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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その4)

2022-09-27 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p16以下)

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  晩景。御所御鞠始。其衆(中略)下野四郎景綱。(同・建長五年<一二五三>三月十八日。

泰綱・景綱父子が蹴鞠をよくしたことは、泰綱が御所で蹴鞠会を催されるよう申し出て、二日後に実際に御所御鞠が行なわれたという次の記事、及び、景綱が旬御鞠奉行の一人に選ばれている(後述)ことからもたしかめられる。和歌と蹴鞠両道に通じていたのである。

  下野前司泰綱於御所可申行御鞠会之由申之。(同・正嘉元年<一二五七>四月七日)申尅、御所御鞠
  也。露払已後、將軍家<御布衣>令立御。下野前司泰綱付燻鞠於雞冠木枝進之。行忠入道付之。但内々被
  解之。内蔵権頭親家置之。源中納言。<布衣。>難波刑部卿<布衣。>上鞠一足。中務権大輔教時。<同。>
  遠江七郎時基。<同。>。内蔵権頭親家。<同。>。出羽前司行義。<同。>下野前司泰綱。(以下略)(同九日)
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「源中納言」は宗尊親王に仕えた関東伺候廷臣の中では最上位の土御門顕方、「難波刑部卿」は蹴鞠の家・難波家の難波宗教ですね。
(以下略)とされた部分には「二条三品」飛鳥井教定(1210-66)もいて、これは飛鳥井雅有(1240-1301)の父親です。
さて、この後、『吾妻鏡』に基づき、様々な行事への参加や、将軍御所の「廂番」「格子番」「「昼番」などを勤めたことが記されますが、文応元年(1260)四月になると、

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将軍と御息所(宰子。藤原兼経女、ニ十歳)が北条重時亭に入御された時の供奉人となっている。ところが、この後約三年間、景綱の名は、父泰綱(一年半後没)とともに『吾妻鏡』にあらわれない。弘長二年(一二六二)分の『吾妻鏡』は存在しないのだが、弘長三年正月一日、二日、三日の垸飯及び同七日の将軍家鶴岡八幡宮御参の供奉人にも名が見えないので、やはり景綱は長期間鎌倉にいなかったと考えられる。不在の間、かわりに、泰綱の同母弟宗朝(宇都宮石見前司)と、泰綱の異母兄時綱の子泰親(宇都宮五郎左衛門尉。越中五郎左衛門尉とも。のちに時綱の同母弟頼業の子となる)とが出仕している。泰綱・景綱父子は大番役で京都に滞在していたのではないだろうか。【後略】
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ということで(p22以下)、『吾妻鏡』からは景綱の動向が窺えなくなります。
この後も景綱は『吾妻鏡』にあまり登場せず、文永三年(1266)の宗尊親王帰洛記事で『吾妻鏡』は終わってしまいます。
ただ、景綱の政治家としての人生は極めて順調で、長く引付衆・評定衆を務めますが、それが暗転したのは弘安八年(1285)の霜月騒動です。(p35)

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 景綱の人生は、五十歳頃まで、ほぼ順風満帆であった。三十二歳の時に、将軍宗尊親王が廃される。三十八歳の時に二月騒動が起る。四十歳の時文永の役、四十七歳の時弘安の役、等々鎌倉は相変らず騒々しかったが、宇都宮氏の存亡に関わる事件は起こらなかった。五十歳の時に遭遇した、まだ三十四歳の執権北条時宗の死と、それによる自らの出家も、

    出家し侍し時、歳暮によめる
  いそがれし春はむかしに成はてゝ雪ものどけきとしのくれかな(沙弥蓮瑜集・406)

とあるのを見ると、殊に精神的ショックを受けた様子も、また、仏教に対する痛切な思いも感じられない。この弘安七年(一二八四)の四月四日酉刻(午後六時頃)に時宗が没している。一般に陰暦の四月は夏と捉えられるが、この年の立夏はたまたま四月十四日(壬申)であったため、春の内に出家を遂げようとすると、九日間しか暇がなかった、という歌のようである。
 ところが、弘安八年十一月、五十一歳の時、事件が起こる。安達氏一族が、得宗御内人平頼綱に滅ぼされるという霜月騒動(弘安合戦)である。【後略】
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景綱室は安達泰盛の妹ですから、景綱も相当な脅威を覚えたでしょうが、結局、景綱は殺されずに済みます。
そして平禅門の乱(1293)を待たずに復活しますが、先にも述べたように、それは得宗家、極楽寺流北条氏、大仏流北条氏との間に張り巡らされた係累の力かと思われます。
なお、ウィキペディアを見たところ、

