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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その13)

2022-09-19 | 唯善と後深草院二条

それでは『拾遺現藻和歌集』での「昭慶門院二条」の歌・四首を確認しておきます。

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     七夕別といふ事お
                照〔昭〕慶門院二条<有忠卿歟>
146 □□〔あひヵ〕みても猶こそあかね七夕の秋の一夜の袖のわかれち

     たいしらす      照〔昭〕慶門院二条
479 □〔はヵ〕てはまたうきいつわりになりやせん行末しらぬ人の契は

                昭慶門院二条
553 □〔うヵ〕きなからおもひいてゝもしのふるやつらさにこりぬ心なるらん

     平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に
554 □〔たヵ〕のむそよさめなん夢の後まてもむすふとみつる契かはるな
-------

554が問題の歌ですが、ここには作者名がありません。
ただ、『拾遺現藻和歌集』の配列の通例から見て、作者名がない場合は直前の歌の作者、即ち、ここでは553の作者である昭慶門院二条が554の作者となります。
同じ作者が連続する場合の作者名の省略は、553・554以外にも、

229・230(権大納言公賢〔洞院〕)
251・252(法皇御製〔後宇多〕)
371・372(前中納言有忠〔六条〕)
421・422(法印定為) 
529・530(今上御製〔後醍醐〕)
768・769(法皇御製)
810・811(法皇御製)

とあって、553・554を疑う理由はありません。
特に372の詞書は「平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社三十六首哥に」、422の詞書は「平宗宣朝臣すゝめける住吉社卅六首哥に」となっていて、554の「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」とよく似ていますね。
554に作者名がない点に関し、「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第5号、2000)において、小林一彦氏は、

-------
17「□〔たヵ〕のむぞよ…」は『拾遺現藻集』に見られる一首だが、そこでは作者名の記載が無く空白となっていた。撰集類の通例で直前歌の作者記載を承けるとすれば、作者は「昭慶門院二条」ということになる。この人物については、昭慶門院に仕えた女房歌人であるらしいが、詳しいことは分からない。『拾遺現藻集』は元亨二年(一三二二)三月一日の成立であり、当時の現存作者ばかりの詠歌を集めている。三島社十首に出詠が確認できる歌人のうち、為道の二十二歳が勧進者である貞時と並んで最も若く、昭慶門院二条が出詠者の一人であれば、少なくとも彼らと同程度の年齢には達していたはずであろう。主人である昭慶門院が文永七年(一二七〇)の生まれであることから、仮に同年齢として正応五年当時は二十三歳、すると『拾遺現藻集』成立時には五十三歳で生存していた計算になる。彼女を除く他の参加歌人は、いずれも当時の京・鎌倉を代表する歌人たちである。為道以外の面々は、すでに勅撰集への入集をはたして相応の歌歴を重ねていた。次の『新後撰集』で勅撰歌人の列に加わる為道は、御子左家の嫡子であり、若年でこのメンバーに加えられて不思議はない。これに対し、昭慶門院二条は勅撰歌人でもなく、歌歴も不詳、若くして和歌を勧進される必然性に乏しい。三島社十首は、当時、関東に滞在していた人々を中心に勧進されたものと思われることや、男性歌人ばかりの中に女房歌人は彼女ただ一人であることも気にかかる。ただ、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書を見る限りにおいては、同じ機会の詠作であると認めてよいように思える。先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b48d539ba45bd1c2ba1a6516376b834b

とされていますが、「一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡」というのは558から561までの四首のことで、位置は近いものの、553・554とは関係ありません。
小川剛生氏も「『拾遺現藻和歌集』の研究」の「部立」において、

-------
巻九は雑の四季詠、哀傷・釈教・神祇は巻十に含まれる。底本は破損による判読不能箇所が多く、また誤写誤読も少なからず見受けられるが、内容的に最も問題となるのは巻七恋上の次の歌群であろう(破損は□で示した。〔 〕内は推定、以下同じ)。

    嘉元百首哥たてまつりしとき     二品法親王<覚>
 □〔よヵ〕ひ々々にまつもはかなしうたゝねの夢ちはかりをたのむ物とは(五五六)
    恋の哥中に
 はてはまたねられぬとこのさむしろになくさむ夢の契たになし(五五七)
 崎<さき> 入月ををしまかさきのあま人の心なき身も猶したふらし(五五八)
 □〔澤ヵ〕<さは> 月さえて雲ふきはらふ秋風のをとさへたかきふしのなるさは(五五九)
 □〔渡ヵ〕<□〔わヵ〕たり> われのみかへなみにぬるゝ袖の上の月をもわたすよとの川ふね(五六〇)
 □□前衣 夜さむなる雲の衣を月になをきせしとはらふ峯の松風(五六一)
                      法親王<承>
 □□〔さめヵ〕ぬるをたかつらさとかかこたましあふと見えつる夢の別路(五六二)

