フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

小学校の運動会/さすがに白鵬 

2014-09-28 17:59:25 | 日記

  日の暮れが一気に早まり、建物や木の陰が長くなった。もう9月も末、すっかり秋である。
   秋祭りとともに運動会のシーズンにもなった。昨日は私が安全見守り当番を務める小学校の運動会があった。2学期になるとすぐ体育の授業は運動会の練習一色になった。校庭での見守り方々練習風景を眺めて、組体操や踊りなどは皆が揃うのだろうかと心配にもなったが、頑張って本番では立派に演じていようだ。参観者からたくさんの拍手をもらっていた。時々陽が差す薄曇りの中、大勢の保護者などが我が子や孫に声援を送り、ビデオや写真に収めていた。私は学校からの招待も受けていたが、見守り当番のため競技の方はしっかり見届けることはできなかった。紅白対抗では紅組が最後の種目でわずかに逆転勝ちしたようなのだが、下校の児童に聞いてみると勝ち負けは私が思ったより「嬉しい」「悔しい」の気持ちにさせることが分かって面白かった。運動会は学校行事の華だ。(下の写真は、ポケットに忍ばせたバカチョンカメラで見守りの合間に撮ったもの)

        
             紅白の児童席の前での応援合戦      応援にも力が入る徒競走

  
    人垣を成す大勢の参観者たち    運動会のハイライト 6年生による組体操   

  

   さすが白鵬、今の角界では別格の強さである。 今場所破竹の勢いで勝ち進み、1横綱2大関をも連破して”旋風”ところか”大型台風”化していた新入幕の逸ノ城をがっちり受け止めて土俵上に一回転させた(昨日の14日目)。そして今日,14勝1敗で31回目の優勝を決めた。それにしても、確かに怪物と言ってもよい逸材ではあるが、まだ大相撲に入門して1年足らずの新人に転がされる他の横綱や大関は何としたものか。案の定というかもうお決まりのクンロクの大関陣・・・そんな大相撲に飽き飽きして新鋭の遠藤や大砂嵐に期待を寄せていたところに逸ノ城の登場である。来場所は上位全員と当たる番付に昇進する。先輩力士がどう意地をみせるかが見所だ。

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#20―五輪がもたらしたもの

   前号では「五輪後の高揚感」について紹介した。ではオリンピックが北京(あるいは中国)にもたらしたものは何であろうか。。
   日本では1964年の東京オリンピック開催により東海道新幹線や高速道路などの社会基盤が整備され、カラーテレビが普及するなどの現象も起こり、高度経済成長の起爆剤になったといわれる。
   私は五輪前の北京については会社の出張で行ったきりなので、五輪後との比較を語る資格はないが、滞在してみて思うのは、まず地下鉄が整備されたことだろうか。路線の建設延伸はその後も続いているが、五輪を目指して一気に進んだことは間違いない。路線は分かり易く、駅は新しいだけに広くてきれいである。乗り換え等駅内の標識も英語が併記されていて分かり易い。車両は明るく、運行の間隔も東京並みだ。ついでに言うと市内は2元(30円くらい)均一の料金である。なんとも羨ましい。
   広域交通では高鉄(高速鉄道)の建設が進んだ。北京からの長距離移動が格段に便利になった。中国の列車ダイヤはあてにできないといわれるが、高鉄は速くてダイヤもきちんとしている。
   そして実感したのが、空気がきれいになったことである。中国の都市の大気汚染の深刻さはつとに知られたことであるが、そんな都市に海外から大勢のオリンピック客を迎えるわけにはいかない。(何しろ大気汚染を理由に北京五輪出場を辞退した陸上選手が出たくらいなのだ) 国の威信を賭けて大気汚染の改善に取り組んだ結果、確かに私の滞在中は「きれいな空」を感じた。(PM2.5という深刻な問題がまた起きていることは記憶に新しい)
   もう一つ。これも五輪前とはっきり比較できるわけではないが、市街地の公衆トイレが清潔になった。日本人からすると中国の公衆トイレには入れたもんではない、というイメージがあるが表向きの場所のトイレはまずはきれいであった。(裏通りや都心を外れた所では入るのがはばかれるようなトイレがまだまだ多いが・・・)

