あの恐怖の地震&津波災害から今日で5年が立った。
テレビでは、しきりに現地の復興の様子を告げているが
なかなか思うようには進んでいない。
あと5年で完全復活となるように
国も力を入れていくといっているが、
はてさてどうなることなんだろう。
いずれにしても人は一生懸命生きていくしかない。
日々の暮らしを積み上げながら
復興を重ねていくしかないんだよね。
彼らの生活ががらんと大きく変わったように、
doironもこの5年で人生が大きく変わった。
そうやなあ、朝は早く起きれるけど
夜寝るのが早くなったなあ。
髪も薄くなったし、トイレも近い・・・
って、還暦を迎えるようになったことではない。
仕事を辞め、親を三人なくし、犬もなくして、
危うく自分の命もなくしかけた。
doironの場合は、これらがとぎれとぎれに
おこったんやけど、一度に全部起こっていたら
もうまさに災害といっても不思議じゃない5年だった。
そういう結果だけ見れば、被災民たちと
あまり変わらない5年間を過ごしてきたと
いってもいいのかもしれないな。
いや、お前は甘えすぎやと叱られるかな。
しかし特に自分の命に関しては
あやうく人生に遭難するところだったのだから
まあ、頑張って耐えたといってもいいだろう。
この5年で、いろんなことが終わったといえる。
長年続けてきた仕事も、
家の様子なんかで続けられなくなり、
4年間早く終わらせた。
新たな仕事にも就いたが
さほどお役には立てれなかった。
またフリーライターの方は
脳こうそく以来休止といえば休止だけれど
ちょっとどうなるかわからない。
親がいづれなくなるのは自然の摂理といえば
そうかもしれないが1年のうちに3人を亡くし、
親族への信頼と介護の多くが終わりを告げた。
そして自分の命に関しても、
心臓と脳というなくてはならないものが病み、
長年続けてきたマラソンやトライアスロンの
レース出場もなくなったのは、
これもまた自分にとっては
果てしなく大きな消失であった。
生きてる意味ないじゃんというほどの
強大な方向転換があり、
これまでなくてはならないもの、
あって当然の人生が5年の間に
どんどんとなくなっていったなあ。
もう変わるものってないのかなあ。
まだあるかなあ。
その辺はよくわからないけど、
それでもこの5年間の大きな消失を
少しずつ歩くことや、
絵や文を書くことで置き換えつつあるのは、
まあ、自分なりに頑張っているんではないだろう。
あ、もちろん運動もまあ以前ほどじゃないけど、
普通のおじさんたちよりはやっているしね。
そんな風にdoironの5年の復興は、
それとなく固まりつつはあるといっていいのかなあ。
でもまあ、まだよくわからない部分も多い。
そしてそんなよくわからん5年を終えて、
まもなく還暦を迎えるdoiron。
今日はいろんなスタートを、
また少しずつ大きく楽しくしていかなきゃと、
東北の人立ちに祈りを送りつつも、
一方で自分を励ましもした一日なのでありました。
さあ、一緒に復興を目指しましょう。
以前働いていた職場には、
この辺出身の人がたくさんいました。
もしかしたらぶらぶらと
歩いているんではないかと、
前から人がチャリンコで来たりすると、
ついつい顔を眺めてしまいます。
でもカメラを構えて
あまり人をじろじろ見るのは
よくありませんねえ。
先日テレビで京都のお寺にいる
盗撮者をとらえる番組をしていました。
あんなのがいるから、
いつもカメラを抱えて
うろうろしている高年のおじさん
というのも変な目で見られてしまうんだよねえ。
繁華街じゃ知らない間に、
私服警官に尾行されていたりしてね。
まあ、最終的にはうつっている道標や
看板とかを見てもらったらわかるんやけどね。
ある意味変なおじさんとして
別の注意が入るかもしれませんがね。
で、いよいよこの辺りに以前から
「ある」とは知っていたけど
見たことがない道標があるはずです。
ネットでは同じ道標が
いくつかあるようでしたが、
同じ物なので、一つ見れたらいいかなあ
と思いつつ探していますと、
おや?目の前に何か石のようなものがあります。
ごみのようなものが被さってますので、
どけてみると、おおこれでした。
下のほうがアスファルトに埋もれてますが、
左は「はりみち」、
右は「でんしゃのりば」と刻まれています。
「はりみち」は中野鍼灸治療院
のことをさしています。
そして、電車とは今の近鉄や地下鉄のことではなく、
先ほど通った阪神高速の下を走っていた
もう今は廃線の
「南海平野線駒川駅」を表しています。
これらのことからこの地域を
「針中野」と呼んでいるようですが、
実際は「鍼中野」だったのですねえ。
まあ、しかしここにこんな道標があることは