五五七と五六二の二首の連接は自然であるが、五五八~五六一は明らかに異質であり、また覚助法親王の詠でもあるまい。内容も恋歌ではないし、上に一首に相当する題があることからすれば、別な文献から纔入したものとみるべきであろう。例えば類題集の月歌群かとも憶測されるが、現在のところこの四首を他の歌集に見出していない。
-------

とされています。(p132以下)
「拾遺現藻和歌集巻第八」「恋哥下」は528から始まって617まで続きますが、この中で558~561だけが恋とは関係なく、作者名もなく、歌の前に「崎」「澤」「渡」などの歌題らしきものを置いている点で「明らかに異質」です。
『拾遺現藻和歌集』は上部に欠損が目立つだけで、全体的には「その本文は」結構「良質」ですね。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その12)

2022-09-18 | 唯善と後深草院二条

『拾遺現藻和歌集』に登場する九人の女院付女房の周辺をもう少し見て行きます。
正確を期すため、小川氏の「作者略伝・索引」の内容を、「作者略伝・索引」の順番でそのまま引用すると、

-------
一条(延政門院─)生没年・世系未詳。兼好集に贈答あり。続千載に1首。続現葉作者。2首〔九五、五七九〕

一条(昭慶門院─)生没年未詳。源。北畠師親女。嘉元百首、後二条院三十番歌合等に出詠。新後撰以下に二一首。続現葉、藤葉作者。6首〔一五七、二九一、三六〇、四二七、四六一、八〇二〕

春日(昭訓門院─)生没年未詳。藤原。二条為世女。西園寺実衡室、公宗母。『竹向きか記』に登場する「二位殿」か。文保・貞和百首作者。続千載以下に四〇首。続現葉、臨永、松花、藤葉作者。6首〔七九、八六、二七四、三二四、三五七、五七一〕

近衛(今出川院─)生没年未詳。藤原。鷹司伊平女。現存三六人詩歌作者。続古今以下に二六首。人家、和漢兼作、拾遺風躰、続現葉、臨永、松花、藤葉作者。6首〔四二、二〇二、五六九、五九二、六一六、七六六〕

内侍(永福門院─)生没年未詳。藤原。坊門基輔女。伏見院三十首・同院五十番歌合より、花園院六首歌合・貞和百首に至る京極派の催しに参加。玉葉以下に四九首。続現葉、藤葉作者。3首〔三四八、四五〇、七八三〕

二条(昭慶門院─)伝未詳。4首〔一四六(注記によれば、有忠の詠とも)、四七九、五五三、五五四〕

二条(万秋門院─)伝未詳。1首〔五八〇〕

備前(寿成門院─)生没年・世系未詳。藤葉作者。1首〔二一〇〕

兵衛佐(遊義門院─)生没年・世系未詳。『とはずがたり』巻五に登場。続現葉作者。2首〔二一一、六二七〕
-------

となります。
今出川院近衛のところに出てくる『現存三六人詩歌』は、

-------
建治二(1276)年閏三月に成った屏風詩歌。群書類従二二四所収。奥書によると、北条時宗の命により、絵を藤原伊信が描き、詩を日野資宣、和歌を真観(葉室光俊)が選んだ。甲乙丙丁の四帖から成り、各帖に詩(七言の聯)と和歌とを交互に九首ずつ記す。詩人は基家・真観・為世・雅有など。書名によれば、当時生存していたすぐれた作者七二名の作品を選び集めたもの。和歌三六首のうち二三首が勅撰集と重出する。
-------

というもので(有吉保編『和歌文学辞典』)、生存者の歌に限定するという妙にさっぱりした編集方針の歌集・詩集がいつごろ生まれたのかは知りませんが、鎌倉中期には真観撰かと言われる『現存和歌六帖』があります。
また、二条為氏も弘安期に『現葉集』(散逸)という私撰集を編んだそうで、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂版』(明治書院、1987)には、『続現葉集』の解説中に、

