マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

馬高縄文館ー火焔土器ミュージアムーへ

2019年08月17日 | 考古学

 長岡花火への「びゅう」商品は往きの新幹線だけ自由に選べた。そこで、8月3日は出来るだけ早く長岡に到着し、市内を見学しようと考え、上野発7時56分の新幹線に乗車した。ネットで調べた結果、火焔土器が展示されている「馬高(うまたか)縄文館」と、郷土料理の洋風カツ丼の有名店「レストランナカタ」を訪れることに決めた。
 知らない土地を訪れたとき、まずは観光案内所に行き、地図など頂く。今回もそうだった。「馬高縄文館」方面行のバスは出たばかりで、「新潟県立博物館
」行のバスを紹介された。終点から徒歩15分で「馬高縄文館」へ着くとのこと。(写真:馬高縄文館)





 「火焔土器」は1936(昭和11)年、近藤篤三郎によって、馬高・三十稲場(さんじゅういなば)遺跡から発掘された。馬高縄文館にはその遺跡に関する資料が保存・展示されていた。
 《馬高・三十稲場遺跡は、信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落跡。信濃川に注ぐ「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に中期(約5,500年前)の馬高遺跡、西側に後期(約4,500年前)の三十稲場遺跡が位置します。「火炎土器」発見の地として著名であり、1979(昭和54)年には両遺跡の45,000㎡は国史跡に指定されました》と記されている。5,500年前から4,500年前の約1,000年間に縄文人の住居は何故か東から西へと移動していた。そこは謎らしい。

 入館すると直ぐ目にするのが火焔土器。(右写真)燃え上がる焔を思わせるような形の深鉢形土器。この土器の発見より60年ほど後に、十日町笹山遺跡(信濃川右岸)で発見された火焔型土器が国宝に指定されているのに対し、最初に発見された火焔土器が重要文化財なのは何故か?因みに、火焔型土器を含め、笹山遺跡からの出土品は1999(平成11)年6月7日、国宝に指定された。新潟県にとって初の国宝誕生で、縄文土器では国内初の国宝だそうな。

 《火炎土器とは、1936年に発見された一個の土器に対して名付けられた愛称(ニックネイム)で、それ以外の類似した土器には「火焔型土器
」「王冠型土器」と呼んで区別している》とも書かれている。
 その火焔型土器と王冠型土器が多数展示され、じっくり見学した。私達の祖先の縄文人が5,000年ほど前に、
この様な精巧な土器を制作していたことに驚かされる。




 縄文館には目玉がもうひとつあった。重文指定の“ミス馬高”と名付けられた土偶。この館は撮影が自由なのでバッチリ撮影させてもらったが、ミス馬高は実に小さい。ミニチャーかと思い係員に聞くと「本物です」。微笑んでいるに見える、可愛らしい土偶だった。(写真:ミス馬高)
 バスで長岡駅には13時過ぎに戻って来た。


(以下は縄文館を出ての撮影)