ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

ドジ旅日記 巨大生物の陰謀編 プロローグ

2016年03月21日 20時19分49秒 | ウォーキング

ジダンとのドジ旅日記も
今回でもう第5弾目となった。

これまでは柳生一族、近江商人、
明日香人そして梅雨前線の陰謀との闘い
と続いてきたのである。

さあて、ではいよいよ待ちに待っていた
友ヶ島での戦いが始まるかと思ったら、
これまでのインフルエンザや
台風の猛威に何度も阻まれていたこの計画が、
今度も新たにdoironの脳梗塞に阻まれる
という事態にはまってしまったのだ。

恐るべし友ヶ島



度重なるそんな強烈なハプニングのため、
延期を余儀なくされていた友ヶ島である。
きっとその島には我々にきてほしくない
という強い陰謀か、
あるいはさりげない神の意志か、
我々を遠ざけようとする何かがあるにちがいない。

きっと今は何か我々を拒もうとする
大自然の意志が働いているのだろう。
なので常に情勢をよく眺めながら、
いつかきっとここという時期が来たら
再度挑戦することにすることにしといてやった。

とすると、このままいけば
なかなか新たな陰謀との
闘いを始めることができないではないかというと、
そうではない。

おじさんブロガーに襲いかかる陰謀は
周りにいくらでもあるはずだ。
ただdoironが病後快癒するであろうとみられる半年を
まだもうちょっと抜け切れていないということで
今回は若干近辺、大阪市内に
そびえる巨木をブラタモリではなく
ブラドジ旅で訪ねつつ、
3月のこの時期だからこそ
大阪にそびえる巨大生物の陰謀も
視野に入れながらというコースを
ジダンが選んでくれたようである。

若干、二人がとらえた陰謀には
違いはあるようだが
まあ、この年になったら
胸に訪れる想いには
いろいろと誤差は生まれてくる。

こちらもあわせてどうぞ

http://blogs.yahoo.co.jp/zidanekantoku

そうして、二人とゲスト中心のブログ旅であるところの
新たなドジ旅第5弾が始まるのである。

ではその「3月大阪の巨大な陰謀」とは何なのか。

それは明日からのブログを読めばわかるよ~

主演  ジダン&還暦直前doiron 
出演  セイゾー、住吉区、東住吉区、平野区の皆さん
ロケ地 大阪市内の寺院・お寺・公園など
ロケ日 平成28年3月12日 

そう、それはdoironが還暦を迎える直前の
歩行となった、春まだ浅き大阪での出来事であったのだ。

続く


大阪ぐるっと平八郎 4

2016年03月20日 21時41分53秒 | ウォーキング

府警の前には警察官が何名も待機しています。
警備なんでしょう。
ここも昔は、ある犯罪の取り締まりで
2日間、証人として警部と警部補に囲まれて
証言したことがありますなあ。

以前の古い庁舎でしたけどね。

その庁舎を過ぎると、
歩道の真ん中に大きなクスノキが見えてきます。



そこが「大阪舎密局(せいみきょく)跡」です。



これは何なのかといいますと、
物理化学を専攻する人の学校でした。
舎密(せいみ)とはそう、
あのケミカルのケミとよく似た意味で
ついているんですね。

明治二年に開校した時には、
この楠はすでにここに立っていたそうです。
少なくとも150年は立っているんですね。



いろんな巨木を見てきましたが、
そうですねえここのクスノキは
2~300年くらいの木のように思えます。

大阪市内でもお寺や神社にも
大きな木が残っています。

ここんとこしばらく止まっていた
ドジ旅では市内の住吉区、東住吉区、
平野区辺りの巨木巡りを計画しており、
その旅は間もなく始まることに
なる予定ですからお楽しみに~。

そこを過ぎたら谷町筋も通り抜けて
松屋町まで進んでいきます。



そこにあるのが「マイドームおおさか」です。



この施設の南側には3人の銅像が立っています。



「五代」「土居」「稲畑」。

大阪に大きな功績を残してきた人たちだそうです。
それぞれ大阪商工会議所の
会頭をされた方たちなんだそうです。

この銅像の奥にあるのが、
「若宮商工稲荷神社」です。



大阪の将校を支えてきたんでしょうねえ。

この神社の狛犬が面白い。

普通狛犬は「阿吽」の呼吸なんですが、
ここの狛犬は両方とも
口を大きく開けています。
きっと、商売の神様は「吽」ではなく
「阿」でこたえよといったのではないかと、
まあこれは勝手に推察です。



