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書評・大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験・河西晃祐

2018-10-02 18:07:19 | 大東亜戦争

 本書評では、当時の日本人の現実的立場や理想などの観点から、本書を批判的に評しているが、本書が類書に比べ総合的かつ、資料を駆使している点で優れた研究である、というものである、と考えているということを前提としている、ということをまず述べておく。

著者は現代日本の戦前研究者に見られる典型的なひとつのタイプの人である。つまり日本には完璧な道義性を求め、独立運動をするアジア人に対しては日本に対する裏切りを、無条件にありうべきこととする。また、日本が戦争遂行のためにアジアを利用したことに厳しい目を注ぎ、欧米の苛酷な植民地支配には言及しないことである。

 例えば、大東亜会議の後に、東條首相が次のように述べたことを引用している。

 

 「ビルマ」人は大東亜共栄圏の中にて割合良い方にて上の部に属すると云い得べく 之を秦国人に比するに秦人の方が扱ひ難し 併し我方として信頼するや否やを不問 兎に角政策としては怪しきものをも抱込む心算なり

 

 これを評して「・・・日本を指導者とするはずの大東亜共栄圏において、タイをはじめとする国々の民族指導者らが、東條をして『扱ひ難し』と述べさせるほどに抗い続けた証拠でもある。」

 

 国々と言うが、会議に参加したのはタイ、汪政権、満洲国以外は欧米の植民地であり、他の独立した「国」はひとつもなかったのである。大多数が独立国ではなかったものを「国々」と総称するのは適切ではなかろう。しかも「指導者」とはチャンドラ・ボースのような反西欧の独立の闘士であった。タイは西欧の植民地獲得競争の中で、バランスをとり独立保つほどだったから、外交的に「狡猾」であるのは当然であろう。しかもタイは日本の勝利に乗じて、「旧領土」を取り返そうとビルマに進軍するという、機会便乗主義を見せた。

 チャンドラ・ボースは大東亜会議に消極的どころか、インド独立のためにインパール作戦を要請し、作戦失敗が明白になった時点でも作戦継続を主張したのである。このように、アジア各地の「指導者」が様々な思惑を持って大東亜会議に参加していたのは当然である。これらのアジアの地域の指導者は各人、勇気や努力と辛酸の経験をした立派な人達であったのに違いない。だが敢えて言う。欧米の植民地獲得競争の中で、日本が独立を保持し得て西欧と伍したのに対して、なぜこれらの立派な指導者を出すような、ほとんどの地域は独立すら保持し得なかったのであろう、と。

 著者は東條の枢密院会議での発言を引用して「・・・東條がビルマやタイを心の底では『盟邦』だとも考えていなかった可能性」がある、とし枢密院顧問官の南弘の枢密院会議における発言から「・・・台湾統治を実地で経験していた南はビルマを『子供』と認識し、『日本の保護指導』が当然ではないかという質問を重ねた。」と批判する。余りにも偽善的な批判ではないか。

 現実の世界情勢に対する政治的判断として、ビルマやタイを心底から対等の盟邦と見ることが出来ないのも、台湾やビルマが当時の日本に比べれば「子供」に過ぎないと見るのも本音から言えば当然であろう。場所が枢密院会議であれば、国会に比べても本音に近い発言となろう。あまりに現実を見ない批判としか考えられない。

 また、アメリカ軍フィリピン再上陸に際しての次の記述(P254)は、事実関係としては正しいようであるが、結果的に倒錯していると思われる。

 「アメリカ軍の上陸に呼応して蜂起したフィリピン人「匪団」は、アメリカ軍を解放者として迎え入れた。大東亜共栄圏の理念なるものは通用しなかったのである」というのは事実である。だが米西戦争でフィリピンをスペインから引き継いで苛酷な弾圧をした米国を、単なる解放者として記述するのは浅薄に過ぎる。そもそも筆者はフィリピン人が米軍を解放者として迎えた、という「事実」に矛盾を感じないのであろうか。日本が占領したのは米国領フィリピンであって、植民地支配したのではない。それにもかかわらず、戦争中には米軍の手先となって日本軍をスパイしたフィリピン人は多数いる。