ずっと以前から聞いていたのですが、
ようやく実物が確認できて良かったです。
目標は達しましたが、
もう少し歩いてみましょう。
そのまま道を南方向に進んでいきますと、
そろそろお昼になりましたあ。
今日はどうしようかなあ、
公園でコンビニ弁当にしようかな
と思っていたら
ちょうどおあつらえ向きに
ラーメン屋さんの横を通ったので、
今日はまあたまにはいいかと
贅沢にも「ラーメン」でも食うか
とお店に入ったのでありました。
あっさりしょうゆ味の「半チャン定食」、
にらもやしと漬物は「食べ放題」なのだ。
はい~ちょっと贅沢しちゃいました。
でもビールは飲んでませんよ。
お腹がいっぱいになったところで、
さらに道を南の方へと向かいます。
矢田中学のところを東に曲がりますと、
そこにあったのが
「須牟地寺(すむじ寺)跡」です。
奈良時代この辺りは住吉郡住道郷に属していました。
この辺りの住所は「住道矢田」と読みます。
寺の名前、昔の郷の名前が
一致しているのもきっと
歴史が絡んでいるのでしょうねえ。
旧のお寺を焼き尽くした灰を集めて
この塚は作られているそうです。
さて、この辺りからはもう
南の方に大きな堤防が見えています。
「大和川」ですね。
ウォーキングを始めた最初の頃は、
これを歩いてさかのぼって
藤井寺の先輩宅まで
歩いて言った記憶があります。
あ、ここで新たなマンふたを発見です。
ここまではずっとこんな感じで、
大阪城が描かれていましたが。
このふたには大阪城のほか
橋と船も描かれています。
うん、ちょっと贅沢なマンふたでしたね。
またもや道は阪神高速の方へと
出てまいりました。
まもなく終点の地下鉄「喜連瓜破」駅です。
じつはこの駅の名前も
気になっていたのですが、
これはまた別の機会に紹介いたしましょう。
こうして東住吉区の長居から
平野区の喜連瓜破の間を
こんな風に歩いた
「鍼中野の旅」終わりです。
むかし、この地にあった「鍼」のお店が
今の地域の地名になっているというのが
「針中野」です。
その鍼店を示す道標が
今も道端に残っているというので、
それを訪ねがてら
東住吉区の長居から
平野区の喜連瓜破を歩いてみました。
スタートは阪和線の長居公園駅です。
普通はこの駅で降りると北に向かい
長居公園のスタジアムの方へと
向かうことが多いのですが、
この日は長居の正面入り口に向かって
南の方へと進みます。
これが長居公園。
大阪国際女子マラソンが行われるあの公園ですね。
この公園の周回道路が1週2813m。
これに15をかけてみましょう。
フルマラソンの距離42.195になりますね。
そうdoironの初フルマラソンは、
この周回で行われた大会でした。
1989年3月5日。
3時間19分28秒が初フルタイムでした。
その周回は一時地下駐車場ができたときに、
若干いじったようですが、
たぶんこの距離設定までは
変えていないと思うのですが
どうなんでしょうか。
公園内には大勢の人が歩いていました。
気の早い桜はもう咲いています。
あ、自然史博物館は休館中です。
2月いっぱいと書いてあったので、
もうオープンしているでしょう。
そして、これが40キロの標識ですね。
スタートラインから14周と
ここまでで40キロ。
そしてよく見たら、周回の地面には
「km表示」がテープで刻まれているようでしたね。
あ、こんな注意看板もあります。
今から4年くらい前でしょうか。
ある音楽コンサート開始前に
落雷があって観客がお亡くなりになっているそうですから、
建てられているんだと思います。
そんな長居公園を西から東へと歩き、
東口から外に出ます。
ここからは外です。
長居公園東筋を北を向いて歩いていきましょう。
そしてこの交差点から、
道はさらに東向いて
街中へと入っていきます。
まず最初に目指すのが「酒君塚古墳」です。
え~、こんな名前ですから、
KさんやI君のように、
大酒を飲んだ人ではないですよ。
この酒君は百済の王族だったらしいのですが、
ここで鷹を飼っていたそうです。
日本書紀にはそのことが書かれ、
この辺の地名を「鷹合」と呼んでいたのが、
今も地名で残っています。
お骨の頂点には、
明治時代に掘られたこんな石碑も立っていました。
さあ、ここからずっと進んでいきますと
「こまがわ商店街」へと入っていきます。
信号を渡って入っていきますと・・・
おお~ここは何と人の多い商店街でしょうか。
これまでいろんな商店街を歩いてきましたが、
そのどの商店街よりも
大勢の客が集まっています。
こんな感じ。
お店も生鮮の魚屋から
日用雑貨品売り場まで幅広く、
大勢の人が集まるにぎやかな商店街でした。
こんなところはお店の人の