西町奉行所跡の碑は
この辺りにあるのではありません。

皇族が来られた碑の向こうに





建てられてありました。



何でもこの地は、
初代の大阪府庁跡でもあるそうです。
役所跡にはそれらしい建物が
残っていくんですねえ。

平八郎の乱はこっそり進んでいたのに
結構の日は内通離反者が出て、
彼がもといたこの奉行所も
彼らの押さえに回るのですが、
それでもここから天神橋にかけての
米屋や豪商を打ちこわしているそうです。

結局平八郎の乱で
天満を中心にかなりの数の建物が焼け、
大阪の人口36万人のうち、
約7万人が焼け出された
といわれています。

この後はその天神橋に向かって進んでいきます。

ここがその天神橋。



この橋の昔の銘板が
星合の池にあったあの橋ですね。

ここから、川に沿って下っていきますと
難波橋にやってきます。
あの有名な「ライオン」のいる橋ですな。
これ。



じつはこのライオンの兄弟が
和歌山の料理屋にあることがいわれています。
一度見に行かなくてはなりません。

この難波橋のところから
中に入っていきますと。
こんな旧鴻池家の本宅後の碑なんかにも出会います。



そして、この先あったのが、
あの「緒方洪庵」が開いた適塾の跡です。





当日は、なにかテレビの取材があったようで
カメラマンたちがうろうろしていました。

なにか放送があるのかなあ。

やがて道は御堂筋へと出てきます。
ここからスタートした淀屋橋はもうすぐです。
あるいたコースはこんな感じ。



救民を旗印にした「大塩平八郎」の乱は、
こんな大阪市内を巡り歩きました。

30年後の明治維新を予知させるものとして
活躍した彼らの「乱」は
いろんな形で今の世にも
痕跡を残しているということを知った歩きでした。

おわり。


大阪ぐるっと平八郎 3

2016年03月19日 21時30分42秒 | ウォーキング

喜多方ラーメンで、
お腹も幸せになったdoironは



境内のいろんなものを見たあと








お祈りもちゃんとしながら



天満宮を出て東の方へと歩き始めます。



ここが「星合の池」です。



949年に天満宮が御遷座になったときに、
この池の水に霊光が映ったとされる池です。
霊光って何だろう。
辞書で調べたら、神秘な光みたいな感じでした。

池の中にはカメの姿が見られたと



こんな石が置かれていますが、
心配いりません。
ちゃんと生きたカメも生息しています。





またこの池の端には、
昔の天神橋の銘板が置かれています。



あ、そうそう喜多方ラーメンを
食べてこなかったら、
ここできっと「すべらんうどん」を
食べてたかもしれませんな。

そんな池を出てさらに進んでいきますと
天満別院の辺りで、
ふと電柱の陰に隠れていた与力・・・
じゃなかった警察官と遭遇しました。

道に敷かれた「一旦停止」の違反の
検問中でありましたよ。
ああ~驚きました。
おでこに霊光が指したかもしれません。

でも、doironは歩行者ですからね、
一旦停止してませんよ。
携帯見て歩いているのも、
地図をパラパラしながら歩いているのも
問題ないですね。
あ、カメラ?もし
「何を撮影してるんや」と追及されても、
写っているのは石碑や池の亀くらいですからね~。

