頭の中は魑魅魍魎

いつの間にやらブックレビューばかり

『快挙』白石一文

2013-05-31 | books
付き合うとか付き合ってくれとか言うけれど、「付き合う」ってどういうことなのだろうか。

その人のことが好きで(好きの定義は…)その人も自分のことが好きで、お互いにそれを確認済みの状態のことを指す。

いや、それだと親友も付き合うと同じになってしまう。不倫も同じ。付き合っていると、「合コン行っちゃダメ」とか「あたしからの電話にはすぐに出ないとダメ」というようなことになるとすると、排他的互恵契約による人間関係を指す。

いや、親友の場合も、あたし以外と親しくするのはイヤだとなりかねないのでそれも違うか。親友にはないけれど恋人にはあるもの。じゃあ、性的興奮を含む排他的互恵契約による人間関係。これでどうだ?

いや、その場合、性行為をする以前の幼い恋や、性行為を卒業した老いたる恋が除外されてしまう。「付き合う」を定義することできない俺。アカンやんか…

なんてことを考えている今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」以来、ずっと「新刊が出たら読む」作家である白石一文の新刊は、ずばり「結婚」

主人公の私、山裏敏彦はホテルでバイトしながら写真家を目指している。偶然出会ったのは小料理屋と営むみすみ。出会ってすぐに結婚した。写真家の道を諦めた私は小説をかこうとする。みすみを幸福にしたいという願いは叶うのだろうか…

「結婚をテーマとした小説」とだけ言うと何かが足りない。しかしどう言えばいいか分からない。

暴力をふるうとかギャンブルに夢中になるようなタイプの人は決して出て来ない、そういうタイプとは違うタイプの苦悩を描く。うーん、うまく表現できない。

それからはひそひそ声で激しく言い合った。みすみも私も声を荒げたり、ヒステリックになったりするタイプではなかったが、それはいわば性格の外見で、内側には強い怒りを喚起する火種をいつもかかえていた。(39頁より引用)

主人公山裏と私自身の人生や考え方など重なる部分が多く、共感「的」なものは大いに感じる。しかし共感できること、イコール面白いということではないし、イコール読んでよかったということでもない。もしそうなら、共感を得よう得ようとする小説は傑作になる可能性があるけれど、実際はshitになってしまう。白石の小説には共感を拒絶しているようなところがあって、私はそれが好きだ。結局私が感じるのは共感「的」なものなんだけれど、共感とは違うと思う。それが何だかは私には説明できない。すまぬ。少なくとも「だよね~」とか「ですよね~」というようなものではないのだけれど。

私は小さな頃から何者かになりたかった。
自分は本当はすごいんだ、絶対にすごいんだと自らに言い聞かせてきた。
それは夢や希望といった明るいものではなく、むしろ身を焦がす焦燥感に近いものだった。
何者かにならなくては、生きている意味がない。生きる資格がない。
大学三年で写真雑誌の新人賞を受けてから、そうした思いはますます熾烈になった。(145頁より引用)

生活する目的じゃなくて、生きる目的は何なのか、もしかしてこれがそうなのではないかいかというものを私は割と最近それを見つけたような気がしているのだけれど、それは山裏の見つけたものと似ているような気がする。

では、また。

「快挙」白石一文 新潮社 2013年(初出yom yom 26,27号)

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『EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅』スコット・ジュレク

2013-05-29 | books
「BORN TO RUN」という本をご存じだろうか。走ると膝が痛くなるジャーナリストがいた。彼が取材で南米山奥で見たのは、ペナペナのゴムぞうりを履いて24時間走り続ける者たちだった。(ほんとかよ!)分かったのは、クッションの効いた分厚い底の靴を履いて走るよりも、薄っぺらい方がかえって膝の負担を軽減できるということ。(うそー)

嘘だと思ったら、試しに裸足で体育館を走り回ってみよう。踵から着地すると衝撃が脳天まで突き抜けるはずである。たぶん自然と、足の前の方から着地するか、あるいは足の裏全体で着地するはずである。ハイテクシューズを履く→クッションが効く→踵から着地する→膝に負担 となる。裸足で走れば、負担が膝から、足底筋やふくらはぎへとシフトして、24時間走る(?)ことも可能になる。(のかな…)