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弘安8年(1285年)11月、内管領平頼綱によって安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動では、景綱は安達氏の縁戚(泰盛と義兄弟の関係)であった事から失脚するが、永仁元年(1293年)に平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰した。永仁6年(1298年)5月1日、64歳で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%99%AF%E7%B6%B1

とありますが、「平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰」は誤りで、景綱は三年前の正応三年(1290)、浅原騒動後の対応のために東使として京都に派遣されており、この時点で完全に復権していますね。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その3)

2022-09-27 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p12)

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 景綱の祖父頼綱(蓮生法師)の子、すなわち景綱の伯父頼業の母は、梶原景時の女であるが、その甥に、『沙石集』及び『雑談集』の作者無住(一二二六-一三一二)がいる。無住は、

 十三歳ノ時、鎌倉ノ僧房ニ住シテ、十五歳ノ時下野ノ伯母ガ許ヘ下リ、十六歳ノ時、
 常州ヘ行テ、親キ人ニ被養、十八歳ニテ出家(雑談集・巻三・愚老述懐)

したのであるが、その伯母の夫(頼綱)の弟にあたる塩谷朝業(信生法師)のことも、『沙石集』に書きとめている。
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『沙石集』に載っている塩谷朝業が詠んだ浄土信仰の歌・二首は省略しますが、この後も宗教関係の話が続いて、寺田弥吉『親鸞の開宗と稲田山』(昭和三十七年四月・稲田教学研究所出版部)などが紹介されているものの、景綱とは直接の関係はなさそうなので省略します。
なお、宗教関係の話の最後に、

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更についでながら、景綱の祖母、北条時政後室牧の方所生の女は、『尊卑分脈─桓武平氏』によると、泰綱・宗朝・女(為家室)を産んだ後、「天王寺摂政(藤原師家)妾」となったという。美しい女性であったのだろうか。泰綱兄弟は、母親の愛情を身辺に感じることなく成長したことになる。
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とありますが(p15)、この女性は頼綱と離婚後、四十七歳で前摂政・松殿師家と再婚したことが『明月記』に記されています。
即ち、星倭文子氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)によれば、

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  2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚

 藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。

(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
  金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
  もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>

 定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a345048ef491da666beea454dbd19f97

とのことで、松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事です。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った人ですが、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していますね。
なお、『明月記』のこの記事から宇都宮頼綱室は文治三年(1187)生れであることが分かりますが、山本みなみ氏は北条政範が二歳下、文治五年(1189)生まれであることに着目して時政と牧の方の結婚の時期について推論を重ねておられます。
しかし、私は山本氏の推論には賛成できません。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8

さて、外村論文に戻って続きです。(p15以下)

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 以上のように、関東の一豪族としては、多彩で華麗な縁威関係【ママ】を持つ、宇都宮家の嫡男として成人した景綱は、

 親王自関本宿御出。未一尅、着御固瀬宿。御迎人々参会此所、小時立行列。(中略)
 次随兵<二行>
  下野四郎景綱(他略)(吾妻鏡・建長四年<一二五二>四月一日)

と、宗尊親王が第六代将軍となるべく、鎌倉に下って来た時、固瀬(神奈川県藤沢市片瀬。江ノ島への入口)まで迎えに行った一行の中に名が見える。十八歳の時のことで、これが『吾妻鏡』に景綱が登場する最初の記事である。この一行の中に、笠間時朝も居り、親王の下着を執権北条時頼亭の庭上で待っていた人々の中には、評定衆「下野前司泰綱」がいた。鎌倉幕府における景綱の公的な生活は、十一歳の親王将軍とともに始まったのである。

 将軍家始御参鶴岳之八幡宮。(中略)
 随兵(後陣)
  下野四郎景綱(他略)(同・同年四月十四日)

宗尊親王が初めて鶴岡社に詣でた時のことである。供奉人の中には父泰綱の名も見える。
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