まあ、結局何も言われなかったのですが、
やはり突然の出会いだったので
ドッキリしました。

そっから谷町線をこえた
小学校の入口にあるのが、
この「川崎東照宮跡」だ。



あの徳川家康を「東照大権現」と名乗り、
各地に権現さんを立てた。
これは豊臣氏を敬う大阪の人々の想いを
薄れさせるために建てたといわれている。

実は、この東照宮こそが、
大塩平八郎たちの「乱」の
集合地点なのであった。



この東にある今は造幣局の辺りに
大塩邸があったそうだ。

その造幣局の横に「大塩の乱槐跡」がある。



乱のときに彼らの砲弾で裂けた
樹齢200年の槐が枯死した
といわれる場所である。

さて、ではここから彼らが
与力として仕事をしたという、
東西の大阪奉行所の跡を目指していきましょう。

あ、今年の造幣局の
桜の通り抜けの日程表がありましたし、



こんな物販店もありました。



時間のある方はぜひどうぞ。

さて、では道は東天満交差点から
谷町筋を南下していきます。



そして、天満橋を渡り



大塩は38歳まで与力を務めた
東町奉行所は、谷町1丁目交差点を左折し、
大阪合同庁舎を過ぎそうになったところで、
道沿いに小さな看板になって立っていました。



そういえばこの合同庁舎には、
テレビがアナログからデジタルに変更になるときに、
研修を受けに行ったことがあります。

むむ~仕事は昔の奉行所の
延長なのかもしれません。

ほかにも何度も来たことがあるのになあ、
こんな石標が立っていたことは
この日初めて知りました。



大正8年に大阪府によって建てられたんですねえ。

こういう跡碑は誰のどんな意思で
残されるのでしょうか。

建築基準法や文化財保護法で
何か決められた条文でもあるんでしょうか。

その辺のことはよくわかりません。

そこからしばらくは大阪城公園の中を
進んでいきます。



平八郎は造幣局の辺りにあった
自宅に火を放って決起し、
与力町を襲撃した。

そのあとは難波橋を渡り船場界隈を
襲撃したというから、
この辺りは全く乱の影響は
受けていないところです。

堀沿いの道を進んでいきますと、
時間的には昼休みですから、
仕事の合間にランニングをしている
といった人が大勢いましたし、
もちろん外国人の方たちも多くいます。

この辺の昼休みの景色も、
昔に比べたらかなり変わったんでしょうねえ。

大手門を過ぎたあたりの右手は



大阪府警と



NHKなどが並んでいます。



その間の道を西向いて進んでいくことにしましょう。
続く


大阪ぐるっと平八郎 2

2016年03月18日 20時49分29秒 | ウォーキング

こっからは寺町通を東進します。



途中潜り抜けたのが、
あの日本一長い商店街でした。



寺町通はむかし、奉行所の与力が
住んでいた場所であり、
町名も「与力町」になっています。

古い街ですから、お寺もいろいろとあります。
これは「山片蟠挑墓所」。



山形は大阪の大豪商で、
こんな辞世の句を読んでいる。

「神、仏 化物もなし 世の中に 
奇妙ふしぎ のことはなおなし」

そしてもう一つの辞世の句もある

「地獄なし 極楽なし 我もなし 
ただ有る者は 人と万物」。

鎖国の時代に地動説を説き、
世の出来事にはみなわけがある
と言ってたそうで、
町人学者の呼称も受けている。

彼が亡くなったのが1821年であるので、
大塩の乱より15年前に亡くなっています。

その人の墓がこの善導寺なんだそうです。

そしてこの善導寺にはもう一人、



天下の尺八奏者「近藤宗悦」の墓があります。

尺八の音楽家で、
高年は勤王志士で虚無僧に扮して
連絡役を果たすなどの役割もしたそうだ。

大塩の乱よりも少し先の出来事である。

そして、ここが「緒方洪庵」の墓所がある龍海寺である。



大塩の乱が起こったころは
九州にいたが、同じ時代に生きて
彼は近代医学の走りを支えた。

その墓地はここだが、
今回の歩行の最終場面近くで出てくる
「適塾」を開いた人でもある。

そしてここが日本で初めての
感化院が設けられていた跡という。



ビルの隙間にちょこんと石が立っていました。

「池上雪枝」は、
「青少年更生事業の母」あるいは
「少年感化の母」と称されるひとで、
子どもの感化院では
神道に基づく国家観や宗教観を教えるとともに、
石鹸や洋傘製造なども教え、
若い人に自立の機会を与えたという。

まあ、若い人にこういう機会を与える
というのは立派なものである。
今なら、社会から退職した年寄りに
生きていく機会を教える、
老年感化院なんかあっても面白いかもねえ。

