私は、小学校4年生の時転校し、いじめを受けました。当時、福岡市には、女子師範学校と男子師範学校と、その附属小学校がありました。両方とも、附属小学校は男子児童、女子児童の両方を受け入れていました。私の家の両側には、虎次郎と虎吉という名の、私と同じ寅年(1926年)生まれの子がいて、二人とも、近所にあった女子師範附属小学校に通っていました。私の父は当時の満州国長春市で、産科婦人科医院を営んでいましたが、手が震える脊髄神経系統の不治の病を得て、医者としての勤めが出来なくなり、やむなく医院の建物を他人に貸して、日本にに帰ってきていたのでした。私は、はじめ、近所の普通の小学校に通っていたのですが、その小学校の担任の先生が「お日様は東から、お月様は西からのぼる」と言ったと、私が父に報告してから、その先生が生徒の私に与える影響を心配し始めて、師範附属小学校への転校を思いついたのでした。私の担任の先生は若い優しい女性で私は大好きでしたが、父の言うことに従って編入試験を受けることになりました。ここで、また問題が起こりました。この話を聞いた隣の虎次郎君の父親は、一種のいわゆる「有力者」で、「シゲちゃん(私のこと)を編入試験なしで女子師範附属小学校に入学させてやる」と私の父に言ったのでした。いささか「つむじ曲がり」であった私の父は、その親切な申し出を謝絶し、私は、すぐ近くにあった女子師範附属小学校ではなく、子供の足で半時間以上かかる所にあった男子師範附属小学校の編入試験を受け、4年生として転入したのでした。そして、いじめに遭ったのです。
組の編成は男子1組、女子1組、それぞれ三十数人、男子の組に麻生吉郎というボスが居ました。担任は樋口健一先生、小柄の、何事にも一生懸命になる、なかなか厳格なところのある先生でした。先生は組で一番勉強の良くできる生徒を「組長」にして、例えば、朝の「起立、お早うございます」の口を切る役目などを受け持たせていました。新しく編入した私は勉強で一番になったので、樋口先生は新入りの私を「組長」に任命したのですが、これが私に対する「いじめ」の原因になったのです。前任者は、「斉藤」という名の眉目秀麗な良家の坊ちゃんで、腕力の強いヤンチャ坊主の麻生吉郎は斉藤君のボディーガードの役を進んで担っていたのでした。師範学校の附属小学校の各組には「教生」と呼ばれる教育実習生が何人か配属されていました。いじめは心なき「教生」先生たちからも受けました。満州帰りで失職中の親の子供より、福岡の地方名士の子供を可愛がる方が得になったのでしょう。また、私が可愛げの無い少年であったであろう事も、私自身、認めなければなりません。樋口先生も、組長任命のルールに従っただけで、私に特別の好意を持ってくれていたのではありません。
ところが、この樋口先生が、思いがけない行為に出ました。麻生吉郎の家庭と私の家を訪問して、二人は友達になるべきだし、友達になれる、と熱心に説いたのです。先生と私の父がどのように話をしたか、同席しなかった私は知りません。私は学校でいじめられていることを父に言っていませんでした。父は口数の少ない人間でした。いじめの事実を私に問いただした後、「樋口先生はいい人だ、立派な人間だ」と言うふうの言葉を発したように記憶しています。
麻生一族は、もともと北九州の炭鉱業で興隆して行った一族です。その興隆を担った麻生多賀吉やその妻となる吉田和子(吉田茂の次女)などのことは SNSに大量に出ています。私の生涯の親友となった麻生吉郎(自民党の麻生太郎と一字違い)の麻生財閥一族の中での系図的位置に、私は興味がありませんが、今も人気のある「週刊新潮」の実際上の生みの親であったことだけは附言しておきます。新潮社の伝説的名編集長として知られた斉藤十一お気に入りの懐刀の一人であったのす。
作家の阿川弘之は、「一編集者の死」という随筆で、次のように書いています:
