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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評・リンドバーグ第二次大戦日記

2019-03-04 17:00:12 | 大東亜戦争

書評・リンドバーグ第二次大戦日記

 

 リンドバーグの日記は相当の昔から、米軍による日本人に対する残虐行為の証言として有名であった。だから図書館の古本のその箇所だけをコピーして持っている。仕事帰りに駅前商店街の、ごく小さな本屋に寄った。駅前で1番大きな本屋が潰れたからである。意外なことに目立つように「リンドバーグ第二次大戦日記」の上下巻が置いてある。平成28年7月のピカピカの新刊の文庫である。

 この際全部を読み通してみようと買った。日記は昭和12年から20年だけである。つまり第二次大戦直前から終戦であるが、途中日記がつけられていない部分があるのが残念である。それでも開戦前の米国の世論の様子が書かれている、というのが貴重で大きな収穫だった。小生は「米国の世論は徹底した厭戦で、ルーズベルト大統領は英国を救うために、対独参戦を画策し、日本に最初の一発を撃たせた」という定説に近年大きな疑問を持っている。しかし、現代の日本人にとって、当時の米国の世論の動向と言うのはなかなか掴めないものであったが、本書は大いに参考になった。

 リンドバーグは有名な反戦活動家であり、そのため当時の米国ではナチ好きと誤解されている。たしかにドイツ人自体に好意は持っている。「両国(独英のこと)が協力すれば、ヨーロッパでは来たるべき長い歳月にわたり、大規模な戦争を行う必要がなくなるのだ。両国が再び戦えば、収拾のつかぬ大混乱が生ずるだろう。」「ドイツ人の船員は極めてよく気がつくし・・・これではドイツ人が好きにならざるを得ぬ」(p22)

 この後も独英戦によるヨーロッパの混乱と西欧文明の衰退を憂える記述がよく見られる。結局戦後の冷戦と、冷戦後のヨーロッパの混乱を暗示しているようだ。現に「東方に対するドイツ支配の拡大を阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去っている。現時点であえてそれを行うのは、ヨーロッパを大混乱に陥らせることだろう・・・ヨーロッパの共産化を招来するに相違ない。(P62)」とずばり言い当てている。

 ヒトラーが当時から狂気じみた人物として知られていたのは「彼が当面の状況によってヨーロッパを大戦争に巻き込むとは到底信じられぬ。狂人でなければ、そのような真似が出来るはずはない。ヒトラーは神秘的な狂信者である。が、過去の行動とその結果に徴してみれば、彼が狂人だとは信じられぬ。(P67)」というので知れる。

 ヒトラーが融和策で調子に乗ってラインラントからポーランドまで行ってしまったのは、欧州大戦を起こすつもりではなかったろうというのは、当時でも判断できたのであって、ヒトラーの領土拡大を平和的に「阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去って」いたのである。それでもリンドバーグは反戦を訴えた。

 リンドバーグはソ連と日本とを問題視した。「ソヴィエトの内情は悪すぎて永久に持ち堪えられぬし・・・先の大戦からこの方、ロシアで数百万の人間が処刑され、また革命の結果、三千万から四千万の人間は命を落とした(P94)」とロシア人シコルスキーから聞いた。また彼は「ソヴィエトで最高のもてなしを受け、大勢の好感の持てるロシア人にあった。・・・ソヴィエトのホテルは西欧のそれに比べて施設が良くない。・・・民衆も腹いっぱい食べ、幸せな毎日を送っているとは考えられなかったと。P102)」

リンドバーグはわずかなソヴィエト訪問でも騙されなかったのだ。このような共産主義国家に肩入れした米政権と日本の共産主義者はなんと愚かだったのだろう。政治に素人のリンドバーグすら、東欧の共産化を危惧したのだ。

またカレル博士と談話し「カレルの見るところではドイツが勝てば、西欧文明が崩壊するという。私見ではドイツもフランスやイギリスと同じく西欧文明の一部を成す。カレルはソヴィエトがドイツより比較にならぬほど悪いと認めながらも、私がソヴィエトを見るのと同じ目でドイツを見ているのである。(P261)」

フランス人のエマニュエル・トッド氏は平成27年の著書で現在のロシアはドイツよりましだ、と書いた。正反対である。やはりソ連は現在のロシアより悪かったのだと思う。世界にとってもソ連国民にとっても。

同じパイロットで片や冒険飛行の英雄、片や著名な作家の有名人だからだろうか。著書「星の王子様」で有名なサン・テグジュペリとは知り合いだった。テグシュペリは星の王子様というやさしいタイトルに反していかつい男だった。ふと二葉亭四迷を思い出した。

二葉亭に一度だけ会った漱石は「「其の當時『その面影』は読んでゐなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受け取れなかった。魁偉といふと少し大袈裟で悪いが、いづれかといふと、それに近い方で、到底細い筆などを握って、机の前で呻吟してゐそうもないから實は驚ろいたのである。」(長谷川君と余)と書いた。

昭和14年の10月にテグジュペリがフランス空軍に入ったと記されている。(P220)そして「サン・テグジュペリのような人物が無残に殺される。」とも記している。テグジュペリがP-38の偵察型で出撃し、帰らなかったのは5年も経った昭和19年の7月のことである。

 ユダヤ問題での真実は分かりにくい。ドイツの高官ミルヒはリンドバーグに「最近の反ユダヤ人運動は『ゲーリングが指示したものでもなければヒトラーが指示したのでもない』」(P122)と言ったそうで、これはゲシュタポ長官のヒムラーや宣伝相のゲッペルスに原因があると言う意味だとリンドバーグは推定している。

 リンドバーグはドイツ訪問をしたため、アメリカの新聞にスパイ説を書かれた。(P128)「責任のない、完全に自制心のない新聞は民主主義にとり最大の危険の一つと考えざるを得ぬ。完全に統制された新聞が、これまた危険であるのと同じことだ。(P131)」これはまた現在の日本のマスコミにも通じる至言である。

 ポーランドは独ソの秘密協定により分割された。ドイツがソ連に先行してポーランドに侵攻すると英仏はドイツに宣戦布告した。しかし、リンドバーグは新聞の、ソ連軍がポーランド国境に集結しつつある、という情報を先に記している。(P199)にもかかわらず英仏はソ連に宣戦布告しないどころか、その後の独ソ戦には米国を巻き込んでソ連に膨大な支援をしたことは不可解ですらある。

 リンドバーグはルーズベルトが信用できない人物だと繰り返し書いている。「ルーズベルトには何か信頼しきれぬものがある。(P162)」「・・・ルーズベルトはたとえ戦争が自分の個人的な利益に適っても、この国を戦争の犠牲にはしないという発言に確信がまったく持てぬのだ。ルーズベルトはやがて戦争が国家にとって最高の利益になると自分に言聞かせるになるだろう(P209)」「ルーズベルトは何としても国家を戦争に引きずり込みたがっているとフーヴァーは見る。(P217)」

 宣戦布告がされたといっても、英独仏はまだ戦火を交えていないのに、ルーズベルトに対独参戦の意志があると、政治家でもないリンドバーグさえ知っているのだ。マスコミ人や政治家、国民が知らぬとは考えにくい。しかも何回かラジオなどで反戦演説をしたリンドバーグに「脅迫状が舞い込み始める。(P232)」というのだ。戦争したがっている米国民は多かったのだ。

 1941年となり戦争が本格的になると、最初のうちは反戦が有力であったが、今では逆転しつつあり「・・・アメリカの戦争介入に反対するわれわれの勢力は、・・・じりじりと敗退しつつあるように思われる。・・・最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対しているという事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが『戦争の危険を冒してまでも大英帝国を助ける』ことを望んでいる。(P322)」

 これをリンドバーグは「戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいる」と総括しているが、文言を素直に読めば「戦争の危険を冒してまでも」と言っているのだからニュアンスは違う。六十五%の国民が参戦に賛成しているのだ。

 さらに4月のギャラップ調査の「八十パーセントが戦争に反対しているかの如く思われるのに、七十一パーセントはイギリスが敗北するならばという条件で輸送船団の派遣に賛成。(P345)」という一見矛盾した発表にリンドバーグは困惑している。しかし、結局米国民は英国の敗北を軍事的に助けたいと言う気持ちに変わりはない。直接米兵の血を流すのに躊躇しているだけなのだ。

 「何時ものことのように、ルーズベルトは戦争について何か隠しているように思われる。成算ある介入のチャンスに立ち遅れたと恐れているのだろうか。・・・何としても世界の檜舞台をヒットラーから取り上げたがっているのだと確信する。この目的が必ずや達せられると思った瞬間に、この国を戦争に導き入れるだろうと思う。・・・この国を戦争に導き入れて勝利をつかめば、彼は人類史上最も偉大な人物のひとりに数えられるようになるだろう。(P323)」これは昭和16年1月の日記である。

 リンドバーグによればルーズベルトは、ヒットラーより偉大な人物と呼ばれるために参戦を望んでいるのであって、英国を助けるためばかりではないのだ。

 対英援助が3月に始まる。「・・・報道によれば武器貸与法案が六十対三十一票で上院を通過した由。(P333)」武器貸与法は明白に国際法の中立に反する。換言すれば国際法上米国は参戦したのである。

 「・・・アメリカの世論が徐々にルーズベルトの公約は当てにならぬこと、またしばしば二枚舌を用いていることを悟り始めたということが最大の希望の一つだ。(P359)」ところが1940年の大統領選挙では、ルーズベルトは三選を果たした。

 米海軍が公式な参戦以前に、独潜を攻撃したことは知られている。それは大統領の命令だったのである。ルーズベルトは昭和16年9月のラジオ演説で「・・・アメリカの利益に必要とあればどこでも敵の軍艦を一掃すべしと合衆国海軍に命令を下したと結んだ。(P382)」大統領は自ら命令した、と言ったのである。

 しかし、これに対して厭戦気分にひたっていたはずの米国民が猛反発したとは、日記には書かれていない。それどころかリンドバーグが大統領演説の直後に開いた反戦集会で大統領の「演説が終わって一分もたたないうちに幕が開き、われわれは壇上に並んだ。一斉に拍手と野次を浴びる-これまでにない非友好的な聴衆であった。しかも、反対派は組織されており、野次がマイクに入りやすい桟敷席には一群の演説妨害者が巧みに配置してあった。閉会後、これらの一群には雇われ“野次屋”がいることを教えられた。・・・私が戦争扇動者として三つのグループ-イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権-を挙げた時、全聴衆が総立ちになり、歓呼するかに見えた。その瞬間、どのような反対派であれ、熱烈な支持により打ち消されたのであった。」