-------
続現葉集 類従所収。【中略】現存本は十巻の残欠本、七百五十九首を収める。既に福田秀一氏の研究があり(『中世私撰和歌集の考察』)、それによれば、為氏が弘安頃に続拾遺の選外佳作編篇として撰んだ現葉集に倣って、為世が続千載の選外佳作編として、(作者の官位記載から推して)元亨三年撰了し、一部四年に増補されて成立したのであろう、という。
-------

とあります。(p248)
現存歌人に限定するとの『拾遺現藻和歌集』の編集方針は、直接には二条為氏の『現葉集』の影響を受けているようですね。
なお、『続現葉集』の成立は元亨三年(1323)で、『拾遺現藻和歌集』成立の翌年ですが、「作者は元亨期現存の人々」(同)で、『拾遺現藻和歌集』と相当に重なっていますね。
京極派排除の編集方針は『拾遺現藻和歌集』以上に明確です。
さて、『拾遺現藻和歌集』の九人の女院付女房の話に戻ると、『とはずがたり』の世界に近い点で遊義門院兵衛佐が気になります。
『とはずがたり』巻五でこの女性の登場場面を確認すると、「八幡で遊義門院と邂逅」の場面に、

-------
 徒なる女房のなかに、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛の佐といふ人なり。次の日還御とて、その夜は御神楽・御てあそび、さまざまありしに、暮るるほどに、桜の枝を折りて兵衛の佐のもとへ、「この花散らさんさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御よりさきに出で侍るべき心地せしを、かかるみゆきに参り会ふも、大菩薩の御志なりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御社に候ひてのち、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、
   花はさてもあだにや風のさそひけん契りしほどの日数ならねば
御返し、
   その花は風にもいかがさそはせん契りしほどは隔てゆくとも

http://web.archive.org/web/20061006205632/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-17-yawata.htm

とあります。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p432)
「八幡で遊義門院と邂逅」の場面は亀山院崩御の翌年、徳治元年(1306)三月の出来事として設定されていますが、多方面に傲岸不遜な後深草院二条が、よりによって宿敵・東二条院の娘の遊義門院に対して異常なほどへりくだっており、何とも奇妙な印象を与えます。
私は『とはずがたり』を創作的要素が極めて多い自伝風小説と考えるので、この場面も事実の記録といえるか疑わしく思っていますが、「遊義門院兵衛佐」は『拾遺現藻和歌集』の他、『続現葉集』に一首入集しているので、少なくとも「遊義門院兵衛佐」の実在は確認できることになります。
そして、寿成門院備前も小倉実教撰の『藤葉集』に入集しているので、結局、九人の女房付歌人のうち、『拾遺現藻和歌集』以外の史料に登場しないのは「昭慶門院二条」と「万秋門院二条」の二人だけとなります。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その11)

2022-09-17 | 唯善と後深草院二条

『拾遺現藻和歌集』の女性歌人三十人の中で、「昭慶門院二条」の入集は四首ですから、けっこう多い方ですね。
三十人を社会的立場で分類してみると、女院が四人(達智門院・万秋門院・永福門院・章義門院)、女房が十七人、その他(〇〇女・〇〇室・〇〇母等)九人で、女房が過半数を占めており、「昭慶門院二条」もその一人です。
そして、女院名のついた女房は、

-------
 昭慶門院一条 生没年未詳。北畠師親女。新後撰以下に21首。
 昭訓門院春日 生没年未詳。二条為世女。西園寺実衡室、公宗母。
 今出川院近衛 生没年未詳。鷹司伊平女。続古今以下に26首。
☆昭慶門院二条 伝未詳。
 永福門院内侍 生没年未詳。坊門基輔女。京極派。玉葉以下に49首。
 延政門院一条 生没年・世系未詳。兼好集に贈答あり。続千載に1首。
 遊義門院兵衛佐 生没年・世系未詳。『とはずがたり』巻五に登場。
☆万秋門院二条 伝未詳。
 寿成門院備前 生没年・世系未詳。(※寿成門院(1302-62)は後二条天皇皇女)
-------

の九人で、この内、「昭慶門院二条」と「万秋門院二条」は他の資料に全く名前が出てこない人です。
ところで、女性の場合、女院クラスでないと生没年すら明確ではないので世代別の分類は困難ですが、おそらく最高齢は今出川院近衛でしょうね。
この人は『徒然草』第六十七段に登場します。
小川剛生氏の『新版 徒然草』(角川文庫、2015)から引用すると、

-------
 賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚、
  月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
 今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき誉ありて、人の口にある歌多し。作文し、序など、いみじく書く人なり。
-------