勢いも違いますねえ。
「いらっしゃい、いらっしゃい」
と大きな声で呼び込みもされていたりして、
歩いていてもついつい店先を
のぞき込んでしまいますね~。
思わずうまそうな子持がれいを
飼いそうになってしまいました。
その商店街を最後まで歩いて、
阪神高速松原線のところに出たら東進します。
近鉄南大阪線を越えて、
阪神高速に沿って歩いていきますと、
川に沿った緑の多い道に出ますので、
それを右折して歩いて行きましょう。
どうもこのあたりの水路はとても深そうです。
きっと水害対策の意味も
込められているんでしょうね。
ここには、レンギョウも結構咲くそうですが、
ちょっとまだ季節は早いようですね。
で、当初目的にしていた道標が
この辺りにあるようです。
道端に案内とかがないので、
地図に書かれた印を目標に
探していかねばなりません。
どれど~れ、と続きます。
先日電車に乗ったときに、
隣に座って話をしてはるおばちゃん同士の
会話がめちゃ気になりました。
「ねえ、あんた初詣どこ行った?」
「ああ、わたしは“ありまか”さんに行ったよ」
「ああ、あそこなあ。でも正月とかすごい人やろ」
「うん。でもあそこは一回行っとかないとな」
「うん。まあそらそうやけどな」という会話でした。
これがめちゃ気になったんです。
“ありまか”って何なん?
もしかしたら大阪弁で
“やりまっか”とか言ってたのかなあ。
それとも「有馬温泉」のこととかかなあ、
て思っていたら、
どうも話の内容では六甲とかではなく
「貝塚市」のようです。
こりゃあ調べてみなくてはいけませんな。
携帯でちらちらと探してみますと・・・
ありました。
貝塚市の国道26号線近くに
「阿理莫(ありまか)神社」
というのがあるようです。
ふむふむ、紀州街道と熊野街道の間ですねえ。
まだ歩いたことはありません。
ただ、意外に近くを車で走っているのにね、
気が付きませんでした。
噂話では、正月がすごい人で
あふれるようなその神社に、
これはぜひとも行ってみようと思い立ち、
別の日に出かけてみることにしました。
もう少し春先なら、
自転車でも気持ちよさそうなんですが、
まだちょっと寒いので車でビューンです。
貝塚市久保の交差点から
山の方向に入っていきますと・・・
ちゃんと地図通りにありました。
ま、あるわな。
駐車場に車を止めて歩いていきますと、
先日の噂話の中では、
お正月には順番をならばされるほどの
多くの人であふれるこの神社も、
この日は全く人の姿がありません。
平日だからですかねえ。
ぐるっと見回してみると・・・
あ、ここは狛犬ではなくて、
狛猫ですかあ・・・。へへ。
でもねえ、実はこの神社は
狛犬がたくさんいることで有名なんだそうです。
それはなぜ?と思って調べてみたら、
理由がありました。
この神社のことは日本書紀に乗っています。
ある人物が朝廷に逆らったという恨みを受け、
茅渟の県の有真香邑(ありまかむら)に
引きこもったそうです。
そんな彼をやっつけようと朝廷側が
送り込んできた人間30人をやっつけて、
じぶんは無実だと自刃したそうです。
そんな彼は罪に問われ、
八つ裂きにされたそうです。
その彼は犬を飼っていたのですが、
その犬が八つ裂きにされた主人の首を守り
塚にそなえてその前で飢え死んだ
という話があったそうです。
その人は犬とともに
この地に眠らされているそうです。
そんな話があったからこその、
狛犬なんでしょうね。
本殿の前に3対。
そして周りにも合わせて3対あって、
合計12対がこの神社におりました。
数的には曽根神社の倍ですな。
そんな話を思い出しながら、
これは一緒に拝んでおかなくてはと、
我が愛犬「グー」のお参りもしておきました。
電車の中でおばさんが交し合ってる言葉から、
思わぬ神社を見つけたというお話でした。
チョット昼から時間ができたので・・・
なんて書くと、
「お前はいつも時間だらけやろ~」
と叱られそうですが、
まあいろいろあるんです。
お絵かきや友達との付き合いや、
運動や読書や資料の整理とか・・・。
どれも暇な印なんですが、
まあたまには市の委員会の準備や
町会の役員仕事なんかもあったりするのです。
といってもどれも世も中から
さほど期待されてなさそうな、
あまりどうでもいいようなことしかしていませんが、
それでもこんな機会が続くと
むしょうに歩きたくなったり、
お出かけしたくなったりするのがdoironなのです。
今回は、ちょっと変わったぞ
と噂のある天王寺公園と
もう何十年ぶりになるやろ
という通天閣のぼりを計画して
昼から出かけてみたのでありました。
天王寺に着くと地下街を抜けて
天王寺公園に出ていきますと・・・
あれ?