現代の世界で裸足で走るのは難しいので、裸足に近い形で走ろうというのがベアフット・ランニング。昨今ニューバランスやヴィブラム社、アディダスもそれに近いシューズを出している。

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私もこの本を読んで衝撃を受けて、ベアフット・ランニングあるいは前足着地を意識して走るようになった。確かに膝の痛みはほとんどなくなった。

その本の中に登場するのが、スコット・ジュレク。ウルトラマラソンで何回も優勝している、超長距離走界の巨人。彼の生い立ち、思想、走り方、トレーニング、そして完全な菜食主義(ヴィーガン)について書いたもの。



「走る」ということに全く興味がない人にはあまり面白くないのだろう。方法論的な話が多いし。あるいは「菜食主義」なんてバカバカしいと思っている人にも同様。しかし、「鍛える」ことや「食の効率化」に関心がある人なら何か得るものはあると思う。

ランニングとはコントロールの効いた落下だ。(214頁より引用)

確かに。そういうことか。人生とは、コントロールの効いた落下だ。なんてな。(筋力記憶力の落下とも言える)し(精神的な転落とも言える)あるいは、生きるとは(堕落してゆくことだ)と言ってみたりして。

ウルトラマラソンを走る人々の多くは、精神安定剤を摂るのと同じ理由で走っていると思う。もちろん、走ることによって得られる友情や達成感や自然を身近に感じることが重要じゃないと言っているわけじゃないけれど、遠くへと長く走れば走るほど、僕は自分が追いかけているのが精神的な状態 - 決してなくならないと思っていいた心配事も消え、時を超越した美しい宇宙と今という瞬間が鮮明に見えてくる状態 - だったんだと気づく。(237頁より引用)


私自身は全然よいランナーではないので、タイムとかフォームについてえらそーなことを言うつもりはないんだけれど(いやフォームを矯正したいのだけれど、どうすれば良いのか分からない)、エンドルフィンのもたらすランナーズハイは他ではなかなか体験できない快感。

ドラッグなどの中毒患者が克服するためにウルトラマラソンをはじめてそっちの中毒になったという例が少なくないそうだ。その話は何を示唆しているのだろうか…

ニンゲンは誰もが何かの中毒になっている。ゲーム、携帯、恋愛相手、競馬、親、ニコチン、スイーツ… 重篤かそうでないか、他人に後ろ指さされるかそうでないか、自分が不幸かそうでないかの差はあるけれど。だとすれば、どうせ中毒になるのなら、ウルトラマラソンもしくはランニングは「他と比べればずっと良い中毒」なんじゃなかろうか。

そうそう。サックスプレーヤーで役者の武田真治氏が、雑誌のインタビューで、ボクシングを始めたら疲れて余計な心配をしなくなったというようなことを言っていた。肉体と精神は、別々の存在のように普段意識しているけれど、根っこでは切り離せないほど密接にくっついているわけね。精神的に問題を抱えている人、そこまで行かなくても、ココロが苦しいと思ったら、直接ココロを変えようとするのではなく、肉体の方を変えるって考えるといいのかも知れないなあ。

だとすれば、私のむちむちナイスバディをむきむきナイスバディへと変えてゆけば、私のショボイハートも多少ショボクないハートに変わってゆくだろうか。

では、また。

「EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅」スコット・ジュレク / スティーヴ・フリードマン NHK出版 2013年
MY UNLIKELY JOURNEY TO ULTRAMARATHON GREATNESS, Scott Jurek with Steve Friedman 2012

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『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』平野真敏

2013-05-28 | books
2003年渋谷の木下弦楽器で偶然見かけたものは、ヴィオラには大きくチェロには小さい不思議な楽器だった。実用品ではないだろうとお店の人は考えてディスプレイとしてただ飾っていた。その楽器を借りて、よく見てみると「ヴィオラ・アルタ」の文字が。プロの演奏家である著者も楽器屋さんも知らない。興味を持って調べ始めると、過去に量産されていた時代もあった数奇な運命が…

おっと。意外な収穫。ヴァイオリンとヴィオラの違いが全く分からないぐらいクラシック音楽には疎い私なのに充分に楽しめた。

著者が音楽に熱い。楽器に熱い。ジャーナリストや作家の第三者目線ではないからこその、この熱さがあるからこそ、門外漢の私にも何か伝わるものがあるのだろう。この本がなければヴィオラ・アルタなどという楽器について一生知ることはなかった。

