マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

五代目清水橋(別名 からはし)は開通していた

2020年07月17日 | 東京散歩

 7月3日(金)、一葉終焉の地の写真撮影の折に、先に東大正門前にある法真寺と一葉ゆかりの桜木の宿に寄った。ここについてもいずれブログに綴りたいが、今日は先を急ぐ。「桜木の宿」から終焉の地へ移動するには本郷弥生から春日へと下るルートもあるが、近道を知っていた。切通に架かる清水橋を渡ればよいのだ。(写真:完成した清水橋)
 橋に近づくにつれて思い出した。1月にこの橋下を通過したときは改築中だったことを。近づいてよく見ると新清水橋は完成していた。


 東大付近にある清水橋。いたってローカルな話しだが、この橋、私好みの切通に架かり小粒ながら見事な佇まい。更には一葉の日記にも登場してくるので綴っておきたい。






 根津方面から弥生坂を上り、東大農学部と工学部の間を通る道路は本郷通りまでは言問い通りだが、本郷から春日方面へ下る道は言問い通りとは呼ばないらしい。その坂は切通しになっていて、その切通しに初代清水橋が架けられたのは明治13年。切通し工事と同時進行だったと推定している。(写真:清水橋に通じる階段)
 橋の袂にある説明版からその橋の変遷を要約すると
 江戸時代 西片町側には福山藩阿部家、森川町側には本多家の江戸屋敷があったが、両町の間に橋はなく、谷底には清水が流れていた。
 初 代 明治13(1880)年 西片町と森川町間に橋が架けられ、清水の流れは無くなり、「からはし(空橋)」とも呼ばれるようになった。
 二代目 明治39(1906)年 建築家武田五一設計による木橋となった
 三代目 大正3(1924)年に撮影された写真が残るのみ(右写真)
 四代目 昭和11(1936)年~昭和12年(1937)年に架橋されたと考えられている。コンクリート造り
 五代目 平成31(2019)年に木目調のコンクリート橋とし架橋完成 





 その開通式が区長など出席のもと、令和2年2月24日に行われた。










 明治24年8月8日の一葉の日記には、上野の図書館からの帰り道に空橋の下を通った時、からはしの上から書生らしき人物に冷やかされたことが書き残こされている。(原文は最下段に)
 
 一葉が上野図書館からどの道を通って帰宅したかを想像するのは楽しい。当時の上野図書館の地には現在は「国際子ども図書館」が建っている。明治時代の地図で確認すると24年には、現在の言問い通りと呼ぶ通りは既に出来ていた。まずは言問い通りに出て、その道を真っすぐ弥生坂を上って弥生に至り、そこから清水橋の下を通って菊坂下へ。更に菊坂を少し昇って家路に着いたのではないだろうか。この間40分ほどの一人歩きだったか(?)


 
 日記文
 「空橋のした過
る程若き男の書生なとにやあらん打むれてをはしまに依りかゝりてみおろし居たるか何事にかあらんひそかにいひて笑ひなんとす しらすかほして猶いそきにいそけはひとして手を打ちならしてはうさくにもこちむき給えなんといふ。何の心にていふにや 書のかたはしをもよむ人のしわさともおもへはあやしくも成ぬ。」