何かひらけた雰囲気です。
そうなんです。
一時ホームレスなんかが多かった
天王寺公園を有料化したのですが、
また雰囲気を変えて無料化しはじめたのです。
今のところはホームレスもいませんし、
昔みたいな着物を着て踊りまくっている
地元のカラオケ名人なんかもいません。
時代が変わったんでしょうかねえ。
そしてなんとそのスペースには
タリーズコーヒーやピザショップ、
ペットショップやコンビニまでできて
非常にオープンにのんびりできる施設が並んでいます。
公園名も「天王寺公園」から
「てんしば」
へと変わってイメージ刷新です。
こりゃあ、ここの喫茶店なんか
気持ちよさそうですねえ。
これは皆さんぜひとも
行ってみられることをお勧めしますよ。
そんなてんしばを突き抜けて
こんどは次の目的の通天閣へと向かいます。
美術館を抜けて新世界の方に入っていくと、
そうあの串カツやさんがどどーっと現れます。
ああ、そういえばここの串カツ屋さん街も
ちょっと久しぶりになっています。
でも、まあ今日は目的地が違います。
「うちの串カツが一番うまいよ~」
と声をかけてくるお姉ちゃんも無視して、
通天閣へと向かいます。
で、その通天閣の真下にやってきました。
天井がきれいに色づけされています。
え~っと、あれ?
入り口はどこやったかな
と探してしまいます。
もう何十年もたっていますから
よくわかりません。
あ~、一旦地下街におりてから
エレベーターに乗るんやったっけ。
入場料は700円です。
チケットの切り札が開運招福の
お守りになっているのもそれらしいですなあ。
観客は若い人と外国人が多かったかな。
先ずは中継所の2F売店の並ぶ
ジャンジャン町へと行きます。
そこをちらっと回った後、
展望エレベーターに乗り込みます。
なかはちょっとこんな天井画が移ったりする
ちょっとしゃれたものでした。
展望会で降りてぐるっと周りを一巡り。
まあ、それなりに高い景色が見渡せます。
あ、塔の下にあるラブホの屋上に
こんな看板が。
通天閣の思い出に・・・
なんてしゃれてますなあ。
遠くの景色もそこそこ見えてええもんでした。
ひととおり見学した後は、
4階からエレベーターで降りていきますが、
降りたところからが
お土産コーナーをぐるりと
一巡りするコースの位置設定になっていました。
まるで迷路のようでしたなあ。
グリコや森永、日清食品なんかが
力を入れているようです。
大阪の会社ですな。
こうして久しぶりに通天閣をひとめぐり。
塔の一番上の証明が天気予報になっていることや、
大時計が日本一の売り上げになっていることも
改めて知りました。
あべのハルカスには高さでは負けているけど、
こてこて差は断トツ勝ちでしたな。
いがいに楽しかった標高103mの通天閣旅でした。
最近ジムのトレーナーが
「doironさん、今ジムにこんなチラシが入ってるで~」
と声をかけてくれた。
見てみると、脳卒中に関しての
「出張健康相談会」というのが
参加無料で事前の申込も不要で
開かれるということの案内でした。
まあそのジム内で脳こうそくを発症し、
そのトレーナーに助けられたdoironとしては、
これはぜひとも参加し、
少しでも知識を深めておかなくてはと、
多忙な遊びスケジュールを無理やり調整し、
参加することにしたのでありました。
え?あ、いや全然多忙じゃありませんがね。
開かれる場所は、日本一狭い町の
忠岡町の文化会館です。
先日町長さんとしっかりお話をさせて
いただきましたっけねえ。
その日は天気もよかったので、
久しぶりに登場するブラチャリで
チリンチリンと行くことにしました。
ブラチャリに乗ってると、
いやあ春ですねえ。
ブラブラーと遠くまで行きたくなってしまいますねえ。
近々そんな機会をまた作りましょう。
大津川を越えるときは気持ちよく、
文化会館に着いたら以外に人が多いのに驚きつつ、
うっかり両方とも写真撮影を
完全に忘れてしまっていたのはショックでした。
中に入ってみると200人程度の席はほぼ満席。
ちょうど出入り口近くのところになんとか、
やってきたジムのトレーナーとの席を
確保することができました。
講義は41歳の沖縄出身の医師が行ってくれます。
ではその内容からいくつかを紹介しましょう。
脳卒中は男性の場合の死亡の11%、