高野秀行氏のブログで見かけて読んだ。

ヴィオラ・アルタの音源は、ここ

では、また。

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『脊梁山脈』乙川優三郎

2013-05-27 | books
戦争が終わり、中国から帰国できることになった矢田部。佐世保から故郷の福島へと向かう列車の中で具合が悪くなってしまった。優しく接してくれたのは小椋。矢田部には記憶がなかったが面識があったらしい。東京に到着した矢田部が偶然出会ったのは画家になりたいのに小さな飲み屋を営む女佳江だった。故郷に戻ると父は死に母だけが残っていた。生活の余裕が出て来てから、小椋に会いに行くが見つからない。彼を探す過程で出会った、木地業という仕事に魅せられて…

うーむ。日本語という言葉がこんなに美しいものだったとは。自分の使う言葉の美しくなさに思い入る。小説を分類してみると 1.ストーリーで魅せる 2.人物造形で魅せる 3.言葉で魅せる あんまり考えたことがなかったけれど。

女性にたとえれば、いやたとえなくてもいいのだが、1.顔とスタイルで魅せる 2.性格で魅せる 3.仕事ぶりや発言、生きざまで魅せる と分類できるだろうか。

本書はストーリーもまさかこういう方向に展開してゆくのかーという意外性もあるのだが、意外性が欲しければ他にエンターテイメントは山ほどあるから、それ目当てで読む小説ではないのだろう。

それよりも、柔らかくて優しく、それでいて芯の強い、いい女のような文章が最大の魅力だと思う。

敬愛する高野秀行氏のブログで褒められていた。

では、また。

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『棺に跨がる』西村賢太

2013-05-26 | books
私小説界に咲いた一本の毒花、西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」の後日譚。そちらでは、「私」だったのが、北町貫太を主人公にした第三者目線に変わっている。という以外には変わらない。

貫太と一緒に暮らす女、秋恵に好物のカツカレーを喰らう様をブタのようだと言われカッとなり蹴ってしまう。その後の貫太の内面と行動と徹底的に描く連作短編集。

彼の小説を読んでいると、じっとりと背中に汗をかいている。怖いのだ。暴力をふるっている描写が怖いのではなく、ピアノ線の上を歩くような不安定な貫太の生き方が怖いのでもない。自分の姿を見るのが怖いのだ。

根が完璧主義者にできている」から、旅先で他の人と酒を飲むのを楽しむために秋恵のごきげんを先にとっておこうと、メールを送る。しかしなかなか返信が来ないのでイライラする。(貫太のどこが完璧主義者やねん。とツッコミを入れつつ、俺と全く同じだ…)

根が粘着質」で、「根がデリケート、幼少から他人の顔色を窺う」ようにできていて。(おーおー。俺と全く同じじゃねえか…)

自分の姿を直接自分で見ることはできない。貫太はまるで鏡に映った自分の姿のようだ。ナルソスは池に映る自分の姿に恋をして、そして自死した。私は貫太の姿に自分を見出して、悶え苦しみ震える。

こんな激毒なのだからしょっちゅうは読めない。読まなきゃいいのに、読む自分がよく分からない。

それだけ好きな作家なのに、もし「あたし西村賢太の小説って大好物だわ」という女性がいたらちょっと気持ちが悪いしたぶんその人のことをいいなと思っていた気持ちが萎える、というのが正直なところ。そんな自分もまたよく分からない。

では、また。

「棺に跨がる(かんにまたがる)」西村賢太 文藝春秋社 2013年(初出文學界2012年5月号~2013年2月号)

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ファイト

2013-05-25 | days
青山こどもの城の近くの歩道橋にて。










むむむ。
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『コリーニ事件』フェルディナント・フォン・シーラッハ

2013-05-24 | books
「犯罪」「罪悪」という二つの短編集で私を含む多くの読者のハートを奪ったドイツの現役の弁護士による、長編。今回も現実の事件が下敷きになっているとか。