 ルーズベルト政権が反戦どころか戦争を扇動していたのは米国民の常識なのだった。しかも組織的にそれを支援するグループすらいて、反戦の言動は圧迫されていたのだった。何度でもいうが、現在の日本の常識である、「ルーズベルト政権はチャーチルに頼まれて密かに参戦を計画していたのだが、公的には隠し、国民も参戦反対一色であった、」というのが間違いであることをリンドバーグの証言が証明している。日記には米国の世論の状況がよく描かれている。

ちなみに1941年の日記の副題は「ファシスト呼ばわりされて」である。米国ではこの頃、対独反戦はファシストと罵られていたのである。換言すれば、民主主義者ならドイツとの戦争に賛成すべきだ、ということである。(以上、上巻)

以下下巻に簡単に触れる。リンドバーグは一流パイロットとして、何種類もの米軍機に搭乗した。日本では米軍機は信頼性があり、稼働率が高いと考えられているが、案外な欠陥もある。ある部隊のF-4Uは六機に一機が過度の振動に悩まされていたので、リンドバーグが試乗するととんでもないものだった。(P190)

またコルセアが突如原因不明の急降下に入って海に墜落し、遺体すらみつからなかったケース、300時間持つと言われたエンジンが60時間しか持たないものが何台もみつかったというのもある。軍用機は民間機より信頼性より性能を重視し、最新技術を導入するため、信頼性を熟成するゆとりがない。航空技術が優れた米国も苦労しているのだ、という思いがする。

戦争が始まった時の反戦活動家のリンドバーグの言葉である。「祖国が戦いに入った以上、自分としては祖国の戦争努力に最大限の貢献をしたい。戦争になれば、祖国の全般的な繁栄と統一のために、自分の個人的な見解を押し殺す覚悟はできていた。しかし、問題は今になってもルーズベルト大統領が信じきれないという点だ。(P33)」小生は祖国の戦争に対する彼の態度は正しいと考える。ただ、繰り返し述べられる、ルーズベルト大統領に対する不信感は極めて強いことが印象的である。

 それから太平洋戦線に行き、その後ドイツの敗北した光景を見る。ひとつ日本軍の名誉を守るエピソードがある。日本軍がフィリピンを攻撃する際に「日本軍は米袋の中に通信文を入れて投下した。明日、病院に隣接する放送局(発電所?)を爆撃するので、病院を引き払うようにと勧告してあった。(P109)」患者は病院から連れ出されて爆撃の巻き添えを受けずに助かったのである。

 日本軍の人道的な方針を示すエピソードであった。ところが、リンドバーグの知る限り、米国の新聞には病院が爆撃されたことだけ書かれていて、本当の標的は放送局であり退避勧告をされたという話が抜けていたのである。この結果日本軍は病院を目標に爆撃した、という非人道的な話になってしまったのである。

そういえば真珠湾攻撃を米国人が描いた映画で、日本機が行いもしなかった、病院銃爆撃の国際法違反のシーンがあった。同じ米国人だからプロパガンダの発想が同じなのである。本書にも書かれているが、連合軍が日本の野戦病院を襲い、傷病兵を皆殺しにしたことは例外ではない。やはり自らしそうなことをプロパガンダとして使うのである。

 信じられないのは、オーストラリア軍が、ビアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名を捕らえたと言う告知をだした、ということである。(P263)また性器を切り取ったりオーストラリア兵をステーキにして食べた、というのもある。

もちろんこれらは全て伝聞である。性器を切り取ると言う趣味は欧米人にあっても日本人にはない。人肉食も極めて例外である。日本兵がひどいことをするから、オーストラリア兵も残虐行為したという、言い訳として書かれているので、妄想かでっちあげの可能性が高いであろう

 また、戦争初期には投降しても殺されるので、それを知った日本兵は投降せず極限まで戦うようになったと言う記述は何か所にも書かれている。捕虜は取らない、とリンドバーグに放言する指揮官すらいたというのである。これは他の米国人の著書にも書かれている。

 下巻には連合国が行った非人道的な行為が書かれているのが有名であるが、一読をお薦めして紹介は省略する。ただ、戦争の非道についてのリンドバーグの有名な言葉が最後に書かれているので、紹介して終わる。

 「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。・・・地球の片側で行われた蛮行は反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。・・・この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃をもたらしたのだ。(P370)」

書評・リンドバーグ第二次大戦日記

 

 リンドバーグの日記は相当の昔から、米軍による日本人に対する残虐行為の証言として有名であった。だから図書館の古本のその箇所だけをコピーして持っている。仕事帰りに駅前商店街の、ごく小さな本屋に寄った。駅前で1番大きな本屋が潰れたからである。意外なことに目立つように「リンドバーグ第二次大戦日記」の上下巻が置いてある。平成28年7月のピカピカの新刊の文庫である。

 この際全部を読み通してみようと買った。日記は昭和12年から20年だけである。つまり第二次大戦直前から終戦であるが、途中日記がつけられていない部分があるのが残念である。それでも開戦前の米国の世論の様子が書かれている、というのが貴重で大きな収穫だった。小生は「米国の世論は徹底した厭戦で、ルーズベルト大統領は英国を救うために、対独参戦を画策し、日本に最初の一発を撃たせた」という定説に近年大きな疑問を持っている。しかし、現代の日本人にとって、当時の米国の世論の動向と言うのはなかなか掴めないものであったが、本書は大いに参考になった。

 リンドバーグは有名な反戦活動家であり、そのため当時の米国ではナチ好きと誤解されている。たしかにドイツ人自体に好意は持っている。「両国(独英のこと)が協力すれば、ヨーロッパでは来たるべき長い歳月にわたり、大規模な戦争を行う必要がなくなるのだ。両国が再び戦えば、収拾のつかぬ大混乱が生ずるだろう。」「ドイツ人の船員は極めてよく気がつくし・・・これではドイツ人が好きにならざるを得ぬ」(p22)

 この後も独英戦によるヨーロッパの混乱と西欧文明の衰退を憂える記述がよく見られる。結局戦後の冷戦と、冷戦後のヨーロッパの混乱を暗示しているようだ。現に「東方に対するドイツ支配の拡大を阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去っている。現時点であえてそれを行うのは、ヨーロッパを大混乱に陥らせることだろう・・・ヨーロッパの共産化を招来するに相違ない。(P62)」とずばり言い当てている。

 ヒトラーが当時から狂気じみた人物として知られていたのは「彼が当面の状況によってヨーロッパを大戦争に巻き込むとは到底信じられぬ。狂人でなければ、そのような真似が出来るはずはない。ヒトラーは神秘的な狂信者である。が、過去の行動とその結果に徴してみれば、彼が狂人だとは信じられぬ。(P67)」というので知れる。

 ヒトラーが融和策で調子に乗ってラインラントからポーランドまで行ってしまったのは、欧州大戦を起こすつもりではなかったろうというのは、当時でも判断できたのであって、ヒトラーの領土拡大を平和的に「阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去って」いたのである。それでもリンドバーグは反戦を訴えた。

 リンドバーグはソ連と日本とを問題視した。「ソヴィエトの内情は悪すぎて永久に持ち堪えられぬし・・・先の大戦からこの方、ロシアで数百万の人間が処刑され、また革命の結果、三千万から四千万の人間は命を落とした(P94)」とロシア人シコルスキーから聞いた。また彼は「ソヴィエトで最高のもてなしを受け、大勢の好感の持てるロシア人にあった。・・・ソヴィエトのホテルは西欧のそれに比べて施設が良くない。・・・民衆も腹いっぱい食べ、幸せな毎日を送っているとは考えられなかったと。P102)」

リンドバーグはわずかなソヴィエト訪問でも騙されなかったのだ。このような共産主義国家に肩入れした米政権と日本の共産主義者はなんと愚かだったのだろう。政治に素人のリンドバーグすら、東欧の共産化を危惧したのだ。

またカレル博士と談話し「カレルの見るところではドイツが勝てば、西欧文明が崩壊するという。私見ではドイツもフランスやイギリスと同じく西欧文明の一部を成す。カレルはソヴィエトがドイツより比較にならぬほど悪いと認めながらも、私がソヴィエトを見るのと同じ目でドイツを見ているのである。(P261)」

フランス人のエマニュエル・トッド氏は平成27年の著書で現在のロシアはドイツよりましだ、と書いた。正反対である。やはりソ連は現在のロシアより悪かったのだと思う。世界にとってもソ連国民にとっても。

同じパイロットで片や冒険飛行の英雄、片や著名な作家の有名人だからだろうか。著書「星の王子様」で有名なサン・テグジュペリとは知り合いだった。テグシュペリは星の王子様というやさしいタイトルに反していかつい男だった。ふと二葉亭四迷を思い出した。

二葉亭に一度だけ会った漱石は「「其の當時『その面影』は読んでゐなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受け取れなかった。魁偉といふと少し大袈裟で悪いが、いづれかといふと、それに近い方で、到底細い筆などを握って、机の前で呻吟してゐそうもないから實は驚ろいたのである。」(長谷川君と余)と書いた。

昭和14年の10月にテグジュペリがフランス空軍に入ったと記されている。(P220)そして「サン・テグジュペリのような人物が無残に殺される。」とも記している。テグジュペリがP-38の偵察型で出撃し、帰らなかったのは5年も経った昭和19年の7月のことである。

 ユダヤ問題での真実は分かりにくい。ドイツの高官ミルヒはリンドバーグに「最近の反ユダヤ人運動は『ゲーリングが指示したものでもなければヒトラーが指示したのでもない』」(P122)と言ったそうで、これはゲシュタポ長官のヒムラーや宣伝相のゲッペルスに原因があると言う意味だとリンドバーグは推定している。

 リンドバーグはドイツ訪問をしたため、アメリカの新聞にスパイ説を書かれた。(P128)「責任のない、完全に自制心のない新聞は民主主義にとり最大の危険の一つと考えざるを得ぬ。完全に統制された新聞が、これまた危険であるのと同じことだ。(P131)」これはまた現在の日本のマスコミにも通じる至言である。

 ポーランドは独ソの秘密協定により分割された。ドイツがソ連に先行してポーランドに侵攻すると英仏はドイツに宣戦布告した。しかし、リンドバーグは新聞の、ソ連軍がポーランド国境に集結しつつある、という情報を先に記している。(P199)にもかかわらず英仏はソ連に宣戦布告しないどころか、その後の独ソ戦には米国を巻き込んでソ連に膨大な支援をしたことは不可解ですらある。

 リンドバーグはルーズベルトが信用できない人物だと繰り返し書いている。「ルーズベルトには何か信頼しきれぬものがある。(P162)」「・・・ルーズベルトはたとえ戦争が自分の個人的な利益に適っても、この国を戦争の犠牲にはしないという発言に確信がまったく持てぬのだ。ルーズベルトはやがて戦争が国家にとって最高の利益になると自分に言聞かせるになるだろう(P209)」「ルーズベルトは何としても国家を戦争に引きずり込みたがっているとフーヴァーは見る。(P217)」