それはまあさておき、
この辺りには幕末に活躍した
歴人のお墓があったりするのだが、
残念なことにどのお寺も
こんな風に入り口が閉まっているんだよね。



そりゃあ、声をおかけください
という表示もあったりもしましたが、
いちいち呼び出すほどのこともないので
ピンポンできないわなあ。

とにかくまあこの辺りには
命かけて庶民の救済に走った平八郎の他、
様々な世界の要人が多くいたようです。

そこから1号線に出て歩いていくと、
おお~お昼前にこういうお店の前を通ります。



大阪国際女子マラソン応援時に
満員で入れなかった得得うどんです。



む~あの時の悔しさをはらすべく
入ろうかと思いましたが、
このあとにぎやかなところに出るしなあ、
ぐぐぐっと我慢しました。

そのにぎやかなところというのが、
ここです。



大阪の人たちに「大阪天満の天神さん」
と慕われている「大阪天満宮」です。

その境内に近づいていきますと、
そこにあるのが「天満天神 繁盛亭」です。





上方落語協会に就任した
「桂三枝」(現在6代目桂文枝)が
落語会を行える空き店舗を
商店街側に依頼したところから始まり、
最終天満宮の土地を借りて
落語専門の定席を新設することになり、
2006年に完成したものだ。

最近の落語は特に若い女性に人気だそうで、
席はいつもにぎわっているそうだ。

そこから神社の方に向かっていきますと、
テントが並んで立っていたりして
賑やかそうです。



案内を見てみると「天満天神梅まつり」の最中でした。

日にちはあの東北震災の一日前の3月10日。
そう、先ほど得得うどんを我慢してよかったです。
東北グルメ市があって、
そこで喜多方ラーメンを
いただいたdoironなのでした。



続く


大阪ぐるっと平八郎 1

2016年03月17日 21時48分22秒 | ウォーキング

江戸時代後半、
大阪の奉行には30騎の与力がいたそうだ。

そのうちの一人であり、
陽明学者でもあった東町奉行所の元与力
「大塩平八郎」は、
江戸幕府に対し大飢饉が深刻化する中、
庶民の救済のために反乱を起こしました。

実際の幕府の役員が反乱を起こすのは
「島原の乱」依頼200年ぶりのことであったそうです。

今回はそんな大塩平八郎ゆかりの地を中心に、
大阪天満・北浜界隈を歩いてみました。

出発は、大阪市役所のある淀屋橋。

そこから市内をぐるりと歩いて
また淀屋橋に帰ってくる
というコースを選びました。

さあ、それでは地下鉄に揺られて
淀屋橋で降り、歩き始めましょう。



この淀屋橋の駅の出入り口は好きですねえ。
市役所のビルをバックに
川も近くにあって、
店もあって都会でありながら
こてこての風情をそこはかとなく感じます。



この淀屋橋は豪商淀屋に由来するところから
この名前が付いた橋である。

今の橋は昭和10年に建てられたというから、80年が立つ。
還暦を迎えたdoironよりも年上なのだ。



コンクリート製の橋に
御影石が張られたきれいな橋だ。

戦争にも耐えてきたんやねえ。
8年前には国の重要文化財に
指定されているそうです。

そんな景色を撮影しながら
わたっところが大阪市役所。



ま、ある意味いってみれば
今風与力の奉行所みたいなもんですかね。

それを越えると、今度は堂島川にかかる
「大江橋」を渡ります。



先ほどの淀屋橋同様に
御堂筋拡幅時に作られた橋で、
当時としては珍しく、
デザインが公募された橋なんだそうだ。

なおも道をまっすぐ北に向かっていくと、
天下の国道1号にであうので、
それを右折して東向いて進んでいきます。


このまま歩き続ければ
東京に着くんだろうが、
今回はさほど遠出せず、
南森町の駅のところに出て
北を向いて左折します。



そうここでやっと
大塩平八郎の関連場所に
出てくることになるのです。

最初はいきなり、彼の墓なのです。



もともと東町奉行所の与力であった平八郎は、
天保の飢饉が深刻化する中、
市民の救済をするわけでもない
町奉行の怠慢に怒り、
自分でそろえた武器等で、
救民を旗頭に与力や豪商に
大筒を打ち込んで回ったそうだ。
それがどのように救済につながるのかは
微妙かもしれませんがね。

1837年の旧暦2月19日のこの乱を
「大塩の乱」と言います。

その大塩と養子・格之助の墓があるのが成正寺です。



そしてここには
「大塩の乱に殉じた人々の碑」もあります。



平八郎が蜂起したときには、
その檄文を見た農民も参加し
総勢は300人以上が集まったとされています。

結局その乱はすぐに敗れるのですが、
その時の平八郎の檄文は
広げたらだめだという国の意思があったにもかかわらず、
口語文で伝わり、
日本国内にどんどん広がり、
広島や新潟県、能勢などで
乱の発生につながっていったということでした。