  
  広くてきれいな地下鉄駅        地下鉄の車両内        高鉄(中国版新幹線)の「和谐」号

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新旧で大相撲の快記録/毒グモ騒ぎ

2014-09-26 20:42:59 | 日記

   まだ秋場所が終わったわけではないが、大相撲にとんでもない新鋭が現れた。この秋場所新入幕の逸ノ城、13日目の今日は横綱鶴竜を破って12勝目を上げた。明日の結びの一番は1敗同士で白鵬との対戦だ。2大関をも連破して優勝戦線に立っているため、とうとう2横綱と対戦させられるハメになってしまったがその一人の鶴竜を喰ってしまった。今年の初場所で初土俵を踏んだばかりでわずか5場所目の快記録である。新入幕の金星は”佐渡の怪童”と言われた大錦が横綱琴桜に勝って以来の41年ぶりという。身長192センチ、体重199キロという堂々たる体格、まだマゲも結えないザンバラ髪ながら既にして大物の風格が漂う。  

   もう一つ挙げたいのが、旭天鵬の40歳での勝ち越しだ。戦後初めてで70年ぶりのことという。こちらは幕内在位94場所、戦後の最年長出場・勝利記録を更新中である。今やモンゴル王国になってしまった日本の大相撲だが、モンゴル出身力士の草分けで旭鷲山らとともに1992年3月場所に初土俵を踏んだ。37歳の時に初優勝を飾っている。大相撲人気を下支えしている貴重な力士だ。  

   今日小学校の昼からの安全見守り当番に出たら、午前の当番者から「隣の小学校近くのマンションで毒グモのセアカゴケグモが見つかったので、もし見つけたら学校当局にすぐ連絡する」ように申し送りがあった。学校では全児童に注意を促し、このクモの写真つきのプリントを配布していた。下校が始まって間もなく、2年生が「毒グモがいる」と私に通報して来た。確認してみると確かに”手配書”に似たクモのようなものが桜の古木の皮の亀裂部分に巣を成していた。大きさといい背中に見える赤い色といい手配のクモに似ている。すぐ副校長に連絡し、この木の周りに囲いを設けて児童が近づかないようにしてほかの樹をチェックして回った。するとほかの桜の木にも似たようなものが巣作りしているのが見つかった。それらを先生方や用務員らが駆除して保健所に持ち込んだところセアカゴケグモではないことが判明したそうだ。明日は学校の運動会、事なきを得て関係者はほっと胸をなで下ろした。
   当番を終えて帰宅しテレビをつけたら、「東京で初めてセアカゴケグモが見つかった」と放送していた。しかも住んでいる三鷹市内でのこと。その後帰宅した家内にこのことを話したら、「そんなの今朝の新聞に出ていた」と言う。迂闊であった。その記事は見逃していたのだ。 

 [日本語教師の中国滞在記] 北京編#19―五輪後の高揚感 

   2008年の北京オリンピックは8月8日に開幕し24日に幕を閉じていて、私はその6日後に北京に入った。
   当初日本留学班の生徒達の話からは「中国はまあよくやったのではないか」という程度の雰囲気しか伝わって来なかったのだが、その後北京市街に出かけてみると、至るところに「同一个世界 同一个梦想(ONE WORLD  ONE DREAM)」というオリンピック・スローガンの大きな看板やステッカーなどが非常に目についた。まだオリンピックは終わっていないのか?と錯覚するほどである。
   さらに、オリンピックのオフィシャル・グッズの売り場が何か所もあって、店はどこも多くの客で熱気を帯びていた。生徒の一人リー君の親が、”北京の銀座”王府井でオフィシャル・グッズのライセンス販売をしているというので、リュウ先生らと一緒に店を訪ねた。我々には特別に割引してくれるようなので、リュウ先生が日本への土産にどうかと盛んに勧めるのだが、「日本人にとっては北京五輪のバッジ、メダルやら飾り物などは何の記念にもならないから」と買い渋っていると大変怪訝そうに、「こんなに貴重な記念品が何で欲しくないの?」と言う。インテリのはずのリュウ先生にしてそれである。北京市民というか中国人にとって五輪に対する思い入れはそれほど熱かった。
   競技の主要施設が集まっているオリンピック公園が、国慶節(10月1日)を挟んだ7連休中に一般招待者に公開され、リュウ先生のご主人がその招待券を入手してくれたのでご家族とともに参観したが大変な人出であった。

   五輪や万博やW杯サッカー開催などの国際的な檜舞台で、日・韓にさえ遅れを取り続けて来た中国が、世界の仲間入りを果たした、見事に成功させた、世界にまざまざと見せつけたぞ、という高揚感にまだ浸っているように思われた。
  ただリュウ先生の話では、開会式の模様は日本では華やかなイベントを前面に中継放送されたが、中国のテレビでは頻繁に胡錦濤主席やら各国首脳の姿を映していて、政治的なアピールが色濃かったようだ。後にアメリカの放送のVTRを見て「こんなに素晴らしい開会式だったのに、中国人(の視聴者)が知らないで外国の人の方がちゃんと見られたなんておかしい!」と憤慨していた。五輪が政治に利用された一面を示すものだ。

