フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

仙台育英 高校野球東北勢悲願の優勝に熱くなる/ 甲子園決勝戦に関する思い出

2022-08-22 18:16:38 | 日記

全国高校野球選手権大会、呼んで「夏の甲子園」は今日(22日)が決勝戦で、宮城県代表の仙台育英高校が下関国際を8対1で破り初優勝を果たした。というより春夏の大会を通じて高校野球100年を超える歴史の中で、東北勢初の優勝となり、『深紅の大優勝旗が初めて白河の関を越えた』のである。
私も家内も家に居て、家内はずっとテレビで観戦していたが私の方は中抜きの観戦になった。
試合後のインタビューで監督は『100年の扉を開けた』喜びと共に、「東北の皆さんありがとう。また(決勝相手の)下関国際高校や大阪桐蔭など好チームが大会を盛り上げ、全国の選手達がこの大会を作ってくれたことに拍手を送って欲しい」と感謝の言葉を述べ、選手代表も「グランドに出た自分達だけでなく、今日は応援席だが全く同じレベルの皆で掴んだ優勝だよ。みんなありがとう!」と述べ、苦労をかけた家族にも感謝の気持ちを伝えた。ちょっと目頭が熱くなった。


今朝の朝日新聞にこれまでの東北勢の夏の甲子園決勝戦9回の記録が載っていた。眺めてみるとその中では1969年の第51回大会の青森・三沢高校VS愛媛・松山商業戦がなんと言っても一番印象に残る。
社会人になって2年目、独身寮の娯楽室のテレビで観戦したが、双方に何度ものピンチ、チャンスが訪れ、ハラハラの連続。結局、延長18回0-0で引き分け再試合となった。翌日の再試合は仕事でテレビ観戦が出来なかったが、松山商業が優勝。しかし、一戦目は私が観たことがある高校野球の試合で一番と言ってよいほどハラハラした試合展開であり、これによって三沢高校の太田幸司投手は一躍アイドル選手になった。
1年置いて1971年の第53回大会は福島・磐城高校と神奈川・桐蔭学園が決勝戦に上り詰め、結果は桐蔭学園が優勝したが、磐城高校出身の大学の友人が母校の活躍に感涙にむせんでいたと後に共通の友人から聞いた。母校の磐城高校は県立の進学校であり、予想もしない決勝戦に進んだのであった。

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