マイヤー機械工業という大会社の85歳の元社長が、イタリア出身でドイツ在住の67歳の男性に殺害される。容疑者は逃げもせず事件はすぐに解決したはずだが、なぜ殺害したかについては何も語らない。担当の弁護士はライネン。弁護士になってまだ一か月しかたってない。しかも被害者の孫と子供の頃に親しくしており、被害者にもよくしてもらっていたことがあると後で判明した。彼は担当から外してもらおうとするがうまくいかず、結局弁護せざるを得なくなる。動機が分からないままでは弁護のしようがないのだが…

うーむ。ドイツ。容疑者と被害者の接点が何も見つからない。二人とも高齢。となれば、ネタはあれしかないだろうと思う。そしてそれは残念ながらあたってしまうのだが、しかししかし、そんな予想を遠くに置き去って、想像を絶する結末となる。思わず「うそだろっ」とつぶやいしまった。これが実話に基づいているというのだからスゴイ。

ネタバレをしてしまったら絶対に面白くない。予備知識なしで読んでほしい。訳者のあとがきを読む場合には、ここから先はネタバレしますよと明記してあるから、そこまではよいけれど、それ以降は決して読んではならぬ。

いや、ほんとにビックリしたよ。そしてそんなことを意図してやった人間がいるのかと思うと背筋が寒くなる思いがする。

「ハンス・マイヤーは徹頭徹尾、人にうしろ指を差されるような人ではありませんでした。どうして射殺されたのか皆目見当がつきません」
「うしろ指をさされるような人ではないのか」マッティンガーは目の前で手を横に振った。「めったにお目にかかれるものではない。わたしは六十四歳になるが、この年になるまでに、そういう人物にはふたりしか会ったことがない。ひとりは十年前に死んだ。もうひとりはフランス人修道士。わたしのいうことを信じたまえ、ライネン弁護士。人間に白も黒もない……灰色なものさ」(65頁より引用)


人間に白も黒もない。読後この言葉をあらためて読むとまた色々考えてしまう。

単に面白いだけじゃない、すごくいい小説だった。

では、また。

「コリーニ事件」フェルディナント・フォン・シーラッハ 東京創元社 2013年

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『大迷走』逢坂剛

2013-05-23 | books
御茶ノ水署の迷コンビシリーズ第5弾。明央大学の名誉室長(?)を名乗る男性から学内で違法薬物の取引がなされれているとの通報があった。今回のテーマはドラッグ。獣医や大学生、芸能事務所が入り乱れ、警視庁の麻薬覚醒剤特捜班との縄張り争いの果てに解決する真相は…

シリーズの中ではやや「いつものあの感じ」が薄いように思う。ただし本シリーズは、事件解決よりも、二人の掛け合いと風刺と、御茶ノ水から神保町にかけての飲食店巡りをヴァーチャルに楽しむことにあるので、その点は本作も同じように楽しめる。

捜査の迷走ぶりは悪くないのだが、ストーリーの迷走ぶり、あるいは着地点を探しての迷走はちと…だった。

読んでいたら、古瀬戸や近江屋洋菓子店、魚ふじなど、界隈の店に行きたくなった。久しぶりに神保町に行こうかな。

では、また。

「大迷走」逢坂剛 集英社 2013年(小説すばる2009年~2012年)

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『宇宙は何でできているのか』『宇宙はなぜこんなにうまくできているのか』村山斉

2013-05-22 | books
「宇宙は本当にひとつなのか 最新宇宙論入門」の著者による本二冊。レビューと言うよりも自分用のメモ。後になって、この本を読んだかどうか自分のブログ内で検索することがあるものだから。

「宇宙は何でできているのか」は極限までに小さいものの話。結構難しかった。理解できなかった箇所もたくさん。「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」の方は既に読んだり、知っている箇所が多くあって、読みやすかった。復習になった感じ。

多世界解釈では、この世界は一つでないらしい。宇宙をユニバースと言うけれどユニは「一つの」という意味。多世界は複数あるのでマルチバースと呼ぶそうだ。なるほどマルチバース。この言葉今度どこかで使おう。バースが二人でマルチバース。

光の速度は秒速299792458メートル。これを「憎くなく二人寄ればいつもハッピー」という語呂合わせで覚えるそうだ。こんな語呂合わせ知らなかった。それ以前に光速を覚えないといけなくなったことなどなかった。

以上、他人様に読ませるような内容ではなかったのだけれど、ご容赦を。

「宇宙は何でできているのか」村山斉 幻冬舎新書 2010年
「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」村山斉 集英社インターナショナル 2011年

