江戸時代後半、
大阪の奉行には30騎の与力がいたそうだ。
そのうちの一人であり、
陽明学者でもあった東町奉行所の元与力
「大塩平八郎」は、
江戸幕府に対し大飢饉が深刻化する中、
庶民の救済のために反乱を起こしました。
実際の幕府の役員が反乱を起こすのは
「島原の乱」依頼200年ぶりのことであったそうです。
今回はそんな大塩平八郎ゆかりの地を中心に、
大阪天満・北浜界隈を歩いてみました。
出発は、大阪市役所のある淀屋橋。
そこから市内をぐるりと歩いて
また淀屋橋に帰ってくる
というコースを選びました。
さあ、それでは地下鉄に揺られて
淀屋橋で降り、歩き始めましょう。
この淀屋橋の駅の出入り口は好きですねえ。
市役所のビルをバックに
川も近くにあって、
店もあって都会でありながら
こてこての風情をそこはかとなく感じます。
この淀屋橋は豪商淀屋に由来するところから
この名前が付いた橋である。
今の橋は昭和10年に建てられたというから、80年が立つ。
還暦を迎えたdoironよりも年上なのだ。
コンクリート製の橋に
御影石が張られたきれいな橋だ。
戦争にも耐えてきたんやねえ。
8年前には国の重要文化財に
指定されているそうです。
そんな景色を撮影しながら
わたっところが大阪市役所。
ま、ある意味いってみれば
今風与力の奉行所みたいなもんですかね。
それを越えると、今度は堂島川にかかる
「大江橋」を渡ります。
先ほどの淀屋橋同様に
御堂筋拡幅時に作られた橋で、
当時としては珍しく、
デザインが公募された橋なんだそうだ。
なおも道をまっすぐ北に向かっていくと、
天下の国道1号にであうので、
それを右折して東向いて進んでいきます。
このまま歩き続ければ
東京に着くんだろうが、
今回はさほど遠出せず、
南森町の駅のところに出て
北を向いて左折します。
そうここでやっと
大塩平八郎の関連場所に
出てくることになるのです。
最初はいきなり、彼の墓なのです。
もともと東町奉行所の与力であった平八郎は、
天保の飢饉が深刻化する中、
市民の救済をするわけでもない
町奉行の怠慢に怒り、
自分でそろえた武器等で、
救民を旗頭に与力や豪商に
大筒を打ち込んで回ったそうだ。
それがどのように救済につながるのかは
微妙かもしれませんがね。
1837年の旧暦2月19日のこの乱を
「大塩の乱」と言います。
その大塩と養子・格之助の墓があるのが成正寺です。
そしてここには
「大塩の乱に殉じた人々の碑」もあります。
平八郎が蜂起したときには、
その檄文を見た農民も参加し
総勢は300人以上が集まったとされています。
結局その乱はすぐに敗れるのですが、
その時の平八郎の檄文は
広げたらだめだという国の意思があったにもかかわらず、
口語文で伝わり、
日本国内にどんどん広がり、
広島や新潟県、能勢などで
乱の発生につながっていったということでした。
30年後の明治維新を
予知させる出来事だったといわれています。
また天神橋通りに沿った蓮興寺もまた、
大塩家の墓地と言われました。
平八郎の祖父、祖母の墓も
ここにありました。
そんな風に平八郎が世間に与えた影響は大きく、
なくなるときの自決で
顔が全く分からんような
遺体になっていたといいます。
だから、もしかしたら
彼は死んでいたのではなく、
本当は生きていて、
黒船にのって後の世にやってきた
とかいろんな噂が起こったようです。
いずれにしても、
当時の大塩の行動が
多くの民衆の支持を得たことがよくわかりますし、
逆に言えば町奉行所や当時の豪商のやり方が
きれいなものでなかったことがよくわかります。
大塩の乱の関連地と
当時の大阪の特徴ある地を
中心にぐるぐると回っていきましょう。
続く。