   また、当局は五輪反対テロなどに対する厳戒態勢を敷いていたが、閉幕後も市中心部には制服警官の姿が多く見られ、主要な施設や地下鉄の全駅ではX線手荷物検査が行われていた。五輪後にパラリンピックが開催されていたせいもあるかもしれないし、地下鉄や列車の駅での手荷物検査は今でも日常的に行われているのだが・・・。 

   
    繁華街では中国選手活躍の写真パネルに見入ったり記念写真を撮る人たちが

       
       広い広いオリンピック公園と大勢の見学者  施設は「鳥の巣」(左)と水泳競技場(右)

 

 

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号泣議員の次は逃亡議員?/マー君の復活は大丈夫?

2014-09-23 19:54:58 | 日記

   昨日外出から帰ってテレビを点けたら、報道番組で走りまくる議員とそれを追うテレビ局スタッフの姿が目に飛び込んで来た。画面上の字幕には『逃亡議員』と書いてあった。その後分かったのは、この議員は岩谷英雄兵庫県議で、政務調査費の不正疑惑の取材を拒否して逃げ惑うのをテレビ・クルーが執拗に追ってインタビューを求めている光景であった。結局は逃げ切れずにテレビ局につかまったが、予想の如く「知らぬ存ぜぬ」と言うばかりであった。今日のインターネット上では「 野々村竜太郎元議員の号泣会見で知られる兵庫県議会に、新たなスター誕生の予感です」などと冷笑され映像も紹介されていた。
   野々村議員や政務調査費については何回か書いたけれど、野々村議員の政務調査費の不正使用は氷山の一角というか、国政から地方議員に至るまで半ば周知の事実ではあるまいか。メディアも個々の議員をターゲットにしていては追いつくまい。しかし、それにしても兵庫県議会議員は『号泣』に『逃亡』等みっともない仲間の姿が晒されて顔から火が出る思いをしていることだろう。

   マー君は本当に復活がなったのか? 大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースの田中将大投手が右肘の故障で欠場し、その回復具合が注目されていたが、75日ぶりの登板で6回途中まで投げて13勝目を挙げた。日本のプロ野球に比べて大リーグの選手の肉体的負担は大きく、特に先発ピッチャーは過酷だと言われている。鳴物入りだった松坂大輔も潰されたし、ダルビッシュも先日故障者リストに入った。メジャー1年目のマー君だが、早速肘を故障してしまった。ピッチャーの生命線とも言われる肘、果たして手術が必要なのか。手術をすれば1年は棒に振る。今回手術なしのリハビリの結果が大いに注目された中での復活登板で一応の結果は出したが、無理は禁物ではないか。ヤンキース首脳陣にとっては来シーズンの明るい見通しを得て嬉しかったであろうが・・・。

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#18―うまくいってた授業、だがキレた

   さて、肝心な日本語の授業の方だが思ったよりうまく行っていた。特にある時点から取り入れた生徒を教壇に立たせて発声の先導や書き取りの読み上げなどの教師役をやらせる方法は効果が大きかった。生徒がお互いに頼り合わずに、教壇で独り立ちすることで身に着いていくことが目に見えるようだった。生徒も張り合いがあるようだった。思いもつかないこの方法にリュウ先生も賞賛してくれた。
   そういうこともあったのかどうか知らないが授業の私の比重がどんどん大きくなって行って、主任教師のリュウ先生よりボランティア教師の私の方が主体になりつつあった。

   一方では実験学校の高校の美術コースの生徒が日本語を習いたいとの話が出て来た。美術生にとって日本のアニメは圧倒的な人気があり、日本語に惹かれていることが分かった。まず美術のイー先生という女性教師が日本留学班の生徒と一緒に机を並べて授業を受けてみて、志願した美術生に別メニューで教えることになった。志願の生徒は3人だけだった。週2回放課後6時から2時間、教師事務室に机を並べての授業であるが、当然私も授業を担う話なのである。授業が終わるのは8時、ということは学校の食堂は締まってしまう。6時までに夕食を済ませなければならないし、晩酌も出来やしない。多少手当はつくみたいだが、そんな生活はまっぴらである。わずかな手当などは要らない。全く気に染まなかったが、日本語に親しみたい生徒がいるのだから・・・とリュウ先生と半々で授業を受け持つことにした。だが授業時間が過ぎてもインターネットなどいろいろ生徒に付き合わされる羽目になり、時間がエンドレスになって来た。