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『朝ごはん』川上健一

2013-05-21 | books
なんだよーなんだよーなんだよー。

今年出た「月の魔法」が川上健一に対して私が期待してしまう方向からすると何だか違う感じだったので、もうこれが最後になるかなと何の期待も持たずに読んだ。

島森慶。30歳女性。愛称慶ちゃん。会社をリストラされた。これで4社目。どういうわけか2年経つとリストラされる。三日坊主ならぬ二年坊主なのだろうか。彼女が大好きなのは朝ごはん。山梨に住む彼女が特に愛するのは、八ヶ岳山麓の丘の上で食べる朝ごはん。リストラされそこでゆっくり朝ごはんを食べていたら、近所のおばあさんに話しかけられた。それから翌日、おばあさんが昔住んでいた平屋で朝ごはんを一緒に食べることになった。そして彼女は朝ごはん屋さんを開くことになる。そんな彼女の細腕繁盛記…

いやいやいや。私の細腕ではこの小説の良さがちっともさっぱり伝わらない。深夜、湯船の中で読んでいたのだが、無性に朝ごはんが食べたくなった。慶ちゃんがかまどで炊くごはんが、七輪で焼くシャケが。深夜に朝ごはんを食いたくさせるなんて、なんて腕なんだ。まだ風呂上がりの飲酒もしてないのに。

癒しというよく使われる言葉がある。それに飛びつくのが簡単なのだけれど、疲れていたり傷ついたりしている場合、その状態を変えることは確かに「癒し」なのだろうけれど、疲れてもなく傷ついてもいない私が癒されたというのは変だ。どう言えばよいのだろうとしばらく考えていた。

ランナーズハイという状態を経験したことがあるだろうか?私の場合、調子が良いときのみ、20分ぐらい走っているとやって来る。どんなにスピードを上げてもどんな距離でも走れるような気分になる。きたきたきたと思って、実際にスピードを上げるのだけれど、全然疲れない。自分で言うのもなんだけれど、ボルト並みの速度で町を駆け抜けている。だからついたあだ名は暴走機関車。いやそうではない。しゅっぽしゅっぽと言いながら走っているからだ。

脱線しすぎた。機関車だけに。(このブログの初期は割とこんな感じだったのだけれど、いつの間にか変化していった。なにやら久しぶりの感じ)

話を戻すと、ランナーズハイと似たような、うぉーっという気分に、読んでいる最中になった。昔は落合信彦の「2039年の真実」とかフォーサイスの「オデッサ・ファイル」を読んで、吉田栄作のようにうぉーーと叫んだものだ。しかし今では全然違うものに、うぉーしてしまう。

慶という女性の描写が巧すぎるぐらい巧い。いわゆる「天然」というタイプなのだが、彼女の場合「天然ピュア」なのだ。私の知り合いに「人工ピュア」な人がいて、純粋な人を演じているのだが、これがなんとも見ていて息苦しくなる。それとは違う、慶ちゃんの「天然ピュア」はいい。

誤解を恐れずに言うと、この慶ちゃんは久しぶりに見た、私の「理想の女性像」のような気がする。川上健一なので、男性から見た都合のよい女を描いているわけじゃない。こういう女性が店員だったらいいけどねとか同僚だったらいいけどね、でもカノジョにするんはね、と思う男性は少なくないと思う。昔は私もこういう女性は好みじゃなかった。しかし、

ああー俺の好みはこれなのかー!

と分からせてくれる。ということにもこの小説を読むことの意味が見い出せてしまった。また余談になるけれど、どうして慶ちゃんが昔はタイプではなくて今はタイプなのか考えてみた。

自分にないモノを求めると言う。ピュアな人に惹かれるのは、自分が汚濁していると「知っている」からではないだろうか。自分自身は結局変わるはずがないので、昔は自分が汚れていると「自覚がなかった」のが「自覚がある」に変わったので、求めるモノが変わった来たのではないかと自己分析してみた。どうだろうか。

いや、しかしね、ごはんを作っている姿を見ていると、そのごはんが美味しそうに見える女性。もう他には何もいらないよ。うんうん。

では、また。

「朝ごはん」川上健一 山梨日日新聞社 2013年(初出山梨日日新聞2012年1月5日~8月6日)