女性の場合の14%を占めます。
少なくとも10人のうち1人以上は
この病気で亡くなるようです。
また脳梗塞になった有名人
(長嶋茂雄、西城秀樹、田中角栄等)
の例も紹介され、医者から見ていても
もう少し早く処置をしていればなあ
という例が多いようです。
そうなんです。
脳こうそくの場合は、いかに早く処置をするかで
傷の治り具合が大きく変わるのです。
特に最近は、発病後4時間半以内に
注射すれば血栓が溶解するという
強烈にいい薬があるそうです。
4時間半を超えると脳出血を招くからということで、
4時間31分でも注射できない
ということになります。
ですから、発病後、検査等も含めれば
3時間以内に病院に入ることが
治療の程度を大きく変えるんだそうです。
たぶんdoironの場合は1時間以内に
病院に着き、きっとこの薬を注入されたんだ
と思います。
周りの皆さんの適切な対処のおかげですねえ。
おかげで今も頭脳明晰のままでいられる
・・・あ、すみません。
手足がしびれる、ろれつが回らない
などの症状が出たら、
迷わず救急車を呼ぶことが大切なんだそうです。
救急車の使用に関しては、
その使い方にいろいろと問題があるようですが、
このような脳こうそくの前兆のような場合は、
それがたまたまのもので
影響がなかったとしても、
呼ぶことは必要だと言われているそうですから、
安心して呼ぶことにしましょう。
1分1秒があなたの病気の程度を大きく変えます。
この医者も、もう少し早く着ていたら
寝たきりとかこんな状態にならなかったのになあ
という例は非常に多いんだそうです。
この病気は突然起こります。
特に加齢になってきたりするとね。
そんなときに迷わず治療ができるように
心がけておくことが大切だということを、
改めて実感することができました。
発症を予防することは大切です。
そのためにも、大量飲酒、喫煙、運動不足、
高血圧放置などはやめましょうね。
オー、ノー、コウソク
そしてお土産は、自分の既往歴や飲んでる薬なんかを
まとめて記しておくこんなシートと、
それをおさめておくカプセルです。
そうして玄関先にこれがありますよ
というシールを貼っておくだけで
いいんだそうです。
いろいろと手立ては進んでいるんですねえ。
「脳卒中、起きたらすぐに病院へ」
このことを強く学んだ
いい講習会受講になりましたとさ。
続いて中山道を歩いていきます。
道のわきにはこんな案内がついていたりします。
これは一里塚。
なんと東京から五十五里の塚跡だそうです。
ここは地元のおやすみどころです。
中に入って休憩してたら、
お茶や漬物、お菓子まで出してくれはりました。
御柱のことなんかを
いろいろと教えてくれはしましたな。
このあたりからは温泉が続きます。
一般家庭でも温泉を引いている家は
結構あったそうなんですが、
施設の老朽化や維持管理に
結構な費用が重なるようで、
やめていった人も多いと聞きました。
しかし道端には、
暑くて触れないようなお湯がちょろちょろ出ていたり、
日常に入れる温泉が続いています。
見ていてなんかもったいないくらいです。
そしてこの交差点が、
中山道と甲州街道の分岐点です。
昔の絵にも描かれており、
お店の名前なんかも変わってなかったりします。
その近くに、歴史民俗資料館があったので
入ってみましょう。
先ほどの休憩所やこういう無料の資料館には、
年配の方が詰めておられます。
地域のボランティアだったりするのですかねえ。
中に入ると、昔のお店の看板や
浮世絵、
昔道具なんかも飾られておりました。
これが、御柱の「曳き綱」。
だんじりの曳き綱よりは太いようです。
さて、では諏訪大社の下社秋宮に着きました。
お、御神湯はさすがに温泉です。
建物は先ほどの春宮とよく似ています。
まず、神楽殿があって
その後ろに拝殿があります。
その拝殿を囲むように4本の御柱が立っています。
では、上社と下社あわせて4社が
諏訪信仰の中身となっています。
ではなぜ4社に分かれているのでしょう。
これにはいろんな説があるようです。
大きな理由は位置的なもの。
といっても局所的なものではなく、
諏訪湖と富士山や他の山々の
位置関係を表したものがほとんどです。
さすがに、熊野のように
3つの月が出たこととかの意見はありません。
あとは陰陽とか五行とかの