 宣戦布告がされたといっても、英独仏はまだ戦火を交えていないのに、ルーズベルトに対独参戦の意志があると、政治家でもないリンドバーグさえ知っているのだ。マスコミ人や政治家、国民が知らぬとは考えにくい。しかも何回かラジオなどで反戦演説をしたリンドバーグに「脅迫状が舞い込み始める。(P232)」というのだ。戦争したがっている米国民は多かったのだ。

 1941年となり戦争が本格的になると、最初のうちは反戦が有力であったが、今では逆転しつつあり「・・・アメリカの戦争介入に反対するわれわれの勢力は、・・・じりじりと敗退しつつあるように思われる。・・・最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対しているという事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが『戦争の危険を冒してまでも大英帝国を助ける』ことを望んでいる。(P322)」

 これをリンドバーグは「戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいる」と総括しているが、文言を素直に読めば「戦争の危険を冒してまでも」と言っているのだからニュアンスは違う。六十五%の国民が参戦に賛成しているのだ。

 さらに4月のギャラップ調査の「八十パーセントが戦争に反対しているかの如く思われるのに、七十一パーセントはイギリスが敗北するならばという条件で輸送船団の派遣に賛成。(P345)」という一見矛盾した発表にリンドバーグは困惑している。しかし、結局米国民は英国の敗北を軍事的に助けたいと言う気持ちに変わりはない。直接米兵の血を流すのに躊躇しているだけなのだ。

 「何時ものことのように、ルーズベルトは戦争について何か隠しているように思われる。成算ある介入のチャンスに立ち遅れたと恐れているのだろうか。・・・何としても世界の檜舞台をヒットラーから取り上げたがっているのだと確信する。この目的が必ずや達せられると思った瞬間に、この国を戦争に導き入れるだろうと思う。・・・この国を戦争に導き入れて勝利をつかめば、彼は人類史上最も偉大な人物のひとりに数えられるようになるだろう。(P323)」これは昭和16年1月の日記である。

 リンドバーグによればルーズベルトは、ヒットラーより偉大な人物と呼ばれるために参戦を望んでいるのであって、英国を助けるためばかりではないのだ。

 対英援助が3月に始まる。「・・・報道によれば武器貸与法案が六十対三十一票で上院を通過した由。(P333)」武器貸与法は明白に国際法の中立に反する。換言すれば国際法上米国は参戦したのである。

 「・・・アメリカの世論が徐々にルーズベルトの公約は当てにならぬこと、またしばしば二枚舌を用いていることを悟り始めたということが最大の希望の一つだ。(P359)」ところが1940年の大統領選挙では、ルーズベルトは三選を果たした。

 米海軍が公式な参戦以前に、独潜を攻撃したことは知られている。それは大統領の命令だったのである。ルーズベルトは昭和16年9月のラジオ演説で「・・・アメリカの利益に必要とあればどこでも敵の軍艦を一掃すべしと合衆国海軍に命令を下したと結んだ。(P382)」大統領は自ら命令した、と言ったのである。

 しかし、これに対して厭戦気分にひたっていたはずの米国民が猛反発したとは、日記には書かれていない。それどころかリンドバーグが大統領演説の直後に開いた反戦集会で大統領の「演説が終わって一分もたたないうちに幕が開き、われわれは壇上に並んだ。一斉に拍手と野次を浴びる-これまでにない非友好的な聴衆であった。しかも、反対派は組織されており、野次がマイクに入りやすい桟敷席には一群の演説妨害者が巧みに配置してあった。閉会後、これらの一群には雇われ“野次屋”がいることを教えられた。・・・私が戦争扇動者として三つのグループ-イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権-を挙げた時、全聴衆が総立ちになり、歓呼するかに見えた。その瞬間、どのような反対派であれ、熱烈な支持により打ち消されたのであった。」

 ルーズベルト政権が反戦どころか戦争を扇動していたのは米国民の常識なのだった。しかも組織的にそれを支援するグループすらいて、反戦の言動は圧迫されていたのだった。何度でもいうが、現在の日本の常識である、「ルーズベルト政権はチャーチルに頼まれて密かに参戦を計画していたのだが、公的には隠し、国民も参戦反対一色であった、」というのが間違いであることをリンドバーグの証言が証明している。日記には米国の世論の状況がよく描かれている。

ちなみに1941年の日記の副題は「ファシスト呼ばわりされて」である。米国ではこの頃、対独反戦はファシストと罵られていたのである。換言すれば、民主主義者ならドイツとの戦争に賛成すべきだ、ということである。(以上、上巻)

以下下巻に簡単に触れる。リンドバーグは一流パイロットとして、何種類もの米軍機に搭乗した。日本では米軍機は信頼性があり、稼働率が高いと考えられているが、案外な欠陥もある。ある部隊のF-4Uは六機に一機が過度の振動に悩まされていたので、リンドバーグが試乗するととんでもないものだった。(P190)

またコルセアが突如原因不明の急降下に入って海に墜落し、遺体すらみつからなかったケース、300時間持つと言われたエンジンが60時間しか持たないものが何台もみつかったというのもある。軍用機は民間機より信頼性より性能を重視し、最新技術を導入するため、信頼性を熟成するゆとりがない。航空技術が優れた米国も苦労しているのだ、という思いがする。

戦争が始まった時の反戦活動家のリンドバーグの言葉である。「祖国が戦いに入った以上、自分としては祖国の戦争努力に最大限の貢献をしたい。戦争になれば、祖国の全般的な繁栄と統一のために、自分の個人的な見解を押し殺す覚悟はできていた。しかし、問題は今になってもルーズベルト大統領が信じきれないという点だ。(P33)」小生は祖国の戦争に対する彼の態度は正しいと考える。ただ、繰り返し述べられる、ルーズベルト大統領に対する不信感は極めて強いことが印象的である。

 それから太平洋戦線に行き、その後ドイツの敗北した光景を見る。ひとつ日本軍の名誉を守るエピソードがある。日本軍がフィリピンを攻撃する際に「日本軍は米袋の中に通信文を入れて投下した。明日、病院に隣接する放送局(発電所?)を爆撃するので、病院を引き払うようにと勧告してあった。(P109)」患者は病院から連れ出されて爆撃の巻き添えを受けずに助かったのである。

 日本軍の人道的な方針を示すエピソードであった。ところが、リンドバーグの知る限り、米国の新聞には病院が爆撃されたことだけ書かれていて、本当の標的は放送局であり退避勧告をされたという話が抜けていたのである。この結果日本軍は病院を目標に爆撃した、という非人道的な話になってしまったのである。

そういえば真珠湾攻撃を米国人が描いた映画で、日本機が行いもしなかった、病院銃爆撃の国際法違反のシーンがあった。同じ米国人だからプロパガンダの発想が同じなのである。本書にも書かれているが、連合軍が日本の野戦病院を襲い、傷病兵を皆殺しにしたことは例外ではない。やはり自らしそうなことをプロパガンダとして使うのである。

 信じられないのは、オーストラリア軍が、ビアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名を捕らえたと言う告知をだした、ということである。(P263)また性器を切り取ったりオーストラリア兵をステーキにして食べた、というのもある。

もちろんこれらは全て伝聞である。性器を切り取ると言う趣味は欧米人にあっても日本人にはない。人肉食も極めて例外である。日本兵がひどいことをするから、オーストラリア兵も残虐行為したという、言い訳として書かれているので、妄想かでっちあげの可能性が高いであろう

 また、戦争初期には投降しても殺されるので、それを知った日本兵は投降せず極限まで戦うようになったと言う記述は何か所にも書かれている。捕虜は取らない、とリンドバーグに放言する指揮官すらいたというのである。これは他の米国人の著書にも書かれている。

 下巻には連合国が行った非人道的な行為が書かれているのが有名であるが、一読をお薦めして紹介は省略する。ただ、戦争の非道についてのリンドバーグの有名な言葉が最後に書かれているので、紹介して終わる。

 「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。・・・地球の片側で行われた蛮行は反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。・・・この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃をもたらしたのだ。(P370)」


書評・大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験・河西晃祐

2018-10-02 18:07:19 | 大東亜戦争

 本書評では、当時の日本人の現実的立場や理想などの観点から、本書を批判的に評しているが、本書が類書に比べ総合的かつ、資料を駆使している点で優れた研究である、というものである、と考えているということを前提としている、ということをまず述べておく。

著者は現代日本の戦前研究者に見られる典型的なひとつのタイプの人である。つまり日本には完璧な道義性を求め、独立運動をするアジア人に対しては日本に対する裏切りを、無条件にありうべきこととする。また、日本が戦争遂行のためにアジアを利用したことに厳しい目を注ぎ、欧米の苛酷な植民地支配には言及しないことである。

 例えば、大東亜会議の後に、東條首相が次のように述べたことを引用している。

 

 「ビルマ」人は大東亜共栄圏の中にて割合良い方にて上の部に属すると云い得べく 之を秦国人に比するに秦人の方が扱ひ難し 併し我方として信頼するや否やを不問 兎に角政策としては怪しきものをも抱込む心算なり

 

 これを評して「・・・日本を指導者とするはずの大東亜共栄圏において、タイをはじめとする国々の民族指導者らが、東條をして『扱ひ難し』と述べさせるほどに抗い続けた証拠でもある。」

 

 国々と言うが、会議に参加したのはタイ、汪政権、満洲国以外は欧米の植民地であり、他の独立した「国」はひとつもなかったのである。大多数が独立国ではなかったものを「国々」と総称するのは適切ではなかろう。しかも「指導者」とはチャンドラ・ボースのような反西欧の独立の闘士であった。タイは西欧の植民地獲得競争の中で、バランスをとり独立保つほどだったから、外交的に「狡猾」であるのは当然であろう。しかもタイは日本の勝利に乗じて、「旧領土」を取り返そうとビルマに進軍するという、機会便乗主義を見せた。

 チャンドラ・ボースは大東亜会議に消極的どころか、インド独立のためにインパール作戦を要請し、作戦失敗が明白になった時点でも作戦継続を主張したのである。このように、アジア各地の「指導者」が様々な思惑を持って大東亜会議に参加していたのは当然である。これらのアジアの地域の指導者は各人、勇気や努力と辛酸の経験をした立派な人達であったのに違いない。だが敢えて言う。欧米の植民地獲得競争の中で、日本が独立を保持し得て西欧と伍したのに対して、なぜこれらの立派な指導者を出すような、ほとんどの地域は独立すら保持し得なかったのであろう、と。

 著者は東條の枢密院会議での発言を引用して「・・・東條がビルマやタイを心の底では『盟邦』だとも考えていなかった可能性」がある、とし枢密院顧問官の南弘の枢密院会議における発言から「・・・台湾統治を実地で経験していた南はビルマを『子供』と認識し、『日本の保護指導』が当然ではないかという質問を重ねた。」と批判する。余りにも偽善的な批判ではないか。