という話ですが(p73以下)、小川氏は脚注で今出川院近衛の生没年を「一二四四頃~一三三一頃」とされています。
また、補注23には、

-------
〔今出川院近衛〕頓阿の井蛙抄巻六に逸話が載る。「続古今より以来、生きて五代の勅撰に逢ひて歌数もあまた入りて侍る。…詩なども作りて兼作集にも入る。仏法にも立ち入りて一生不犯の禅尼なり」などとあり、本段の内容と照応する。志操堅固な老女房歌人として尊敬されていた。井上宗雄「今出河院近衛」(『中世歌壇と歌人伝の研究』笠間書院、平19.初出平9)参照。
-------

とあります。
仮に今出川院近衛が寛元二年(1244)生まれとすると、『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)には七十九歳ですね。
さて、1996年の小川氏は延政門院一条について「生没年・世系未詳」とされていますが、『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)では「延政門院一条の正体」について次のように書かれています。(p91以下)

-------
延政門院一条の正体
 堀川家に出入りするようになってさほど経たなかった頃、正和五年(一三一六)正月、前内大臣具守が六十八歳で没した(図版3-7)。洛北岩倉には堀川家の山荘があり、かつ代々の墓所を兼ねていたため、そこに埋葬された。翌春、兼好は延政門院一条という女性と次のような和歌の贈答をした(歌集六七、六八)。

    ほりかはのおほいまうちぎみを、いはくらの山庄にをさめたてまつりにし
    又の春、そのわたりの蕨をとりて、雨降る日申しつかはし侍りし
  さわらびのもゆる山辺をきて見れば消えし煙の跡ぞかなしき
  (さわらびが萌え出した、大臣様を埋葬した山のほとりに来てみると、あの日
   空に消えた火葬の煙の名残が悲しく思い出されます)
    返し             延政門院一条
  見るままに涙の雨ぞふりまさる消えし煙のあとのさわらび
  (大臣様を火葬にした山に生えた早蕨を見るにつれ雨のような涙が一層落ちる
   ことです)

 「さわらび」には「火」、「もゆる」は「萌ゆる」と「燃ゆる」を懸け、火葬の煙を暗示する。そうした技巧は措いても、前記五七番歌とは違って、こちらには故人を哀傷する心が感じられる。それもそのはずで、兼好の贈歌は源氏物語・早蕨巻で、宇治十帖に登場する姫宮の一人、中の君が父の八の宮を悼んだ「この春は誰にか見せむ亡き人の形見につめる峯のさわらび」という歌を踏まえている。
 この延政門院一条とは誰か、さまざまな推測がある。延政門院悦子内親王(一二五九~一三三二)は徒然草第六十二段にも登場する、後嵯峨院の皇女である。その女院に仕えた女房となるが、「一条」は上﨟女房の名であり、大臣か大納言の娘に限られる。同時代の女院の女房歌人の例に照らしても、たとえば昭慶門院一条の父は権大納言北畠師親、徽安門院一条の父は権大納言正親町公蔭である(ともに大臣になり得る家格である)。すると延政門院一条は具守の娘と考えるべきである。具親のごとく、早世した権中納言具俊の子で、祖父具守の養子となっていたのであろう。そのように考えて初めて源氏物語を踏まえた兼好の贈歌の意味が分かる。ただしこの贈答は家人との間にしては、ややうちとけた感もある。兼好は常勤の家司などではなく、「遁世者」として堀川家に出入りしていたもので、主従関係は比較的穏やかなものではなかったかと想像されるのである。
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『拾遺現藻和歌集』に登場する昭慶門院一条の父・権大納言北畠師親(1241-1315)は後深草院二条の又従兄妹で、『とはずがたり』の「粥杖事件」に、

-------
「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

という具合いに登場します。
また、「持明院殿蹴鞠」の場面にも登場しており、後深草院二条とは親しい関係だったようですね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00ef3d6087a095bd2bc066f525a03fe1

なお、正親町公蔭(1297-1360)は建武四年(1337)に改名した後の名前で、もともとは京極為兼の養子として「忠兼」を名乗っていました。
『拾遺現藻和歌集』では「忠兼」は為兼と共に排除されているので、「昭慶門院二条」や『拾遺現藻和歌集』の撰者の問題とは関係がありませんが、正和四年(1215)に為兼とともに六波羅に逮捕され失脚した後、「忠兼」は足利尊氏の正室・赤橋登子の姉妹・種子と結婚しており、この人間関係は興味深いですね。
徽安門院一条の母は赤橋種子です。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