意見もあります。
まあ、結局確かな意味は分かりませんが、
諏訪大社には「男神」と「女神」がいることや
諏訪湖の氷が春に溶け出して
湖面に道が現れることなんかが
絡み合ってそんな形になっているのかもしれません。
この後は一言だけ願いをかなえてくれる地蔵に詣り
さてこの辺で時刻はお昼となりました。
食事にしましょう。
当所、この辺りはウナギが名物なので、
それにしようかとも思っていたのですが、
この日は秋宮の前にある
「お蕎麦やさん」が気になったので
入ってみました。
食べたのはこれ。
卵盛りそばでした。
うむ~なかなかうまかったです。
で、この店で気になったことが一つ。
メニューに「もりそば」と
「ざるそば」の二種類がありました。
その二つが結局どんな違いか分からないままでした。
なので気になって、
ネットで調べたら
青のりがついているかどうかだけのようでしたが・・・
どうなんでしょうかねえ。
なんか違いがあるのでしょうか。
取材を忘れてしまいました。
木落坂に行ってみましょう。
あの春宮の奥の方です。
見てみると、おお~かなりの坂道ですねえ。
ここを滑り落とすんですねえ。
さぞやあの大木に乗って
ここを下ってくるとしたら、
大変でしょうねえ。
だんじりも危険ですが、
ここの祭りもかなりデンジャラスです。
この春に、この木落しがなされるそうですが、
現地の若者たちは今頃から
かなり気合を入れているんでしょうねえ。
そんな木落し現場を確認して、
余韻を残しながらdoironの
中山道訪ね旅は終わりです。
熊野古道とかとはまた違った
歴史の重みがあるようです。
近いうちに、この中山道を旅の目的にして
ちょこちょこ尋ねてみたいな
と思った旅となりました。
帰りの電車では「釜飯」とビールで
乾杯しながら帰路に就いたdoiron家なのでした。
諏訪大社の手前にあるのが
「諏訪大社下社春宮下馬橋」
です。
年に二回だけ神輿だけが通るみちです。
小さな川の上にかかっていた橋で、
諏訪大社の中では
最も古い建物だと言われています。
住吉さんの太鼓橋の、
二分の一から三分の一くらいでしょうか。
下社春宮はここから直線で進んでいきます。
この神社には本殿がありません。
下社春宮は杉の木を
秋宮は一位の木をそして
上社はお山を御神体としております。
おっ、ここの狛犬なんですが
青銅製の狛犬としては、
日本最大の狛犬だそうです。
また神社の中には、
申年と寅年に行われる「御柱祭」の
木が建てられています。
これが一の御柱と
二の御柱。
樹齢200年くらいの巨木だそうです。
この巨木が大勢の民によって
山から切り出され運ばれてきます。
御柱祭りは4月に山出しといって、
大きな坂道を転がる「木落し」と
5月の騎馬行列や時代絵巻を見せる
「里曳き」が行われ、
その後境内に建てられます。
たまに命を落とすこともある「木落し」は
大きな見どころの一つです。
この日は最後にその木落が行われる
「木落し坂」も見に行きます。
さて
この春宮には「筒粥殿」というのがあり、
ここで毎年筒粥炊出しが
夜っぴいて行われ、
今年の豊凶が行われるそうです。
そしてもう一つ、この春宮に来たら
どうしてもよらねばならない名所があります。
それが「万治の石仏」です。
入り口に大きな御影石の鳥居がありましたよねえ。
これを作るときに石にのみを入れたら、
なんとその石から血が流れだしたそうだ。
なのでその石を阿弥陀如来として祀ったそうだ。
万治の時代(1660年)の出来事ですね。
山のふもとにはこんな看板を
作っている人もありました。
ではそこに向かいましょう。
筒粥殿から出て、川のほうにおりてゆきます。
ここは「砥川」ですね。
雪解け水でしょうか、
本当にたくさんの水が流れています。
ここには浮島神社というのがあります。
川の中にできた中州に社殿が建っていますが、
流れることのない神社で有名だそうです。
そんな浮橋から橋を渡って、
進んでいきますと・・・
ありました。
これが「万治の石仏」です。
「よろずおさまりますように」と
心で念じながら、石仏の周りを
時計回りに3回周り願いを届けます。
本体を見ますと、
大きな石の上に念を刻む体を描き、
上にちょこんと頭部が乗っています。
胸に掘られた袈裟には、
宇宙の姿が刻まれているそうだ。