 現実の世界情勢に対する政治的判断として、ビルマやタイを心底から対等の盟邦と見ることが出来ないのも、台湾やビルマが当時の日本に比べれば「子供」に過ぎないと見るのも本音から言えば当然であろう。場所が枢密院会議であれば、国会に比べても本音に近い発言となろう。あまりに現実を見ない批判としか考えられない。

 また、アメリカ軍フィリピン再上陸に際しての次の記述(P254)は、事実関係としては正しいようであるが、結果的に倒錯していると思われる。

 「アメリカ軍の上陸に呼応して蜂起したフィリピン人「匪団」は、アメリカ軍を解放者として迎え入れた。大東亜共栄圏の理念なるものは通用しなかったのである」というのは事実である。だが米西戦争でフィリピンをスペインから引き継いで苛酷な弾圧をした米国を、単なる解放者として記述するのは浅薄に過ぎる。そもそも筆者はフィリピン人が米軍を解放者として迎えた、という「事実」に矛盾を感じないのであろうか。日本が占領したのは米国領フィリピンであって、植民地支配したのではない。それにもかかわらず、戦争中には米軍の手先となって日本軍をスパイしたフィリピン人は多数いる。

 フィリピン人は必ずしも米国に約束された独立を期待して日本軍に抵抗した訳ではない。そうであろう。米国は米西戦争の際に約束した独立を反故にした前科がある。それでも米軍に協力したり、「解放者として迎え入れた」のは単に米軍の強さに屈従したのに過ぎない。「理念」以前に現実的選択をしたに過ぎない。日本の大東亜共栄圏構想の真贋とは関係のない打算である。フィリピン人は表には出さないが、米国の苛酷な植民地支配や、マッカーサー再上陸の際に砲爆撃によって何十万人という無辜のフィリピン人を無差別殺害したことに、心底に怨嗟を抱いている者が少なくない。

 例えばミャンマーは、独立後英国の植民地支配の苛酷さを国際社会に訴えた。そのとたんに、軍事政権や独裁政権などとして制裁を受け、植民地支配の怨嗟の声はかき消されてしまった。このように、欧米の支配を受けた地域は独立後でさえ、本音を語ることは許されていないのである。現在でも欧米による過去の歴史を暴くことは、かつての被植民地の民には許されていない。著者には、その観点が欠落しているどころか、日本にだけ道徳的完璧を要求している。

 このように文章を読む限りは、氏の態度は公正である。例えば松岡洋右の評価などは資料によりきちんとしていて、これまでの偏見的常識にとらわれていない。しかし、結局のところ資料に現れた表面的論理的公正に過ぎないように思われる。日本人が西欧の植民地支配に憤りと危機感を持っていたのは、表面にどの程度出たかは別として、ほぼ全日本人の心底にはあったはずである。だが現実に国際社会に相対する時、完璧な道義的態度で、日本自身を一方的に犠牲とし、植民地解放に専心するなどということは、現実として選択できない行為である。

 アジアとの植民地解放は、あくまでも日本の国益の保持、という観点の範囲で行うのは当然であり、国益と矛盾する場合は抑圧する、という選択は当然ではないか。それでも搾取の限りを尽くした、欧米の植民地支配とは隔絶していることは間違いない。日本の明治以来の戦いの結果は無残な敗北に終えた。しかし、欧米諸国による植民地支配は日本の戦いによって終焉した。

 日本は世界史を一変させたのである。しかもその結果多数の独立国ができ、日本にとってもそれ以前とは比較にならないくらい自由な貿易が出来る、という有益な世界が到来した。それを日本が充分に利用できないのは、むしろ、日本の戦争を罪悪視する日本人が蔓延して、日本を政治的軍事的に独立することを妨害し、それを平和主義と標榜していることにある。 

根源的問題は維新から大東亜戦争までの日本の苦闘の拙さにあるのではなく、自らの闘いの成果を利用し得ない、現代日本にあるのではないか。

批判部分ばかり書いたので、著者の貴重な指摘を紹介する。それは「戦争のカタチ(P97)」に書かれている。第二次大戦の戦争の形態が当時としては例外であった、ということである。本書によれば日清戦争は日清の闘いであるにも拘わらず、朝鮮半島を舞台にしたものであって、清朝が継戦能力を失って敗北したのではない。日露戦争も似たようなものであった。第一次大戦は、ロシア、ドイツともに対戦国の首都が占領されたのではなく、国内で革命が起き、戦争を継続できなかったため、講和したためである。つまりこれらは交戦国の話合いによって講和が成立したのである。

これに対して大東亜戦争(著者は太平洋戦争と呼ぶ)は首都が壊滅する、という徹底した形で終わった、ということである。また戦争終結のプランとしても、日清日露戦争においても、第一次大戦当時においても開戦時に明確な戦争終結のプランがあったわけではなく、結果として終えたということである。

これらを基に著者は、対米戦は戦争終結のプランを指導者が持たずに開戦したとしても、開戦自体は指導者達にとっては合理的選択であったという。それは必ずしも正しい選択であったとは言えないにしても、「・・・日本の国力を過信していた訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかった」とし「正しい情報と判断力があれば戦争が回避できるわけではない怖さ・・・」があると結論しているのである。

これは多くの識者が、日露戦争当時は周到な戦争終結の準備をしていたのに、大東亜戦争では何の戦争終結の見通しがなく愚かにも開戦を選択した、と批判するのに対する明快な反論であるように思われる。直近のいくつかの戦争終結の様相に照らしてみれば「帝国日本のそれまでの戦争経験から照らしてみれば、成り立ちうるものである。」と指摘したのは慧眼である。第二次大戦の終結は、それまでの国際法上の常識を破る特異なものであったことは、深く認識すべきである。


書評・「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか・ジェームズ・B・ウッド著・茂木弘道・WAC

2018-09-19 14:25:39 | 大東亜戦争

 こうすれば大東亜戦争は勝てた、という類の本がけっこうあるが、それとは一線を画していように思われる。その手の本は大抵、テクノロジーに重きをおくか、シベリア侵攻の実施や、インド方面に進出して、インドを攻めドイツ軍と提携するようなものである。本書はあくまでも実際に起こった戦闘をベースに、いかによりよく闘うべきかの戦略を分析している。もちろんワシントンで日本軍が米国と城下の盟を結ぶことができるとは考えてはいない。その中で、従来より批判が強かった、日本潜水艦の運用の失敗に、明快な解答を与えている主として五章を紹介する。

 

第5章 運用に失敗した潜水艦隊

 筆者は、日本のイ号潜水艦などは、装備上の欠陥などがあるものの、総合的には優れた水上速度、長大な航続距離や安定した高性能魚雷などを持っているのに、惨憺たる結果しか得られなかった、という。この手の批判は常識になっているのだが、著者が言うのは過去の批判がレーダー装備などの技術的側面中心なのに、戦略的運用面にしぼっていることである。運用は技術的欠点を、特に初期には埋め合わせる可能性が大であった。それだけ有力な潜水艦隊を持っていたのである。

まずハワイ作戦後、修理のためにハワイから西海岸に帰投する航路に配置して襲う、ということと、そもそも西海岸からハワイへの航路は一本しかないのだから、一九四一年から一九四三年の期間に、この航路で商船を撃沈していれば、西太平洋の戦場の軍艦は補給を受けられず、戦力にならなかったと言う当たり前のことである。

 考えてみれば西太平洋への補給距離は米軍の方がはるかに長く、米軍は日本軍が何もしなかったのを訝しくすら思った、というのである。

 特に戦争後半では主力艦の攻撃や、輸送任務で潜水艦は損耗してしまっていたが、この時期なら自らを犠牲にして、日本側の防衛体制を構築できた、と言うのである。日本の潜水艦が戦闘艦の攻撃に固執して、輸送の妨害を何もしなかった、というのは罪悪的ですらある。一方で日本側は米軍による輸送妨害に苦しんだのである。日本の潜水艦指揮者すら初期の段階で、戦闘艦攻撃から、商船攻撃に切り替えるべきだと主張していたが却下された。

本書は戦争初期に適切な行動を採っていれば、米軍の反攻は遅滞し、遅滞すればするほど日本側の防御体制が堅固になり、加速度的に日本が有利になる、ということが基調である。

 

結論

 日本は米国に勝てたのか、ということに対する本書の結論は、リチャード・オーバリーの言葉を次のように引用している。

 

 うわべを見ただけでは、一九四二年初め、論理的な人なら誰でも、戦争の最終的な結末を予想できなかったであろう。連合国にとって状況は-この連合体制も一九四一年十二月になって実現したばかりであったが-絶望的で、士気を失わせるものであった。(中略)しかし、一九四二年から一九四四年にかけて、主導権は連合国に移り、枢軸国軍は、深刻な形勢逆転を経験することとなった。(中略)一九四四年までには、連合国の士気喪失は払拭された。当時の人々は、公算は今や圧倒的に連合国の勝利にあるとみることができた。(P172)

 

 そして筆者はこのことは、ヨーロッパ戦線のみならず、太平洋戦線にも適用できると言う。日本軍には一九四一年から一九四三年に起きた結果から逆転された。しかし、日本軍はこの期間、さまざまな形の最終的勝利のために必要な状況を創出する多くの機会があった。最低限でも「以前の」状態に戻る、ということを双方が受け入れるような勝利を得ることができたはずだ、というのが著者の結論である。本書はこの結論に至るための日本軍の戦略の間違いを述べるために書かれたようなものである。

 

       


書評・真実日米開戦・隠蔽された近衛文麿の戦争責任・倉山満

2018-04-08 17:43:20 | 大東亜戦争

 倉山氏は気鋭の論者であり、識見は尊敬している。当然のことながら、見解が異なることがたまにはある。本書には「裏道参戦論の嘘」(P192)があるのでこれだけ取上げる。別項で書いたことの繰り返しが多いが容赦願いたい。ルーズベルト大統領は、ヨーロッパ戦線に参戦するために、ドイツの同盟国である日本に最初の一発を撃たせることにした、というのが裏道参戦論である。氏の嘘説の根拠はシンプルである。

 第一に、日独伊三国同盟には、独伊が戦争を始めたとき、日本には自動参戦義務がないこと、ヒトラーは同盟の義理を守る人物ではないから、日米戦が始まっても、ドイツが日本とともに米国と戦うということは、結果は別として予測不能であった、という二点であると思われる。一方で、ルーズベルトは、日本が開戦しても当然なほど、真珠湾攻撃以前から、数年にわたり挑発をし続けた政治的狂人だと断じている。