 フィリピン人は必ずしも米国に約束された独立を期待して日本軍に抵抗した訳ではない。そうであろう。米国は米西戦争の際に約束した独立を反故にした前科がある。それでも米軍に協力したり、「解放者として迎え入れた」のは単に米軍の強さに屈従したのに過ぎない。「理念」以前に現実的選択をしたに過ぎない。日本の大東亜共栄圏構想の真贋とは関係のない打算である。フィリピン人は表には出さないが、米国の苛酷な植民地支配や、マッカーサー再上陸の際に砲爆撃によって何十万人という無辜のフィリピン人を無差別殺害したことに、心底に怨嗟を抱いている者が少なくない。

 例えばミャンマーは、独立後英国の植民地支配の苛酷さを国際社会に訴えた。そのとたんに、軍事政権や独裁政権などとして制裁を受け、植民地支配の怨嗟の声はかき消されてしまった。このように、欧米の支配を受けた地域は独立後でさえ、本音を語ることは許されていないのである。現在でも欧米による過去の歴史を暴くことは、かつての被植民地の民には許されていない。著者には、その観点が欠落しているどころか、日本にだけ道徳的完璧を要求している。

 このように文章を読む限りは、氏の態度は公正である。例えば松岡洋右の評価などは資料によりきちんとしていて、これまでの偏見的常識にとらわれていない。しかし、結局のところ資料に現れた表面的論理的公正に過ぎないように思われる。日本人が西欧の植民地支配に憤りと危機感を持っていたのは、表面にどの程度出たかは別として、ほぼ全日本人の心底にはあったはずである。だが現実に国際社会に相対する時、完璧な道義的態度で、日本自身を一方的に犠牲とし、植民地解放に専心するなどということは、現実として選択できない行為である。

 アジアとの植民地解放は、あくまでも日本の国益の保持、という観点の範囲で行うのは当然であり、国益と矛盾する場合は抑圧する、という選択は当然ではないか。それでも搾取の限りを尽くした、欧米の植民地支配とは隔絶していることは間違いない。日本の明治以来の戦いの結果は無残な敗北に終えた。しかし、欧米諸国による植民地支配は日本の戦いによって終焉した。

 日本は世界史を一変させたのである。しかもその結果多数の独立国ができ、日本にとってもそれ以前とは比較にならないくらい自由な貿易が出来る、という有益な世界が到来した。それを日本が充分に利用できないのは、むしろ、日本の戦争を罪悪視する日本人が蔓延して、日本を政治的軍事的に独立することを妨害し、それを平和主義と標榜していることにある。 

根源的問題は維新から大東亜戦争までの日本の苦闘の拙さにあるのではなく、自らの闘いの成果を利用し得ない、現代日本にあるのではないか。

批判部分ばかり書いたので、著者の貴重な指摘を紹介する。それは「戦争のカタチ(P97)」に書かれている。第二次大戦の戦争の形態が当時としては例外であった、ということである。本書によれば日清戦争は日清の闘いであるにも拘わらず、朝鮮半島を舞台にしたものであって、清朝が継戦能力を失って敗北したのではない。日露戦争も似たようなものであった。第一次大戦は、ロシア、ドイツともに対戦国の首都が占領されたのではなく、国内で革命が起き、戦争を継続できなかったため、講和したためである。つまりこれらは交戦国の話合いによって講和が成立したのである。

これに対して大東亜戦争(著者は太平洋戦争と呼ぶ)は首都が壊滅する、という徹底した形で終わった、ということである。また戦争終結のプランとしても、日清日露戦争においても、第一次大戦当時においても開戦時に明確な戦争終結のプランがあったわけではなく、結果として終えたということである。

これらを基に著者は、対米戦は戦争終結のプランを指導者が持たずに開戦したとしても、開戦自体は指導者達にとっては合理的選択であったという。それは必ずしも正しい選択であったとは言えないにしても、「・・・日本の国力を過信していた訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかった」とし「正しい情報と判断力があれば戦争が回避できるわけではない怖さ・・・」があると結論しているのである。

これは多くの識者が、日露戦争当時は周到な戦争終結の準備をしていたのに、大東亜戦争では何の戦争終結の見通しがなく愚かにも開戦を選択した、と批判するのに対する明快な反論であるように思われる。直近のいくつかの戦争終結の様相に照らしてみれば「帝国日本のそれまでの戦争経験から照らしてみれば、成り立ちうるものである。」と指摘したのは慧眼である。第二次大戦の終結は、それまでの国際法上の常識を破る特異なものであったことは、深く認識すべきである。



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