この姿を見たあの「岡本太郎」が
「こんな面白いもの見たことがない」
と絶賛したというし、
あの作家の新田次郎も絶賛しているし、
原田泰治が絵にも描いている。
おりていく道筋に岡本太郎の看板も立っていました。
石仏としては名作の一つなんでしょうね。
ネットで見てみると、
この石仏に関連した謎の数字探しなんかも
あるようですが、
ちょろっと見ただけじゃ
まったくわからない謎解きでしたな。
ちょっと高台にある丘の一角で、
下諏訪の町や諏訪湖が見渡せる
丘陵の一角に立っていて、
下諏訪の人たちに
ずいぶん愛されているお像なんでしょうね。
道はまた「中山道」へと戻ってきます。
こういうお寺関係の言葉が
いっぱい刻まれた石が
いっぱい並ぶお堂の入口に出てきました。
この階段の上にあるのが「矢除石」です。
あの武田信玄がこの石の上に立ち、
人に矢を射させたところ、
矢はすべて石に跳ね返されたそうで、
この石を「矢除石」と名付けて、
戦の前にはここに立ち寄った
という石だそうです。
まあ、わしを狙えと信玄に言われて
ほんとに打つような奴はいないだろうけどね。
それがこれ。
う~ん、ここまでくると
徳川家康や京都の上皇たちと違って、
信玄なんかが話の主人公になったりするのだな
と思いつつ続く。
もう道は中山道に入っています。
この「中山道」なんですが、
どうも資料や道標を見たら時々
「中仙道」という字になっていたりします。
確かに、別名としてどちらも正しいのでしょうが、
一つ参考に紹介しておきますと、
江戸時代の文書に
「正しくは中山道」と書かれた文書があるそうです。
庶民が間違って使って、
一里塚なんかにも「中仙道」と
書かれたりして広まっているんでそうです。
ネットに書いてありましたが
「旧中山道」と字を見たアナウンサーが
「いちにちじゅうやまみち」と
読み違えたこともあったそうです。
ここは「旧渡辺家住宅」です
「いちにちわたりあるくへんないえのじゅうたく」
ではありません。
18世紀中ごろに建てられた
諏訪高島藩の武士の家です。
県宝だそうですので、
入ってみようと思ったら・・・、
なんと「冬季休館中」だそうです。
ひゃあ~、こんな時期に
中山道を歩くなんて人はいないのかなあ。
この「冬季休館」はこのあと
ところどころで見ることになりました。
そうそう、ちなみに、
この住宅で育った人から
なんと3人の大臣が生まれているそうです。
なおかつこんな道を歩き続けます。
日陰の部分にはまだ雪の塊が
残っていたりします。
これが岡谷の防火貯水槽の石です。
雪の中でも目立つようにでしょうか、
大きくて派手なデザインですねえ。
そして、おお~ついにこんな石の
道標が出てきました。
「中山道」と書かれています。
岡谷と下諏訪の境界を流れる
「十四瀬川(じゅうよせがわ)」の
歩行者橋のところにも石が立っていました。
うんうん、街道筋はやっぱりこうじゃないとね。
それを渡り進んでいきますと、
こんな標識もあります。
これはアットホームですねえ。
と言ってもかなり細い道です。
突き当りにはこんな感じで
まだ手作り標識が続きます。
この標識の後ろが
「砥川(とがわ)」といいます。
中山道沿いの旧跡の一つとして
諏訪大社下社春宮のあるところを
抜けて流れてくるかわです。
では、ここで、その諏訪大社下社の方へと
大門通りを左折していきましょう。
と、ここで諏訪大社について
ちょっと紹介しておきましょう。
諏訪大社は「諏訪湖」の周りに
4カ所の境内地を持つ神社です。
諏訪市の上社本宮、茅野市の上社前宮、
下諏訪町の下社春宮と下社秋宮です。
全国の諏訪神社の総本宮となっています。
そういえば神戸再度山登り口にも
諏訪神社がありましたねえ。
上社が「建御名方神」(男神)を、
そして下社は「八坂刀売神」(女神)を
主祭神としているそうです。
この四つの神社にまつわる大きな祭りが
申と寅の年に行われる「御柱祭」で、
これは4つの上諏訪の神殿の周りに建てる御柱を、
坂道なんかを転がしなら運んでくる、
日本三大奇祭りのひとつなのだそうだ。
ん?申の年、
そういうたら今年は御柱の年ですねえ。
本番はもう少し暖かくなってからのようです(4月から5月頃)。
大門通りを北へ向かっていくと、
途中こんな「小社」があったりします。