だが、日米戦直前の米国の行動について、この本で倉山氏が取り上げていないことがある。米国はドイツに対する牽制として、グリーンランドなどの保障占領をし、中立法を改正して、国際法の中立違反の、英ソという独との交戦国に大量の武器援助をしたこと、援英輸送の護衛をし、独潜を攻撃した、など国際法上は既に対独参戦していたに等しいが、対米戦を忌避するヒトラーに黙殺されただけである。

氏は米世論が参戦反対のため、ルーズベルトは参戦反対の虚偽の公約で当選した、と素直に言っているが、信じられない。なぜなら、中立法改正は議員の多数の賛成で成立し、多数の議員には多数の支持者たる国民がついている。ルーズベルトの独裁ではない。対独挑発行為は米国マスコミで報道されている。熱心な反戦運動を展開したのは、かのリンドバーグらのマイナーな存在であった。世論調査が圧倒的反戦であったのは、建前に過ぎないか、世論を反映していなかった、と考えられる。最近では米大手マスコミで、トランプ氏がクリント氏に勝つと予測したものはなかったではないか。

米国人の言葉は美しいが、恐ろしい本音が隠れている。「マニュフェスト・デステニー」の美名のもとに、ネイティブアメリカンを殺戮し続けたではないか。戦争反対は美しい。しかしリメンバー・パールハーバーの美辞に、米国民は一瞬にして熱狂したのである。

米国は第一次大戦で軍事力と経済力を飛躍的に伸ばしたのであって、戦場となった欧州に比べ厭戦感情が強いとは考えられないのである。ここに「United States NEWS」という米国週刊誌のコピーがある。トップページには、NEWS OF NATIONAL AFFAIRSを扱う、とあるから軍事専門雑誌ではあるまい。興味ある方は、大阪の国会図書館から取り寄せると良い。昭和16年10月31には、驚くべき記事がある。「日本爆撃ルート」というきな臭いものである。

地図入りで、重慶、香港、シンガポール、フィリピン、グァム、ダッチハーバー、ウラジオストックから、日本本土を爆撃するための所要時間を図示した記事である。日本本土爆撃計画である。この週刊誌には、爆撃機、戦車、大砲などの製造メーカーのコマーシャルであふれ、なんと煙草のキャメルのコマーシャルには、陸軍、海軍、海兵隊、沿岸警備隊の4人の兵士が煙草を持ってにっこりしている。よほど戦時中の日本の新聞の方が、軍事と関係のないコマーシャルが多い。これが厭戦気分のあふれた時期のはずの米国の週刊誌なのである。

 米国は、日米開戦前の、昭和16年に300機以上の大編隊で、日本本土を爆撃する計画を大統領が承認し、計画は実行が開始された。計画倒れではない。既に、爆撃機掩護の戦闘機部隊は機材や整備兵とともに派遣され、後にシェンノートのフライングタイガースとして、日本軍機と交戦している(幻の日本爆撃計画)。

幻の日本爆撃計画の著者は、爆撃計画はマスコミに公表されているので、日本政府が計画を知るのに、スパイすら必要としない、と断じている。さらにラニカイという海軍籍のボロ「巡洋艦」を太平洋に航海させて、日本軍に最初の一発を撃たせるべく挑発したが、成功する前に、真珠湾攻撃が始まった。中部読売新聞に、戦後の米艦長のインタビュー記事がある。

以上例示したことから分かるのは、昭和16年時点で、米政府は対独戦も対日戦も参戦を欲していた。これらはほとんどが米マスコミに報じられ、リンドバーグらの熱心な反戦運動は政治的には黙殺されたということから、米国民も内心は賛成をしていた、というしかない。だがこのような説は現代日本では寡聞にしてない。ルーズベルト個人に限れば、昭和12年の時点で日独の隔離演説をしていることから、支那大陸における権益奪取などという国益と言うよりは、個人的感情であろう。正に「政治的狂人」である。

倉山氏の裏道参戦論の嘘、の難点は、前述のように三国同盟の自動参戦義務のないことを厳密に解釈していることである。当時の世界情勢を考慮すれば、同盟国日本と戦争をすれば、米国が対独参戦することは、自然なことであり、条約の文言の厳密な解釈の問題ではない。変幻自在な倉山氏が、条約の文言に固執するのが理解できない。しかも前述のように、散々米国はドイツ潜水艦を攻撃するなどして挑発しているのにも関わらず、ドイツは挑発に乗らなかった。米海軍の軍事的挑発を米国民が知らないはずはない、のである。ガソリンは太平洋にも大西洋にも、散々撒かれていて、日本は火のついたマッチを投じたのである。

真珠湾攻撃が12月8日、その直後ルーズベルトとチャーチルは、電話で喜び合っている。日本の対英米開戦により、米国の対独参戦が確実となったと確信したからである。ドイツが対米宣戦したのは、その後の11日である。条約の文言はどうでもよい、という証左である。米英の政府と国民にとっても、三国同盟の自動参戦条項の有無など、どうでもよいのである。

だから陰謀的に裏道参戦計画をしたとは言えない、にしても対独、対日両戦争を欲していた米政府と国民にとって、対独参戦に苦慮していた時、真珠湾攻撃が起きたのは、全面的参戦にとって好都合だったのである。全面的二正面作戦はタブーとされているが、既に支那事変を数年戦ってきて国力を相当消耗していた対日戦は、すぐに片付く戦争だったと考えたに違いないのである。小室直樹氏は、支那事変によって、数十隻の空母を建造できるだけの国力を消耗していた、と解説した。日本などチョロイ、と米国が考えていても不思議ではない。

氏の説は一件混乱しているように見える箇所がある(P231)。緒戦で日本がフィリピンをとれば、取り返しに来る米海軍を迎え撃ち艦隊決戦を行うのが、永年の日本海軍のドクトリンであり、米海軍の想定も同じである、という。ところが(P215)では、石油が必要ならオランダ領インドネシアと、英領ブルネイを攻めればよいというのだ。英米一体ではないから、オランダが攻められれば、イギリスが出てきても、米国は出てこないだろう。日米が揉めるのは米国が関係のない中国に口を出すからで、ルーズベルトは戦争をしないことで当選したからであるという。

だから日本が植民地のフィリピンではなく、いっそアメリカ本土のハワイあたりを宣戦布告なしに攻撃してくれることぐらいでなければ、参戦できない、という。P215の米海軍のドクトリンと、ルーズベルトの非戦とは、直接はリンクしない。しかし、米墨戦争以来の米国の開戦方法を考慮すれば、日本がフィリピンを攻撃すれば、米国民は雪崩を打って、戦争になだれ込むことが分かる。対日戦も対独戦も、もはや区別はなくなる

米領どころかメキシコ領にアラモ砦を築き、砦が全滅すると「リメンバーアラモ」とばかり米国は戦争を始め、広大なメキシコ領を奪った。米国はメイン号爆沈の際に、スペインが共同調査を求めたのを拒絶して「リメンバーメイン」(P208)と叫んで米西戦争を始めて、なんと遥か彼方のフィリピンを最初に奪った。メイン号はフィリピンと正反対の海域にいたのである。米国人のブロンソン・レー氏は、「満洲国出現の合理性」で氏自身がメイン号が燃えている際に乗船して、発火する可能性がある、特殊なヒューズが入った箱を発見した。スペインの友人が高額で買いたいと言ったのに断ったのだそうである。レー氏はメイン号爆沈が米国の仕業に違いないと確信しながら、米国のために隠したと言っているのである。

以上の米国の開戦方法をみれば、植民地どころか、他国領に居座ってさえ戦争の口実にすることが分かる。ボロ舟すら開戦の口実にしようとしたのである。軍艦の中は米国領と看做される、などということは些末である。些末なことに拘泥せずに、大局的にものごとを見ることのできる倉山氏にしては不可解である。

 

 

 


インパール作戦なかりせば

2017-12-26 13:31:03 | 大東亜戦争

 平成29年の夏にも、インパール作戦の現地を歩く放送があった。いわゆる白骨街道だ。戦死者本人や遺族の苦しみを考えると、何とも言いようがないが、インパール作戦の戦死者や負傷者は当事者自身が考えているようには無駄死にではなかった。それどころか歴史的事実としては、世界史そのものを変えたのである。

 インパール作戦自体、早い時期に計画されていたが、補給が困難だとして反対していたのが、後日担当とされ多くの批判をあびたた牟田口参謀その人であった。作戦が発動されたのは、東條首相がチャンドラ・ボースのインド独立の熱意に動かされたからだと言う説もある。また遅れは海軍に騙されていた、という説もある。対米戦をしているのにインドに攻め込んでどうする、というのである。

発動した時勝つには遅すぎた。しかし、牟田口の作戦は英軍に評価されている。戦後インパール作戦には口を閉ざしていた牟田口は、英軍に評価されていると知った時、急に話し始めた、というのは余りに現金である。しかしインパール作戦でインド国民軍(INA)が反乱軍として捉えられた時、インドの暴動が始まって、インドの独立は実現した。

洋画の「ガンジー」にはインパールもインド国民軍も登場しない。しかし、インド独立はガンジーの無抵抗運動で成ったものではない。確かにガンジーの運動がインド国民に対して、英国への反抗心を育てたことは事実である。西洋人が「ガンジー」なる映画を作ったのは、インドが比較的平和的に独立した、という嘘のためであるとしか考えられない。

もし、インパール作戦がなかったら、インド独立は、何十年も遅れたとインド人自身は言う。これは、インド人の手だけでも独立できた、という見栄であろう。日本軍の干渉によって独立は現実に起きた。しかし何十年後に独立できる、という保証はないのである。

昔インド製作の戦争映画を見た。英語の稚拙な小生にも、上官は比較的流暢な英語を話したのが分かった。ところが階級が下がるにつれ、多分ヒンズー語系だろうが、英語以外らしい言語が混じっているのが増えていった。要するに、上流階級には英語すなわち、英国文化が浸透しているのである。数十年過ぎたら、その傾向は強くなるであろう。

独立の気運さえ失われるかも知れないのである。あるいは独立したところで、インド固有の文化は喪失しただろう。そのことは現在の南米を見るが良い。

インドの独立がなければ大英帝国の崩壊はなく、アジア、アフリカの独立はない。これら世界の植民地の独立がなければ、今の日本はない。すなわち世界と公正な貿易による日本の立国は欧米の植民地支配の終了から始まったのである。

あり得ない想定だが、外交努力で支那事変を解決し、対米戦が起きなかったとしたら、日本の平和は当面は続いたであろう。ただし、白人世界の中の唯一の有力有色人種国家と言う、閉塞した状態は続いたであろう。その間、いつの日か日本は白人国家と衝突したのは間違いない。いくら対欧米関係に神経を使ったところで、欧米は非有色人種の国家日本が、世界の大国として登場したことなどということは、心底では許し得なかったのである。