30年後の明治維新を
予知させる出来事だったといわれています。

また天神橋通りに沿った蓮興寺もまた、
大塩家の墓地と言われました。


平八郎の祖父、祖母の墓も
ここにありました。

そんな風に平八郎が世間に与えた影響は大きく、
なくなるときの自決で
顔が全く分からんような
遺体になっていたといいます。

だから、もしかしたら
彼は死んでいたのではなく、
本当は生きていて、
黒船にのって後の世にやってきた
とかいろんな噂が起こったようです。

いずれにしても、
当時の大塩の行動が
多くの民衆の支持を得たことがよくわかりますし、
逆に言えば町奉行所や当時の豪商のやり方が
きれいなものでなかったことがよくわかります。

大塩の乱の関連地と
当時の大阪の特徴ある地を
中心にぐるぐると回っていきましょう。

続く。


電力供給先変更

2016年03月16日 21時01分13秒 | 生活

2016年4月から電力会社に
卸電力を供給する発電事業者(IPP)から
一般家庭でも電力購入が可能になる。

まあ、行ってみれば電力を
どこから買うか自由になるわけだ。
こちらとしては何も電力関係を
いじる必要はない。
単に契約をどことするかで
電気料金などの支払先が変わったりするだけだ。

そもそもこの電力自由化は
他の国でも行われていて
電力の低コスト化につながっていったかというと
残念ながらまだそういうことはない。
どちらかといえば、高コスト化している
といっても過言ではない。

ではなぜ、こういうことが起こるのかというと
日本ならうまくいくだろうという構想と
うまくいかなくても大手の企業は
喜ぶだろうという構想が絡み合って
こういうことになってきたんだろう。
まあ、将来のことはまた考えるとして
さて、こうなった以上は
消費者としてできることはしておきたい。

では、どこから電気を買うのが一番いいか。

これはネットのアプリなんかで
シミュレーションできる仕組みが
もうできている。
電気事業者はどんどん増えているので
アプリも進化しつつあるが
doironが実際に比べた時には
まだ手を挙げている会社はさほどなかったのだ。

結局5社ほどで計算をしてみたら
どこが最も有利だったかというと

「東電」

ということになった。
電気契約でいうと
月約2000円
年間2万円以上が安くなるという計算だ。

早速必要書類を用意して
(といってもさほどたいそうではない。
一番手間がかかったのは住民票かな)
すぐに契約をすることにした。

まあ、この電力自由化が
どういう状況を生み出していくのかはよくわからないが
しばらくはこうして与えられた情報を
駆使しながら対応してみるほかはない。

東電といえば、やはり原発である。
そのやり方にいろんな批判もあるだろうけど
あの原発の事故に心底向き合っているのは
彼らである。
最も効率的ないい方法で
doironの支払う電気料金が
いいように使われることを期待したいと思っている。

え~なので、4月からのブログは
東京電力の電気で流すことになります。

もし、言葉がきれいな標準語に
なっていたりしたら
それは東電の影響じゃからね~。


これは天下の西大寺 3

2016年03月15日 21時19分12秒 | ウォーキング

結局、称徳天皇は思ったような
八角形の塔は作られないまま
西大寺は運営されていきました。

また政治の方も、
孝謙天皇から1代の淳仁天皇を経て
再度天皇となった称徳天皇は
道鏡との二曲政治を経て
権力を高めていこうとしましたが、
それもかないませんでした。

ある時山から石垣用の石を
切り出そうとしたときに、
その石が大きな声でないたそうで、
その時以来、称徳天皇は
病に臥せってしまいます。

これはまさにその石の祟りだと
周りの人たちは騒いだそうで、
その石を割り鎮めようとして
西大寺のわきに「石落神社」を立てて
鎮めようとしました。



それが今も西大寺の脇に残っています。



参道の端っこにある小さな石が
その石なのかもしれません。

しかしそれでもその石の祟りは鎮まることなく、
称徳天皇は何の医療行為もされぬまま、
静かに息を引き取ったそうです。

あれだけ壮大な寺院の設計を夢み、
多くの人々を動かした天皇も、
最後はあっけなく命を失ったそうです。
西大寺の北にある御陵で
今は静かに眠っておられます。

そうして西大寺を出ますと、
今度はさらに南の称徳天皇の父である
垂仁天皇の御陵や
唐招提寺、薬師寺と道はつながっていきますが、
今日はこのあと菅原天満宮をまわって、



