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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

大東亜戦争宿命論

2019-09-15 22:01:00 | 大東亜戦争

 私はここでも、大東亜戦争という言葉を使う。太平洋戦争というのはGHQに検閲等により強制された名称だからである。戦前生まれの父母はいつも大東亜戦争の頃は、と言っていて決して太平洋戦争とは言わなかった。それを小生は子供の頃古臭く感じていたが、父母が正しいのである。大東亜戦争という名称を使うことと、軍国主義か平和主義かということには何の関連もない。GHQに洗脳されているかいないかの違いである。小生は長い間かけて、自ら逆洗脳して、大東亜戦争という言葉になじんだ。

 大東亜戦争は必然であったか、必然ではなかったとすれば避けるべきであったかをここては問いたい。この問いは誰にも難解である。結論から言えば私は避けることはできたが必然であると考える。矛盾ではない。あの時点での開戦は避けえた可能性がなかったわけではない。しかし、避けえたにしても日米の軋轢の解消は不可能であるために、いずれかの時点で日米戦争としての大東亜戦争はおきたのであろう。それより以前に、ソ連もアメリカも、日米戦争を望んでいたのである。戦争は日本の国内事情により起こったのではないのはもちろんである。

①植民地解放の時期
 戦争の発生の時期の良し悪しからいえば昭和十六年の開戦は遅すぎとはいえても早すぎではない。第一は植民地解放戦争としての意義である。日本人の大多数は、維新以来、欧米の植民地政策を解消すべきであると考えていた。従って大東亜戦争の意義として植民地の解放があったのは偶然ではない。結果的にも全世界の植民地解放に直結したのは間違いはない。

 それは結果論に過ぎない、ということの何とおろかな。産業革命を見よ。彼らは自己の飽くなき欲望の実現のために機械工業の革新をしたのであって誰一人として産業革命そのものを目的として働いた者はいない。しかも産業革命には植民地獲得という、他の地域からいえば悲劇の上に成り立っているのである。日本の植民地解放に伴う犠牲の何とも少ないこと。しかも悲劇の多くは日本人自身の血であがなっている。欧米と組んで日本を妨害した愚かな支那などは論外である。

 ところが解放された植民地には、現在でも欧米の爪痕がはっきり残っている。インドとパキスタンの紛争、アフリカの内戦などばかりではない。多くの国がかつての宗主国の言語を公用語として使わざるを得ない。言語が民族の重要な構成要素であることから悲劇は大きい。これらの悲劇は植民地であった期間が長かったことによる。欧米諸国はキリスト教を強制し伝統的宗教を破壊したばかりではない。インドとパキスタンのように伝来の宗教の保護を口実にイスラムとヒンズー教の対立をおこして分離支配をした。欧米の分離支配の痕跡による紛争を数えればきりがない。

 言語においても、一部の民に宗主国の言語を教えて高等教育を施して、支配の手先として使い、民族的言語は統一を阻止して分断を図るという悪辣な政策をとった。現在の世界の紛争のほとんどは、共産主義国による侵略政策の残滓を除けばほとんどが欧米の植民地政策による。植民地時代が短ければ禍根が少ないという意味では日本の開戦は遅すぎたとさえ言える。

②戦争の技術
 第二は戦争の「技術」の問題である。兵頭二十八氏が日本の兵器は欧米の模倣を現在も脱していない、と指摘したのは正しい。戦時中尽力した、多くの技術者が独自の工夫のごとく主張する日本の兵器も実は欧米の兵器のものまねの域を脱していない。この点はロシアとよく似た実情にあるどころか、実は今でも機械工業の先駆であるロシアに遅れをとっている。

 ロシアは捕獲したB29のコピーに成功したが、日本はもっと旧式のB17のコピーをしようとしてできなかった。ロシアの技術全般は日本より優れている。Me163ロケット戦闘機のコピーをするのに日本は、ロケット技術と関係のない無尾翼まで生真面目にコピーしたが、ロシア人は意味のない無尾翼を避けて技術的なリスクを減らすという知恵をみせた。飛行機の引っ込み脚の開発が日本が一歩遅れたことを、日本の技術者は、何だかんだ言い訳しているが、技術の遅れに過ぎなかったのが実情である。

 軍事技術の格差は軍事技術の発達が進むにつれて広がる。レーダーの開発の遅ればかりではない。いや日本ではレーダーやVT信管といった派手な技術の差ばかりが取り上げられて、通常の技術の差についてはほとんど言及されない。だから今後に活かす反省とはならないのである。レーダーやVT信管以前に、火器管制システムそのものにおいて遅れをとっていたのである。

 ソフトウェア、例えばC3Iと呼ばれる指揮統制システムや火器管制システムなど外見に表れにくい差異は大東亜戦争の時点でも相当に大きい。これが端的に表れたのは防空システムであった。艦隊防空戦闘機の組織的運用、レーダーピケット、個艦防空火器の組み合わせによる優れた防空体制は知られているが、火器管制システムそのものにおいて大きな差があったことに注目する人は少ない。

 ハリネズミのように対空火器を装備した、戦艦大和ですら甲板上を銃撃されて敵機に自在に跳梁されるほど、対空火器は無力であった。ところが日本の攻撃機はたとえ防空戦闘機などの防衛網を突破しても、戦艦に対しては対空火器により容易に撃墜されてほとんど被害を与えることはできなかった。戦艦ばかりではない。巡洋艦、駆逐艦の防衛網さえ容易に突破できなかった。

 戦艦は航空機に勝てないなどと簡単に主張する人たちも、この日米の差異にはなぜか気がつかない。このような差は日露戦争の時点ではあまりなかった。すなわち戦争の技術があまり進歩していない時点であれば、相対的に日本にはがんばる余地が多く、より有利であったと言える。欧米の戦争技術へのあくなき執念は、日本などアジア諸国とは隔絶している。中共のステルス戦闘機など、どこまで外観に内実が伴っているか知れたものではない。

③日米戦争は避けられなかった
 結果論といわれようと、戦争は日本にチャンスをもたらした。現在の世界は自由貿易が原則である。独立国は二百以上あり、現在の独立国は国際法上対等の建前である。有色人種に対する差別は表向きできない。それが日本に経済的繁栄をもたらした。現在の日本人はこれらの前提が当然のことであると誤認している。そして過去の日本の戦争についても、そのような条件があった上で戦争を繰り返したと無意識に考えているのに違いない。しかし戦前の国際法は、文明国に適用されるものであって、非文明国に適用されるものではなかった事実は忘れられている。日本は一人維新以来、文明国に入ろうと孤独な戦いを続けていたのである。

 戦前の世界にそのようなことはあり得なかったと確認するのは重要なことである。そのような国際社会をもたらしたのは、日本が明治開国以来戦った数々の戦争である。その総仕上げが大東亜戦争であった。そして欧米の植民地は崩壊し多数の独立国が成立した。それを単なる結果だと呼ぼうか。そんなはずはない。

 産業革命を多くの人はどう評価するであろうか。それまでの技術から格段に飛躍し、現在に至るまでの技術の長足の進歩のスタートであり、現代社会の経済的繁栄を齎したものと評価してよいであろう。だが動機から言えば産業革命は西洋人のエゴに過ぎないと言い切ることも可能である。

 技術を改善して産業を興して金儲けしたいというのが本当の動機であろう。そして産業革命は多くの悲劇をも齎した。産業革命により起こった産業の原料を手に入れ、製品の売り場を求めて多くの植民地が獲得された。植民地では従来の農業などの産業が破壊され、綿花など工業原料の生産のために改造された。

 生産した製品の販売のために在来の手工業は淘汰された。インドにおいては英国人は、紡織職工の手首を切ってライバルを抹殺する非道すらした。黒人奴隷が獲得されたのも産業革命に続く生産の拡大によるものである。大航海時代と産業革命は世界を変えたのである。欧州の幸福の引き換えに、その他の地域に取り返しのつかない不幸を齎したのである。それでも人は産業革命を高く評価する。

 その字義は善である。繰り返すが、産業革命による技術革新はエゴによる結果に過ぎない。日本の戦争による植民地解放が結果論に過ぎないと否定するものは、産業革命の意義も強く否定するがよい。日本による植民地解放は意図しないものとは言えない。いや意図したものでもある。今でこそ西洋人はアフリカの貧困や飢餓や病気などを救おうとキャンペーンをはっている。しかし、これらの悲劇をもたらしたのは、西洋人自身だった。マッチポンプの典型である。

④共産主義による民族解放と日本との違い
 共産主義による民族解放は方便に過ぎない。しかもたちの悪い方便である。最初はコミンテルンとして世界各国に共産党の支部が作られたのがその始まりである。ソ連に革命が起きてもこれに続くものはなかった。資本主義諸国はソ連を圧迫する。ソ連の自立は危うい。そこで資本主義の国にコミンテルン支部を作り内部からソ連を支援する。

 あわよくば革命を起こしてソ連の側につかせるのである。これは多くの効果を発揮して、副産物として米国の原水爆技術などが盗まれた。東欧の共産党は戦後東欧各国をソ連の衛星国にする手段に使われた。衛星国とは体のいい属国である。満洲国を日本の植民地や偽国家というのなら、東欧の衛星国とはソ連の植民地であり、偽国家より程度が悪い。日本は満洲の地に幸福の地をもたらす可能性すらあったのである。

 チェコなど先進工業国であった東欧は搾取された。あるいは産業構造を変えられて、ソ連経済の一部を担う国にされた。ソ連の崩壊によって独立した共和国でも、旧ソ連の産業支配から脱却できないで未だに混乱している。さらに米国に対抗して後進国が狙われた。これが民族解放である。後進国に共産主義者を教育して送り込み、革命を起こしてソ連に従属する政府を作るのが目的である。

 共産主義とはソ連による一種の世界制覇の手段である。自己矛盾しているソ連経済にとって、次々と支配領域を併呑して富を吸い上げるしか存立の道はなかったのである。ソ連支配は拡大を続けなければならない。だからどんなに軍事的には不合理であろうと、能力的に無理であろうと、共産国家の増殖を続けなければならなかったのである。その挙句にたどりついたのがソ連崩壊であった。

 これがアフリカや東南アジアなどにおいて、西欧の植民地支配に準じた混乱を未だに引きずっている。ソ連は崩壊してただの国になった。ロシアにとって民族解放は不要である。だが播いた種は勝手に成長して巣食った。これが民族解放の残滓である。多くのテロの原因のひとつはソ連の民族解放の名残の一面もある。

 日本による植民地解放はこのような矛盾はない。当のアジア諸国が何と自己主張しようと事実に変化はない。ネールやガンジーなどのインド人のどこが偉いか。そんな偉人が生まれたインドは内部紛争に付け込まれて、はるかに小国の英国に支配されてしまったではないか。ネールやガンジーは一人しかいなかった。しかし内村鑑三に言わせれば、西郷隆盛は日本にはいくらでもいたのであって、大西郷は、その象徴であった。日本は独立を保ちえたのは、幸運もあったが実力でもあった。他のアジア諸国は幸運さえつかむことができなかった。

⑤日本の矛盾した立場
 いわゆる自虐史観の立場でなくても、日米開戦に至った経緯を外交の拙劣と批判するものは多い。岡崎冬彦氏や渡部氏などである。だが、その前提は米英との共存が可能であるということがある。そしてソ連ややっかいな支那に対して、共闘を組むことが可能であるということを前提としている。こんなべらぼうな話は世の中にはない。

 これは現在の世界情勢を背景として過去を見ている幻想に過ぎない。日本が米国と対等の関係を持つには現在のような経済力と工業力がなければならない。そのためには、現在のような多数の独立諸国と自由貿易がなければならない。日本の経済力や工業力ばかりではない。現在のように北朝鮮や韓国、イランなどのような国が発言力を持つのは、現在のように多数の非白人の独立国があるからである。

 この前提は日本が戦うことによって、たとえ最終的に敗れようと明治以来戦ってきたからである。しかももし日本が日露戦争以後戦わずにいれば、白人による世界支配は強化され、有色人種は白人と同化し独立の気概を失う。もしインドで起こったように日露戦争で刺激された独立運動が起きたらどうか。日本は米英共存するの立場に立つとすれば、米英と共にインド独立を阻止する立場にならなければならない。西洋人に支配されて文明化されたのは、香港など少数の例外を除いてない。

⑥東京裁判考
 テレビタックルなる番組で静岡大学の某教授が、東京裁判のやり方がおかしいから裁判として認められないというのなら、どの裁判も完璧を望めないから裁判として認められないというのと等しいという主張をした。もちろんこんなものは暴論である。