なるほど米国などの陰謀で、憲法さえ変えられてしまった。反日を生き甲斐とする異常な日本人が増殖し、テレビマスコミには戦前日本を犯罪国家のように言う人士しか登場しない雰囲気が固定化しつつある。しかし、日本はサンフランシスコ講和条約で独立したのである。主権を回復した以上は、日本の混乱は最早米国のせいにすべきではない。既にしてキャスティングボードは日本人の手にあるのである。講和条約以前の主権のない状態の憲法を今放置するのは、日本人自身の問題である。日本は解放されたのだ。

その後の全ては日本人の自己責任である。以前にも、紹介したが漱石の「猫」にこんな挿話がある。金儲けのジョークである。人に600円貸したら、すぐに返せとは言わず、月10円返すと言う話にする。すると年120円で五年で完済だが、毎月10円づつ払っているうちに、払うことが習慣になって、永遠に金を貰えると言う算段である、というジョークである。

話を聞けば馬鹿馬鹿しいが、漱石は単なるジョークとして書いてはいまい。現に日本国憲法がその類である。政府は米軍に押しつけられた憲法を仕方なく成立させたが、本音の共産党などは反対した。ところが今はどうであろう。5年の借金の完済、すなわちサンフランシスコ講和条約が成立し、旧憲法の復活の自由ができたときには、多数が強制された日本国憲法を金科玉条のごとくいいつのる。吾輩は猫であるの冗句は冗句ではなく現実におきている。国家主権がない時点で成立させられた憲法は、憲法たりえないのは当然である。

日本国憲法廃棄も含め、責任は日本人自身にある。もちろん小生は廃憲論者である。なるほど平成29年における、安倍首相の九条への自衛隊の追加は建前としてはおかしい。だが今の日本国内の、異常な改憲反対を打破する道としては、他に選択肢はないのではないか。

現に何十年も日本国憲法が使われてきたのに、今更全部廃棄するのは変だ、というのはたしか大阪の橋下市長らの法律家としての見解である。しかし、これは憲法を文章で書かれた憲法典に限定した狭量な議論である。日本国憲法を廃棄したところで、成文憲法がなくなるだけで、国体の本質と戦前戦後の慣習からなる、国体としての日本国の憲法はなくならない

帝国憲法に内閣制度の記述がないのに、運用されていたと瑕疵をいう論者がいるが、憲法を成文典だけに見誤る瑕疵であろう。日本の憲法すなわち、国体は明治天皇の五箇条の御誓文と聖徳太子の十七条の憲法で本来は充分であり、成文典は不要とも言える。英国に成文憲法がないと、言い出すのは西洋の例があるから、という悪癖としか言えず、本質ではない。

伊藤博文たちが苦労して帝国憲法を造ったのは、欧米との不平等条約の改正の方便のひとつである。そのことを評価するのと、事実認識とは異なる。安倍総理がとりあえずの改憲を言うのは伊藤博文の事情と似ている。方便としの9条改憲をしなければ、対北、対中問題の対応は出来ないし、ともかくも米国製憲法を打破したと言う実績は残らないのである。

改憲によって米軍の指揮により、世界中に派兵しなければならなくなる、という論者がいるが、どこに派兵するかは日本の国策の判断であって、憲法の問題ではない。現に日本は朝鮮戦争で米軍に掃海を命令され、基地を提供して国際法上は参戦している。しかも、戦死者一人を出している。

つまりどこに派兵するかは、政策の問題であって、憲法以前の法律の問題ですらない。改憲阻止は漱石の言う、強迫観念である。現に平和憲法のおかげで、日本の平和は守られたというが日本国憲法下で、日本は朝鮮戦争とベトナム戦争に参戦したばかりではない。竹島を侵略され、数百人を下らない国民を拉致されると言う、侵略を受けて、何もできない。日本国憲法のおかげで、戦争をせずに平和に過ごした、というのはお尻を出したまま頭も土に突っ込んで逃げている、ダチョウの平和である。

現に朝鮮戦争とベトナム戦争に国際法上の参戦したばかりではなく、国民や領土を奪われて、知らぬ顔していたではないか。旧社会党の土井元委員長らは、これらの事実に極度に冷淡な、非日本人としかいいようがない。韓国の呉氏などは、朝鮮民族の性格にすら強烈な批判をした。あげくに日本に帰化した。

それはむしろ誠実な行為である。呉氏ほどの批判をするならば、韓国人からの批判に耐えかねて、というより、良心に従って国籍を替えたものと信じる。今、日本の悪逆をいいつのる者がいる。それならば、北朝鮮でもどこでも自分の理想の国に国籍を替えるが良い。それをしないのは、思想に忠実でないばかりではなく、いいたい放題の日本の社会への甘えに過ぎない。

 

 


フィリピン沖艦隊決戦の怪

2017-10-28 17:18:50 | 大東亜戦争

 日本海軍の伝統的対米戦略は、概ねこう総括できるそうである。対米開戦劈頭、フィリピンを占領する。米本土やハワイからの米軍からの応援は間に合わないから、フィリピン占領は可能だというわけだ。するとフィリピン奪還に、逆上陸船団を従えて、米主力艦隊が大挙向かってくる。それを日本艦隊が迎撃し、フィリピン沖か小笠原諸島付近で、日米艦隊決戦が生起する、というものである。

 そのため艦隊の練度を上げ、夜戦や潜水艦、航空機等により、漸減作戦をし、ワシントン条約等で対米戦力不足となった主力艦隊を助けるのである。現実にマリアナ沖海戦で勝利した後、米軍は大挙してフィリピン攻略を実行した

こう書けば、開戦の真珠湾攻撃は想定外であるにしても、フィリピン攻略部隊の迎撃と言う、日本海軍の想定はあながち見当違いではなかった。ところが、実際には海軍はフィリピン攻略艦隊を迎撃はしなかった。それどころか、易々と上陸されて後、ようやく捷1号作戦を発動し、迎撃体制を整えて待っている米艦隊に、兵力を分散して攻撃し、各個撃破されて、事実上日本海軍は壊滅した。

確かに、マリアナ沖海戦で海軍の航空艦隊は壊滅した。しかし、戦艦9隻を主力とした、水上部隊は残っていたのである。米艦隊のフィリピンに向けての航行途中なら、エンガノ岬沖で囮となって沈んだ小沢艦隊の4隻の空母を楯に、砲力戦を挑むと言うことも可能であったろう。現に栗田艦隊は、米艦上機の執拗な攻撃を受けながら、レイテ湾に向かって進撃した。米軍は栗田艦隊のレイテ湾突入が可能であったことを認めている。

まことに奇妙なのは、想定した米艦隊の襲来と言うのは、情報がなければ迎撃できないことが考えられていないことである。情報がないから、フィリピンに米軍が来ると予測しながら、迎撃できずに上陸を許したのである。現に珊瑚海海戦の原因となった、ポートモレスビー攻略作戦の情報を米軍は掴んでいたから、航行途中の日本艦隊の迎撃作戦が出来たのである。

国際関係の状況が違うとはいえ、かつての日本海軍はロシア艦隊の進路と時期の情報の収集に心血をそそいでいた。大東亜戦争の海軍上層部にはその片鱗すら見られない。いくら太平洋が広くても、米本土からは、ハワイを中継しなければ、フィリピンはもちろん、西太平洋海域には来られない。上陸されてから迎撃艦隊を派遣する、というのは大間抜けである。戦闘そのものには勝利した第一次ソロモン海戦も同様で、米輸送船団と支援艦隊が上陸地点に突入後、追っかけ三川艦隊が到着している。全てが後手なのである。

重巡インディアナポリスは原爆の部品を運搬するために、東海岸を出発し、パナマ運河、サンフランシスコ、ハワイと経由してテニアン島にたどりついている。米軍の東海岸から西太平洋の航行ルートの、ターミナルはわずかしかなく、明白なのである。

例えば長大な航続力を持つイ号潜水艦が、アメリカ西海岸、パナマ運河やハワイ周辺を看視する、といったことは可能であった。潜水艦を米西海岸まで苦労して長躯航行させて、水上機から僅かな爆弾を投下するなどということはやらせたのに、米軍の輸送ルートの情報収集に失敗しているのは、奇異としかいいようがない。


ミッドウェー海戦考2

2017-02-18 16:07:46 | 大東亜戦争

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ミッドウェー海戦で、山本大将には真珠湾で撃ち漏らした空母を誘い出して撃滅する、という意図が強かったと言われている。その一方で海軍上層部には、米空母は南方に居り、ミッドウェーには出てこない、と楽観していたとするむきもある。敵艦隊をおびき出すために上陸作戦をする、ということの軍事上の不適切は別に論じた。

海上自衛隊の元幹部の、是本信義氏はミッドエー敗因の根本は、山本の「敵空母機動部隊を誘い出し、これを撃滅する」という真意が南雲司令長官に伝わっていない「戦略思想の統一」の欠如にある、という。そして南雲機動部隊の実力への慢心もあったという。

そもそも、前述のように敵艦隊撃滅のための上陸作戦などというものは論外であることはさて置いても、山本長官の真意が伝わったとしても、米空母が出現したとすれば、空母攻撃戦力からは日本側は完全に不利な状態にあった、と言わざるを得ない。本項ではこれについて考える。日本側はヨークタウンは珊瑚海海戦で大破し、戦力にならないと見ていたから、米空母がいるとすれば、エンタープライズとホーネットあたりと考えていた。すると日本側の推算では米空母搭載機合計は162機から180機であり、これが日本空母攻撃に全力をかけることができる

これに対し、日本側の空母攻撃の待機機は、およそ108機である。ヨークタウンがいないとしても、既にこれだけの差があったのである。つまり、日本側の米空母の見通しが正しかったとしても、日本側は最初から不利だと想定できたのである。

実際にはヨークタウンがいたから、定数は243機から270機となる。二波に分けて攻撃しても、一波当たりの数で既に日本機を超えている。その上、米側は30分程度の間隔で、1波と2波の全機で攻撃できる。これに対して、日本側は敵空母攻撃隊の108機をまず発進させ、次にミッドウェー島攻撃隊を帰投してから収容し、燃料と兵装を補給して、再出撃するのは、第一波の敵空母攻撃隊を収容してから何時間も後になるから、米空母機に襲われた後になってしまい、現実には再出撃は出来ない。これは想定できる話である。つまり航空戦力比では日本側の負けである。この想定は、ミッドウェー島攻撃隊が発進して後に、米空母の所在が判明した場合である。

運よく、第一次攻撃隊発進前に敵空母発見の報が入り、ミッドウェー島攻撃を中止し、米空母を攻撃することに変更してもややこしい。ひとつの想定は、対地攻撃兵装のまま第一次攻撃隊を、米空母攻撃に即時出撃させる場合である。魚雷などを積んだ、第2波は、格納庫からの飛行甲板整列と発艦作業で一時間位遅れて発進するが、第一波が先制攻撃になり、米空母機が襲ってこなければ、これが唯一の勝利の可能性がある場合だと思われる。

