今日も塚口。
明日も塚口。
いつも塚口。
上映スケジュールが変更される木曜日は滑り込みの日。
というわけで今日見てきたのはこれ!
この作品もまた塚口がきっかけで知った作品。わたくし人形使いはインド映画ファンとしてはまだまだ若輩者なんですが、もはや日本国インド領と化した塚口がきっかけでどんどん知らない作品を見ることができるのでこれからも楽しみ。
そして現在の待合室はこんな感じ。
わかります。なんで待合室にキリンがいるんだよこの映画館。
さて感想に行きましょう。
主人公・カールティクは映画監督を目指す若者。映画監督コンテストでベスト4に残るものの有名プロデューサーの不況を買って選外に。しかし、別のプロデューサーからギャング抗争をテーマとした映画の制作を持ちかけられます。これをビッグチャンスと見たカールティクは、マドゥライの街を仕切るギャングのボス・セードゥの取材を始めるのですが……。
わたくし人形使いがインド映画に感じる特徴のひとつとして、「インド映画は従来の映画がゴールとするラインのその先まで描いている」というのがあります。
しかるに本作は、カールティクが撮影した映画が大人気になるというシーンがありますがそこはゴールラインではありません。セードゥがすっかり映画俳優としての魅力に取り憑かれてしまうというシーンもありますがそれもゴールラインではありません。
では何が本作のゴールラインかというと……なんでしょうね。よくわからない。なんだか複雑な後味のある映画でした。
今考えると本作のゴールラインは、「結局のところ権力を手にしたものが勝つ」ってところなのかな……。でも本作はただ単に「カールティクが映画で大成功して自分をボロクソに言ったプロデューサーを見返す」といったような話ではない気がするんだよな。
そもそも本作、全体を通して思い返すとさまざまな側面を持った作品だという気がするんですよね。命がけでギャングの取材をして映画を完成させるという映画モノとしての側面はもちろんのこと、ギャングのボスが映画撮影に巻き込まれてしまうコメディとしての側面、セードゥを巡るギャングモノとしての側面など、さまざまな側面を持っている。
わたくし人形使いは例によって例のごとくポスター以外の前情報は一切無しだったので、見る前は「映画監督を目指す青年が映画撮影のために実際にギャングの中に入って取材をする」という点しか知りませんでした。しかしいざ見終わってみるとそれ以上のさまざまな要素があったと思います。
もっとも強く感じたのは、「インド社会における映画というジャンルの持つ魔力」でしょうか。
映画というジャンルが大きな魅力・魔力を持っていることは今さら言うまでもありませんが、インド社会における映画はなんというか実効力を持っていると感じるんですよね。そのことを端的に示すのが、作中で映画に出ることを強引に決めたもののうまくいかないセードゥに対して家族が言った「映画スターになれば政治家への道も拓ける」というセリフ。
実際に映画スターから政界進出を決めた「サルカール」のヴィジャイ氏のように、インド社会においては映画スタートは単なる人気者ではなく、社会に大きく関わる機会と権力を持つ立場なわけです。我々日本人にとっての「映画スター」とインド社会における「映画スター」はまったく意味を異にする存在でしょうね。
そして本作で描かれるもうひとつの映画の魅力・魔力は「人を大きく変えること」。
非常に印象的だったのがなんやかんやでカールティクの取材を了承したセードゥやその部下たちがカールティクの構えるカメラの前で武勇伝を語るシーン。
実は本作でカールティクが本格的に映画の撮影を始めるのはインターバル後の後半パートからなんですよね。それまではセードゥやその部下の犯罪行為がかなりバイオレンスに描かれています。そこでは彼らは当たり前に人を殺している殺人者です。しかしカメラの前で昔話に興じる彼らの姿は、急に冷酷非情な殺人者から人間味を帯びた存在として見えるようになるんですよね。
さらにセードゥは酒の席で強引に自分が映画に出演することを決めますが、いざ撮影に入ってみると思うように演技ができなくて四苦八苦。仕方がないのでカールティクは演技指導の先生を呼んでスパルタ指導を行います。これにまた四苦八苦するセードゥの姿が、冷酷無比なギャングのボスもかたなしでまたコミカルでした。
そしてセードゥに最大の変化が訪れるのが映画が公開されたとき。セードゥは自分のギャングとしての恐ろしさを誇示するような作品を期待していましたが、実際に完成したのは撮影時の間抜けな姿を使用したコメディ映画でした。激怒して笑いに包まれる映画館を飛び出してカールティクを探すセードゥですが、彼の怒りに反して映画は大人気に。映画館を満たした笑い声は彼の間抜けな姿を嘲笑するものではなく、笑える映画を楽しむものだったのです。さらには彼が殺した男の妻とその幼い娘に「夫が死んで落ち込んでいたけれど、あなたの映画で元気になれた」とお礼を言われてしまいます。
逃げ出したカールティクを発見したセードゥは彼を拘束、ガソリンをかけて焼き殺そうとしますが……。
ここでセードゥがカールティクに対して、演技指導で習ったジブリッシュ(演技練習で用いる意味のないデタラメ言葉)で思いの丈をぶちまけるシーンがたまらなくいい……。
ジブリッシュなので何を言っているのかは言葉ではわからない。しかし、このときのセードゥの複雑な思いがその評定とジェスチャーに実に雄弁に現れてるんですよね。間違いなくここが本作の白眉だと言えるでしょう。
また、カールティクもまた映画の魔力によって大きく変化した人物です。序盤はいかにもどこにでもいそうな青年だったカールティクですが、映画撮影のために奔走する内にだんだんと様子がおかしくなって行くのがわかります。危険を顧みずにギャングの会話を盗聴したり、殺人を目にしても通報せずに情報収集を優先したり、自分に好意を寄せる女性にも関心を示さなくなったりと次第に映画撮影への執着が異常なものになっていきます。そして前述の通り、最終的に彼はギャングのボスであるセードゥを騙す形で映画を完成させる。
ギャングの中に入り込んで取材を行っていた彼が、ギャングの恐ろしさを知らないはずがありません。にも関わらず彼は自分の成功のためにとんでもないリスクを犯す。このへんの狂気的とも言える作品完成への執着は、本作とは全く毛色の違う作品ですが「映画大好きポンポさん」を思い出しました。
そしてカールティクはラストシーンで、その成功とギャングと手を組んだことで大きな権力を手に入れます。これはどちらかというと「映画監督としての成功」というよりも「かつて自分を虐げてきた相手との入れ替わり」のように思えました。これは映画というジャンルの持つ魔力による負の変化なんだと思ってます。
さて明日からは本作のタイトルを継ぐ作品「ジガルタンダ・ダブルエックス」が上映開始するので、こちらも見てみる予定。
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