 突然占領して乗り込んできて法律を勝手に作って裁判と称して人を殺すというなら、やくざのリンチも裁判の形式をとって裁判と自称すれば裁判として認められるというに等しい。だがこの教授の言に一点だけ顧慮すべきことがある。もちろん教授の意図することとは異なるが。それは国際法、ひいては国際社会というのは道理が間違っていても、事実が通用するということである。

 つまり東京裁判はいんちきでも、それによって死刑は執行されたのであり、それを否定するなら、日本は米国を戦争で敗るしかない。竹島は韓国に不法占拠されているが、事実韓国が占拠している以上、韓国が実効支配しているという事実はあり、誰もこれを覆す世界警察はいない。覆すとしたら、韓国の経済的困窮につけこんで脅すか、戦争するしかないのである。

 いくらいんちきだと叫んだところで現実は、「裁判」なるもので人が殺されて文句も言えないのである。だが逆に米国を倒さなくても東京裁判を向こうにする方法は現にある。それは同じく、実行するという手段である。それは戦後の日本がやったように、東京裁判の刑死者を刑死者と認めず、恩給を支払うことである。

 犯罪者として日本国が認めるなら、恩給は支払われない。支払う法律を通した瞬間に東京裁判を否定したのである。米国もそのことを黙認することによって、裁判の無効を認めたに等しい。靖国参拝問題も同じである。A級戦犯がいるから参拝しないといった瞬間に東京裁判を肯定したことになる。

 東京裁判は行われ刑は執行された。そして再審の余地はない。しかし靖国参拝、その他により事実上裁判を否定する政治家の行動により、東京裁判を事実上否定することは可能である。しかし、裁判は終わって取り返しがつかないと認めた瞬間に東京裁判は実効性を持ってしまうことを忘れてはならない。

⑦ハルノート公開で戦争は避けられたか
 日米戦争回避の方法で最も説得力を持つのは、ハルノートを米国民に公開していたらということである。この時点で他の方法は考えられない。当時の米国民は厭戦気分が強く、ルーズベルト大統領も欧州大戦に参戦しないという公約で当選したというのがその根拠である。

 だが、この説にも不可解な点がある。現在ほどではないにしても、米国は情報社会である。米国は参戦していないにしても、既に武器貸与法で英ソに武器援助をしている。法律は議会の審議を得ているのだから、多くの国民すなわち米国世論に影響を与える国民の多数は、ドイツに敵対するという合意はできている。そして石油やくず鉄の対日禁輸政策も国民の合意を得ている。

 すなわち不況下の米国にあって日本に石油やくず鉄を売らないとなれば、財界には多くの打撃を与えている。そのことは秘密でもなんでもない。多くの国民は知っている。それは対日禁輸の原因が何であるかを米国民知っているということでもある。米政府が強硬に出た建前は中国への支援である。

 だが同時に米国政府の意図は日本を刺激して、暴発させて欧州大戦に参戦しようということでもある。それどころか、日本を倒し、満洲利権を得ようとしたのである。ハリマン以来の念願である。当時の米国は宋美齢など中華民国や共産党関係のロビー活動などで、中国に対する同情論に満ちている。そればかりではない。大陸における権益は欧州各国に独占され、米国の入る余地のあるのは満洲が主である。その満洲は日本の指導下にある。

 邪魔なのは日本。鉄道王ハリマンの満鉄共同経営は小村寿太郎に蹴られた。排日移民法に見られるように、日本排除の空気は米国に満ちていた。その上に日本に蹂躙される可愛そうな中国、裏では米国の大陸進出を妨害する日本を排除するという実利もある。そのための対日強硬政策は公然たるものだから、議会にしても国民世論にしても支持されていたのである。

 ハルノート公開により戦争を避け得るという説が見落としているのは、マスコミが発達し議会での議論が公開されている米国にあって、ハルノートに至るまでの日米交渉の経過や、対日強硬政策が米国内では周知のことであったはずであるという事実である。

 もしハルノートを日本政府が公開したとしても、日米修好通商条約廃棄に至るまでの戦争寸前の米国の強攻策を知っていた米国民に対して、米政府がハルノートを送った理由を容易に説明できたであろう。却って米国民はハルノートを日本政府に受け入れるよう一丸となって要求したであろう。

 なるほど妥結を目指して日米了解案を提案してきた日本政府にとっては、ハルノートは唐突であったろう。しかし不況の中での対日貿易の全面中止という苦しい選択を受け入れ、中国を侵略するにっくき日本という意識に固まっている米国世論にとっては、それまでの政策とハルノートに大きな飛躍はなく、中国からの全面撤退という要求は中国支援の最終要求として当然のことであったはずである。

 日本政府がハルノートを公開して、これを撤回しなければ日本は宣戦布告せざるを得ないと声明すれば、米国民は一気に日本撃つべしの声が広がったであろう。ハルノート公開による避戦にはそれまでの、欧州大戦への武器支援や対日強硬政策といった、戦争寸前の米国の強硬策が全く国民に秘匿され、厭戦気分の国民に忽然と公開されるということでなければならない。何も知らないというほど米国民は愚かではないのである。

 憶えているだろうか。その証拠にルーズベルトは真珠湾攻撃のはるか前に日本の主要都市の爆撃命令にサインしている、ということを本ブログでかつて紹介した。これは米国による奇襲開戦である。しかし欧州大戦で爆撃機が必要とされたために、計画遂行途中で延期された。計画倒れでも中止でもなかったのである。米国が突然日本を攻撃しても国民は支持するという判断がなければこんな命令は出されるはずがないのである。

 また真珠湾攻撃の直前に大統領命令でラニカイというボロ船を米海軍籍で運航し、日本海軍に攻撃されるという航海に出発した。これは日本に先に打たせて開戦すると言う目的である。このことは元ラニカイの艇長の証言が世界の艦船1998年6月号と昔の読売新聞の記事にある。

 結局は日本による開戦のほうが早くて失敗したが、米国はあくまでも日本と戦争をしたかったのである。ラニカイの陰謀の動機は英国を助けるために欧州大戦に参戦するためである。しかし日本爆撃は支那の依頼によるものだから根は深い。結局は日米戦争は避け得なかったのである。

 

⑧核兵器の開発

 別項で述べたから簡単に書く。開戦が10年遅れたら、日米英ともに核兵器を持ったであろう。核保有国同士の戦争はできない。だから日本の敗北はない。しかし日米英の戦争が無くなる代わりに、日本による植民地解放戦争もないのである。植民地は固定化される。

 

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米国は中国支配のために日本と戦争をしたかった

2019-08-26 22:00:34 | 大東亜戦争

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 一般に米国政府が日本を挑発し、対日戦を開始した動機は裏側からの対独参戦である、とされている。つまりドイツによって崩壊しそうになった英国を救うためである。ルーズベルト大統領は、欧州戦争への参戦を嫌う米国民に対して絶対に参戦しないことを公約して3選を果たした。そこでドイツと軍事同盟を結んでいる、日本に最初の一発を打たせることによって国民を引っ張ろうとした、というのだ。

 この見解に小生は以前から疑問を持っている。歴史年表を見てみよう。第二次大戦が始まった直後の昭和十四年の十一月、米国は中立法を修正し武器禁輸を撤廃した。昭和十五年の九月には英領に海軍基地を租借し、英国に駆逐艦50隻を供与した。昭和十六年の年頭の一般教書演説でルーズベルトは、独裁者の戦争を非難し、米国が安全を脅かされていると訴えている。これは間接的に対独参戦を訴えるものである。それまでも武器輸出をしていたが、昭和十六年の三月は武器貸与法を成立させ、大々的に英ソに武器援助を開始した。武器貸与とはレンドリースのことで売る代わりにリース、という名目にして援助される側の負担を軽減したのである。

 以上の例は米政府が第二次大戦への関与を確実に強めている事の証明である。これらの一連の行動を見れば、米国民が真珠湾攻撃まで対独参戦に反対していたなどと言えるのだろうか。米国は民主主義とジャーナリズムの国である。国民は参戦国に対する武器援助が厳密には国際法の中立違反の事実上の参戦であること位知っている。野党はそれを口実に大統領の公約違反を非難することができるのだ。第一次大戦で米国参戦のきっかけとなったドイツの無制限潜水艦戦は英仏などへの米国の援助もひとつのきっかけである。英ソなどへの武器援助がこの点からも戦争への道であることは国民もジャーナリズムも承知していたはずである。しかしマスコミがこの点を突いて一連の政府の対応を非難したり、反戦運動が大規模に起こった形跡もない。せいぜい、リンドバーグらの小規模な反戦運動であって、それも参戦派に押されていた。既に米国は参戦する心構えが出来ていたとしか言いようがない。

 今の小生の疑問は既にここにはない。米国政府の本当の意図は対日戦自体だったのではないか、と言う事である。対日戦は対独参戦のおまけどころか、たとえ欧州で戦争が始まっていなかったとしても、機会を見て日本との戦争を望んでいたのではないか、と言う事である。鍵は支那大陸にある。日本は日露戦争以後深く満洲に根をおろしていた。欧州諸国も支那本土にそれぞれ根拠地を持っていた。一人米国だけが大陸への確実な手がかりがなかった。門戸開放などと言うのはアメリカ得意の綺麗な言辞であり、俺にも支那に入れろ、と言う事に他ならない。そもそも西海岸に到達してアメリカ大陸にフロンティアを失くした後、日本を開国させハワイを併合した目的は支那大陸であった。日露戦争後鉄道王ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案したのもその一環である。

 そして日本は支那事変をきっかけに泥沼のような戦争から抜けられないでいた。主戦論を唱える日本陸軍軍人ですら、本音は一撃で支那政府を降伏させようというものであって、このような長期の消耗戦は望んでいなかったのである。支那事変の長期化は蒋介石や毛沢東の裏でソ連とドイツも深くかかわっていた事は既に色々な研究で明白にされている。更に米政府の中枢にいたコミンテルンのスパイもかかわっていたのであろう。大陸に利権を持つ日本を追放するには消耗戦で日本を衰弱させ、「門戸開放」の実現が可能だったからでもあろう。支那政府の暴虐に決然と反撃する英米に対して、妥協的対応を続ける幣原外交はかえって支那政府と接近して英米の利権を犯そうとする試みに見えたであろう。既に満洲に権益を確立した日本が、今度は平和的に支那本土に進出しようとしているのだと見えたのかも知れない。

 アラン・アームストロングという米国人が書いた「幻の日本爆撃計画」という本がある。これによれば1940年頃から、蒋介石の提案した日本爆撃計画を米政府は本格的に検討し始めた、と言うのだ。これをJB-355計画と言う。もちろん公然と米空軍が実施するのではなく、戦闘機と爆撃機を国民党政府に貸与してパイロットは空軍を「自主的に」退役した米軍人が義勇兵として参加する、というものだ。参加の規模は時期によって変化するが最大の計画は戦闘機350機と爆撃機150機と言う真珠湾攻撃をはるかに超える規模のものすらある。攻撃対象は日本の主要都市と、工業地帯である。このような大規模な空襲が実施されていれば世界中に米政府に関係が無い、義勇軍だという発表を信じる愚か者はいない

この本には米国のある会社がこの計画のために八二名のパイロットと三五六名の技術者を雇用した事があると書かれている。つまり一機の飛行機には整備等の要員が四人強必要となるのである。さらに軽爆撃機としてもパイロットは一機当たり五名程度必要となる。こうして計算すると先の計画に必要な人員は一六〇〇人となる。更に後方支援要員や指揮官党が必要となる。これはそんな膨大な規模の計画なのである。米政府が実行できなかったのは、英国に爆撃機を廻す必要があったため計画が遅延し、実行する直前に真珠湾攻撃が起こってしまったためであるのに過ぎない。

 この計画の一部として一〇〇機ほどの戦闘機とパイロットおよび支援部隊が一九四一年一一月に派遣され、フライングタイガースとして支那大陸での対日戦に参加した。これはその次に送られてくるはずの爆撃機が真珠湾攻撃によって送られてこなくなって宙に浮いて戦闘機だけが活動した結果である。計画は梯子を外されたが実行の最中だった証拠である。これは米政府が本気であったことの証明である。対ソ戦のために動員された「関特演」が中止されたのとはわけが違うのである。そもそも「関特演」に動員されたのは老兵ばかりであつた。ポーズに過ぎなかったのである。

 それどころではない。「一九四一年の秋には、日本爆撃計画はアメリカの活字メディアで広く報じられていたからだ。」とさえ書かれている。その例として、ユナイテッド・ステーツ・ニューズ誌、ニーヨーク・タイムズ紙、タイム紙の報道の概要が紹介されている。これに対して米国内はどう反応したか。国民や野党は戦争をしないと公約して当選したルーズベルトを怒涛のように非難したであろうか。今日の目で見てもそのような反応はほとんど起こらなかった事は明白である。何故誰もそのことに疑問を持たないのであろう。その答えは、米国民は欧州との戦争に「若者を送り直接戦闘に参加する事を望まなかった」のであり、日本との戦争は許容していた、と言う事でしかあり得ない