もうひとつは、対艦兵装にこだわった場合である。最短なのは飛行甲板上の第一次攻撃隊と格納庫内の待機機を入れ替えることであるが、それでも相当時間がかかってしまう。是本氏によれば、第一次攻撃隊発進の50分後の0520には米側に日本空母が発見されている。従って第一次攻撃隊の発進予定時刻よりよほど前に日本側が米空母を発見しないと、米側の先制攻撃を受ける。これはで日本側の負けである。現実はそうなった

そもそも、米軍は事前情報がなくても、第一次攻撃隊が発進すれば、レーダーで日本機が発見されて、日本空母がミッドウェー島付近に遊弋していることは知れるから、日本空母の捜索が始まる。つまり米軍が先に日本空母を発見する公算が高くなる。米軍がレーダー探知能力を持っていることは、珊瑚海海戦その他の、それまでの戦訓で分かっている。米国が暗号解読で事前情報を得て有利となったのは事実としても、それは警戒網や基地航空隊の陸上機を増強したことが、大きいのであって、米国勝利の絶対条件ではないことになる

また、米側には多少はともかく、基地航空隊が存在することも日本側に分かっている。これに追加するに米空母機の最低180機がいたと考えなければ、米空母撃滅の目的は設定する必要はない。日本側の事前情報で既に、この航空戦力比では日本側は明らかに不利である。いくら海軍上層部がミッドウェー島付近に米空母はいない、となめていたとしても、ミッドウェー作戦を強行した山本長官は、米空母撃滅をも企図としていた、というのだから、米空母がいる、という可能性が大だと想定していた、と考えなければおかしいのである。

このように、当初から米空母がいた場合の日本側の不利を想定できたとすると、山本が、不利にもかかわらず半数待機を命じたのは、念のため、というのに過ぎず、本気で敵空母撃滅を考えていたかについては疑問符がつくことになる。ミッドウェー島攻撃隊が、真珠湾攻撃の第一波183機に比べればはるかに少ないのは、攻撃目標が少ないから充分だ、ということであろう。

さらに真珠湾攻撃では予定通りの第二波171機が一時間余後に発進している。ミッドウェーの場合、第二波(第二次攻撃隊)は予定外に第一波の攻撃隊の要請で発進準備がなされた。すると計画上は約350機と108機と圧倒的にミッドウェー島攻撃戦力は少ない。

真珠湾攻撃の批判者は米空母の不在による、攻撃の不徹底を主張するが、もし、米空母がいたら、ミッドウェーとはいかないまでも、米空母を撃滅できたとしても、日本空母相当の被害を受けたはずある。

是本氏によれば、米機動部隊が日本側を発見したのは0520で、ほぼミッドウェー空襲を実施中であった。史実と異なり、同時に日本側が米空母を発見し、ただちに待機していた108機の攻撃隊を発進したとすると、互いに攻撃を開始したことになる。現に米側はその後、艦上機と陸上機によって日本の機動部隊を盛んに攻撃している。

こうなれば、航空戦力が劣る日本の攻撃隊が、米空母にどの程度の被害を与えることが出来るか、米側の攻撃隊がいなくなり、第一次攻撃隊を収容した空母の被害が、現実の海戦よりどの程度被害が軽減されているか、であろう。何回も言うが、航空機の戦力比から言えば、元々日本側不利である。

まして珊瑚海海戦では、米機動部隊の対空砲火と直援戦闘機との防空能力は大きく、日本側の防空能力は、直援戦闘機なしには、脆弱であるという戦訓は得られている。沈没した祥鳳は雷爆撃の滅多打ちにあい、レキシントンは多大な被害にもかかわらず、沈没せず、ガソリンの気化ガスの引火によって偶発的に沈没した。いずれにしても、南雲機動部隊が自慢した鎧袖一触ということはあり得ない。山本長官ら連合艦隊司令部は珊瑚海などの教訓を全く無視していた。

現に、事前に大和艦上で行われた図上演習(2)では赤城と加賀は沈没している。また「魔の5分間」の出どころのひとつは阿川弘之氏であった(2)。「・・・『第二次攻撃隊準備出来次第発艦セヨ』という命令が出た。母艦は風に立ち始め、やっと雷装に切り替え終わった攻撃隊群は、すでにプロペラを廻し出し、あと五分あったら、全機アメリカの機動部隊に向かって発艦を了え得るという時に、突然、上空から、真っ黒な敵の急降下爆撃機が三機、「赤城」をめがけて突っ込んできた。」

発艦開始から五分で二〇数機が発艦を終える、というのだ。当時の空母では一機発艦するのに一分を要する。全機発進に五分は絶対にあり得ない。現にその後攻撃隊を発艦させた飛龍は20分以上かかっている。そのことは阿川氏もよくご存じのはずだ。失礼ながら間違ったのではなく、嘘をついた、としか考えられない。これが巷間言われる「魔の5分間」の正体である。

以上のように、日本側が普通に戦えば力量も戦力も上だから勝てたはずだ、という説は全くの見落としがある。ヨークタウンがいない、というばかりではない。米空母の一隻当たりの搭載機数が、日本空母よりよほど多いことである。また、半数はミッドウェー空襲部隊であり、半数待機だから、対空母戦としては即戦力で使えず有効な搭載機数が半減する。

現実には、想定外のヨークタウンが参戦していたし、ミッドウェー島には日本の機動部隊来襲を予測して、爆撃機、雷撃機、哨戒機合わせて120機以上が配備されていた(3)(P412)。その上魚雷艇11隻と潜水艦が島の周囲を哨戒している。確かに艦隊の総数は日本の方が遥かに多い。しかし大和を中心とする「主力部隊」は何百浬もの後方にいる。駆けつけるのに全速でも10数時間かかるが全速は無理である。

一般に「・・・ミッドウェーの戦いには、アメリカをはるかにしのぐ物量でもって臨んだのである。・・・どんな馬鹿な司令官が指揮をとっていたとしても、日本は楽勝できたはずである。(4)」というのが定説である。ミッドウェー攻略作戦の批判者ですら、これに近い見解である。だが日本の図上演習でも相当な苦戦となることが既に予測されていた。

実際には、その上に日本の予想の倍の上回る航空戦力が配備されていた。これで日本機動部隊が勝つとしたら、よほど運に恵まれていなければならないのが本当であろう。現に米陸上機と艦上機の雷爆撃のほとんど全てを回避している、という実力と幸運さえあった。にもかかわらず、米側の執拗な攻撃の当然の帰結として、最後には惨敗したのである。

魔の5分は論外としても、日本空母はそのかなり前から、基地航空機と艦上機に攻撃されていて、辛うじて防空戦闘機の獅子奮迅の活躍と、巧みな操艦により被害を受けずにすんでいた。米側の攻撃の激しさをみれば、致命傷となった急降下爆撃以前に、雷爆撃の被害がなかったことが奇跡的である。

今後海軍の戦闘詳報をチェックしてみようと思う。ただ、ちらと見る限り、多くの戦死者が出ているために、欠落が多いが、攻撃隊の編成や空戦の状況など、見るべきものも多いはずである。ただ、戦闘詳報は当然膨大なものなので、チェックがいつ終わるかわからないと言い訳しておこう。

 

(1) 日本海軍はなぜ敗れたか・是本信義

(2) 山本五十六(下)・阿川弘之

(3) ミッドウェー・森村誠一

(4) 世界最強だった日本陸軍・福井雄三


書評・第二次大戦の〈分岐点〉・大木毅

2016-12-04 13:52:41 | 大東亜戦争

 第二次大戦の分岐点の定説について、独自の観点からとらえている、というような趣旨の書評につられて読み始めたが、よく調べられているのは流石だが、衒学と情緒的書きぶりに少々嫌気がさして放棄した。読み込めば価値はあるとは思うのだが、気分的にどうにもならない。また簡単な間違いや思い込みが目につくのも気になる。

 典型は第三章の「プリンシプルの男」である。書評にはならないが、本項ではこの点の批判だけする。「プリンシプルの男」とは零戦の設計主任の堀越二郎のことである。設計者として必要な資質としての、自分の立てた原則を曲げないという性格を持っているというのだ。本書に書かれている頑固さの例は、安全率の規定を部材によっては緩和すべき、と主張して担当官をねばり強く、説得したというものである。

 本書にはないが、類似の例では堀越氏が、艦上戦闘機烈風が要求性能に達しないことが判明したとき、色々な実機のデータから、設計より以前に、誉エンジンに問題があることを立証して、ついに会社のリスクでエンジンを換装することで海軍を説得したのであった。官が民に対して高圧的であった当時にあって、その行動力は物凄いものである。だがこれらの例はプリンシプルと言えるのだろうか。自分が正しい、ということを主張したのであって、何かの原則に基づいて主張したものではない。

 逆に、海軍の要求仕様について、戦闘機の性能では格闘性能か高速力が優先すべきか、というような議論を軍のパイロットが議論を始めたとき、堀越は傍観者として見ていた。正否はともかく、二人のパイロットには、戦闘機のあるべき「プリンシプル」があったのに、堀越は持ち合わせていなかったのである。堀越のプリンシプルは別なところにあった。それは重量軽減である。本書にも書かれているが、その執念は尋常ではない。

 戦後防衛大学で堀越から航空工学の講義を受講した人物が、堀越教授は重量軽減についてばかり講義して、毎回機体の重量計算ばかりさせていた、ということを小生はある資料で読んだ。それだけで一年の授業が持つのかと不可思議であるが、別な資料でもう一人の同様の証言があり、両人とも堀越を尊敬している風はあっても、非難する様子ではなかったから、事実なのであろう。

 堀越自身が、「一キロの重量軽減は多量生産時の工作時間三十時間に値する」(零戦)と述べている位である。当時は一万機に達する大量生産は予期していなかったから、仕方ない、という説もあるが、千機であっても工数低減の影響が大きい多量生産の部類である。その程度の生産量は想定内だし、堀越の言わんとするのは工数が増えても重量軽減の方が大事だ、ということだけである。現に堀越自身の著書によれば、生産工数比較では零戦は、かのP-51の三倍である。

 工員の賃金をドル-円換算して比較すると、コストにすれば、零戦の方がP-51より安い、と堀越は言うのだが、人的資源の消費という観点からすれば、工数の大小が問題である。工数が多ければ、他の軍需物資の生産に回せる人員を零戦の生産が食ってしまうことになる。人口が余っていれば問題とはならないが、当時でも人口は日本の方がアメリカよりずっと少ない。

