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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その4)

2022-09-07 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p101以下)

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17「□〔たヵ〕のむぞよ…」は『拾遺現藻集』に見られる一首だが、そこでは作者名の記載が無く空白となっていた。撰集類の通例で直前歌の作者記載を承けるとすれば、作者は「昭慶門院二条」ということになる。この人物については、昭慶門院に仕えた女房歌人であるらしいが、詳しいことは分からない。『拾遺現藻集』は元亨二年(一三二二)三月一日の成立であり、当時の現存作者ばかりの詠歌を集めている。三島社十首に出詠が確認できる歌人のうち、為道の二十二歳が勧進者である貞時と並んで最も若く、昭慶門院二条が出詠者の一人であれば、少なくとも彼らと同程度の年齢には達していたはずであろう。主人である昭慶門院が文永七年(一二七〇)の生まれであることから、仮に同年齢として正応五年当時は二十三歳、すると『拾遺現藻集』成立時には五十三歳で生存していた計算になる。彼女を除く他の参加歌人は、いずれも当時の京・鎌倉を代表する歌人たちである。為道以外の面々は、すでに勅撰集への入集をはたして相応の歌歴を重ねていた。次の『新後撰集』で勅撰歌人の列に加わる為道は、御子左家の嫡子であり、若年でこのメンバーに加えられて不思議はない。これに対し、昭慶門院二条は勅撰歌人でもなく、歌歴も不詳、若くして和歌を勧進される必然性に乏しい。三島社十首は、当時、関東に滞在していた人々を中心に勧進されたものと思われることや、男性歌人ばかりの中に女房歌人は彼女ただ一人であることも気にかかる。ただ、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書を見る限りにおいては、同じ機会の詠作であると認めてよいように思える。先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。
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第二節はこれで終わりです。
小林氏は若干の疑念を抱いておられますが、小川剛生氏が校訂された『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見ると、この歌の作者が「昭慶門院二条」であることを疑う理由は特になさそうに思えます。
さて、昭慶門院は、

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1270-1324 鎌倉時代,亀山天皇の皇女。
文永7年生まれ。母は藤原雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王となり,4年院号をあたえられる。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母。亀山天皇から甲斐(かい),越前(えちぜん)などのおおくの荘園を譲与された。元亨(げんこう)4年3月12日死去。55歳。名は憙子(きし)。法名は清浄源。
【デジタル版 日本人名大辞典+Plus】

鎌倉後期の女院。名は喜(憙)子。生年は文永7(1270)年とも。法名は清浄源。亀山院の皇女。後醍醐天皇の皇子世良親王を愛育し,同親王の元服をみた日に没したことが『花園天皇宸記』に記されている。同女院に集積された皇室領は世良親王に伝領された。
(森茂暁)
【朝日日本歴史人物事典】

https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159

という女性です。
亀山院皇女の喜子内親王が「昭慶門院」という女院号を得たのは永仁四年(1296)ですから、正応五年(1291)の三島社十首の時点で、問題の女性の女房名が「昭慶門院二条」であったはずはありません。
では、どのような名前だったのか。
その謎を解明するため、今は国文学界の重鎮となられた小川剛生氏の最初の著作、『拾遺現藻和歌集 本文と研究』に向かうこととします。
小川氏は1971年生まれですから、この本を出されたときはまだ二十五歳くらいですが、本当に老成した筆致なので、とても若い大学院生が書いた本とは思えないですね。

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国立歴史民俗博物館蔵『拾遺現藻和歌集』を底本に翻刻した初めての書。巻末に特色・撰者などに関する考察と資料「『拾遺現藻和歌集』の研究」と、作者略伝・索引及び四句索引を付す。

https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/syuigenso.htm

小川剛生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%89%9B%E7%94%9F
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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その3)

2022-09-07 | 唯善と後深草院二条
第二節に入ります。(p97以下)

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  二

 三島社十首は、『風雅集』をはじめ、『夫木抄』や『藤谷集』『沙弥連瑜集』等々の諸集より、この折の作品と判断できる詠歌十八首を拾遺することができる。本来は十題十首であったらしいが、現時点で確定ないし推定できる歌題は、そのうちの八題である。いま、諸作品を一括して掲出すると以下のごとくである(便宜上歌頭に通し番号を付す)。
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以下、18首が列挙されていますが、出典別の内訳は次の通りです。
(出典が重複している4首があるので、合計は22首)

『夫木抄』10首
『沙弥連瑜集』6首
『藤谷集』4首
『風雅集』1首
『拾遺現藻集』1首

冷泉為相の弟子・勝間田長清が編んだ『夫木和歌抄』が一番多く、次いで宇都宮景綱の歌集『沙弥連瑜集』、冷泉為相の歌集『藤谷集』と続きます。

夫木和歌抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E6%9C%A8%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84

また、作者別の内訳は、

宇都宮景綱(沙弥連瑜)6首
冷泉為相 4首
京極為兼 3首
飛鳥井雅有 2首
二条為道 1首
慶融 1首
昭慶門院二条 1首

となります。
問題の「昭慶門院二条」の歌は、小林氏の通し番号では17番で、

17 □〔たヵ〕のむぞよさめなん夢の後までもむすぶとみつる契かはるな
  (拾遺現藻集・五五四・「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」・昭慶門院二条)

というものです。
さて、これらの歌が本当に正応五年の北条貞時勧進十首と認めてよいのかを検討された小林氏は17番のみ「やや問題を残す」とされます。(p100以下)