そこまでとしました。

歩いたのはこんなコースです。



というのもその日は田原本で開催される
「和太鼓大会」の観劇に参加する予定だったので
そちらへと向かうことにしたのでありました。

西大寺の駅まで戻り、
まだ食べていなかった昼食を
駅の立ち食いうどんですまし、
待ち合わせの八木駅へと向かいました。

その日、和太鼓演奏会を開かれたのは

「田楽座」。

信州は伊那谷に誕生した歌と踊り、
太鼓や舞などの民俗芸能を今に伝える集団です。

普段は何かの仕事をしながら、
これに携わっているんではなくて、
これを仕事とし、芸能一本に携わっている
プロ集団です。



舞台に入ると演劇場には
小太鼓、大太鼓がおかれ
そしてそのすぐ前がもう観客席です。



太鼓はだんじり祭でも使われるので、
見慣れていますが、
じっと見ていたら皮の厚さが
こちらのほうがだいぶ厚みがありそうに思えました。

ホールの同じ床の上で
ライブ形式で行われるようです。



友達が持参してきてくれた座布団を敷きながら、
その出番を待ちます。

最初の演題の「打ち出し」が始まると、
もう目の前には別の世界が広がります。

途中、獅子舞やとりさし男の奮闘劇もあり、
音楽や踊りでわれわれの目を奪います。

まあ、行ってみればいかにもプロの
張りつめた芸が我々を魅了するわけですな。

床をつうじて腹に響いてくるような
和太鼓の音、
そして和太鼓を打つときの
メンバーのしぐさの一つ一つが
研ぎ澄まされています。

鐘、笛、小太鼓、大太鼓にこもる思いを
存分に聞かせていただきました。

演目時間は一時間。

あっという間に終わってしまいましたが、
音楽だけでなく演じる人たちの
熱い思いは十分に伝わりました。

今、日本で和太鼓を用いた
演劇クラブはいくつかあると、
この劇を教えてくれた人が話してくれました。

しかし、どのクラブも楽に運営されているわけではないでしょう。
練習をし、苦労もするけど
やはりこの熱い思いを伝えたい
という気持ちが彼らを支えているのでしょうね。

聞こえていたのは、
大音響の音楽だけではありません。

その合間に響く彼、彼女らの熱い鼓動が
轟いていたように思います。

この日は一日doironにとって、
春まだ浅き奈良の町を歩き
いろんなことを学び、
そして心から演劇も楽しんだ
いい一日なのでありましたとさ。

終わり。


さて、還暦を迎えました

2016年03月14日 21時41分40秒 | 最近の出来事

本日、ついに還暦を迎えました。
60年間もよく生きてきたものです。
ていうか、2度ほど死んでいますが、
まあ何とかよみがえりこうして
還暦ブログを書く日を迎えたのは、
ラッキーな人生だったということでしょう。

そんな還暦に向けて、心のこもった
記念品をいただいたみなさん、
本当にありがとうございました。
みんな、大切な記念品として
大事に大事に使います。

しかしそれにしても60年。

こんな時代に生まれたからか
ひと時代前ならもうとっくに生きていないだろうし、
すっかり寿命を迎えていても
おかしくない年なのにねえ。

学校出て
就職して
結婚して
走り出して
仕事を辞めて
二度ほど死にかけて
それでも
気が付いたらまだ生きていました。

若いころはこんな還暦の日の来ることは
全然予測もしていなかったのにねえ。

やっぱりやってくるんですねえ。

60年もたてば石の地蔵だって
顔がよくわからんような姿になっているでしょうにね。
それに60年の間、途中、大した道標もなく、
自分の想いを中心にして
好きなことをやらしていただいて、
ここに着いたって感じですね。

これから先、どうして生きていくの
ってここにきて自分に問うてみると、
はてさて、もうすっかり新しい
老後の人生も知らない間に
道がいくつもできていて、
これまで同様ヒタヒタと
生きていくしかないんだとおもっています。

それにさあ、
最近はもうどんなことにも
あまり不幸を感じたり、
困ったなあと不足を抱くこともないかなあ
なんて思ってしまうのも、
この年を迎えたいいところなんでしょうね。

