昨日書いた「ジガルタンダ・ダブルX」の感想にtwitter(頑なにXとは呼ばない)にていろいろリアクションを頂いて嬉しい限り。また、その流れで前に見た「ジガルタンダ」の感想や他の映画の感想にもいいねやリツイートを頂いてます。
やはり自分が起こした何らかのアクションに対して何らかのリアクションがあるのはとても嬉しいもの。こうして映画に限らずさまざまな作品の感想を書くようになってかなり経ちますが、やっててよかったと思えます。
しかし反面、こういう嬉しい出来事があると自分の思考の悪い癖というか認知の歪みというか、「人気のある映画の感想だからたまたま人目についただけなんじゃないか」とか「感想記事にはリアクションがあっても小説に対するリアクションはさっぱりじゃないか」とかそういう思考が頭を支配しようと襲いかかってきます。
わたくし人形使いはこれを「全自動いちゃもんつけ装置」と呼んでいます。この装置はなにかプラスの出来事があるとスイッチが入って、具体的な理由や根拠の有無にかかわらずその出来事を否定しようとします。
じゃあ何がどうなれば満足なのか?となると、その答えは「ない」。つまり、「ここまでできれば合格」というゴールラインなしにいちゃもんを着けられ続けるので、この装置に従っている限り絶対に満足することができない。
……ということに気づいただけマシというもの。
わたくし人形使いが抱えている問題はたくさんあるわけですが、それらの問題の根っこの部分にあるのが「自己肯定感の低さ」です。誤解されがちなことですが、自己肯定感というものは「〇〇ができれば上がる」というものではありません。「〇〇ができなくてもOK」というのが自己肯定感。この自己肯定感はいわばバケツの底であり、ここに穴が空いている限りどんな偉業を成し遂げても満足することはできません。
この穴を塞げるのは「自分自身による無条件肯定」のみ。言うまでもありませんが他人相手に無条件肯定を求めると必ず100%間違いなく確実に共依存関係になってアウト。例外は親のみですが、親子関係が機能不全だと幼少期に親から無条件肯定を得られずに自分でどうにかするしかなくなります。
そういったことを踏まえて、自分が書いた記事がたくさんの人に読んでもらえてリアクションまでもらえているということを素直に嬉しがることは非常に大切だと思います。意識して「嬉しいことを確実に嬉しがる」ということをしなくては、眼の前にどれだけごちそうがあっても餓死してしまいます。
なので自分のやったことで誰かが喜んでくれた場合は素直にこちらも喜んでおこうと思います。
ただし、間違えてはいけないのが「誰かが喜ぶことをしようとすること」はNGという点。これを勘違いすると行動の主体が自分から他人にすり替わるからです。あくまで自分は自分のやりたいことをやってよし、それで誰かが喜んでくれたらなおよしというスタンスを忘れないようにしていきたいですね。
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