 なぜ欧州での戦争は嫌い、日本との戦争は許容されるのであろうか。アメリカは国際法に関しては、英国のように律儀な国ではなく、正義感と言うものが国際法の原則を超える事がある国である。日独に対して「無条件降伏」を要求するというチャーチルですら反対した国際法無視の行動をとった国である。だからレンドリースをして事実上の参戦をしても、兵士さえ送らなければ中立は守られる、という「中立法」の修正さえしたのである。その背景にはドイツの英国征服と言う恐怖に怯えると同時に第一次大戦でヨーロッパの諸国が膨大な戦死者を出したことを知っている、と言う事であろう。つまりヨーロッパに派兵すれば大量の若者が犠牲になる、と言う事を考えたのである。その苦肉の策が中立法の修正であったから世論は容認したのである。

 この本と同様に「オレンジ計画」と言う本の著者も日本に対する強度の偏見の持ち主である。この本には米国が恐れていたのは、意外なことに日本の海軍ではなく、陸軍であったと書かれている。日露戦争で精強なロシア陸軍を破った記憶があったのであろう。事実、機械化が遅れている日本陸軍でも戦略が良ければ米軍は苦しめられる、と言う事は太平洋の戦いでも証明されている。海軍はマシン同志の戦いだからワシントン条約で兵力差があった日本海軍は敵ではない、と考えたのであろう。元々の工業力の差に加え、支那事変で疲弊した日本は米国より建艦能力が遥かに劣ると推定したのも正しい。すなわち米国は地上戦を戦わなければ良く、海軍力と空軍力で日本を屈伏させればよい、と考えたのである。それにはいきなり本土空襲と言う手段は最短である。

 アームストロングによれば、・・・日本が“大量殺戮兵器”を保有していたことは言及に値する。日本は中国人絶滅を目論んだ戦争で炭疽菌と腺ペストを使用した。また、核兵器の製造に実際に取り組んでいたのである。

 この言辞だけでいかにアームストロングが偏見に満ちた人物か分かる。日本は支那事変に引きずり込まれたのであり、核兵器を実際に製造したのはアメリカである。自ら大量破壊兵器を開発使用したのには眼を瞑るのだ。だが問題はその次である。

第二次大戦終了時の国際連合結成の前の時点では、国際法は、一国が切迫し、かつ即時に起こり得る敵国からの攻撃の危険に対して取る先制軍事攻撃を認めている。・・・ブッシュ大統領はアメリカ国民に対しても国際世論の陪審に対しても、イラク政府が大量殺戮兵器を保有していたと納得させるに足る証拠を提示した、と万人が認めているわけではない。・・・しかし、イラク政府は二〇〇一年九月一一日の合衆国本土における同時多発テロに関わっていたと主張する者もいるのである。この分析の下では、イラクは”悪の枢軸“の一部であり、アメリカの報復攻撃-先制攻撃ではないとしても-を受けて当然だった

更に別の箇所では、

JB-355が予定通りに実行されていれば、それは日本に対して中国でさらなる資源を消費することを強いる手段を、アメリカその他の連合国に与えることになり、その結果、日本の真珠湾奇襲は阻止されていたかもしれない。
アメリカと中国による対日先制爆撃が一九四一年一一月初旬に始まっていたとすれば、アメリカ陸海軍は非常に高度の警戒態勢を敷いていたはずだ。・・・真珠湾攻撃から、あの奇襲と言う要素が取り除かれていた可能性は大だっただろう。

 つまり計画が実行されていれば、実行の時期によっては真珠湾攻撃は中止せざるを得ないか、反撃にあって失敗するかしただろうということだ。米国の防空能力は高い。完全な奇襲ですら、約300機の攻撃に対して、およそ10パーセントに当たる、29機を撃墜しており、特殊潜航艇は全艇が撃沈されている。わずかの損害と一般には書かれているが、実際は10%もの損害を受けたのである。日本本土爆撃では奇襲ではなく本気で迎撃したにもかかわらず、撃墜率は3%にも満たなかった。アームストロングが言うように真珠湾攻撃が失敗した可能性は大である。イラク戦争を引き合いに出したのは象徴的である。著者は日本本土先制爆撃によって、日本軍はイラク軍のように緒戦でまたたくまに敗退したはずだと言いたいのである。しかも米国は国際法上も先制攻撃の権利があったとも言いたいのである。つまり長期の支那事変によって、日本は米国の一撃でもろくも敗退すると思われたから米国の朝野は、欧州戦争と異なり戦争を忌避していなかったのである。

イラク戦争を見よ。機械化部隊の快進撃でほとんど損害もなく短時間でイラク軍は降伏した。大量破壊兵器が無かったのではないか、などと非難されるようになるのは、正規戦が終わって親米政権ができたのにもかかわらず、ゲリラ戦で正規戦の何十倍もの被害を出すようになったからである。一撃で倒せる日本との戦争は、支那大陸と言う新しいフロンティアを求める米国の朝野にとって望ましいものであった。もちろんこれは仮説である。しかし米軍による日本爆撃計画が公然と大手マスコミによって報道されていたにも関わらず全く反対運動が起こらなかったことを説明するにはそれしか考えられない。計画は厳重に秘匿されていたのは確かである。それにもかかわらず公然と報道されたのは故意にリークされたとしか考えようがない。そしてリークしたのは世論の反応を見たかったのである。さすがに世論によって国策が動く米国である、と言ったら皮肉になるのだろうか。

ひとつ思う。日本人が中国人の絶滅を企画していたなどと言うでたらめを、まともな米国人が普通に思うのは、米国人がフロンティアとして支那大陸を支配したいのに、それが日本人の妨害でかなわないのがくやしいという思いの表れなのだろう。つまりアームストロング氏は米国人の思いを、中国人絶滅計画と言う妄想に投影したのである。


顕彰塔誌

2019-07-31 18:40:24 | 大東亜戦争

10ほど前に、実家に帰った時に、かつての母校の小学校に行ってみた。当時すでに、安全対策のために門からは入れない。ところが流石の卒業生である。裏山から堂々と入れる。蛇の道を小生は知っている。卒業当時なかった、「顕彰塔誌」があった。そこに刻まれた全文を掲げる。昭和50年という年代を考慮して、味わっていただきたいと考える次第である。解説はしない。

 

卒業

  霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

 

   昭和五十年十一月十六日


書評・日本兵を殺した父・デール・マハリッジ・原書房

2019-07-20 14:09:07 | 大東亜戦争

 太平洋戦線で戦った、元海兵隊の息子が書いたもので、父の部隊の戦友たちにインタビューなどしてまとめたものである。公式文書は残っていないものの、多くの図書でも明らかにされているように、太平洋戦線で米軍は、上官から捕虜をとるなと命令され実行している。特に海兵隊は徹底していたと言われている。しかし、著者の父は戦闘でただ一人の日本兵を射殺しただけである。読後の全般の印象だが圧倒的戦力で日本軍を蹴散らしたと考えられている、ガダルカナル、グァム、沖縄などの戦闘で米地上軍は苦しい戦いを強いられていたということである。

海兵隊には日本女性を強姦する癖のあるものがいる。(P62)強姦は2人が証言しているが、ばれても絞首刑にもならず、上官の教唆などにより足を撃って病院送りになって刑を免れている。12人の証言者のほとんどが、投降した日本兵を殺害したり、負傷して息のある日本兵を撃ったりナイフでとどめをさしたことを証言している。「アメリカ軍は日本兵が最後のひとりまで闘ったと宣伝し、多くの歴史家もそれを信じている。」(P87)というのが嘘なのだ。日本兵にも白旗や手を挙げて投降したものが多くいたが、皆殺してしまった。それが知れ渡ると当然投降者は減って死に物狂いで闘うしか無くなる。

捕虜の殺害には、皆で石をぶつけて殺したと言う非道なものさえある。誤解による殺人もある。陰部を切り取られて胸の上に置かれている海兵隊員を発見した。近くにいた日本兵を犯人として撃ち殺した。(P106)同様な事件が起こったが、調査隊が調べると海兵隊員は手劉弾で死んだこと、陰部は手榴弾で吹き飛ばされたことが分かった。(P122)日本人には死体の陰部を切り取る趣味はない

人種偏見も露骨である。「捕虜が極端に少ないのは、こちらが生きのびるにはそうするしかなかったからだ。敵は確実に殺せと部下に教えこむ必要があった-やつらは異教徒みたいなものだ。ジャップを殺すのは、油断のならないガラガラ蛇を退治するのと同じだった。ヨーロッパではこんな気持ちにはならなかった。ドイツ兵でも、こいつにも家族がいるんだと思ったよ。だけどジャップは別だ。ガラガラ蛇を殺すような気持だった。」(P143)というのだから日本人は獣扱いである。そもそも「アメリカ軍のほうも捕虜を連れて移動する体制をとっていなかった。」(P144)のだからバターン死の行進どころではない、移動させするのが面倒で殺してしまったのだ。

反対に日本人に好意的な見方をする兵士もいた。中国の青島に行って、日本兵の降伏に立ち会うとホフマンという兵士は、「中国人は泥棒や詐欺師の集団だった。だが日本人はひたすら礼儀正しく、私たちが正式に引き継ぐまで秩序をしっかり維持していた。」(P256)前に紹介したのは黄色人種に対する、あらかじめ刷りこまれた偏見であり、後者は現実の中国人と日本人に相対したときの感想であるから当然であろう。

アメリカ兵士の多くがしている不可解な行動がある。既に知られているが、米兵は日本兵の死体から、金歯を抜いて集める者が多いのだ。酷いのは、生きているものから抜く場合もたまにある。いずれにしても、偶然ではなく多くの兵士が、このような行動をとるのは理解不能である。また死体から耳を削ぎ取るのも例外ではないようだ。これはベトナム戦争でも行われたが、自分の戦果を誇示するための様である。戦後欧米の行動の間違いに気付く者もいる。「アメリカ、ヨーロッパ諸国、イギリスがみんな中国を狙っていて、ジャップをのけ者にしようとした。日本人はこう言いたかったんだ-おい、なんで俺たちを締め出すんだ?パイのひと切れをもらったっていいだろう?資源の取り合い、要するにそういうことだ。戦争はそこから始まるんだよ。」(P268)と戦後勉強したブラザーズという元兵士の言葉である。

沖縄で闘った米兵は、ワセリンではないと消せない白燐手劉弾を使った。「燐の炎は衣服を燃やし、肉を焼いて骨に達した。その苦しみようはすさまじく、とくに子供は見ていられない。二人の海兵隊員が大声で笑っていた。極限の恐怖に耐えきれず、残忍さをむき出しにしている。」(P210)これが人道的な米兵の姿である。消す手段がない、燐という「科学的」兵器で合理的に残虐行為を行うのが米軍の特色である。

著者はアメリカの過去の批判も厳しい。グアムを征服すると、ある上院議員は「我々は世界の交易を手中に収めてしかるべきでありましょう・・・これはアメリカが果たすべき神聖な使命であり、我々に利益をもたらし、人間に許される最大の栄光と幸福を実現するものであります。」(P82)と演説した。すなわち世界征服宣言を公然と行ったのである。白人のマジョリティーの精神とは、今もかくのごときものである。

米西戦争でフィリピンを騙して奪うと「アメリカ支配を良しとしない人びとが反乱を起こしたが、アメリカ軍兵士は彼らを虐殺し、囚人を処刑し、水責めの拷問で何千人も死に至らしめた。」(P82)イラク戦争でも米軍は水責めの拷問をした。水責めはアメリカ人の得意技であるようだ。「この国は戦争が好きなんだ・・・土地を手に入れるためにインディアンと闘った。カリフォルニア欲しさにメキシコを敵に回して、まんまとものにした。」(P182)と著者がインタビューした元海兵隊員が語っている。

これらの米兵の残虐行為に対して、沖縄の日本人の証言は全く異なる。アメリカ兵に連れられて行った日本人は応急措置を受けたことを感謝して「これが日本兵だったら、殺されるか、放置されて死ぬかどっちかだったな。」(P315)というのだ。どの日本人の証言も似たようなものである。この日米の認識の落差が沖縄の反戦運動の淵源である。だが矛盾であろう。米兵は人道的であり、日本兵が非人道的であるのなら、なぜ反米基地闘争をするのであろう。もちろん中国の謀略に踊らされている面もあろう。だが本当は米軍も残忍に日本の民間人を殺したことを心底のどこかに、記憶しているのではなかろうか。

