このあたりはまた少しのぼりが続きます。
14番を越えて歩いていくと、
おや、道の左側にちいさな地蔵があります。
これが「小判地蔵」と言われるものです。
一人の旅人がこの地を歩いてきたときに、
「飢え」と「疲労」でなくなりましたが、
そのときには口に小判を加えて、
それで自分の後始末をするように
残したんだそうです。
そのためにここに地蔵が彫られたとか。
もし本当ならすごいですよねえ。
でもそうなんですよ。
今の世ではまるで娯楽のように
熊野古道を歩いていたり、
走れる人は走ったりしているけど、
当時の古道歩きはもっと過酷だったんですよねえ。
命かけて歩き、
願いをかなえたかったんでしょう。
そういう意味では、ある意味
病後doironの古道歩きも
一種命がかかっている
といってもいいのかもしれないぞ。
と、そんなことを考えているときに
浮き木に足を取られて
躓いて転んでしまいました。
でも、さすがに熊野の御威光でしょうか、
ひざ下が青くなりましたが
無事に歩ける程度のけがで済みました。
足をこすりながら、また
地蔵を眺めながら坂を上っていくと、
15の道標の辺りに
「悪四郎屋敷跡」がありました。
前回の高原池に大石を投げ込んだ
という悪四郎が住んでいた屋敷の跡です。
十丈の悪四郎は
「力が強くて、頓智にもたけていた」人物です。
「悪」は悪い人というのではなく
勇猛で強いという人だから
ついた名前だそうです。
きっとこの地に、
体が頑丈な体格のでかい人が
住んでいたんでしょうねえ。
どんな風に生きていたのでしょう。
そんな体格のでかい人なら、
この山を下りるのも大変だったでしょうねえ。
この辺りは歩く道も急傾斜の
場面を通るのですが、
けっこう石垣を積んで
整備されていたのが印象に残っています。
16番の道標を過ぎ、
17番がやってくる手前に
一里塚があります。
ここで側面を見てみると
「和歌山より二十五里」と書かれてありました。
約100キロを和歌山から歩いているんですねえ。
この後18番の道標の手前に
「上多和茶屋跡」があります。
大正の頃には民家もあったそうです。
この山上には陰暦の11月23日に
三体の月が東のそらに出るといいます。
実はこの三体の月というのが、
熊野に大きく絡んでいます。
熊野権現の最古の縁起というべき
「熊野権現御垂跡縁起」のなかに、
狩人が初めて三体の月を見たことが
演技になっていると書かれています。
三社権現、三本足の八咫烏など
熊野の原始的な早期の姿が
狩人の作った柴作りの社殿にある
という考え方です。
そういえばdoironもパソコンなどの
原稿書きで目が疲れた時に
月が三体現れることもあります。
あれが、もし熊野権現の基礎になっているというなら、
熊野はある意味、乱視のせいだったのか
と言えなくもないわけですねえ。
この三体月の伝説は、
縁起から発祥して
「上多和」「悪四郎山」「槇山」にもあるそうです。
そこから19、20、21の道標を経たところで、
谷の中に鎌倉時代作成の石塔婆の立つ
「大坂本王子」が現れます。
あとはこの谷道を22、23
と進んでいきますと、
本日の最終バス停のある道の駅が見えてきました。
1本前のバスには乗り過ごしましたが、
最終バスまであと1時間あります。
道の駅で珍しいお土産を「眺めた」あと、
外の休憩所のところで
残っていたおやつを
コーヒーを沸かして頂戴しました。
ミセスが日帰りピーチで
北海道の雪まつりに行き
買ってきたお土産です。
結局この日は13キロを歩きました。
これまでと違ってこのコースは
かなり山の中です。
病後doironには思った以上に
きついコースでしたが、
何とか命に災いすることもなく
歩けて幸いでした。
お札を口にくわえて
倒れることもなくてよかったです。
あと熊野までもう少しです、
何とか今年中には熊野本宮に
お参りできそうだなと
熊野の聖域の鼓動を歩きながら聞いた
doironなのでした。
このシリーズ終わりです。