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『彌太郎さんの話』山田太一

2013-05-20 | books
途方もない話だし、証拠もない。つくり話として読んでいただく方が書きやすい。

という書き出しで始まる。私(=山田太一?)のもとに今から21年前に葉書が来た。それは個展の知らせの葉書だったのだけれど、そこには30年以上会ってない男の名前が書いてあったので本人がいるかと画廊まで行ったら彼がいた。その彼、彌太郎さんが語る話を連作短編集にしたのがこれ。

彌太郎は、戦後GHQで働いていたとか、そこでの出来事とか、後に好きになった女の話とか。これがなかなか面白い。含蓄とか奥深さというよりも、私と彌太郎の関係が段々そんなことになってしまうという展開が面白い。大人の男同士の味わい深い会話を期待して読むともっとずっと生臭い会話に驚く。

完全に100パーセント実際の話ではないけれど、100パーセント作り話だとも思えない。現実感と非現実感どちらも強くある。それをどちらともせずに書くのが巧い書き手なんだろうと思う。確か、「岸辺のアルバム」の文庫解説の中で奥田英朗氏がこの本のことを書かれていたと記憶している。

では、また。

「彌太郎さんの話」山田太一 新潮社 2002年 

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『死に金』福澤徹三

2013-05-19 | books
あなたがもし、末期の癌にかかっているとする。死に限りなく近い今、何を持っていると幸せ?金?金は墓場までは持って行けない。死ねば金持ちも貧乏人もみな同じ。多額の遺産をのこせば、遺族による泥沼闘いが始まるかもしれない。あるいは自分によくしてくれなかった子供には金など一円ものこしたくないかもしれない。自分の死を惜しんでくれる家族がいれば幸福?だったら独身者は死期が分かると不幸なのだろうか。名声がのこせればいい?名声ってなに?

やくざがいる。末期の膵臓癌だと分かった。そいつは商売がうまく、何億もの金を貯めこんでいるらしい。女房とは20年別居。誰のことも信用しないから、その金がどこにあるか誰も知らない。もちろん銀行にも預けていない。

その金を狙う、金に困った者たち。博打で金をつかってしまい、他のやくざに追い込まれているやくざ、組内での昇進のために金が必要なやくざ、女房、組長…それぞれの立場から彼の金を狙う事情を描く連作短編集がこれ。

作りは地味だし、内容も地味で書き方も地味。なのになんとも言えない風味がある。ちょっと苦いんだけれど、ついつい箸が止まらなくなる漬物のようだ。

それぞれの立場から描きつつ、しかも時間も進行していくという構成がなかなか新鮮で面白い。金が全てのやくざの世界を描く、抑え気味の筆致がすごくいい。あっと驚くラストも、全体に流れる無常観もいい。

この作者は「すじぼり」以外読んだ記憶がないのだけれど、他の作品も読んでみようと思う。「すじぼり」はすごく良かった。

私は、死が近くなったら何を持っていれば幸せなのだろうか…

未読の、積ん読山脈を目の前にして「読めなかった本がこんなにたくさんあるのかー読みたかったなー」と思うよりも、今までに読んだ既読山脈を目の前に積んで「こんなにたくさん読んだかー面白かったなー」と思えればいいかなあ…なんつって。

では、また。

「死に金」福澤徹三 文藝春秋社 2013年(初出オール讀物2011年6月~2012年12月+書き下ろし)

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『国語問題必勝法』清水義範

2013-05-18 | books
「国語問題必勝法」だけは前に読んだことがあったけれど、他に収められている作品は読んだことがなかったので読んでみた。いや、この人の作品はたしか「国語」しか読んでなかったはず。短編集。

<猿蟹合戦とは何か> 丸谷才一の「忠臣蔵とは何かの」のパロディ。いや、あまり詳しくないのだけれど、パロディとは言わず、パスティーシュというらしい。その人になりきって書くことだそうだ。元ネタを読んでないので面白さは不明だった。

<国語問題必勝法> 家庭教師が編み出した大学入試問題の必勝法。これは面白い。国語の問題を解く必殺技にはなってはいけないと思うけれど、問題を作る側の心理を考えるという意味では受験生が読んでも得るものはあると思う。あくまでも冗談ではあるけれど。