筆者はある沖縄女性のインタビューに関して「直接会って話を聞いたときにはあえて反論しなかったが、アメリカが近代戦で民間人に配慮していたという大西正子の主張は誤りだ。大国アメリカの歴史を振りかえると、軍部も市民も民間人の犠牲は看過してきた。沖縄でもそうだったし、いまも変らない。」(P363)という。これが事実である。だからこそ、多数の父と同じ部隊の元海兵隊員をインタビューしたなかから信憑性のおける12人の証言だけをセレクトしたと言う、検証をおろそかにしないはずの著者が、でたらめな、アイリス・チャンの本を読んで、南京大虐殺について疑いもしないのだ(P364)。つまり、米軍だってグアムで、沖縄で、イラクで民間人を虐殺した。だから日本軍だって同じなのだと思うのだ。筆者はアイリス・チャンの友人だったそうである。ピューリッツアー賞を受けたほどのジャーナリストで、本書の証言に慎重にチェックをしたものを選んだほどの著者ですら、彼女のでたらめを信じている。まして他の米国人一般は推して知るべしであろう。


日本軍の敗因 「勝てない軍隊」の組織論 藤井非三四 学研

2019-07-18 23:51:49 | 大東亜戦争

 近年の著書なので、意外性を期待したが、従来の日本軍批判と大差なかった。根本が戦後流布された日本罪悪史観に汚染されている。ポツダム宣言が無条件降伏を言っているのは国際通念に対して異常だから、説明を求めて有利な条件を引き出すことができたはずた、(P38)というのだが、これは一部の人と同じく、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を求めているのに、国家の無条件降伏と混同しているとしか考えられない。それに、向こうは交渉する気がないのに、この期に及んでどんな有利な条件が引き出せたのか、不可解な論としか言いようがない。

 ・・・ほとんどの日本人はアジアの人々を蔑視していたのが実情で、そのアジアの人々のために死んでも構わないと考えているものがいたとしたら、それはごく少数の奇特な人だけだったろう(P35)。現実にはインドネシアですら、3千人の日本兵が残留し、戦い千人が亡くなっている。これだけの人たちは残ったが、現地に心を惹かれても望郷の思いから帰国を選択した人々が多かったのは当然である。

 奇特という言葉には、もの好きだと言う厭味が感じられて仕方ない。これだけの多数が他国の独立運動に敢て残ったと言うのは、歴史上稀であろう。現在では無視されようとしているが、アジア各地ばかりではなく、支那でさえ日本兵と現地人との心温まる交情はあった。著者はこれらを無視するのである。ものごとは相対的なものである。欧米人が有色人種を人間ではなく、獣扱いして残虐行為を繰り返していたのとは、日本人のアジア人蔑視とは桁が遥かに違う。幕末の西欧の接触と共に、ほとんどの日本人がアジアの植民地化に憤ったのは事実である。

そして対米開戦と共にその気持ちを明確にしたのである。母は尋常小学校出であるが、対米開戦と聞いて、それまでの曇った気持ちが晴れ晴れとしたという意味の事を言ったが、子供の頃だったから聞いた当時は意外であった。今にして思えば、アジア人同士が戦う支那事変でなく、真の敵である米英と戦うことの正々堂々の気持ちを実感したと理解できるのである。一部知識人は例外として多くの庶民はそう思ったのである。勝てない戦争が始まったと思って暗澹たる気持ちになったなどと言うのは、ごく少数の例外に違いないか、嘘つきであろう。

 昭和十八年に東條首相が海外放送で「・・・正に戦いに疲れ、前途の不安に襲われ、焦燥する彼ら指導者が・・・洵に笑止の至りである」と語ったのは、国内向けとしてはいいが、戦争は理念の戦いだから、海外に対しては「大東亜新秩序」について鮮明に語るべきであった。(33)というのだが、日本を叩きつぶそうとして日本人の言葉など無視している欧米に、大東亜新秩序の理念を語ったところで「笑止」されるだけである。

 日本は大東亜会議においてアジアの植民地の独立を鼓舞した。日本の理念を聞いて行動してくれるのは欧米諸国ではなく、被植民地民族なのである。そして日本はそれを語ったと共に戦った。その結果日本が負けても、被植民地民族は決起して成功したのは歴史的事実である。結果論に過ぎないと言うなかれ。西欧の産業革命は、西欧の欲望と有色人種からの搾取の結果である。産業革命は技術面の結果的利点だけを特筆したのである。日本自身が、植民地解放の偉業を語らずして、誰が日本の偉業を語ろうか。

 日本兵が捕虜ではなく、降伏敵国要員として扱い「・・・戦争捕虜として抑留されているのではないから、イギリスには最善の待遇をする義務がない。そのためイギリスが与える休養は最低限のものとなり、しかもその代償として課せられた労働は、苛酷かつ恥辱にみちたものとなった」(P100)と書くのだが、一見英軍の非人道的扱いへの非難に聞こえるが、実は日本兵に対して酷薄で英国の非道を擁護する記述である。

 降伏敵国要員と言う言葉は使われたことはあるが、ハーグ条約などの戦争法規にはない言葉である。なんという用語を使おうと降伏して武装解除されて、相手国に収容されたら、それは国際上所「捕虜」なのである。捕虜ではないから苛酷な扱いをしても国際法違反ではない、と著者は言っているごとく聞こえる、とんでもない記述である。英国の苛酷な捕虜の扱いの例として「アーロン収容所」という本の例を出すが、会田雄次氏が書いたのは、日本兵は捕虜ではなく、降伏敵国要員だから苛酷な扱いを受けたから仕方ない、と書いたのではない。

降伏した日本兵を故意に死に至らしめたり辱めたりする、英国人の捕虜に対する残虐行為を非難しているのである。のみならず、会田氏の体験は一兵士の体験だから、氷山の一角より遥かに少ない事例である。例えば佐藤亮一氏の「戦犯虐待の記録」にはいかに連合国が日本人を虐待したかが読むのも辛いほど書かれている。これですら欧米兵士の残虐行為の氷山の一角に過ぎないであろう。多くの虐待された捕虜は、拷問の挙句に殺されたから、大部分の英米軍による犠牲者は証言できないのである。

小生は悲しく思う。日本人は、維新以後、世界で最も善意を尽くして生きていたにもかかわらず、支那や欧米に残虐非道な目に合わされ続けた。だが、逆に日本人が残虐非道なことを行ったと言うプロパガンダに洗脳されてしまった。そして自らの思考で考えている、とまで信じきった悲しい状態である。この本はもちろん読む価値はないとは言わない。しかし、ここに至って読むのを放棄した。

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山本五十六の引き倒し

2019-06-24 23:23:56 | 大東亜戦争

 山本五十六が対米戦反対であった事をもって立派な軍人であったとするのは、私には信じられない。山本五十六を反戦軍人であるかのように言う輩は、軍隊の「シビリアンコントロール」なるものを重視する輩であろう。シビリアンコントロールなるものでは、軍人が政治に口を出してはならない。つまり、軍人に対米戦の可否を言う資格はない、と言うべきである。

 軍人が対米戦をやるべきではない、と主張するのは、対米戦をやるべきである、と主張するのと同様に、政治的判断に口を出しているという意味においては、シビリアンコントロールなるものの枠を明白に超えている。せいぜい対米戦が起きた場合の戦い方と戦局の見通しを語るだけであるべきである。山本五十六は軍人である。軍人が考えるべきは、まず対米戦をいかに戦うか、勝利のためにはどんな準備をすべきか考えることである。

 東郷平八郎は明治天皇の御下問に対して、バルチック艦隊に勝てるとの戦闘の見通しを述べただけであって、日露開戦の可否を述べたことはない。現代の多くの日本人は対米戦に反対を表明したか否かのどちらの立場にいたかをもって、その人の正邪を判定する愚を犯している。

 また、山本は、三国同盟締結反対のゆえに、右翼に狙われていたとされる。そのために、米内海軍大臣が暗殺を恐れて、海上勤務にするために連合艦隊司令長官にしたと言われている。もちろん、この決定は山本本人の責任ではない。しかし、軍人としての適性から司令長官にしたのではない、というのは余りに不適切な人事である。まして、対米戦争の影が近付いている時期である。危機意識の欠如した悪しき官僚的発想の見本である。山本を讃える人はセットで米内を褒めているから、米内も武人ではなく悪しき官僚であったというべきであろう。このエピソードを山本シンパは、あの悪しき三国同盟に反対して、右翼にすら狙われた、と称賛したいのであろう。だが、このように贔屓の引き倒しなのである。

 日露戦争の際、山本海軍大臣が順当な人事なら連合艦隊司令長官に日高壮之丞がなるところを、敢て東郷平八郎を起用したのに比べてひどすぎる。日高は我が強過ぎるが、東郷ならいうことを聞く、と山本が判断したと言う定説はそれだけではなく日高の健康問題もあったようであるが、山本は、皆の反対する真珠湾空襲とミッドウェー攻略を強引に進め、日本の敗北の端緒を作ったのは事実である。

残念ながら、山本がミッドウェー攻略を強硬に主張したのは、ドゥーリットルの東京空襲を防止できなかったことの不評を、ミッドウェーの戦果で相殺しようとしたのである。日露戦争で、ウラジオ艦隊の跳梁跋扈によって、上村司令官の私邸が非難投石されたことを思いだして恐怖したのである。この山本の判断は軍人の為すことではなく、世論を気にする典型的政治家の判断である。ドゥーリットル東京空襲計画こそ、真珠湾以来連敗の米国民の不満を解消するための、ルーズベルト大統領による政治的人気取りであったのである。それと同じ次元のことを軍人たる山本が行ったのは、軍人の分を超える。

 ミッドウェー作戦の失敗への批判は、索敵の不備、作戦目的の不徹底、情報機密保持の不徹底、信賞必罰のなさである。これらのほとんどは山本自身の責に帰すべきものである。もちろん連合艦隊の最高責任者という組織上の責任ばかりではなく、ミッドウェー攻略は、山本自身の発案で、しかも強硬に主張した本人だからである。索敵の軽視は当時の日本海軍軍人の欠陥であったから、山本だけの責任とは言い難い。ただし組織として海軍は永年索敵を重視していたのである。索敵能力に問題がある潜水艦に水偵を搭載運用したのは日本海軍だけである。艦載用の水上偵察機を海軍は熱心に開発充実していた。それならば、索敵の重要性によって、教育訓練も十分なされていたはずである。索敵の不備があったとすれば、指揮官個人の判断である。せっかく準備してあった索敵用機材をうまく運用しなかったのは、軍人が官僚化して、実戦的判断を軽視したからである。その欠点を最も体現していたのも山本である。

山本が、阿川弘之等の信奉者の言うような名将であったなら、索敵の不備に気付いたであろう。そもそもミッドウェー作戦を実施する前に山本が珊瑚海海戦の戦訓を取り入れた節が全くない。珊瑚海開戦当時ですら米海軍の防空陣は強力で攻撃隊は大損害を出している。空母祥鳳は魚雷7本、と13発の爆弾という大量の被害を受けて簡単に撃沈された。米空母は既に攻撃力も大きく、防空能力も高く、戦意も高かったのである。そして珊瑚海での初の空母戦闘の戦訓を山本は聞こうともしなかったのも知られている。

 前述のようにミッドウェー作戦を強行したのは、山本個人であった。今度の作戦は簡単だと愛人に漏らしているのは機密保持の考えが全くなかったことばかりではなく、珊瑚海海戦への反省もないことを証明している。珊瑚海ではガソリンへの引火というラッキーパンチによりレキシントンを撃沈するという大戦果をあげたが、珊瑚海海戦の戦訓を冷静に考えれば双方に同程度の被害を与えているノーガードの殴り合いに等しいのが当時の空母戦だということが分かるはずである。

子細にみれば、後日のように鉄壁と言えずとも、米側の防空力の方が強力であることが分かる。山本がミッドウェー攻略を占領と米空母撃滅の二股をかけた、というのは後の海軍の作り話だという説があるが、その通りであろう。米空母への対応も考えるように、という指示をしていたのなら、そのような陣形をしたのだろうが、そんな形跡はない。当時の海軍の一致した判断は、米空母はミッドウェー付近にはおらず、日本の攻略部隊を迎撃できるはずではないというものである。愛人に語ったように、米側の抵抗は大したことがないから、上陸作戦は簡単に行く、と踏んだのである。

 山本の信奉者が別の場面では、日本軍には信賞必罰がないから、適切な人事配置ができていない、などと批判するのは大矛盾である。南雲や草鹿などの指揮官級に対して何の処罰もしなかったのは、山本自身の判断である。そして連合艦隊は大敗北の実情を知った下級の兵士を隔離したり前線に飛ばすなどの隠ぺい工作を行った。そのことを最高指揮官である山本が知らないはずがない。日本軍の欠陥として言われる上官に甘く、下級兵士に厳しい、という典型が山本自身であった。そもそも山本自身が、何ら責任を取っていない。部下を責めることのできないのは当然である。平成二十四年に公開された映画「山本五十六」で敗戦した南雲を慰めているのを人情ドラマ風に描いているのはいかがなものか。山本は、自分の指示に忠実に従って敗北した南雲たちを、責められるはずはなかったのである。指示に反していたら激怒していたのに違いない。

