生の方がせこいのである。だから本書のミスも本質的なものではないから、どうでもよい。 


「東京裁判」は大量殺人事件

2016-03-19 15:20:20 | 大東亜戦争

東京裁判は大量殺人事件

東京裁判は現在では、内外の多くの識者や国際法の専門家などから、当時の国際法にも国内法にも基づかない違法なものであることが立証されており、批判の論理は明快である。近代法で禁止されている事後法など、欠陥だらけどころではない、裁判と言えるものではない。

 すなわち、多くの観点から裁判とは言えない、インチキなものであったことは明白である。とすれば東京裁判とは何であったか。たとえれば、ある集団と別の集団が喧嘩をして争ったとする。

その結果、勝った集団は、警察を呼ばずに勝手に、自分の集団のなかから裁判官や検察官なる名前をつけて任命したことにし、裁判の形式をとって判決なるものを宣言し、負けた集団の代表を何人も殺した。処刑した、といえば合法に聞こえそうだから、あえて、殺した、と言っておく。

 たとえれば、東京裁判はこのようなものであった。もとより裁判ではないのである。ある裁判で誤審があったとか、手続きに瑕疵があったから間違っている、ということとは全く異なる。争いの相手を殺す口実として、内輪で裁判もどきを行ったのである。従って東京裁判とはリンチ同然の、歴史的大量殺人事件であった。それをれっきとした政府が行ったのである。

政府が行うことができる「合法的殺人」は基本的に戦争における敵戦闘員と、死刑の執行だけである。「東京裁判」ではそのどちらにも該当しない。政府機関の職員たちが、他国に行って、7人の大量殺人を行ったという恐ろしい事件なのである。