下諏訪には諏訪神社に関する
小さな社が結構いっぱいあって、
「小社」と名付けられています。
とそうしているうちに、
前方の道の突き当りに
大きな鳥居が見えてきました。
あれが諏訪大社下社春宮です。
どんどん近づいていくと、
そこにあったのが「下諏訪温泉」です。
どうもこの辺りには、
各地で温泉がキラキラ湧いており、
それを利用した銭湯がたくさんありますし、
こんな足湯も各地で営業されております。
近くに大きな温泉があるわけでもないのに、
下諏訪の地勢はなかなかユニークで
不思議な感じのする処です。
わくわくと続く
やはりいろんなところを歩いていると、
どうしても気になるのは
昔からの街道の一つ
「東海道」や「中山道」だ。
中でも中山道は山国を抜けて行く街道と
いうことでなかなか興味深い。
実際に歩いたこともあるんですよ。
例えばこれまで歩いた山道が
知らないうちに「中山道」だったり、
街歩きでも、先日は滋賀県草津に行って、
中山道の西のほうも歩いたり、
三上山の下りでもふと気が付いたら
中山道を歩いていた
ということもありましたな。
そんな中山道をぶらりと眺めたいなあ、
そして少しでも歩いてみたいなあ
という気持ちと、
温泉でも入ってのんびりも
しに行いきたいなあという気持ちが
ここんとこ重なってきていて、
ついにこのたび急きょ長野県行きが
決まったのだった。
しかし車で行くと、
doiron一人の運転ということで
これはちょっと辛い。
こんな雪国の空ということもあるしね。
なので、今回は久しぶりに
電車で出かけることにしたのだった。
大阪から名古屋まで新幹線、
名古屋からは特急しなので
長野を目指すという旅だ。
う~ん、こんな旅行は若い時に
長野の山を登って以来のこととなるだろう。
現在息子は長野に住んで生活をしているが、
たまに帰ってくるときに
こういう電車で帰ってくることが多い。
今回はそんな息子に
会いに行くたびではないのだが、
彼が乗っている電車に揺られつつ
旅行してみるのもいいだろう
ということで、こんな旅としたのでありました。
出だしは長くなってしまいましたが、
ではそんなdoiron家のこの春の旅を、
街道歩きを中心に
ちょっとブログにつづってみることにします。
電車ということで、
今回の旅の一番の特徴が、
移動が非常に楽ちんであることだ。
名古屋で買った駅弁には、
もれなくビールがついてきたのだよねえ。
列車は木曽川沿いを走り、
途中いくつかの駅にも止まる。
山方面に入ってから木曽福島の辺りは
かなり雪深い状態である。
ああ~、車じゃなくてよかったなあ。
塩尻の駅で信濃を降り、
諏訪まで移動をする。
そこに知り合いがいるので、
尋ねることにしたのだ。
そしてそこで一泊し、
翌日さっそく街道歩きをすることにした。
しかし、それにしても気温は非常に低い。
この日はマイナス5度ほどの気温だった。
マイナス五度~
なかなか大阪にいて
感じられる気温ではない。
いつもの街道歩きより
セーター1枚ほど多い服装であったが、
体が心底冷えるような寒さだったなあ。
そんな中を歩くコースは
岡谷から下諏訪までの区間だ。
写真じゃわからないだろうが、
体がピーンと冷えた状態で、
道端に泊まっている車の
フロントガラスも凍っていたぞ。
また家の庭先の植木には、
こんなワラボッチも
かぶせられた状態だ。
さすがにこんな景色は
関西ではほとんど見られないなあ。
ここは、横河川の小東橋です。
諏訪湖にそそいでいく川なんです。
今だと山の雪解け水が流れているんですかねえ。
で、その川の流れを見ていたら、
あれ?
遠くの山の稜線の上に
何かが見えています。
おお~、富士山ですねえ。
あの立派な山の稜線が
くっきりと浮かび上がっておりました。
そこから町中を歩き、
伊奈道に出て東堀天満宮を曲がる辺りから
「中山道」の表示が現れます。
小さな川の流れに沿って
くねくねと続く
いかにも街道っぽい道が始まりました。
道沿いの家で目立つのは、
結構大きな倉庫を持つ家が多いです。
そんな倉庫の壁面には、
自分ちの名前や「紋」が入っています。
おっ、猫が昼寝してるよ~
この猫はのんびりしてますね。
歩いて近寄って行っても、
半分寝たような顔で、平然としております。
「もう春かなあ」なんて思っているのでしょうか。
続く。