ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

これは天下の西大寺 2

2016年03月13日 20時35分31秒 | ウォーキング

この辺りは歴史的風土に関する
特別保存地区に指定されていますので、
いろんな開発地域の保全に関して
細かい規制が設けられています。



タチションでもした日にゃあなた、
獄門さらし首になりますな。



二つの御陵をまわって



静かな村の中をしとしとと回っていきますと、





秋篠川沿いの広い民地に出ます。



ここで見られる御陵が、
これも八木のところにあった
「称徳天皇高野陵」です。



称徳天皇は第48代天皇です。
もちろん実在もしました。



その天皇陵のある所の交差点の名前が
「孝謙天皇御陵」と
いう名前がついています。

そう、この第46代孝謙天皇と
第48代称徳天皇は同一人物です。

聖武天皇を父とする女帝なのです。

彼女の仕事のひとつはというと、
父である聖武天皇が設けた東大寺に対して、
この後に行く西大寺を発眼したことでした。

道鏡や吉備真備を従え、
個性的な政治をしてきた称徳天皇でしたが、
最後は石の魔力に取りつかれ、
静かにひっそりと
息を引き取ったそうです。

彼女を取り巻く様々な人間模様は、
多くの人に取り上げられ、
ドラマや小説にもなっています。

そんな彼女の御陵を眺め、
秋篠川に沿った道を北上していきます。

で、秋篠川なんですが、
この名前を聞いたら現在の皇族の
「秋篠宮」を思い出しますねえ。

それとやっぱり「秋篠寺」といえば、
あの伎芸天女のお顔は忘れられません。

その秋篠寺への交差点がここなんですが、



この日はちょっと目的が違うので、
訪れることなく道を
南の方へと向かいます。



この辺り町名に「秋篠」がついていたりして
なかなかいいもんですねえ。

西大寺北1丁目の交差点を過ぎたところで、
狭い道へと入っていきます。



この先にあったのが



「十五所神社」です。



もともと西大寺周辺にあった
小社15カ所を集めた神社となりましたが、
今は大正3年に別雷大臣を迎えて
16神からなっています。



小さな神社ですが
長く続く参道が印象的です。



その参道を南下し、



近鉄奈良線の踏切を渡ったら、



前方に見えてくる大きな壁と緑が
いよいよ西大寺です。



その壁沿いには「歴史の道」の石碑が
いくつも立ち、
「秋篠寺」「西大寺」の案内をしております。



もともとこの西大寺は、
東大寺に対して建てられたもので、
当初は甲子園13個分以上の
敷地があったのですが、
何度かの衰退を経て
今のサイズになっています。



さあ、入っていきましょう。



まずは、境内案内図で地図を確認です。
そこからずっと入っていきますと、
謡曲「百萬古柳」の遺跡や



僧侶がお経を読んでいる
護摩堂なんかを通り過ぎます。



そして奥の本堂のところに出てきますと、



やはり一番目立つのが、
東塔の建設跡である。



西暦1502年に焼失し、
今もその塔跡のみが残っている。



おや?でも塔石の周りの敷石も形が変ですねえ。
八角形をしています。

昭和31年の発覚調査で
この塔跡に残っていた台石から
巨大八角形の塔が計画されて
いたことが分かったそうで、
そういう形に整えています。

奈良時代のこの塔の建設を考えていたのが、
このお寺の発眼者である
「孝謙(称徳)天皇」でした。

お寺に残っている文章などから、
ここには平城京宮最大高さの
不思議な塔が立つ予定でした。

大仏の東大寺、そして巨大建築の西大寺が
平城京のシンボルとなる予定だったのです。

それは最後の女帝として
孝謙天皇が力を示すための
取り組みの一つだったということです。

当時、中国には八角形の大きな塔がありましたが、
日本にはこんな大きな八角建物はありませんでした。

釘を使わずにこれらの建物を建設するためには、
複雑怪奇な木組みが必要となります。

しかし、その建設技術は
その時代にはまだなく、
西大寺塔は計画倒れで
結局は4角形の塔となってしまったわけです。

称徳天皇にしてみれば
残念で仕方なかったことでしょう。

本来もしここに八角形の塔が立っていたら
という映像が作られ、
NHKで流されたことがあります。
それがこれです。



続く