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『麻生吉郎という一人の編集者が、若くして亡くなつた。彼は「週刊新潮」のデスクで、出版社系週刊誌の嚆矢となつたこの雑誌の、創刊に参画した一人である。
九州の麻生財閥の一族だつたから、別府かどこかの持ち土地で、温泉の湯気がポッと上る度に麻生のふところには金がころがりこむという伝説があつて、
「あいつはいいんだ」
と、私たちは金銭の上でも全く対等のつき合いをしていた。
文学作品では、柴田錬三郎の「眠狂四郎」。「狂四郎」があれだけ長期にわたつて書きつがれたのは、柴田氏の麻生に対する並々ならぬ親愛の情からで、二人は作家と編集者という間柄をはるかに越えていた。
名前からおわかりのとおり、麻生吉郎は吉田茂&麻生太郎・元総理の一族の者で、当然ながらSF翻訳家・作家の野田宏一郎とも親戚です。でも、その人についてネットで言及している編集者は、元集英社の島地勝彦ぐらいですね。
麻生吉郎は、売れっ子でも何でもなかった当時の柴田錬三郎にいきなり週刊誌連載を依頼し、眠狂四郎という主人公の名前と、円月殺法という剣法を考えさせました。
考えた人の名前は残るけど、考えさせた人の名前は残らないものですなあ。』
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脇道はこのくらいにして、樋口先生と麻生吉郎と私の話に戻ります。先生が私たち二人を友達として結ばせようと思いついた頃、麻生吉郎の家は、福岡の大きな公園「大濠公園」の西側の高級住宅地にありました。煉瓦造りの洋館豪邸で、お父様が軍隊に招集されて不在となり、お母様が女手一つで建てられたとの話でした。大変だったでしょう。樋口先生がお母様にどんな話をしたかは知る由もありませんが、先生の両家庭訪問から暫くして、私は麻生家に招かれしました。2階の廊下の小テーブルの上に、出征されたお父様の手になる見事な小鳥の木彫が置いてありました。樋口先生の言葉通り、我々二人は良い友達になりました。裕福ではなかった私の家庭と異なり、麻生家にはあれこれの遊具がありました。中でもコリントゲームという、ひと頃のパチンコ屋のそれのようなゲーム機があって私はそれに夢中になりました。吉郎のお母様は本当によく二人を遊ばせてくれました。二人は、福岡中学と修猷館という別々の中学校に進学しましたが、その後で悲しいことが起こりました。我々二人が心から慕っていた樋口先生が結核を発病して、教職を辞めなければならなくなり、田舎の陋屋での療養生活を始めたのです。ひどい貧乏生活でした。麻生吉郎と私はほぼ毎週末にお見舞いに行きました。先生はやつれた顔を皺にして喜んでくれました。しかし、長くは続きませんでした。やがて、二人は貧しく寂しいお葬式に参列することになりました。
麻生吉郎と私の親友関係は、彼が肝硬変で亡くなるまで続きました。
藤永茂(2025年6月18日)
赤塚不二夫の漫画の 「天才バカボン」のお父さんは『西から上ったお日様が東に沈む』と歌っていましたが、戦前の教師の頭は天才バカボンの世界にいたのですね。
飯塚でタクシーに乗るとお、麻生太郎について、父親が「おまえは馬鹿だから政治家になれ」と言ったという話が聞かれるそうですが、麻生一族にもまともな人いたんですね。
幼年時代にお辛いことがあったこと、心が痛み、辛く感じましたが、樋口先生というお心のある方と出会われ本当によかったと、途中からは安堵しながら読ませていただきました。
樋口先生は、何故、お二人が仲良くなると思われたのでしょうか。やはり、ご両親様たちと会われて、感じるものがあったのでしょうか。木彫りの鳥の彫り物をご記憶されていることも、当時のご様子がクッキリ見えるようです。
これからも、樋口先生のような素晴らしい教育者が、今の子供達のそばにもいてくださることを願います。