書店でパラパラと見ていたらたまたまこの頁が目に入ってきた。いきなりの長い引用で恐縮。
原発の事故について、このブログでは意見を何も述べないようにしてきた。あえてこの場を借りて述べさせてもらうと、この引用の内容の通りだなーと思う。論点はずれるけれど、そこから感じたこと… みんなで同じ方向を向こうとする「他力本願」ピープルはどこかで聞いたことのあるピープルに似ている。それは、「ファシズム」に支配されていたピープル… 長い景気低迷に苦しみ、内向きで偏狭になり、メディアの一方的な報道を常に鵜呑みにし、他者を攻撃することに快感を覚える。それは、第一次大戦で敗北し、天文学的な賠償金の支払いを命じられ、紙幣を乱発しインフレになり、世界恐慌の後、植民地がないから英国やフランスのようなブロック経済体制も組めず、公共投資を増やすというケインズ的政策をアメリカのようにもとれず、国家として機能不全に陥り、結果ユダヤ人という攻撃対象を見つけ、ゲッペルスとヒトラーという国民を踊らせる天才が率いるようになった国、ドイツとどこか似ている。と思うんですがどうでしょう…
麻生副総理の言うように「ナチスは民主的な手続きをとって「ナチス憲法」を作った」のではなく、ワイマール憲法を無効化する全権委任法を通したのだった。全権委任法は、立法権を国会からヒトラー内閣へ移し、ヒトラー内閣が作った法律は憲法に違反してもいいというものである。(すごい法律だわね) ワイマール憲法に矛盾する全権委任法を立法化するには議席の2/3が必要であるが、ヒトラー与党は2/3までの議席を持っていなかった。しかし共産党の議員を拘禁して議席の分母を減らすことで全権委任法を通して、ワイマール憲法は無力化された、そうである。それは「合法的」なやり方ではあったかも知れないが、「民主的」だったとは言えないだろう。(民主的はいいいことだと言いたいわけではないけれど)(当時のドイツが悪かったとか良かったとか、今の日本が悪いとか言いたいわけでは全くない。ヒトラーはドイツ人のモチベーションを高めたし、景気を良くしたわけだし、アベノミクスが「景気」を良くしているというのも事実なわけで)しかし、麻生氏が(あるいは自民党が)やろうとしていること、そして多数の人が踊るさまを見てると、ワイマール憲法が無力化された前後の事を連想する。
ふぅ。堅い話をしたら肩が凝っちまった。いや、読む方が肩凝るか。すまぬ。
この本は、みんなが読んでみんなが面白いとか、考えさせられるとか思うかどうか、正直サッパリ分からない。少なくとも、私はすごく面白いし考えさせられるし、考えるヒントをあれこれと受け取った。自己軽薄本、じゃなくて自己啓発本の多くは「そりゃやれば有効なことは分かるけれど、やんねーんだよ」とか「こんな当たり前すぎることを読むために金払ったんじゃないのに」とか「アドバイスが具体的すぎて役に立たない」ことばかり。しかし本書は、当たり前のことが一つも書いてないし、提示される考えは抽象的なので、こちらが考える余地がある。それがとってもいい。論旨が明快だし、超論理的だ。私は自分が論理的だと思っていたけれど、全然甘かった。
他に気になった部分を自分用メモ風に:
人や絵画や音楽を好きになる理由なんてない。後から捏造するだけ。一度「好き」になるとそのことに縛られてしまう。(確かにそーだなー) / なにかネガティブな状態にあったときに、異常だ異常だとわめくよりもそれが「異常でない」と処理する方が自然だったりする。(ふむ) / 脳は変幻自在。体とは別で、挑戦が可能。「読みやすい」が選択の理由の人が多いけれど、「食べやすい」がその料理を食べる理由ではないだろう。それと同じ。(確かに) / 忘れるということは、具体から抽象へ移行しているということ / どうしてもしなくてはいけないことはほとんどない。どうしてもできないことはしなくてよい / ネットで求める情報は客観的なものであって、主観的な感想ではない。しかし個人的な感想ばかりがネットにあふれている。便利だったネットはだんだん普通の社会のように濁っている。(個人の感想ばかり述べるブロガーであることは棚に上げるとその通り。