 真珠湾攻撃で米国世論が激高すると、山本は事前通告が遅れたと悔やんでいたと描かれている。しかし米墨戦争や米西戦争などの戦史を確かめれば、米国政府は相手に先手を打たせて世論を盛り上げるという手法をとっていることは分かるはずである。それを想定しなかったとすれば、山本は米国民性も知らなければ、戦史から教訓を得ることもしなかったのである。真珠湾以前に宣戦布告されたか否かが問題になった史実はない。

例え、一~二時間前に宣戦の通告をしたところで、米国民はルーズベルトの演説に興奮したのに違いない。テキサスをメキシコから奪った時も、メキシコ領内に砦を築いてアメリカ人が居座ったから、メキシコ軍に全滅させられた。メキシコは自国領を侵略したものを撃破して守る正統な権利を行使したのに過ぎない。アラモ砦が先制攻撃されたから、米国民は怒ったのではない。他国の領土に砦を築く不当なことをしていたことは、マスコミが発達していたアメリカ国民も承知していたのである。だが領土欲にかられた米国民は喜んだのである。

 山本の指揮についても考えさせられる。確かに無線通信手段が発達した昭和の戦争では、東郷元帥のように陣頭指揮をとる必要はなかったのかも知れない。だが、真珠湾の石油タンクや工廠を攻撃しなかったのは、山本がその必要性を感じていなかったとすれば、無知である。反対に分かっていて南雲に言明しなかったとすれば、指揮権を放棄したのである。どちらにしても褒められたことではない。

 ミッドウェー海戦にでも、攻撃中に戦闘を指揮した形跡がない。事前に半数の艦上機を空母出現に備えよ、と言ったというが、各空母ごとに半数の艦上機を、空母攻撃用に残すと言うことは、運用上不可能である。山本の指示に従うなら、半数の空母を米空母対策用に温存していなければならない。それならば、作戦計画で艦隊の編成を山本が確認した際に、どの空母は米空母対策であるかと言うことを確認していたはずであるが、そんな事実はない。それどころか、次々に南雲艦隊の空母が損害を受けた報告を次々と受けると、平静を装って、またやられたか、とうそぶいていたと言うのだから、危機管理能力も指揮判断能力も欠如していたと言わざるを得ない。

 いくら状況がよく分かっている現場に任せよ、といったところで、敵情を確認して指揮した形跡がない。なさすぎるのである。日本海海戦の際に東郷司令長官は、対馬迎撃を決断し、T字ターンの際には自ら回頭のタイミングを下令している。その後30分も経たずに大勢は決したので指揮は参謀に任せた。白旗を掲げながら航行をつづけた戦艦ニコライ一世に対して、東郷は国際法に従って砲撃を続け、停止するとようやく砲撃中止を指示した。東郷長官は、残敵掃討まで指揮したのである。真珠湾攻撃の不徹底と言い、ミッドウェー海戦を南雲長官に任せきりにした山本とは、大違いである。

指揮したことがあったのは、唯一空母が全滅した際に、戦艦で攻撃してでも上陸作戦を決行しようと打診した南雲艦隊に、作戦中止を命じたくらいであろう。時事刻々変化する戦況に対応して指揮しようとしたことはない。それは、上陸作戦が唯一の作戦目的である、というのが山本の意思として伝わっていたからこそ、現場では戦艦でもってしても、上陸作戦を強行しようと上申したのである。山本が米空母撃滅のためにミッドウェー攻略を企画したと言うのは、戦後の海軍関係者のでっちあげに過ぎないとしか考えられない。山本が参戦中止を命じたのは、損害のあまりの大きさに、茫然自失したのに過ぎない。

 山本信奉者の通弊は、海軍の失敗は山本の責任ではなく海軍の通弊や部下の責任に帰し、成功は山本の功績にしていることである。でっち上げも過ぎる。贔屓の引き倒しである。海軍の作戦の成功も失敗も最高指揮官たる連合艦隊司令長官の山本の責任であるのは、間違いない。


米国民は第二次大戦参戦を欲していた

2019-06-15 00:39:59 | 大東亜戦争

 現在の第二次大戦参戦以前の米国の状況の通説は、ルーズベルト政権は国民に隠れて英国を救うために、対独参戦を望み、米国民は大勢が第一次大戦による厭戦気分で参戦反対が、絶対多数であった、というものである。ルーズベルト(FDR)は裏口からの参戦のために、日本を挑発していたということがこれに加わる。

 小生は、平成20年頃から、米国は国民と政府共に、対独参戦のみならず、対日参戦をも欲していた、と言う説を「幻の日本本土爆撃」という本を読んで以来、確信するようになった。このような説は、日本のメジャーな刊行物には皆無であるように思われる。だが一般に公表された書籍を読む限り、このような結論に至らざるを得ないのである。

 まず、ルーズベルト政権が、英国を助けるために参戦を欲したと言う点については、通説の通りであると考える。最大の問題は米国民の厭戦感情である。渡辺氏の著書(*)では、真珠湾攻撃が始まるまで、世論調査では、80%を超える米国人が、戦争絶対反対であった、という。これが大多数の書籍に書かれている通説である。

ところが川田稔氏は(**)米海軍による対英援助物資運搬の米商船護送とグリーンランドの米軍の進駐などを例示して「イギリスの敗北を阻止するため、アメリカが参戦する姿勢は、これらの点からも明らかだった。なお、このころの(昭和16年4月ころの)世論調査では、「欧州参戦支持が八〇パーセントあまりにたっしていた。(P234)」と書く。アメリカが参戦云々は政府の姿勢であろう。これは通説と同じである。ところが、すぐあとに80%もの米国民が欧州参戦支持である、とことも無げに書いているのには驚いた。だから通説との矛盾は自覚していないのであろう。

これを他の書籍と比較して読み解いてみよう。数々の秘密協定も隠され続けていた。それにしても、渡辺氏が指摘する(*)、FDRが実行した多くの公表された事実から、国民や多くの政治家、政治経済軍事の専門家筋が、FDRが戦争を欲していることは明白であり、隠しようもないとしか考えられない。

 まさか共産圏のような絶対秘密主義国家ならともかく、マスメディアも政治批判も発達していた米国において、大多数の米国民を完璧に騙しおおせる、というのは単純に考えて不可解過ぎる、というのが小生の根本的発想である。米軍の戦時下における、報道管制はシステマチックで厳格である、と言う点においては日本のように杜撰で恣意的でないことは知られている。

それにしても、米国が参戦前の時点でドイツがデンマークを占領したときに、米軍がグリーンランドを保障占領したと言うことが公的に知られないはずはあるまいし、米駆逐艦が独潜水艦を攻撃したということが報道されていない、ということはあり得ない。中立法の改定による交戦国への武器輸出や日本に対する経済制裁は国民の知るところである。当時の米国は、経済制裁は戦争に準ずる、という国際法解釈であったから、日本に対して戦争を強いていると国際法の専門家が指摘してもおかしくない。本書に書かれている当時公表されている事実の全てを総合すれば、FDRか三選に際して約束したとされる、参戦しないと言う公約は破られつつある、と考えなければ国民はよほど愚かか、情報から絶対的に隔離されている、としか考える他はあるまいが、そんなことはあり得ない。

チャールズ・リンドバーグの「リンドバーグ第二次大戦日記(角川文庫上巻)を見よう。リンドバーグは「翼よあれがパリの灯だ」で有名な大西洋無着陸横断の英雄であるが、欧州大戦に参戦絶対反対のキャンペーンを展開したことでも有名な人物である。彼はパイロットとして有名だったから軍関係者とも知己があるが、一民間人であり、彼の知り得た情報は一般的に国民も共有していたはずである、ということを前提にする必要がある。

リンドバーグはルーズベルトが欧州参戦に向けて画策しているということを、日記では随所に述べていることが注目される。その上、ルーズベルトは参戦しない、と公約していたにも拘わらずリンドバーグは全く信用しておらず、ルーズベルトの「三選は参戦」とすら断言している。「大多数の国民と同じく」一貫して世論に参戦反対を主張していたリンドバーグがこの調子である。リンドバーグが中立法改定その他の立法は全て参戦に向けたものだと判断しているのは、当たり前と言えば当たり前で、参戦前の米国の雰囲気が理解できるではないか。

 小生が重要だと考えるのは、ルースベルトが三選された後の1941年1月6日の次の記述である。

 

 こんにちはとりわけ、戦争前の暗い帳が頭上に重く感ぜられる。何の抵抗もなく戦争に赴こうとする人々が増えつつある。万端の用意が出来ていると主張する人たちが多い。国民の態度は前後に揺れている。最初のうち、反戦勢力が勢いを得ていたかと思うと、今ではそれと正反対の方向に振子が動いている。-国民の現実と態度と新聞の大見出しとは常に区別して見分けるように努めねばならぬ。が、全般的にいえば、アメリカの戦争介入に反対する我々の勢力は、少なくとも相対的に見た場合はじりじりと後退しつつあるように思われる。われわれにとり最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対していると言う事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが「戦争の危険を冒してまで大英帝国を助ける」ことを望んでいる。換言すれば、自ら戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいるかのように思われるのだ。われわれはいわば希望的観測の類にのめりこんでおり、それは遅かれ早かれ、われわれを二進も三進も行かぬ状況に追い込むに違いない。

 

 この記述は見事に当時のアメリカの世論の状況を叙述していると思われるのだ。渡辺氏も含め、日本の歴史家等は、この記述のように、世論調査の85パーセント参戦反対となっていることと、国民の大多数が参戦反対でルーズベルト自身も三選の際の公約に参戦しない、と約束したことをもって、ルーズベルトの裏口からの参戦の陰謀を主張している。ところが参戦反対の闘士であったリンドバーグの記述は、米国の状況がそのように単純なものではないことを示している。

この日記は昭和16年の1月6日の記述だから、世論調査の発表は12月末に行われたのであろう。その結果は、85%の国民が参戦反対だが、約65%戦争の危険を冒してまで英国を助けることを望んでいる、というのである。つまり戦争には反対だが、戦争の危険があっても英国を助けたい、というのであり、何が何でも戦争絶対反対と言っているのではない。その上リンドバーグによれば、国民は段々参戦に傾きつつある、というのである。

すると昭和16年4月、つまり半年後に川田氏(**)がいうように、80%が参戦支持に変化していったということはあり得る。多くの論者が米国民の大多数が参戦反対であった、というのはリンドバーグが言う「85%の国民が参戦反対」の部分だけ切り取って主張しているのだと考えれば納得できる。

ところが、リンドバーグの日記(上巻P345)には、昭和16年4月16日には「ギャラップ調査世論は奇妙な矛盾を明らかにした。八十パーセントが戦争に反対しているかの如く思われるのに、七十一パーセントはイギリスが敗北するならばという条件付で輸送船団の覇権に賛成。三日前に発表されたその調査によれば、アメリカ人の大多数はイギリスを助けるべく陸海軍あるいは空軍を一部でも派遣することには反対なのだ。回答者が混乱しているのか、世論調査の質問が回答者を混乱させたのか・・・」と書かれているのだ。参戦反対派はやや減り、イギリス支援派は1月よりやや増えている。しかも、80%の戦争反対派と71%の英国支援派は、重複しているとしか考えられない。

どうやらリンドバーグの記述は、一月も六月もギャラップ調査のようである。出所が判明している。ところが川田氏の「80%が参戦支持」は出所不明であるが、全く同じ四月に正反対の結論が出ているから、川田氏の調査の出所はギャラップ調査ではないことはほぼ間違いはあるまい。トランプとヒラリー・クリントンが争った大統領選挙でも、大メディアの世論調査は間違った結果を示しているので、一概に川田氏の記述が間違いであるとは断言はできない。

次は対日参戦計画である。これは「幻」の日本爆撃計画、に詳しい。本書に書かれているのは、日本本土爆撃計画であり、最初の大きな一発を米国が打とうとする、積極的な計画である。小生には検証能力はないが、著者のアラン・アームストロング氏はきちんと資料出所を提示しており、いい加減なものではないと考えられる。戦後アメリカ政府は、自国民の広範な民族、広範な年齢層に放射能汚染をさせる人体実験を行っている。何でもありの国なのである。