   そんな中、留学班の授業でリュウ先生が土・日を挟んで5日間学校を休むことがあった。授業は私と助手のツォン君に丸投げである。私はとうとうキレた。ずるずると私に負担を負わせて来たリュウ先生に、「私の時間配分をはっきりしてくれ」と抗議した。それでリュウ先生の姿勢が変わったが、中国人は主張や拒否をはっきりしないとなし崩し的に向こうのいいようにされることを学んだ。リュウ先生は知日派、親日派であるけれど、やはり中国人は中国人だった。

 
本文とは全く関係ないが上は「九龍」、九頭の龍の壁面の彫像。ガイド役のハンさんの説明では「九」は「永久の久」と同音で最も目出度い数字、「龍」は皇帝を乗せて天に運ぶという強大な力を持つ想像上の動物で、「九龍」は中国では最高の縁起物として皇帝のゆかりのあるものにしか使えないとのこと。北京には故宮(写真左)と北海公園(同右)の2か所にしかないという。

 

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スコットランド独立投票/能・狂言の鑑賞

2014-09-20 22:16:01 | 日記

   スコットランドが英国から独立することの賛否を問う住民投票の行方が世界の注目を浴びていたが、独立反対票が55%で賛成の45%を制して英国への残留が決した。ただ独立賛成派をなだめる工作の結果として、自治権の拡大を勝ち取ったようだ。 
   現在のイギリスの正式国名は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」という複雑な名である。さらにグレート・ブリテンはイングランド、ウェールズ、それにスコットランドから成っている。日本の北海道くらいの面積と人口のスコットランドだが、民族楽器のバグパイプ、民族衣装のタータン柄のキルトがすぐ目に浮かび、ウィスキーの代表ともいえるスコッチやゴルフの発祥地としても知られていて、独特の文化や歴史を持ち独立の気概が強いと言われている。だが一方では経済の独立などに大きな不安を抱えるなど、今回の住民投票で一応独立見送りの結論が出た。

   今日は能と狂言の舞台を観た。観世流の公演で2年ぶりのこと。人間国宝の野村萬が狂言に出演している。私は 特にその趣味があるわけではないが、ここ3年主催者からチケットをいただいており、知人などに声をかけて行ったものである。 狂言はセリフが聞き取り易く、動作もあるので何となく理解できるが、セリフや謡がほとんで聞き取れず、動きが極めて少ない能の方はなかなか難解だ。それでも事前に物語りを調べておいたので、ストーリーが分かり易かった。

 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#17―リュウ先生及びその家族

  実験学校日本留学班の主任教師の リュウ先生は、今中国の民族問題で揺れている新疆ウィグル自治区の首府ウルムチの出身だが、漢民族である。年齢は40歳台。日本の関西学院大学に留学し、卒業後も数年間大阪の日本企業に勤務した。そのため日本語はペラペラである。しかし、自分自身は関西弁のなまりがある(私から見れば大したなまりではない)からとして、実験学校の日本留学班に標準語のネーティブスピーカーを求めていた 日本の高校と姉妹校提携を結んでいた時はそこから教師の派遣を受けていたが、提携を解消したためボランティア教師の募集を私の知人ヒロノブさんに打診し、それに私が応じたのだった。
   女性ながら事業家精神が旺盛で、インターネットなどを駆使していつも事業を探索している。実は日本留学班は姉妹校提携解消後はリュウ先生が学校から請負の形で運しているのだ。
   妹さんがIMF(国際通貨基金)の幹部職員という。ご主人は出版会社の管理職で、日本語は分からない。麻雀が好きで毎日帰りが遅い、とリュウ先生はこぼしていた。人付きあいがよいのであろう。ほかには何の不満もないとリュウ先生は言っていた。
   一粒種の息子ジャーシー君はリュウ先生いわく大変な天才少年なのだそうだ。当時小学校3,4年生。学校の授業は聴かなくても分かってしまうので、退屈してとにかく先生の手を煩わす行動が多く、いつも担任から苦情が出て困っているとのこと。家では大人でも難しい経済や天文学の本を読んでいるそうだ。確かにリュウ先生を訪ねて教師事務室に来ると一人でパソコンをいじったりしていた。リュウ先生はジャーシーの話になると、もう止まるところを知らない。こっちも話の聞き役が大変であった。北京滞在中、マンションのお宅に何度か食事に呼ばれて新疆料理などをご馳走になったり、国慶節の休暇には一緒に家族旅行にも招かれたりした。     

                
              リュウ先生のご家族と北京オリンピックの競技施設を見物

 

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山口淑子さん逝く/日本人はどうなった?