主観も数多く集まると客観になるかも知れないけれど、またそれは別の話)(若い人と話していると、ややリテラシーに欠ける人たちの多くは「ネットに全て書いてある」と思っているようだ。そんなわけないということも想像できないわけだ。メディアが扇動しやすい状況にどんどんなっているらしい)(日本人は、ずっと個人の自由よりも全体の利益を重んじる「全体主義」で、勝ち負けと格差が明確にある資本主義というよりも「社会主義」で暮らしてきたのだから、ヨーロッパの「自由と責任」の表裏一体をきちんと認識するという生き方はまだまだ馴染まないと思う。純和風と欧風がまだうまくミックスしていない過渡期。いつかうまく融合できるのだろうか。それとも50年後には昔の日本みたいになってるんだろうか。どんどん話が脱線しているけれど、たまには許して下さい。私も世間のブロガー様のように真面目な事を語れる、ような振りをたまにはしてみたいのです)
(自分用メモつづき)/ インターネットのおかげで「馬鹿」な人がどういう風に考えているか分かるようになった。今までは犯罪という結果しかみえなかったけれど / どうして貧乏になるか?それは自分で作らず、自分で考えず、人に作らせ、人に考えさせてるので、その料金をとられてるからだ。(うーむ。そんな風に考えたことはなかった。でもその通りだ) / 海外の小説を読まない人が増えている。グローバル化の反対だ。(確かに、周囲でも翻訳ものの本は読まないという人が昔よりもすごく多い。国産のものの方が優れている、ってことはないから、本当に面白いか、学ぶべきことが多いかという本質じゃない別の理由で選んでしまっているのだろう。本質を見失うと人はどうなってしまうのだろうか…)
暑すぎて、頭が沸騰してしまったらしい。似合わない事オンパレードだった。
では、また。
71「ずっと不安を抱いている」と言う人がいる。
不安を長い間ずっと抱き続けているというのは、我慢強いというのか、力強いというのか、なかなかの強者ではないか、と思ってしまう。僕は、そういう荷物はすぐに降ろしてしまう方だ。
もちろん、「ずっと不安なんです」と言葉でいうだけで、本当は不安ではないのかもしれない。実際のところ、そうなんじゃないか、と疑っている。一方、僕の場合、不安というのは、人に話すよりもまえに、我慢するよりもさきに、とにかく排除する。つまり不安のままには絶対にしておけない。そういうのが「不安」というものであるから、みんなが口にする不安とは、レベル的に違うかもしれない。
たとえば、「原発が不安だ」と口にする人がいる。それを聞くと、「それで、どうしているんですか?」とついききたくなる。相手は、首を捻って、「いや、べつに、できることはありません。しかたがないですね」と言うのである。
僕は、原発は二十年以上まえに不安に思った。周りの誰も不安を抱いていないようだった。もしものときに、どうするのか誰も考えていなかったが、僕は考えた。僕がまえに住んでいたところは、原発と百キロくらいの距離だったが、家には地下シェルタがあったし、手動の空気清浄器もあった。それから、次の引越では、原発の心配のない土地を選んだ。そういうことは、人には話さない。自分の不安は自分で解消するしかない。僕は、特に原発に反対しているわけではない。原発は鉄道や旅客機と同じくらい危険だと思っているけれど、どちらも必要を感じる人も多い。今のところ、死者が圧倒的に多いのは、原発よりも鉄道や旅客機である。
それからずいぶん経って、つい最近になって、大きな原発の事故が起こった。事故が起こると、みんなが「不安だ」と騒ぎだす。しかし、事故が一度起これば、これまでよりも、原発は安全になる。チェックも厳しくなるし、施設も見直される。だから、今は、これまでよりも安全なのだ。それなのに、みんなは、今までは知らん顔をしていたのに、今度は心配している。もう少しよく心配の対象を見つめてはどうだろうか、と僕は思う。でも「知らなかったのだからしかたがない」とみんなは言うのである。ああ、そうですか、それはしかたがないですね、とこちらも答えるしかない。自分の大事なことなのに、知らなかったで済ませるのか。そしてたまたま知ったことだけを、「心配だ」と口にする。口にするだけで、やっぱりなにもしないのか。