ルーズベルト大統領は戦闘機350機と爆撃機150機という大編隊により、日本の首都圏爆撃をする計画にサインしていた、というのである。もちろん中国空軍に偽装しての空襲だった、というのであるが、当時の日米国民の常識から考えても、中国がこのような戦力を持っていると考えるはずはない。

実際には、米国から爆撃機や戦闘機とそれらに付帯する整備機材を送り、パイロットと整備クルー等は義勇軍として米国から派遣する、というものであるから、人員だけでも数千人に及ぶ。注意すべきは、この計画は計画倒れになったのではない、ということである。戦闘機部隊の一部は、実際にP-40戦闘機と所要人員が派遣されている。

現在では、義勇軍として派遣されたとして有名になった「シェンノートのフライングタイガース部隊」である。計画の実行は長距離爆撃機が援英のため、調達が難しくなって実行が遅れているうちに、真珠湾攻撃が始まって、中止となった。しかし、フライングタイガース部隊は、実際に派遣されて、その後日本機と交戦している。つまり計画は実行されない机上プランではなく、実行途上にそれどころではなくなってしまったのである。

85%もの米国民が本気で参戦に絶対反対であったなら、この計画が実行されたら、囂々たる非難をあびたであろう。リンドバーグの日記は、結果的に大多数の米国民が、次第に欧州参戦やむなし、に傾いていったことを暗示している。ルーズベルトは国民の多数派の本音が参戦賛成であったことを知っていたから、どんな手段でも戦争を始めてしまえば、国民はついてくる、と踏んだとしか考えられないのである。しかし何故か渡辺氏の著書では「幻」の日本爆撃計画にも触れていない。日本に最初の一発を撃たせるためにFDRが「軍艦ライカニ」というボロ舟を太平洋に送り込んだ、比較的知られたエピソードにも触れない

ルーズベルトの爆撃計画は、支那事変で疲弊した日本は、一撃で国力に壊滅的打撃を与えられ、日本が何年も戦うことができた、などとは考えられなかったと想定した節がある。日本を早いところ片付けて、対独戦に専念しようと考えていたのかも知れない。日本をなめていたのである。現に対日戦などは3か月で片付く、と語った米軍幹部がいるのである。

その意味では、最初の一撃が真珠湾であろうとフィリピンであろうと、どうでもよかったのであろう。「幻」の日本爆撃計画の引用にあったTHE UNITED STATES NEWSという週刊誌も調べてみた。一九四一年十月三十一日号には、BOMBER LINES TO JAPANという記事があった。図入りで、重慶、香港、シンガポール、フィリピン、グァム、ダッジハーバの6か所から本州を爆撃できる、と書いているのである。

アームストロング氏は、この記事を日本本土空襲の予告に等しいと書くが、その通りである。類似の記事は、他の有名雑誌にも掲載されていたそうだから、米国の日本本土爆撃計画を知るのに、日本はスパイさえいらない、とアームストロング氏は、言うのである。FDR政権は日本に先制攻撃をかけても、国民の賛同は得られると判断したことの、重大な傍証である。この週刊誌は軍事雑誌でもないのに、それ以前から軍用機や戦車、などのコマーシャルが満載である。この時期の米国民にも戦争に対する歓迎ムードがあったのである。

ルーズベルトや国民が対日戦を欲する大きなきっかけとなったのは、昭和12年の支那事変の開始であろうと、小生は仮設する。FDRの隔離演説はこの頃に行われているからである。さらに米国民の心理から言えば満洲事変、いやそれよりも早く、排日移民のムードが高まったころに淵源を発すると思う。この頃日米戦わば、という本がさかんに出版されているのである。

結論を言おう。FDR政権と米国民は真珠湾攻撃以前から、対独戦と同時に対日戦を欲していた。結果的に、あくまでも結果的にではあるが、真珠湾攻撃は両方の戦争に参加する重大なきっかけを作ったのである。ルーズベルトは裏口からの対独参戦を欲したのではない。真珠湾攻撃は、ガソリンの充満した部屋にマッチを放り込んだのである。真珠湾攻撃の戦果からはマッチでは失礼である。松明を放り込んだとしよう。

付記する。以上の説は、スターリンが日本と米国の双方の政府に食い込んで、米国の対独、対日参戦を画策したと言う説と矛盾するものではない。ただし、対日戦については、コミンテルンの画策の以前から米国自身にも、その淵源がなければならなかったと考える次第である。

 

*フーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く・渡辺惣樹

**昭和陸軍の軌跡・川田稔

 

 


栗田艦隊の逃亡

2019-06-11 23:08:34 | 大東亜戦争

 日米海戦で、最大の謎とされるのが、レイテ沖海戦での謎の反転である。知らない人に簡単に紹介する。

 栗田艦隊は昭和十九年十月二十五日スプレイグ少将の率いる77任務部隊の護衛空母六隻以下と遭遇した。空母ガンビア・ベイ他駆逐艦を撃沈したものの、北方に機動部隊がいるとして、反転撤退してしまった。これを戦史では「なぞの反転」と称している。

 しかしこれは謎でも何でもない。栗田艦隊はいつまで攻撃しても執拗に駆逐艦や航空機で反撃する護衛空母群にあきれて追撃をやめて集結した。日本側は重巡洋館三隻4万トン以上が沈没。米側は護衛空母一隻と駆逐艦三隻、2万トン程度が沈没。戦力は圧倒的に日本側が大きい。戦闘終了は九時十六分。攻撃命令が出たのが六時五十四分だから二時間以上攻撃した結果である。

 朝日ソノラマの文庫版航空戦史シリーズのレイテ沖海戦(下)によれば、三〇ノットで逃げる正規空母を追撃して深追いしても空襲で撃破されるというのが、攻撃中止の理由である。九時四十五分には正規空母が北方にいるという電報を受け取っていたという。このときレイテ湾からも約二時間である。

 正確には不明であるが集結を終えて北進の決断をしたのは、十二時十五分ごろ。このときにも空襲を受けている。正規空母の攻撃に耐えられず逃げたものが、正規空母攻撃に向かうというのである。栗田艦隊は米軍機の執拗な攻撃に疲れて逃げたのである。この矛盾を指摘するものがいないのも不思議な話である。栗田は単に逃亡したのに過ぎない。

 確かに栗田艦隊がレイテ湾に突入しても、米輸送艦は揚陸作業を終了していたのは事実である。だがレイテ湾にいた米戦艦軍がそれまでの戦いで弾薬を打ち尽くしていたから容易に攻撃して勝てたという説は間違いで、米戦艦に弾薬は充分あったと立証した者もいる。しかし上陸した米軍を撃つこともできた。敵の弾薬が空でなければ日本艦隊は戦わないのか。

 レイテ沖海戦以後日本艦隊は本土に閉塞していた。レイテ沖海戦から生還した9隻の戦艦のうち空襲で大破破壊着底せずに戦後まで浮揚してかろうじて戦力として残ったのは長門一隻だけである。大和は日本海軍が戦力を残して敗北したという「不名誉」を避けるだけの目的で、戦果を挙げずに撃沈されるために沖縄に出撃した。そのとき大和は対空砲火としてすら主砲を打つことはできなかった。たとえ敗れたとしても大和はレイテ湾でならば、米戦艦と対決することが出来たのである。同じ全滅なら、多少なりとも米軍を撃破したほうがましではないか。

 それどころではない。半藤一利氏によれば(*)通説では栗田中将のもとには小澤艦隊によるおとり作戦に成功したという電文が栗田に届かなかったというのだが、実はGHQに対する証言で小澤艦隊の戦況を知っていたが、もう時期遅れだと思ったと言ったという。これに対して半藤氏は何と「謎」と言っている。小澤の犠牲の成功を知っていても、栗田は卑怯にも逃げたのである。

 それならば小澤艦隊がハルゼーの機動部隊のおとりになって沈むという作戦計画は何なのか。そして電報が栗田のもとには届かなかったと言う定説は多数の旧海軍幹部によってなされたものである。崩壊した海軍の名誉の何が大切か。嘘で守る名誉とはなにか。半藤はレイテ湾から反転する重巡羽黒の士官の気持ちとして「ああ、これで終わるのだと思った将兵は多かった。」と書いている。これは指揮官栗田の気持ちでもある。一兵卒としてはそれでもよかろう。しかし指揮官がそれでは戦争はできない。繰り返して言う。栗田は逃げたのだ。

 もう一つの栗田艦隊の過誤は、サマール沖の護衛空母追撃で戦艦と巡洋艦に先頭をきらせて、駆逐艦を後衛にしたことである。相手を正規空母と誤認していたのだから、相手は高速であり補足するのに高速の駆逐艦にしくはない。しかも駆逐艦は艦隊の前衛として、魚雷戦で敵艦隊を撹乱暫減するために長らく計画訓練されたもので、これでは本来の任務の放擲である。

 このように大東亜戦争の日本海軍の戦術は、過去の作戦計画の趣旨から離れた不適な使い方をしたものが多い。駆逐艦を後衛に回した理由のひとつが、全力航走による燃料の浪費を恐れたというから、退嬰の極みである。栗田艦隊の反転といい、サマール沖の追撃中止といい、見敵必殺の闘志のないものに勝利はない。数的に劣った日本海軍の指揮官の闘志のなさは、劣勢で日本戦艦群に突撃して護衛空母を守った米駆逐艦の闘志にはかなわないのは当然である。

 また米海軍は煙幕を時々有効に使っている。スラバヤ沖海戦でも駆逐艦の煙幕により戦闘が一時中断しているし、サマール沖海戦でも米駆逐艦が煙幕を有効に使って護衛空母群を守っている。何よりも戦艦と重巡の大群に突撃して護衛空母を守ろうとする駆逐艦の闘志は天晴れという他はない。既に圧倒的に優勢であった米海軍にしてこの敢闘精神である。

 スリガオ海峡海戦の図面を見るがよい。スリガオ海峡からレイテ湾に突入した、西村艦隊は不利な体制でも何の工夫もなく、打ってくださいと言わんばかりの整然とした単縦陣でと直進し、何の戦果もなく全滅した。レイテ湾内には、米輸送船とそれを守る戦艦、巡洋艦軍がわんさといたのは事前情報で分かっていた。西村艦隊は、せめて巡洋艦と駆逐艦群を先行突入させ、魚雷を一斉に発射するべきであった。援護の戦艦群は、日本艦隊に横腹を見せて往復していたのである。

 射程の長い酸素魚雷は本領を存分に発揮し、レイテ湾の奥まで突入して大戦果を挙げたであろう。西村艦隊はいずれ全滅しただろうが、それに相応する戦果を挙げることはできただろう。西村艦隊の敢闘を是とする論者ですら、この程度の戦法を挙げないのは、不可解というしかない。第三次ソロモン海戦では挺身攻撃隊の比叡が、探照灯を照射して、重巡群に返り討ちに会うという拙劣な戦法をとった。片や煙幕で身を隠すのに対して、日本海軍は明かりで敵に目標を見せて示してあげたのである。後の夜戦でワシントンが霧島を撃沈したのも、レーダー管制射撃によるものではなく、レーダーで霧島に見当をつけ、霧島の探照灯に光学測距儀照準して射撃したのである。米軍艦は探照灯ではなく、艦砲で星弾(照明弾)を打って、照明として射撃照準の補助としている。探照灯より危険が少ないのである。

 私はこの探照灯照射は成功であったという発言を平成8年頃旧海軍の幹部から防衛図書館のセミナーで聞いた。どこまで身びいきであろうか。陸軍に比べ開明的とされる海軍は、実は頑迷で戦後まで嘘をつき続けている。そのことは硫黄島戦史をみればわかる。失敗し続けた水際防衛をして戦果なく全滅したのは海軍で、巧妙な指揮をして米軍を苦しめた栗林中将は陸軍である。海軍の善玉説は作られたもので、事実ではない。


ミッドウェー海戦記1

2019-05-28 14:58:13 | 大東亜戦争

 「半数待機の疑問」に書いたが是本信義氏によれば、陸上攻撃のための第一次攻撃隊は各艦27機の合計108機で、同じく108機が山本長官の厳命により、半数が空母出現のための艦船攻撃兵装で待機していた、とされる、他の資料でも類似の記述がある。しかも待機した攻撃隊は、第一次攻撃隊発艦後、すみやかに艦上に上げられ、空母出現を待っていたというのである。このことの不合理は「半数待機の疑問」に書いた。ここでは文末に示した(1)という文庫本から、各空母の関係者の証言を検証してみた。

 

〈蒼龍の魚雷調整員の証言〉

 この証言によれば、これすら怪しい。蒼龍の魚雷調整員の元木茂男氏の証言である。Wikipediaによれば、蒼龍の第一次攻撃隊の編成は零戦9機と陸用爆弾搭載の艦攻18機である。元木氏によれば、ミッドウェー島攻撃の6月5日の「・・・作業の指示があった。・・・ただちに艦攻18機に、八〇番陸用爆弾を搭載する。そして、搭載終了後、今度は急ぎ魚雷搭載の準備にかかる、というもので・・・攻撃隊が帰るまでに魚雷の準備にかかる。調整場から格納庫へ一本づつあげるのである。」