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 以上の十七首に対し、やや問題を残すのが17(昭慶門院二条)である。「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書に従えば、この歌も三島社十首において詠まれた作である可能性は高いと思う。これまで明らかになった歌題は、「海辺霞〔浦霞ヵ〕」・「曙花」・「待郭公」・「草花露」・「山月」・「松雪〔松上雪ヵ〕」・「晩風催恋」・「社頭祝」の八題であった。為家の判を不服とした知家が『蓮性陳状』を奉った、宝治元年(一二四七)の『院御歌合』が「早春霞」にはじまり「社頭祝」に至る十題、また散佚歌合ながら、文永四年(一二六七)に行家の勧進した「住吉社奉納十首歌合」が「海辺霞」以下「社頭祝」に及ぶ十題であった。どちらも春(二題)・夏・秋(二題)・冬の四季六題に恋(二題)・雑(二題)という構成であり、掉尾には「社頭祝」が置かれている。三島社十首も、四季六題・恋二題・雑二題という構成であったと考えて誤りないであろう。恋題の一つは16が示す通り「晩風催恋」であった。17は歌題が明記されていないが、一首の内容から「晩風催恋」とは思えず、おそらく「夢」の文字を含む結題であったはずである。釣り合いを考えて四字の結題を想定するとすれば、あるいは「夢中契恋」などの題であったか。いずれにせよ、17が恋題のうちの別な一題であったと考えても何ら矛盾は生じないことになる。
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段落の途中ですが、いったん、ここで切ります。
17番の「昭慶門院二条」の歌は、全18首の中で唯一の女性歌人の歌であることに加え、出典が『拾遺現藻和歌集』である点でも珍しく、歌題も不明ですが、何しろ詞書に「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」とあるのですから、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に含まれると考えて間違いないですね。
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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その2)

2022-09-07 | 唯善と後深草院二条

それでは小林一彦氏の「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第5号、2000)を検討して行きます。
冒頭に小林氏自身が「要旨」を書かれているので、まずはこれを引用します。(p95)

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〔要旨〕鎌倉時代末期に催行された、正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌は、残念ながら完本は散佚してしまい、今日に伝わらない。東国の奉納和歌にして、しかも定数歌としてはごく小規模であるものの、京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融・宇都宮景綱らが勧進に応じており、当代一流の歌人達が少なからず出詠している点で、中世和歌史上、いささか注意される十首である。
 小稿では、まず『夫木和歌集』などから当該十首の詠歌集成を試みた。その上で、玉葉・風雅の京極派和歌へと向かう中世和歌史の展開を睨みつつ、注意を要すると思われる和歌作品について、一首ごとに詳しい解析を加えた。その際、歌語や歌ことば、歌枕、さらに歌句という単位を中心に、それがどのように結合し連結することで一首が構成されているか、に焦点を当てるようにつとめた。その結果、三島社十首には、歌枕を伝統に培われた机上の風景によらず実際の景観によって写実的に描出した例や、歌語や歌ことばを排除し日常語を用いて散分脈により一首を構成しようとした例など、伝統的な和歌とは異なった表現を指向する歌人達の自覚的な意識が確認された。
 中世において、文学としての和歌はどのような変容を遂げていったのか。正応五年三島社十首を窓として中世和歌表現の潮流の動きに目を凝らすことにより、その問題を見極める一歩としたいと願い、小稿を編んだ。
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小林氏の問題意識はそれとして、私の関心は「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に「当代一流の歌人達が少なからず出詠している」中で、女性歌人は「昭慶門院二条」たった一人であり、しかも「昭慶門院二条」がどうにも謎めいた存在であることです。
この人物に焦点を当てて、読んで行きたいと思います。
この論文は全体が七節に分かれていますが、まずは冒頭から丁寧に紹介して行きます。(p96以下)

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  一

 正応五年(一二九二)、伊豆国の一の宮である三島社に十首和歌が奉納された。人々に十首を詠むように勧めたのは北条貞時である。八年前、急死した父時宗の後を嗣ぎ執権の座についた十四歳の若武者は、霜月騒動や惟康親王京都送還などの内紛を乗り切り、二十二歳の青年指導者へと姿を変えていた。翌正応六年(永仁元年)には、内管領の平頼綱を滅ぼし(平禅門の乱)、得宗専制体制が確立されていく。そのような状況下で、三島社奉納十首和歌は企画されたのであった。
 貞時は『新後撰集』を初出とし、『新千載集』までの六集に、あわせて二十五首の入集をみる勅撰歌人である。東国屈指の武家歌人であると言ってよいであろう。正応五年の三島社十首は、その貞時の初期の和歌事跡としても注意される。彼の勧めに応じたのは、京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融ら、当代一流の歌人達であった。正応五年三島社十首は、京洛においても個々の作品が引かれ言及されているところを見ると、おそらく一書として纏められ流布していたのであろう。残念ながら、現在では散佚してしまったらしく、その全容を窺うことは不可能であり、拾遺される詠作も二十首に満たない。しかし、その中には、中世和歌史を構想する上でさまざまな視座を提供してくれる作品も少なからず含まれている。小稿では正応五年三島社十首和歌の詠歌集成を試みるとともに、注目すべき歌を何首か取り上げ、さまざまな角度から考察を加えてみたいと思う。
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以上で第一節は終わりです。
北条貞時は歌人として相当な実力の持ち主であり、「あわせて二十五首の入集をみる勅撰歌人である」ことも、決して撰者側が時の権力者に阿ったためではないですね。
ま、そういう要素も多少はあるでしょうが。

北条貞時(水垣久氏「やまとうた」サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sadatoki.html

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