「他力本願」を通り越して、なんだか「自分」がない人が多いように見える。(162頁より引用)
不安を長い間ずっと抱き続けているというのは、我慢強いというのか、力強いというのか、なかなかの強者ではないか、と思ってしまう。僕は、そういう荷物はすぐに降ろしてしまう方だ。
もちろん、「ずっと不安なんです」と言葉でいうだけで、本当は不安ではないのかもしれない。実際のところ、そうなんじゃないか、と疑っている。一方、僕の場合、不安というのは、人に話すよりもまえに、我慢するよりもさきに、とにかく排除する。つまり不安のままには絶対にしておけない。そういうのが「不安」というものであるから、みんなが口にする不安とは、レベル的に違うかもしれない。
たとえば、「原発が不安だ」と口にする人がいる。それを聞くと、「それで、どうしているんですか?」とついききたくなる。相手は、首を捻って、「いや、べつに、できることはありません。しかたがないですね」と言うのである。
僕は、原発は二十年以上まえに不安に思った。周りの誰も不安を抱いていないようだった。もしものときに、どうするのか誰も考えていなかったが、僕は考えた。僕がまえに住んでいたところは、原発と百キロくらいの距離だったが、家には地下シェルタがあったし、手動の空気清浄器もあった。それから、次の引越では、原発の心配のない土地を選んだ。そういうことは、人には話さない。自分の不安は自分で解消するしかない。僕は、特に原発に反対しているわけではない。原発は鉄道や旅客機と同じくらい危険だと思っているけれど、どちらも必要を感じる人も多い。今のところ、死者が圧倒的に多いのは、原発よりも鉄道や旅客機である。
それからずいぶん経って、つい最近になって、大きな原発の事故が起こった。事故が起こると、みんなが「不安だ」と騒ぎだす。しかし、事故が一度起これば、これまでよりも、原発は安全になる。チェックも厳しくなるし、施設も見直される。だから、今は、これまでよりも安全なのだ。それなのに、みんなは、今までは知らん顔をしていたのに、今度は心配している。もう少しよく心配の対象を見つめてはどうだろうか、と僕は思う。でも「知らなかったのだからしかたがない」とみんなは言うのである。ああ、そうですか、それはしかたがないですね、とこちらも答えるしかない。自分の大事なことなのに、知らなかったで済ませるのか。そしてたまたま知ったことだけを、「心配だ」と口にする。口にするだけで、やっぱりなにもしないのか。
「他力本願」を通り越して、なんだか「自分」がない人が多いように見える。(162頁より引用)
原発の事故について、このブログでは意見を何も述べないようにしてきた。あえてこの場を借りて述べさせてもらうと、この引用の内容の通りだなーと思う。論点はずれるけれど、そこから感じたこと… みんなで同じ方向を向こうとする「他力本願」ピープルはどこかで聞いたことのあるピープルに似ている。それは、「ファシズム」に支配されていたピープル… 長い景気低迷に苦しみ、内向きで偏狭になり、メディアの一方的な報道を常に鵜呑みにし、他者を攻撃することに快感を覚える。それは、第一次大戦で敗北し、天文学的な賠償金の支払いを命じられ、紙幣を乱発しインフレになり、世界恐慌の後、植民地がないから英国やフランスのようなブロック経済体制も組めず、公共投資を増やすというケインズ的政策をアメリカのようにもとれず、国家として機能不全に陥り、結果ユダヤ人という攻撃対象を見つけ、ゲッペルスとヒトラーという国民を踊らせる天才が率いるようになった国、ドイツとどこか似ている。と思うんですがどうでしょう…
麻生副総理の言うように「ナチスは民主的な手続きをとって「ナチス憲法」を作った」のではなく、ワイマール憲法を無効化する全権委任法を通したのだった。全権委任法は、立法権を国会からヒトラー内閣へ移し、ヒトラー内閣が作った法律は憲法に違反してもいいというものである。(すごい法律だわね) ワイマール憲法に矛盾する全権委任法を立法化するには議席の2/3が必要であるが、ヒトラー与党は2/3までの議席を持っていなかった。しかし共産党の議員を拘禁して議席の分母を減らすことで全権委任法を通して、ワイマール憲法は無力化された、そうである。それは「合法的」なやり方ではあったかも知れないが、「民主的」だったとは言えないだろう。(民主的はいいいことだと言いたいわけではないけれど)(当時のドイツが悪かったとか良かったとか、今の日本が悪いとか言いたいわけでは全くない。ヒトラーはドイツ人のモチベーションを高めたし、景気を良くしたわけだし、アベノミクスが「景気」を良くしているというのも事実なわけで)しかし、麻生氏が(あるいは自民党が)やろうとしていること、そして多数の人が踊るさまを見てると、ワイマール憲法が無力化された前後の事を連想する。