 マスタングは生産中にも工数低減の努力をしているから、この差は縮ってはいなかったどころか広がっていたであろう。堀越は七試単戦から5種の戦闘機設計をしており、海軍の要求のシビアさから戦闘機設計のプリンシプルとして、重量軽減に到達したのだろう。しかし、戦後航空工学の講義でそれを教えた、ということは飛行機一般の設計の原則としたということだろう。

 しかし、飛行機が空を飛ぶ以上、どんな設計者にとっても重量軽減は原則のひとつであるのは当然である。そして、飛行機設計には他にも色々な要求があり、機種によっても要求の優先順位は異なるので、それらのバランスが設計の妙であろう。それを、重量軽減しか教えない、というのは余りにバランスを欠いている。それは技術者に必要なプリンシプル、というものではなかろうと思うのである。

 また、零戦の技術的特徴をいくつか列記しているが、引込み脚や翼の捩じり下げなど、そのほとんどが日本でも外国でも既知のものである。捩じり下げの効果の説明は間違いであるし、沈頭鋲を「ネジ」としているのもいただけない。簡単に確認できるミスである。

零戦は客観的に見れば、隼などの同時期の日本機に比べても格段に優れたものではない。大東亜戦争緒戦の日本戦闘機の優位は、支那事変で実戦を経験した、熟練パイロットの技量に負うところが多い。また隼の戦果さえ米軍は「ゼロ」と恐れていた節さえある。要するに著者は零戦神話に眩惑されている。前述のように書評にはなってないが、これでやめておく。

 

 


ミッドウェー半数待機の疑問

2016-10-09 16:01:19 | 大東亜戦争

 ミッドウェー海戦では山本司令長官の命令で、搭載機の半数を敵空母出現に備えて待機させた、ということであった。ウィキペディアによれば、真珠湾攻撃の時点での搭載機合計は、補用機を含め、255機である。一方是本信義氏によれば(1)、ミッドウェー攻撃隊は108機で、対機動部隊待機も山本大将の厳命により108機とある。また是本氏による日本側航空機330機には、戦艦などの艦載機も含むのであろう。

 255機との差は39機となるが、これは補用機、艦隊防空機などであろうか。ウィキペディアによるミッドウェー島第一次攻撃隊の編成は各艦の出撃機数は赤城27(9,0,18)、加賀27(9,0,18)、飛龍27(9,18,0)、蒼龍27(9,18,0)、となっている。カッコ内は、各々零戦、九七艦攻、九九艦爆である。これは是本氏の合計と一致する。すなわち赤城と加賀は搭載の艦爆の全機、飛龍と蒼龍は搭載の艦攻の全機が出撃したことになる。

また、赤城の項には、待機の九七艦攻は全機が魚雷を搭載しており、第一次攻撃隊出撃後飛行甲板上に上げられ、機動部隊攻撃待機をしていたとされている。加賀も同様であったろうし、飛龍と蒼龍の九九艦爆は全機が対艦用爆弾を装備して、飛行甲板上に上げられたのであろう。

真珠湾攻撃の際には第一次攻撃隊は第一波と第二波に分け、半数づつ攻撃隊を発進させている。これは飛行甲板に全機を揃えて発艦させられないための処置である。第一波が発艦し始めて、飛行甲板にスペースが出来始めると格納庫に待機していた第二波の機が上げられ、第一波全機発艦後しばらくすると、第二波全機が飛行甲板上に整列できて一斉に出撃したのだろう。

 ミッドウェー攻撃では、これに準じて、真珠湾攻撃の第一波と類似の編成で、地上攻撃の第一次攻撃隊を出撃させた。そして、是本氏によれば、第二次攻撃の要あり、という無電(〇五三〇)により待機機の兵装を対艦用から陸用に転換したが、利根四号機からの敵機動部隊発見の報(〇六三〇)により、混乱したが、結局第一次攻撃隊収容後、待機機を再度対艦用兵装に転換して一番機発進の直前に急降下爆撃を受けた(一〇三〇)と言うのである。

ウィキペディアの言う、第一次攻撃隊が発艦したらすぐに待機していた機動部隊攻撃隊を飛行甲板に整列させた、というのは運用上煩雑となる。こうすると、待機機が飛行甲板上にいる限り、帰還した第一次攻撃隊は着艦できない。第一次攻撃隊は往復約二時間しかかかっていないから、飛行甲板に待機機を上げてから、二時間以内に、待機機を全機発艦させるか、全機格納庫に戻さなければならない。

一機平均発艦には一分は要するから、全機発艦には20分以上かかるし、格納庫から飛行甲板への出し入れは、それ以上かかるだろう。森村誠一氏によれば(2)、格納庫から飛行甲板からに引き上げて発艦体制を完了するのに40分はかかるという。話はそれるが、森村氏の著書には他にも貴重なことが書かれている。(P453)兵装転換は平常の訓練時でも、魚雷から八十番で一時間半、艦船用徹甲弾だと二時間半かかかり、逆は一時間半から二時間だという。

しかも、兵装転換は格納庫で行われているという。格納庫からの上下は、エレベータの速度で最短時間は推定できるが、兵装転換時間は推定方法がないので、関係者の証言を聞いたのであろう。

閑話休題。敵機動部隊発見の有無、兵装転換の有無にかかわらず、敵空母出現のための待機機が、飛行甲板上にいられるのは、元々1時間程度しかないことになる。

それどころか第一次攻撃隊が帰ってくると、収容のために飛行甲板を空けなければならない。すると発艦体制の40分より短くて30分で待機機を格納庫に収容できるものとしても、その間帰投した攻撃隊を空中待機させるか、帰る時間を予測して、あらかじめ待機機を格納庫に戻すかしなければならない。帰投した攻撃隊は多くが傷ついているから、空中待機させる、というのは、かなりリスクがある。つまり各艦から半数づつ攻撃隊を出す、というのはかなり運用上面倒かつ作戦上のリスクがある。

また是本氏が、機動部隊攻撃隊発艦開始直前に急降下爆撃を受けた、という定説をとっているのは間違いと考えて差し支えないであろう。米軍による日本兵への聞き込みによれば、母艦被弾中に攻撃機はまだ格納庫にあった、という。急降下爆撃機に襲われた時に、発進し始めたのは、防空戦闘機であったというのである。まだチェックを終えていないが、海軍の戦闘詳報には、敵空母攻撃隊発進開始、という記録はないと思われる。

また、艦爆の被害から幸運に免れた飛龍も、攻撃隊を発進させたのは、赤城らが被弾してから30分もたっているのも不可解である。少なくとも4艦が一斉に的空母攻撃隊の発艦を開始したと言うわけではないことははっきりしている。

また、前記のように、各艦での半数待機というのは、極めて困難である。待機させるなら4隻のうち二隻を機動部隊攻撃用にあてる方が効率が良いのである。このようなわけで、ミッドウェー攻撃隊の編成をきちんと調べないときは、山本大将の言う半数待機を実行したのなら、当然半数の空母が待機に回されていたはずだと小生は考えていたのである。

それをしなかったのには、いくつか理由が考えられる。第一に空母ごと全機待機にまわされれば、乗員や搭乗員に大きな不満が出る。真珠湾攻撃の際も攻撃隊に入れず、艦隊防空任務に回された搭乗員には不満があったと言われる。搭載機が大幅に減ったにも拘わらず、大した攻撃目標でないため、搭載機の半数で済むとしたら、各艦一斉に攻撃隊を出す方が、第一波と第二波とのタイムラグが生じなく、集中して攻撃できる、などであろう。

実際、艦上機数は真珠湾の六割程度しかない、翔鶴型の不参加による搭載機の不足と、ミッドウェー攻略と敵空母撃滅の二股をかけたことが、作戦をいびつにしたのである。だが空母がなかったわけではない。戦闘には参加していないが小型とはいえ、鳳翔(19機)と瑞鳳(30機)が随伴していた。また、ミッドウェーの牽制として行われたダッチハーバー攻撃には隼鷹(53)と龍驤(38機)を無駄遣いしている。

4艦の搭載機数合計は140機になるが、出所はウィキペディアによるものであり、補用機も含み、ミッドウェー海戦時かの確認はしていない、目安と考えられる程度である。このように翔鶴型がいなくても、空母と艦上機は余っていたのである。

(1)日本海軍はなぜ敗れたか・是本信義

(2)ミッドウェー・森村誠一


大和撃沈を空母に任せたのは軍事的合理性

2016-08-27 15:46:06 | 大東亜戦争

 平成28年8月の雑誌「ミリタリー・クラシックス」54号には、大和撃沈の顛末が書かれている。大和の沖縄出撃を知った、ミッチャー提督がアイオワ級4隻とサウスダコタ級2隻による攻撃を具申した。このことは、戦艦は戦艦で仕留めたいという伝統的願望によるものと評するむきが多い。しかし、太平洋艦隊司令部は、沖縄上陸戦闘が開始されたばかりで、16インチ砲の艦砲射撃が必要となる可能性大として却下し、機動部隊による攻撃を命じたというのだ。

 全くその要素はない、とは言わないが、本当の原因ではあるまい。なぜなら大和攻撃に向かった艦上機も戦艦群と同様に上陸支援に必要だったのである。そもそも大和攻撃の機動部隊の護衛として新型ばかりではないにしても、6隻の戦艦をさいているのである。根本的原因は作戦の合理性にある。大和撃沈に必要な米軍の損害の多寡を計算したのである。

過去の海戦の経験から、日本の対空戦闘能力の著しい低さを米軍は知っている。駆逐艦は対空戦闘能力は無きに等しい。防空駆逐艦と呼ばれた秋月型にしても、対空火器管制システムが大抵の米駆逐艦よりずっと劣る。戦艦や巡洋艦の高角砲も同様である。

 例えばシブヤン海海戦で武蔵は多数の雷爆撃に耐えて、ようやく沈んだ。しかし、攻撃機の被害は大したことはなかったである。武蔵撃沈での米軍機の搭乗員の戦死者は数十名にも及ぶまい。一方第三次ソロモン海戦で、老齢の戦艦霧島は撃沈されたものの、16インチ砲の最新戦艦2隻と打ち合い、致命傷こそ与えなかったがサウスダコタに多数の命中弾を与えて戦場を離脱させた。上構を大破させたのである。

 その被害は、人命とともに多大なものがあった。戦死者は数十名どころではなかったであろう。だから、たとえ大和1隻を最新鋭戦艦6隻で襲ったとしても、大和は沈没と引き換えに、1隻の撃沈あるいは、多大な損害を与えることはできだであろう。そう考えれば空母機動部隊の攻撃の方がはるかに損害が少ないことは想像できる。まず米艦艇の損失はあり得ないのである。

 事実は結果が証明している。日本軍は大和以下6隻と約3700人を失い、米軍は艦上機10機と、搭乗員12名を失うという微々たる被害であった。