 つまり、第一次攻撃隊の艦攻は800kg陸用爆弾を搭載して出撃した。そして魚雷は帰ってきた第一次攻撃隊の艦攻への搭載を予定していたのであった。この記述は伝聞ではなく、調整した本人の証言だから、この点に関しては間違いないであろう。すると飛行甲板上にはWikipediaの記述のように、零戦と対艦戦用の爆弾を搭載した艦爆が待機していた、という記述とは必ずしも矛盾はしない。矛盾はしないが、第一次攻撃隊が帰ってくるまでに、これらの対空母戦の攻撃隊は一旦、格納庫に全機戻さなければならないから、作業効率が悪い上に、対空母戦の攻撃隊が出撃可能な時間は極めて短いことになり、対空母作戦効率も悪い。換言すれば、敵空母攻撃のチャンスは極めて少なくなる、ということである。

 だが、元木氏は7~8波の空襲を切り抜けたため調整場の待機を交代して、飛行甲板に出た。すると昼食のにぎりめしを二、三個食べ終わった瞬間に隣の加賀に命中弾があり、蒼龍にも対空戦闘のラッパが響いた、というから、この時に三艦にとどめを刺した艦爆の攻撃が始まったのである。この時元木氏は飛行甲板後部に10機の艦攻が待機していたのを見ている。直後に艦攻群に第一弾が命中した。

 蒼龍で出撃したのは艦攻で、艦爆しか残っていなかったから、艦攻の目撃が事実なら、第一次攻撃から帰投したものとしか考えられない。すると飛行甲板で待機していた、空母攻撃隊は既に格納庫に収容されて、攻撃隊の着艦をさせたのである。格納庫への収容には相当時間がかかるうえに、この間敵機の攻撃を受けて、防空の艦戦を発着艦させながら雷爆撃の退避運動をしていたのだから、攻撃隊の着艦は困難であったろう。すると、米艦爆隊攻撃時点では、対空母攻撃隊が飛行甲板に待機していた、ということはましてあり得ない。

 それにしても、着艦した艦攻が格納庫に収められずに、10機も飛行甲板上にいた、ということの解釈は難しい。ひとつ考えられるのは、これが艦爆の見間違いで、第一次攻撃隊の格納庫への収容は終えて、ミッドウェー基地攻撃か空母攻撃か分からないが、発艦準備をしていたという解釈である。それにしては他の証言から考えると時間的に早すぎて、そこまでの作業が終えていた、というのも考えにくい。

 もう一つの可能性だが、零戦を艦攻と見間違えたのではないか、ということである。見間違えたとすれば、固定脚の九九艦爆より引込み脚の九七艦攻の方が可能性は高い。そうだとしても、艦隊護衛に発着を繰り返していたはずの零戦が10機も飛行甲板上にいた、というのも不可解である。

 

 話は元に戻るが、米艦爆隊の攻撃中に、飛行甲板上に艦攻がいたということを正しいとすれば、残る解釈は、その前から雷爆撃を受けていたから、第一次攻撃隊の着艦収容作業が遅れていたのである。零戦は最後に着艦するから、艦攻が着艦し、格納庫への収容作業中で、収容待ちの艦攻約10機が残っていた、ということであろう。零戦は着艦待ちか他の艦に着艦したかのいずれかであろうとするのが、証言と最も矛盾しない。

 

時間的にも収容された第一次攻撃隊の艦攻が格納庫に降ろされて、雷装を施されて飛行甲板に上げられた、ということは考えられない。魚雷調整員の元木氏は、7~8波の敵の攻撃を受けている間、魚雷調整場に待機していて魚雷装着作業はしていないうちに、交代して飛行甲板に上がってにぎり飯を食べ始めたときに、10機位の艦攻を目撃したと同時に米艦爆の直撃を受けたと証言しているから、やはり目撃した艦攻は着艦したばかりの空装備の、第一次攻撃隊機だとするのが、最もつじつまが合う。 

 

 

〈赤城の制空隊の証言〉

 赤城の戦闘機隊の木村惟雄氏の証言である。第一次攻撃隊の制空隊に参加し、午前4時に攻撃を終え帰途につき、五時頃母艦に達すると、敵雷撃機の攻撃の最中で、雷撃機を撃退して着艦した。午前六時二十分に対空戦闘が始まり、敵雷撃機を撃退すると同時に、艦爆の攻撃を受けた。これが問題の攻撃である。

 赤城に初弾が命中し、全艦が火災になったが、艦が風上に向かったので、エンジンが始動されていた、自機ではない隊長用の機であったが、飛び乗って発艦すると次々に爆弾が命中した。これが、よくミッドウェー海戦記に書かれている、「敵空母攻撃隊の最初の一機が赤城から発艦すると、直後に次々と急降下爆撃に攻撃され被弾した」という問題の一機である。この機は補助翼が味方の対空砲火で壊れ防空戦闘ができず、仕方なく飛龍に着艦したが投棄された。

 つまり攻撃隊の発艦どころか、敵襲であわてて反撃に発艦したのである。別の資料には最初に発艦したのは赤城の艦隊直掩機だったという記述があるが、全くの間違いではないものの、着艦した第一次攻撃隊の一人が、攻撃にさらされて慌てて再度発艦したのであって、直掩のために発艦したという計画的なものではなかったのである。この証言では第一次攻撃隊は、敵襲の合間をぬって収容された機もあったということである。

恐らく艦戦は最後に着艦するだろうから、攻撃隊の多くの機が着艦できていた可能性はある。いずれにしても先の元木氏の証言と同じく、第一次攻撃隊が着艦可能であったから、飛行甲板には、山本長官の命令で飛行甲板上に敵空母攻撃隊の機が待機していたとしても、その時には飛行甲板上に既にいなかったということである。このことは時間的に無理があるから、第一次攻撃隊発進後、ただちに敵空母攻撃兵装の攻撃隊を飛行甲板上に待機させていた、ということの信憑性を疑わせる。

 

〈加賀の飛行長の天谷孝久氏の証言〉

 氏は戦闘時、発着艦指揮所にいたから、加賀が攻撃されていた状況を見ることが可能な位置にいたことになる。第一次攻撃隊発進後しばらくすると「艦上機らしい小型の二機編隊を認めた。」とあり、この攻撃により「・・・敵機動部隊が、この飛行機の行動半径内(二〇〇カイリ以内)にいることは確実であった。」というは当然の判断であった。氏は索敵機が敵空母を発見しないことにやきもきしているが、この時点で兵装を対艦戦用にしておくのは当然であろう。もし、この機が陸上から発進したアベンジャーでも、艦上機が来たのだから、敵母艦攻撃機を意識していたなら、母艦の存在を勘ぐるのは当然である。

 所在が見つからなかろうと、兵装転換には時間がかかるのだから、艦上機の攻撃を最初に受けたときに、兵装転換だけでも行って、攻撃態勢を整えておかない、というのは大間抜け、というものであろう。ところが赤城から、空母攻撃司令信号が来て爆装から雷装への転換を始めると同時に、第一次攻撃隊が帰って来て着艦させようとすると、雷撃機が来襲して着艦は中止される。しかも雷撃機を撃退して収容をしようとすると、急降下爆撃機の攻撃が始まったという。

それならば、おそらく加賀は全く攻撃隊の収容ができなかったのである。何度も言うが、敵空母攻撃隊の発艦直前に急降下爆撃機の攻撃により、赤城、加賀、蒼龍が被弾した、などという通説はでたらめである

加賀の第一次攻撃隊は零戦と艦爆たから、次の攻撃隊に残っているのは零戦と艦攻である。第一次「・・・攻撃隊発進後『加賀』艦上は、上空直掩機の交代機発進、第二次攻撃隊の準備も終わり・・・」とある。直掩機が交代で発着艦を繰り返しているから飛行甲板には準備が整った第二次攻撃隊はおらず、格納庫にいたことになる。

しかも前述のようにその後索敵機の報告により雷装に切り替えていた、というのだから、少なくとも加賀の第二次攻撃隊の艦攻は陸上機兵装で、格納庫にいたのである。このことから、少なくとも、加賀は第一次攻撃隊発進後雷装の艦攻隊を飛行甲板に上げ発艦体制にあったというのではない。

 

〈加賀艦攻隊の松山政人氏の証言〉

 松山氏は第一次攻撃隊発進より前に、早朝暗いうちに朝飯も食べずに3時間位索敵して加賀に帰投した。そこで聞いたのは対一次攻撃隊が発進していくらもたたないうちに、小型の艦上機の攻撃を受けて撃退した。氏はミッドウェー島に訓練のためいた艦上機だろうかと推定している。艦上機なのだから近くに敵空母がいるはずだ、という天谷氏の判断とは異なる。事実は最新のアベンジャー雷撃機は少数がミッドウェー島から発進し、旧式のデパステーター雷撃機は母艦から攻撃している。両方あったわけである。

 その後氏が飛行甲板に上がると艦上機の攻撃が始まったが、零戦に撃退された。その時索敵機から敵機動部隊発見の報が入った。「私はいそいで甲板下の格納庫にかけつけ、愛機へ魚雷を装備した。ところが、これらの装備もおわろうとするとき、今度は雷撃中止、爆撃用意という命令である。しかたなく、いま装備したばかりの魚雷を取りはずし、いそいでいるため、魚雷を魚雷庫へもどす暇もなく格納庫においたままで、今度は爆弾庫から八〇〇キロ爆弾を運んできて、爆弾装備に変更したのである。」

この証言では、加賀の艦攻は雷装に転換する前には、爆弾装備をしていたのか、空だったのかはっきりしない。しかし、兵装がない、ということは考えにくいから、陸用爆弾を装備していたのであろう。八〇〇キロ爆弾が爆弾庫にあったのは、雷装への転換時にはゆとりがあったため、外した爆弾を爆弾庫に戻していたと考えればよいのである。

ただし、森村氏の「ミッドウェイ」によれば、兵装転換には雷装から爆装で二時間半もかかるというから、爆装→雷装→爆装などしっかり終えている時間はない可能性が高い。被爆時のいずれの機の兵装は中途半端でばらばらだっただろう。

 

〈証言の総括〉

 阿川氏などによる通説は、待機機は敵空母攻撃兵装をしており、ミッドウェー島第二次攻撃の要有、との無電により、陸上攻撃兵装に転換している時に、索敵機から敵空母発見の報があったため、空母攻撃兵装に戻し攻撃隊を飛行甲板に上げ、発艦を始めた瞬間に被爆した、というものである。

 しかし証言によれば、三空母とも被爆時に、敵空母攻撃隊が発進準備中ではなく、格納庫内にあったということにしかならない。残りの飛龍も三空母の一部の第一次攻撃隊も収容しているから、第二次攻撃隊は格納庫で待機していたのである。

 本項で引用した証言から三空母の状況を推理する。赤城は、米機来週の合間をみて、第一次攻撃隊の多くを収容した直後に被弾した。加賀は連続攻撃をうけていて、ほとんど第一次攻撃隊を収容できなかった。蒼龍は第一次攻撃隊の艦攻だけ収容できたのかもしれないが、防空戦闘機が発着艦している最中に、艦攻が飛行甲板にいた、というのは不可解である。。

 加賀の二人の証言は矛盾している。天谷氏は艦攻への雷装中に被爆し、松山氏は雷装にした後、爆装に転換しているときに被爆したというのである。ただ、天谷氏は発着艦指揮所にいて、松山氏は兵装転換のために格納庫に行った、というから格納庫の様子については松山氏の証言の信憑性が高い。いずれにしても、米軍機の四空母攻撃から、三空母の被弾までの経過は真相がつかみにくい。

 だがこれらの証言で共通しているのは、通説とは異なり、被爆時に敵空母攻撃隊は飛行甲板上ではなく、全て格納庫内にいた、ということである。

 

(1)証言・ミッドウェー海戦・NF文庫


書評・誰が第二次大戦を起こしたのか

2019-04-25 20:31:11 | 大東亜戦争

誰が第二次大戦を起こしたのか

 フーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く・渡辺惣樹

 

 本書は副題にあるように、フーバー大統領の著書を基に、いかにルーズベルト大統領が、スターリンに操られて、必要もない第二次大戦を引き起こして、日本や東欧諸国を犠牲にして戦後のソ連帝国を作るのに利用されたか、という論証をしている。単にフーバーの著書に拠るばかりではなく、渡辺氏が調べた各種の資料により、FDRの犯罪とそれに加担したチャーチルの愚かさをも述べている。