とにかくまあ、
60年という暦のひと巡りもありましたから、
またじっくりと一からに戻った暦の中で、
ここからの自分と、
のんびりゆっくり付き合っていくしかないんだなあ
と考えた還暦doironの一日なのでした。


これは天下の西大寺 2

2016年03月13日 20時35分31秒 | ウォーキング

この辺りは歴史的風土に関する
特別保存地区に指定されていますので、
いろんな開発地域の保全に関して
細かい規制が設けられています。



タチションでもした日にゃあなた、
獄門さらし首になりますな。



二つの御陵をまわって



静かな村の中をしとしとと回っていきますと、





秋篠川沿いの広い民地に出ます。



ここで見られる御陵が、
これも八木のところにあった
「称徳天皇高野陵」です。



称徳天皇は第48代天皇です。
もちろん実在もしました。



その天皇陵のある所の交差点の名前が
「孝謙天皇御陵」と
いう名前がついています。

そう、この第46代孝謙天皇と
第48代称徳天皇は同一人物です。

聖武天皇を父とする女帝なのです。

彼女の仕事のひとつはというと、
父である聖武天皇が設けた東大寺に対して、
この後に行く西大寺を発眼したことでした。

道鏡や吉備真備を従え、
個性的な政治をしてきた称徳天皇でしたが、
最後は石の魔力に取りつかれ、
静かにひっそりと
息を引き取ったそうです。

彼女を取り巻く様々な人間模様は、
多くの人に取り上げられ、
ドラマや小説にもなっています。

そんな彼女の御陵を眺め、
秋篠川に沿った道を北上していきます。

で、秋篠川なんですが、
この名前を聞いたら現在の皇族の
「秋篠宮」を思い出しますねえ。

それとやっぱり「秋篠寺」といえば、
あの伎芸天女のお顔は忘れられません。

その秋篠寺への交差点がここなんですが、



この日はちょっと目的が違うので、
訪れることなく道を
南の方へと向かいます。



この辺り町名に「秋篠」がついていたりして
なかなかいいもんですねえ。

西大寺北1丁目の交差点を過ぎたところで、
狭い道へと入っていきます。



この先にあったのが



「十五所神社」です。



もともと西大寺周辺にあった
小社15カ所を集めた神社となりましたが、
今は大正3年に別雷大臣を迎えて
16神からなっています。



小さな神社ですが
長く続く参道が印象的です。



その参道を南下し、



近鉄奈良線の踏切を渡ったら、



前方に見えてくる大きな壁と緑が
いよいよ西大寺です。



その壁沿いには「歴史の道」の石碑が
いくつも立ち、
「秋篠寺」「西大寺」の案内をしております。



もともとこの西大寺は、
東大寺に対して建てられたもので、
当初は甲子園13個分以上の
敷地があったのですが、
何度かの衰退を経て
今のサイズになっています。



さあ、入っていきましょう。



まずは、境内案内図で地図を確認です。
そこからずっと入っていきますと、
謡曲「百萬古柳」の遺跡や



僧侶がお経を読んでいる
護摩堂なんかを通り過ぎます。



そして奥の本堂のところに出てきますと、



やはり一番目立つのが、
東塔の建設跡である。



西暦1502年に焼失し、
今もその塔跡のみが残っている。



おや?でも塔石の周りの敷石も形が変ですねえ。
八角形をしています。

昭和31年の発覚調査で
この塔跡に残っていた台石から
巨大八角形の塔が計画されて
いたことが分かったそうで、
そういう形に整えています。

奈良時代のこの塔の建設を考えていたのが、
このお寺の発眼者である
「孝謙(称徳)天皇」でした。

お寺に残っている文章などから、
ここには平城京宮最大高さの
不思議な塔が立つ予定でした。

大仏の東大寺、そして巨大建築の西大寺が
平城京のシンボルとなる予定だったのです。

それは最後の女帝として
孝謙天皇が力を示すための
取り組みの一つだったということです。

当時、中国には八角形の大きな塔がありましたが、
日本にはこんな大きな八角建物はありませんでした。

釘を使わずにこれらの建物を建設するためには、
複雑怪奇な木組みが必要となります。

しかし、その建設技術は
その時代にはまだなく、