ふぅ。堅い話をしたら肩が凝っちまった。いや、読む方が肩凝るか。すまぬ。
この本は、みんなが読んでみんなが面白いとか、考えさせられるとか思うかどうか、正直サッパリ分からない。少なくとも、私はすごく面白いし考えさせられるし、考えるヒントをあれこれと受け取った。自己軽薄本、じゃなくて自己啓発本の多くは「そりゃやれば有効なことは分かるけれど、やんねーんだよ」とか「こんな当たり前すぎることを読むために金払ったんじゃないのに」とか「アドバイスが具体的すぎて役に立たない」ことばかり。しかし本書は、当たり前のことが一つも書いてないし、提示される考えは抽象的なので、こちらが考える余地がある。それがとってもいい。論旨が明快だし、超論理的だ。私は自分が論理的だと思っていたけれど、全然甘かった。
他に気になった部分を自分用メモ風に:
人や絵画や音楽を好きになる理由なんてない。後から捏造するだけ。一度「好き」になるとそのことに縛られてしまう。(確かにそーだなー) / なにかネガティブな状態にあったときに、異常だ異常だとわめくよりもそれが「異常でない」と処理する方が自然だったりする。(ふむ) / 脳は変幻自在。体とは別で、挑戦が可能。「読みやすい」が選択の理由の人が多いけれど、「食べやすい」がその料理を食べる理由ではないだろう。それと同じ。(確かに) / 忘れるということは、具体から抽象へ移行しているということ / どうしてもしなくてはいけないことはほとんどない。どうしてもできないことはしなくてよい / ネットで求める情報は客観的なものであって、主観的な感想ではない。しかし個人的な感想ばかりがネットにあふれている。便利だったネットはだんだん普通の社会のように濁っている。(個人の感想ばかり述べるブロガーであることは棚に上げるとその通り。主観も数多く集まると客観になるかも知れないけれど、またそれは別の話)(若い人と話していると、ややリテラシーに欠ける人たちの多くは「ネットに全て書いてある」と思っているようだ。そんなわけないということも想像できないわけだ。メディアが扇動しやすい状況にどんどんなっているらしい)(日本人は、ずっと個人の自由よりも全体の利益を重んじる「全体主義」で、勝ち負けと格差が明確にある資本主義というよりも「社会主義」で暮らしてきたのだから、ヨーロッパの「自由と責任」の表裏一体をきちんと認識するという生き方はまだまだ馴染まないと思う。純和風と欧風がまだうまくミックスしていない過渡期。いつかうまく融合できるのだろうか。それとも50年後には昔の日本みたいになってるんだろうか。どんどん話が脱線しているけれど、たまには許して下さい。私も世間のブロガー様のように真面目な事を語れる、ような振りをたまにはしてみたいのです)
(自分用メモつづき)/ インターネットのおかげで「馬鹿」な人がどういう風に考えているか分かるようになった。今までは犯罪という結果しかみえなかったけれど / どうして貧乏になるか?それは自分で作らず、自分で考えず、人に作らせ、人に考えさせてるので、その料金をとられてるからだ。(うーむ。そんな風に考えたことはなかった。でもその通りだ) / 海外の小説を読まない人が増えている。グローバル化の反対だ。(確かに、周囲でも翻訳ものの本は読まないという人が昔よりもすごく多い。国産のものの方が優れている、ってことはないから、本当に面白いか、学ぶべきことが多いかという本質じゃない別の理由で選んでしまっているのだろう。本質を見失うと人はどうなってしまうのだろうか…)
暑すぎて、頭が沸騰してしまったらしい。似合わない事オンパレードだった。
では、また。

ただそれだけのことだと思うけど。