<時代食堂の特別料理> その人の思い出の食べものを出してくれる食堂。食べれば幼い頃に戻れる。これも面白くて巧く、いい作品。

<靄の中の終章> ボケが始まった男から見た世界。他人事とは思えない。

<ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮> 料理のレシピを紹介しているけれど、食材やエピソード全てが嘘。ここまで嘘つき通せるのもスゴイ。

<いわゆるひとつのトータル的な長嶋節> 長嶋茂雄の解説における言葉の使い方を分析。意外と真面目。

<人間の風景> 素人4人が連作で書いた小説をプロの小説家が読まされるという話。これは意外な収穫。

てな感じ。国語と時代食堂、人間の風景が特に他を圧倒する出来。この本の後に、「似ッ非ィ教室」という嘘だらけのエッセイが大量に収められたものを読んだのだけれど、嘘にも段々飽きてしまったので、尚更上記の三本が印象に残った。

では、また。

「国語問題必勝法」清水義範 講談社文庫 1990年(単行本1987年) 

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『月の魔法』川上健一

2013-05-17 | books
「翼はいつまでも」や「雨鱒の川」は、私が最後に泣いた小説かも知れない。その作者川上健一の作品。

少年が父島に行って様々な人と触れ合いそこから何かを学ぶ。ヘミングウェイの老人の海のような話が挿入されているが、じいちゃんいわく、俺の体験談をヘミングウェイに話したらそれをあいつが小説にしてノーベル賞とっちゃった。なるほど。少年成長物語+小笠原の良さを伝える小説。

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「雨鱒」や「翼」ほどのインパクトはないけれど、秀作と言ってよい出来かと。しかし、未読の人には、「雨鱒」と「翼」、あるいは「ららのいた夏」はオススメ。うんにゃ。オススメを超えた超ウルトラスーパーオススメだ。どちらも世界は少年少女のものなのだけれど、本当の良さは少年少女を卒業した後でないと分からないのだよ。

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「月の魔法」同様に今年のはじめに出た「朝ごはん」はどうだろう。近日中に読むつもり。※追記:「朝ごはん」のレビューを書いた。

では、また。

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『焚火の終わり』宮本輝

2013-05-16 | books
理屈やら哲学やらトリックから離れた、ハーレクイン的な小説が突然読みたくなった。積ん読山脈の中を漁っていたらたまたま掘り出したがこれ。そうそう。ちょうどこんなのが読みたかった。

町田茂樹が大阪から鳥取へよく父に連れられてきたのは10歳のとき。そこには女性とその娘がいた。彼女とは仲良くなった。実はその娘、美花は自分の妹であると後で聞かされた。それから時は流れ、茂樹は大阪でサラリーマン。妻に先立たれていた。美花は京都の呉服店で働いている。独身。茂樹と美花は交友があった。美花の祖母が亡くなり、久しぶりに戻った。鳥取の家。祖母が残した謎の預金通帳。茂樹の両親と美花の両親ともう一人の人物の顔がくり抜かれた謎の写真。二人の血は実はつながっていないのではないかという思い…

うーむ。面白すぎて一気に読んでしまった。

お互いを好きになった男女が実は兄妹だった、というネタは、山口百恵の赤いシリーズで有名らしいけれど観てないので分からない。それでもマンガやドラマで何度か見かけたような気がする(具体的には思い出せないけれど)その逆で、兄妹が実は血がつながっていないかも知れないと期待するというのはあまりないような気が。

この兄妹の「一緒に泊まるけれど、一度も越えたことのない一線」を越えるのか越えないのかそのギリギリのもどかしさが巧い。あまり大きな声では言えないけれど、エロい言葉がもっと使われた本よりもずっと興奮してしまう。

小説にグタグダした理屈を求めずに心情の流れをハーレクイン的(と言ってもハーレクイン・ロマンスシリーズを一度も読んだことがないのであくまでも想像)に楽しみたい気分のときにオススメ。

と言ってもそのような「近親相姦的」なストーリー展開ばかりじゃない。その辺は全体の半分ぐらい、残りは二人がが自分の人生をどう切り開いていくか、宮本輝らしい展開。

では、また。

「焚火の終わり」宮本輝 集英社文庫 2000年(単行本 1997年)

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