西大寺塔は計画倒れで
結局は4角形の塔となってしまったわけです。

称徳天皇にしてみれば
残念で仕方なかったことでしょう。

本来もしここに八角形の塔が立っていたら
という映像が作られ、
NHKで流されたことがあります。
それがこれです。



続く


これは天下の西大寺 1

2016年03月12日 21時24分16秒 | ウォーキング

さて、今度は奈良を歩いてきました。

少し前に奈良駅から佐保・佐紀路を歩き、
西大寺駅まで歩いたことがあります。

そんな奈良といえば
大勢の観光客のあふれるところですが、
佐保・佐紀路にはほとんど人もおらず、
初めて佐保姫や狭穂姫のことなんかを
しっかり学んだ静かな道でした。

そしてその道は終盤には
あの平城京へと続いていく道で、
古都奈良の風情をたっぷりと
味わったいい道だったと思います。

しかし、その時はあまりに気持ちよくて
のんびり歩いたため、
当初の予定が狂い
西大寺そのものとその周辺の古墳地域までは
歩けずに終わってしまっていました。

今回歩いたのはその残った部分です。

東大寺に並ぶ西大寺と
そこに絡んだいろんな人たちの痕跡が
残された場所です。

いやあ、この関西のこの地に生まれ育って
よかったですねえ。
車でひと時、電車でチョコと動けば、
悠久の歴史の世界に紛れ込んでいくんですねえ。
では、今回は電車で大和西大寺駅を目指しましょう。



スタートは10時30分。
ナビを入れてさあスタートです。

駅を北側におりて、
東の平城京の方へと向かいます。

ここが秋篠川にかかる、





西大寺橋です。



この川の堤防を見ると、
こんな風に「称徳天皇陵」とか



「垂仁天皇皇后狭木之寺間陵」



といった、御陵の案内があります。

西大寺や沙穂姫に関連する人たちのことで、
やはり、佐保・佐紀道の続きのことだけありますね。

この二人は
後でしっかり登場します。
とりあえずはもう少し東の
二条町交差点まで進みましょう。



ここは、道の真ん中に
鎌倉後期の造立と言われる地蔵がある、
ちょっと変わった交差点です。



この交差点を北側に入っていく
狭い道に入っていきましょう。



この道はまっすぐ行くと
かなり細くなってきますが、



そのまま気にせず直進します。

「皇太子殿下御下記念」



と書かれた石碑や



夫婦地蔵らしき石造の立ち並ぶ
地蔵堂を眺めた後に、
左右に緑がいっぱい現れました。





この右側が、先ほど地蔵橋のところにあった
第11代垂仁天皇皇后の御陵です。





以前のブログでいうと垂仁天皇皇后といえば、
確か「狭穂姫」だったはず。

とおもったら、そうですねえ、
狭穂姫は兄の反乱に準じて
稲の炎の中で焼かれ死んだんでしたねえ。

なのでこの御陵の皇后は
狭穂姫の薨去の10年後に
次の皇后となった
「日葉酢媛命」の御陵なのでした。

垂仁天皇はその皇紀が99年もありました。
逝去されたのも日本書紀や古事記では
100数十歳と言われています。

したがってその史実性は疑われてはいますが、
実際に実在したという人もいるそうです。

長期間の天皇として、
大きな力はきっと発揮されたんでしょう。

例えば、景行天皇などを生んだ
日葉酢媛命の墓には、
実は一つ大きな特徴を持たせました。

それが、これまで人や馬の殉死が行われていた御陵に、
はじめて「埴輪」が使われるようになった
という墓にしたそうです。

佐紀路の狭穂姫、
佐紀路に眠る後期皇后「日葉酢媛命」。

歴史のかなたに眠る人々の様々な思いの痕跡が
この辺りにも残っています。



この日葉酢媛命の横が
第13代天皇である

「成務天皇狭城盾列池後陵」です。



日葉酢媛命の孫にあたります。

でもこの天皇も皇紀は60年。
同じく史実性には疑いがもたれています。

まあ、いわば実在が疑問視されているんですが、
それでもこんなに大きな御陵があるということは、
ここに何か偉大なるものがいて
その薨去をみまかったということが
あったんですねえ。

この辺りは、何となく世間とは
切り離されたような雰囲気が漂います。

なにか謎に満ちた、
そして激しい思いの満ちた
歴史の風土をへこへこと歩く
doironなのでした。

続きます。