初稽古でした。
昇段試験が近いので試合形式での稽古を行いましたが、大阪大会でちょっと良い結果が出たから油断してたのか、まあひどいものでした。
以前指摘されてた部分が完全に元通りになってるわ礼法は忘れるわでもう散々。
五段受験落ちて以来、 居合の稽古で辛い苦しい惨め辞めたい死にたい以外のポジティブな感情が出てきたことは一度もありません。
正直稽古へのモチベーションはゼロどころかマイナスで、稽古はもう惰性で行ってるだけです。
稽古して努力してそれでこのザマならもう努力する意味が見いだせない。
そもそも楽しいすら感じられないのに居合をやる意味は何?
居合に限らず、もう何かやるたびに自分のゴミクズっぷりを再確認するだけ。
本来努力というものは自分の実力を向上させるためにやるものなのに、実力の向上が見えない。
今僕にとって練習や努力は、人前で恥を晒すための作業、自分の成長性のなさを再確認するだけの作業になっています。
努力するのが無駄、を通り越して、努力するのが怖い。
その度に自分が周りと比べてどれほど劣等しているかを思い知らされることになるから。
人間がなぜ努力できるかと言えば、それは努力することで自分の実力の向上が見込めているからだと思います。
それがもう見込めない状態でさらに努力をすることはもう拷問だ。
こういう状態で、それでも続けなきゃいけないとなったときに行き着く最終的な結論はいつも「感情を殺す」。
こうした感情はもう自分では処理しきれないし、もちろん他人にそんなことを委ねられるわけがない。
淡々と機械のように自分の弱点を洗い出して修正する。
そもそもこんな感情を自分の中でぜんぶ処理できるわけがないんだよな。
正直なところ、努力して弱点が改善されて結果が出せたとしても、少なくとも今の状態では……というか、もうこの先ずっと達成感などのポジティブな感情をを正常に感じることはできないと思う。
そういう意味でも、もう努力する意義や意味はもう完全に失われてるんだよな。
今時分が居合をやってる(フリをしてる)理由は、もう惰性と強迫観念だけだ。
今もし、仮に事故で腕を失ったら、多分僕は心のどこかで安心します。
歩いているときに横からトラックが突っ込んできたら、心のどこかで救われるでしょう。
こういう状態は、そうした外因的な要素の介入でしか改善されないだろうなあ。
もう自分の中にはこうした問題に対応できるだけの機構はない。
何かする度に、自分がどれほど劣等しているかを思い知らされる。
ならもう何もしたくないし、何をする意味も見いだせない。
こうした状態がもう通年続いているので、もういい加減クリニックや薬剤に頼る段階かもな。
いっそ一気に崩れて社会生活ができないレベルになってしまえばいいのに、下手に耐久力があるせいで「逃げる」という選択肢を取れず、「耐える」という選択をしてしまってるのかも。
じわじわ時間をかけて自分がダメになっていってるんだろう。
思うにこの状態は、極論すれば「ダメな自分」を受け入れることができてないから生じてるんだろう。
「自分はデキる人間で、デキない自分は自分じゃない」といったように。
AC関連の本なんかで学んだように、こうした認識から手を離すことが必要なんだろうけども、どうしたって「他人と自分が第三者に比べられて優劣をつけられる」ってシチュエーションからは逃れようがないんだよ……。
「それが自身の絶対的な評価ではない」と認識するって逃げ道はあるけど、劣等感はもう積年のものが全身にべったりへばりついてるのでそれももう無理。
努力なんてしたくない。
楽しみたい。