2014-09-17 07:46:25 | 日記

   山口淑子さんが亡くなられ、新聞各紙で大きく報じられていた。最近その名が出ることが少なかったが享年94歳であった。
   戦時中には満州国の中国人女優で歌手の「李香蘭」として一世を風靡したが日中両国間の激動期にあって数奇な運命をたどった。終戦時には利敵国民として中国の軍事裁判で処刑されそうになり、初めて日本人であることを明かしたという。戦中世代でなくても「支那の夜」「夜来香」「蘇州夜曲」など、李香蘭の澄んだ歌声は耳にしたことがあるだろう。戦後日本に帰国してからは山口淑子の名で映画に出演、その後テレビの司会者、参議院議員などとして幅広く活躍された。朝日新聞によると、近年戦時中の歴史的な写真に証言を寄せた時に「なんで日本人はあんなに威張っていたのでしょうか。自分たちが『東洋の盟主』なんだと勘違いしていたのでしょうか」と語ったそうだ。日・中二つの祖国の間で運命を翻弄された当人の重い言葉である。

   最近盲導犬に尖ったものを突き刺してケガを負わせたり、目の不自由な少女を足蹴にするなど信じられないような暴挙が話題になっている。日本人よ、一体どうなったんだ!? 山口淑子さんの前出の”日本人”は戦時中のこと。今の日本で何が起こっているのだろうか。元々「勤勉で親切」というのが海外の日本人評。そして東日本大震災の時には「秩序正しく辛抱強い」とも称賛された。今は「残忍で非常識」が日本人の特性になるのでろうか。

 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#16―冷や汗の失敗談続く

   ひとり歩きには失敗談もつきもの。初めてハンさんに観光案内をしてもらった日は実験学校のフー先生を呼び出して夕食を共にし、そのあと雨に降られてレストランバーのような所に入ったりしたので帰りが遅くなった。ハンさんの最寄り駅までは送ってもらいそこからタクシーに乗る時に、地理も中国語も分からない私のためハンさんが行先を書くなど運転手に説明してくれた。ところがカーナビがまだ付いていない当時、タクシーの運ちゃんは営業エリアを外れると全く地理が分からないらしく(あるいは料金稼ぎか?)、夜中の街をウロウロしていてすごく不安になって来た。その内、たまたまスーパーで買い物をした時に見覚えのあるマンション団地が目に入った。そこからは私が身振りで方向を指示し、運転手の反対を押し切ってやっと実験学校にたどり着いた。帰寮はもう12時近かった。
   次の週、学校前から一人でバスに乗ってハンさんと待ち合わせをして観光した帰りのこと。行きと同じ路線番号のバスに乗ったが乗車したバス停になかなか着かないので、バスの中の路線図を見たら違った場所を走っていることが分かった。慌てて次の停留所で下車したものの、全く見知らぬ場所で工場団地らしい寂しい所であった。暗闇でタクシーが来るのを待つが、車の通りが少なく心細い限りである。それでもやっと来たタクシーに乗って学校に帰ることができた。
   さらに2週後、またもや帰りのバスのトラブルに遭った。前とは違う路線だが、隣に座った30歳前後の男性と英語交じりで話している時にどこまで行くかを尋ねられた。手帳に書いてある住所を示したら、このバスはそこに行かないと言う。嘘だろう。ガイドブックには親切ごかしに話してくる人は要注意と書いてある。私は半信半疑というより全く疑っていた。そこでバスの運転手に手帳を見せたところ、やはり「行かない」というジェスチャーであった。もう騙されたつもりで彼に従ってそのバスを降り、そして乗り換えた。彼はわざわざ途中下車して私を学校まで送り届けてくれたのだ。見知らぬ人がこんなに親切にしてくれるなんて考えもしなかったことだ。地獄で仏に逢った思いである。せめてバス代でもお返ししようと思ったが受け取らず、英語で「こんな中国人に遭ったと誰かに話してくれればいい」と言った。私は手を握って精一杯の礼を述べた。

   失敗談は初めの内だけでその後は無くなったが、その時の”冷や汗”は北京の思い出のスパイスとなって鮮明に残っている。

   
写真(左):ひとり歩きも楽しいものだが・・・  (中):見覚えのあったマンション団地の一つ  (右):バス路線さえ分かれば楽しめる北京都心部の夜 
   

 

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