 チャーチルは英国と戦争をしたくなかったヒトラーを、チェンバレンとともに、ポーランドを守ると言うできもしない約束をし、参戦して結局は大英帝国を崩壊させた。米国がFDRの愚かさと病弱による判断喪失ばかりではなく、周辺に送り込まれたコミュニストたちに操られて、スターリンに利用されたのは分かる。しかし、愚かにもチャーチルが結果的に加担していたということの動機が分からない。それは問うまい。しかし、最近になって、ヒトラーの侵攻に抵抗して英国を守ったという、チャーチルの伝記映画が作られたことをみると、チャーチルの愚かさを隠そうとしたい人たちはいるのだ。それはFDRの愚かさも擁護するという結果となっている。

 本書に書かれている多くの事実は納得のいくものであり、現代日本人の必読書と思う。しかし、どうしても本書で理解不能なのは、真珠湾攻撃が始まるまで、世論調査のように、80%を超える米国人が、本当に戦争絶対反対であったのか、ということである。小生が思うのは、その疑問は本書自身から発せられる結果となっているということである。ハル・ノートは公表されなかったし、数々の秘密協定も隠され続けていた。それにしても、本書が指摘する、FDRが実行した多くの公表された事実から、国民や多くの政治家、政治経済軍事の専門家筋が、FDRが戦争を欲していることは明白であり、隠しようもないとしか考えられない。

 まさか共産圏のような絶対秘密主義国家ならともかく、マスメディアも政治批判も発達していた米国において、大多数の米国民を完璧に騙しおおせる、というのは単純に考えて不可解過ぎる、というのが小生の根本的発想である。米軍の戦時下における、報道管制はシステマチックで厳格である、と言う点においては日本のように杜撰で恣意的でないことは知られている。

それにしても、米国が参戦前の時点でドイツがデンマークを占領したときに、米軍がグリーンランドを保障占領したと言うことが公的に知られないはずはあるまいし、米駆逐艦が独潜水艦を攻撃したということが報道されていない、ということはあり得ない。中立法の改定による交戦国への武器輸出や日本に対する経済制裁は国民の知るところである。

当時の米国は、経済制裁は戦争に準ずる、という国際法解釈であったから、日本に対して戦争を強いていると国際法の専門家が指摘してもおかしくない。本書に書かれている当時公表されている事実の全てを総合すれば、FDRか三選に際して約束したとされる、参戦しないと言う公約は破られつつある、と考えなければ国民はよほど愚かか、情報から絶対的に隔離されている、としか考える他はあるまいが、そんなことはあり得ない。

だから小生は国民のほとんどが、世論調査のように本音で参戦絶対反対だ、ということを信じ得ない。そのようなことを主張する日本人の著書を、小生は寡聞にして知らない。そこで、そのことを傍証したい。

チャールズ・リンドバーグの「リンドバーグ第二次大戦日記(角川文庫上巻)である。リンドバーグは「翼よあれがパリの灯だ」で有名な大西洋無着陸横断の英雄であるが、欧州大戦に参戦絶対反対のキャンペーンを展開したことでも有名な人物である。彼はパイロットとして有名だったから軍関係者とも知己があるが、一民間人であり、彼の知り得た情報は一般的に国民も共有していたはずである、ということを前提にする必要がある。

リンドバーグはルーズベルトが欧州参戦に向けて画策しているということを、日記では随所に述べていることが注目される。その上、ルーズベルトは参戦しない、と公約していたにも拘わらずリンドバーグは全く信用しておらず、ルーズベルトの「三選は参戦」とすら断言している。「大多数の国民と同じく」一貫して世論に参戦反対を主張していたリンドバーグがこの調子である。リンドバーグが中立法改定その他の立法は全て参戦に向けたものだと判断しているのは、当たり前と言えば当たり前で、参戦前の米国の雰囲気が理解できるではないか。

 小生が重要だと考えるのは、ルースベルトが三選された後の1941年1月6日の次の記述である。

 

 こんにちはとりわけ、戦争前の暗い帳が頭上に重く感ぜられる。何の抵抗もなく戦争に赴こうとする人々が増えつつある。万端の用意が出来ていると主張する人たちが多い。国民の態度は前後に揺れている。最初のうち、反戦勢力が勢いを得ていたかと思うと、今ではそれと正反対の方向に振子が動いている。-国民の現実と態度と新聞の大見出しとは常に区別して見分けるように努めねばならぬ。が、全般的にいえば、アメリカの戦争介入に反対する我々の勢力は、少なくとも相対的に見た場合はじりじりと後退しつつあるように思われる。われわれにとり最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対していると言う事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが「戦争の危険を冒してまで大英帝国を助ける」ことを望んでいる。換言すれば、自ら戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいるかのように思われるのだ。われわれはいわば希望的観測の類にのめりこんでおり、それは遅かれ早かれ、われわれを二進も三進も行かぬ状況に追い込むに違いない。

 

 この記述は見事に当時のアメリカの世論の状況を叙述していると思われるのだ。渡辺氏も含め、日本の歴史家等は、この記述のように、世論調査の85パーセント参戦反対となっていることと、国民の大多数が参戦反対でルーズベルト自身も三選の際の公約に参戦しない、と約束したことをもって、ルーズベルトの裏口からの参戦の陰謀を主張している。ところが参戦反対の闘士であったリンドバーグの記述は、米国の状況がそのように単純なものではないことを示している。

多くの専門家は、「約六十五パーセントが『戦争の危険を冒してまで大英帝国を助ける』ことを望んでいる」という世論調査の結果には全く触れない。リンドバーグは国民が「自ら戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいる」といっても、大英帝国を助ける以上、参戦せずに済むはずはない、という理性的判断をしている。米国民はそれが分からないほど愚かではない、と小生は思うのだ。

しかもリンドバーグの感触では参戦反対派は賛成派に押されていると、と感じているのだ。65%という数字は中立法の改正等のルーズベルトの参戦に向けた布石の法案への議会の賛成投票の比率と案外似ているのだ。ここに国民の建前が参戦反対でありながら、参戦への布石が着々打たれても、大統領の弾劾が行われず、公約違反の声が多数派にならない、ということのカラクリがあるのではないか。

リンドバーグは、国民の動向と新聞の大見出しは必ずしも一致しない、と言っているが、近年のトランプ大統領の当選の際にも選挙結果(国民の動向)と大手マスメディアの大きなかい離を眼前にしているのでないか。渡辺氏が論評しているフーバー元大統領は、政治の経験者だから、ルーズベルトの嘘を見抜く情報源を持っていたと考えられる。しかし、一民間人に過ぎないリンドバーグには、一般国民と同レベルの情報源しかなかっただろう。

それでも、参戦反対と言う立場に立てば、ルーズベルトの参戦意図は見え見えだったことを「日記」は示している。「日記」はフーバーの著書のように後日書かれたものではなく、その時点での記録だから、後世からみれば、リンドバーグの叙述には間違いが多い。だからこそ、後知恵ではない、当時の米国民の心理が分かるのである。

ちなみにリンドバーグは参戦反対であっても、参戦となると自ら戦うことを望む愛国者であり、兵士とはならなかったが、自ら軍用機を操縦して太平洋戦線で日本機と空中戦を演じているエピソードは有名である。もっともこれは戦時国際法違反であり、日本軍に捕縛されたら処刑ものであるのだが。ともかくもリンドバーグの「第二次大戦日記」は米国の一般市民から見た、米国参戦前後の米国の大衆の状況がよく書かれている。この日記は日本では、米軍の日本に対する残虐行為の記述が引用されることが多いが、その価値はそれにとどまらない、と言っておこう。

次はルーズベルト大統領の日本爆撃計画である。これは「幻」の日本爆撃計画、に詳しい。ルーズベルトは「ラニカイ」というボロ舟を使って最初の一発を日本に打たせようとしたことは案外有名であり、米西戦争のメイン号爆沈事件と似た陰謀である。しかし「幻」の日本爆撃計画、に書かれているのは、日本本土爆撃計画であり、最初の大きな一発を米国が打とうとする、積極的な計画である。

小生には検証能力はないが、著者のアラン・アームストロング氏はきちんと資料出所を提示しており、いい加減なものではないと考えられる。ルーズベルト大統領は戦闘機350機と爆撃機150機という大編隊により、日本の首都圏爆撃をする計画にサインしていた、というのである。もちろん中国空軍に偽装しての空襲だった、というのであるが、当時の日米国民の常識から考えても、中国がこのような戦力を持っていると考えるはずはない。

実際には、米国から爆撃機や戦闘機とそれらに付帯する整備機材を送り、パイロットと整備クルー等は義勇軍として米国から派遣する、というものであるから、人員だけでも数千人に及ぶ。注意すべきは、この計画は計画倒れになったのではない、ということである。戦闘機部隊の一部は、実際にP-40戦闘機と所要人員が派遣されている。

現在では、義勇軍として派遣されたとして有名になった「シェンノートのフライングタイガース部隊」である。計画の実行は長距離爆撃機が援英のため、調達が難しくなって実行が遅れているうちに、真珠湾攻撃が始まって、中止となった。しかし、フライングタイガース部隊は、実際に派遣されて、その後日本機と交戦している。つまり計画は実行されない机上プランではなく、実行途上にそれどころではなくなってしまったのである。

85%もの米国民が本気で参戦に絶対反対であったなら、この計画が実行されたら、囂々たる非難をあびたであろう。ルーズベルトは国民の多数派の本音が参戦賛成であったことを知っていたから、どんな手段でも戦争を始めてしまえば、国民はついてくる、と踏んだとしか考えられないのである。渡辺氏の著書ではラニカイ派遣にも「幻」の日本爆撃計画にも触れていない。

ルーズベルトの爆撃計画は、支那事変で疲弊した日本は、一撃で国力に壊滅的打撃を与えられ、日本が何年も戦うことができた、などとは考えられなかったと想定した節がある。日本を早いところ片付けて、対独戦に専念しようと考えていたのかも知れない。日本をなめていたのである。

その意味では、最初の一撃が真珠湾であろうとなかろうと、どうでもよかったのであろう。一部には、米政府は真珠湾攻撃の可能性を知っていたから、真珠湾には、旧式戦艦だけを並べていた、と称するむきもあるが、そうではない。大和級などの日米の新戦艦はまだ就役していなかった。かつて長門級を含めてビッグセブンと呼ばれた現役最新の、コロラド級三隻のうち二隻は真珠湾にいて被害を受けた。しかし、爆撃で戦艦を沈めることはできない、というのは軍事常識であり、底の浅い真珠湾では航空雷撃は不可能であったというのも軍事常識である。

1940年のノルウェー侵攻で、オスカーボルグ要塞を攻撃した、ポケット戦艦リュッオーと重巡ブルッヒャーを中心とする艦隊は、圧倒的火力を持っていたにもかかわらず、ブリュッヒャーは沈没し、リュッオーは大被害を受けて敗退した。真珠湾には陸上砲台のみならず、戦艦群や航空機もいて、抗堪性はオスカーボルグ要塞の比ではない。

つまり真珠湾を航空攻撃しても艦砲攻撃しても大きな被害を与えることはできない、と考えるのは妥当なのである。意図的に空母を真珠湾から離しておいた、とすれば空襲を予知していたとしたら妥当である。空母は急降下爆撃で撃沈はできなくても、脆弱である、というのも常識だったからである。

米軍が日本海軍による真珠湾攻撃を想定するとすれば、航空攻撃で制空権を確保し、艦砲で主力艦群を殲滅する、というものであろう。これならば、米海軍はさほどの被害を受けずに日本艦隊を撃退することは可能だった、と踏んでもおかしくはないのである。結果はメイン号事件に比べれば、桁違いの被害となってしまった。

また「幻」の日本爆撃計画の引用にあったTHE UNITED STATES NEWSも調べてみた。一九四一年十月三十一日号には、BOMBER LINES TO JAPANという記事があった。図入りで、重慶、香港、シンガポール、フィリピン、グァム、ダッジハーバの6か所から本州を爆撃できる、と書いているのである。アームストロング氏は、この記事を日本本土空襲の予告に等しいと書くが、その通りである。類似の記事は、他の有名雑誌にも掲載されていたそうである。

付記するが、実行されなかった「日本本土爆撃」と比較されそうなのは、関東軍特種演習(関特演)である。確かに陸軍はソ連攻撃を想定して関特演で、兵力を動員した。しかし、攻撃計画は、最終的に陸軍の判断で実行されなかった。一方で日本本土爆撃計画は大統領の裁可を受けた上で、実行が開始された。これは単なる計画に過ぎないものと、実行中のものという大きな差異があることを示している。いずれにしても、FDR政権は日本に先制攻撃をかけても、国民の賛同は得られると判断したことの、重大な傍証である。