ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

四日市歩き旅2

2019年06月07日 21時14分08秒 | ウォーキング

公害という言葉にひかれてしまいました。

そうdoironはかつて公害担当の
仕事をしていたことがあるのです。
例えば、この博物館に展示されている
こんな硫黄酸化物の
測定機械も触っていました。
全く同じ機械です。



いや、触っているというよりも、
反応液を作って機械を
管理しながら測定をしていた
こともあるのです。

大気関係では、ほかにも窒素酸化物、
光化学オキシダント、浮遊粉じん
なんかも測っていましたねえ。

ほかにも、気象要素として日射量、
放射量、風向風速も測っていたなあ。



また実験室の手作業で
降下ばいじんや硫黄酸化物も
測っていましたね。

また水質でも実験室で
生物化学的酸素消費量BODや
化学的酸素消費量CODも
測定したことがあります。

BODなんか5日もかかるのですよ。

定性的には毒物の分析も
したことがあります。

もっと身近な公害である騒音では
音圧レベルだけでなく
周波数分析も行っていました。

いやあ、こういう公害関係の測定は、
日常茶飯事の仕事だったのです。
こういう分析結果の値が
人々の暮らしを脅かす
というシーンをもう
数えきれないほど見てきましたねえ。
年間で100件以上の事件が
あったのを思い出します。

でっかい工業地帯があるわけでもないのに
人々の生活を脅かす公害が
doironが働くこんな小さな町でも
あんなにあったことを思えば、
臨海地帯にでっかい工場を持つ
この四日市では、その公害が
どれだけ大変だったか
これはもう容易に想像できますねえ。

人々の怒りの思い、せつない思い、
耐えられない思いに向き合うというのは、
かなり大変な仕事だったかを思い出します。

今はいろんな楽しいことにかかわって、
このブログに昔の公害の事を
あまり書かなかったけど、
こうして四日市のでっかい
公害問題と向き合うと、
それなりに自分の中にも
こみあげてくるものがありました。

なので四日市の街歩きも、
市内のやまの方面と思っていたけど、
ここにきていきなり公害問題と直面し、
工業プラントのたくさん立つ



臨海方面へと向かうべきと
コース変更となりました。

ここを出たら、とりあえず海方向に
向かいましょう。
地図を見ながら、それだったら
また駅前に戻らないといけないなあ
と思いつつ見ていると、
あ、近くに鵜の森公園という
大きな公園がありますよ。
海に行く前にとりあえず
見ていきましょう。

四日市を東西に貫く中央通りを渡り、



狭い住宅街を100mほど歩きますと、
左手に緑の塊の公園が見えてきます。

入っていきましょう。
最初に目につくのが、
戦争時の昭和20年6月に
四日市が3回受けた大空襲の殉難日です。



四日市には大きな工場もあったし、
軍関係の作業場なんかも
あったからB29による
大空襲があったようです。



死者は約800人になったそうです。

戦争や昔の戦、大災害、
そんなものがなければ
古くてよきものも
いっぱい残っていたりするのに
残念ですね。

この公園にはこんな包丁塚もあります。



そしてここには浜田城跡があります。



室町の1470年ころに
田原氏が築いた城です。
この田原氏というのはのちに
浜田氏となりますが、
ずっと祖先が田原=俵藤太
だといわれています。

あの三上山の大ムカデを退治した人ですね。



その俵氏ゆかりの兜が
今もここにある鵜森神社の社寺として
残されているそうです。

最近では四日市の歴史研究を行う
「網の会」が、市民に広く
浜田氏の痕跡を認識してもらおうと
こんな「冠木門」を立てたそうです。



う~ん、木やからなあ
どれだけ持つかわかりませんが、
まあ地元の人らが頑張って作った
門になるわけですねえ。

田原氏を祀る



「田原稲荷大明神の参道には、



こんな毎年閲覧できる兜の案内や、



俵藤太のムカデ退治の
案内パネルなんかが展示されていました。

続く