徽安門院一条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%89%E9%96%80%E9%99%A2%E4%B8%80%E6%9D%A1

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その10)

2022-09-16 | 唯善と後深草院二条
全部で26ページある小川論文「『拾遺現藻和歌集』の研究」は、「特色」に続いて最も分量の多い「撰者」に入りますが、「昭慶門院二条」を論ずる準備は一応整ったように思われるので、ここで私の立場から「昭慶門院二条」を少し検討した後、必要に応じて小川論文に戻りたいと思います。
さて、最初に『拾遺現藻和歌集』全体の中での女性歌人の位置づけと、女性歌人の中での「昭慶門院二条」の位置づけを見て行きます。
既に紹介したように、小川氏によれば、

-------
 「現藻」の語は「現存者の詠藻」の意と解され、実際現存歌人対象の集である(なお「拾遺」の意については後述する)。歌人はすべて一八二名(隠名および詞書歌の作者は除く)。内訳は俗人男子九六人、女性三〇人、僧侶五六人。十首以上入集の歌人一九名を上位から示す。

 ①後宇多院 38首 ②二条為世 32首 ③西園寺実兼 30首 ④定為 27首 ④小倉公雄27首
 ⑥後醍醐天皇26首 ⑦二条為藤 25首 ⑧三条実重 24首 ⑨鷹司冬平 22首 ⑨邦良親王 22首
 ⑨小倉実教 22首 ⑫中御門経継 21首 ⑫覚如法親王 21首 ⑭二条道平 16首 ⑮洞院実泰14首
 ⑯六条有忠 11首 ⑯冷泉為相 11首 ⑱後伏見院 10首 ⑱二条為定 10首

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d2d8eddea4b8e2ffa9a4daa7821841a

とのことですが、「十首以上入集の歌人一九名」の中に女性は一人もいません。
「作者略伝・索引」で女性歌人三十人の採歌数を見ると、

6首 6人
5首 2人
4首 2人
3首 3人
2首 6人
1首 11人

ということで、合計三十人で八十六首ですね。
勅撰集と比較した場合、『拾遺現藻和歌集』での女性の採歌の割合にどのような特徴があるのかは分かりませんが、まあ、あまり多いようには思えません。
また、最高が僅か六首で、しかも六人ということは、女性歌人の採歌に意図的なリミットがあったような感じがしないでもありません。
ま、それはともかく、もう少し具体的に入集歌人の人物像を見て行くことにします。
小川氏作成の「作者略伝・索引」は五十音順ですが、これを入集数で6グループに分け、配列し直すと次のようになります。(抜粋。※は私の補足)

A 6首
昭慶門院一条 生没年未詳。北畠師親女。新後撰以下に21首。
昭訓門院春日 生没年未詳。二条為世女。西園寺実衡室、公宗母。
今出川院近衛 生没年未詳。鷹司伊平女。続古今以下に26首。
宰相典侍(後宇多院)生没年未詳。飛鳥井雅有女。二条為道室。新後撰以下に22首。
達智門院(1287-1348)後宇多院皇女。奨子内親王。(※母は談天門院忠子) 新後撰以下に24首。
万秋門院(1268-1338)一条実経女。後宇多院に出仕。新後撰以下に31首。

B 5首
少将内侍(後醍醐院)生没年未詳。法性寺為信女。後二条院・後醍醐院女房。続千載以下に7首。
為道女(藤原為道朝臣女)生没年未詳。為定・中宮宣旨の姉妹。土御門雅長室、顕実母。続千載以下に18首。

C 4首
永福門院(1271-1342)西園寺実兼女。伏見院中宮。京極派。新後撰以下に151首。
昭慶門院二条 伝未詳。

D 3首
岩倉姫君 生没年未詳。忠房親王の近親か。続千載に1首。
中宮宣旨 (?-1351)二条為道女。後醍醐後宮。法仁・懐良の母。続千載以下に8首。
永福門院内侍 生没年未詳。坊門基輔女。京極派。玉葉以下に49首。

E 2首
延政門院一条 生没年・世系未詳。兼好集に贈答あり。続千載に1首。
新兵衛督(邦良親王家か)生没年・世系未詳。邦良親王に殉じて出家した「兵衛督」(『増鏡』)か。続千載に1首。
為子(従二位為子)(1251頃?-?)京極為教女、為兼の姉。大宮院に権大納言として出仕、伏見院・永福門院にも仕える。京極派。続古今以下に127首。
長有女。(丹波長有朝臣女)丹波忠守の姉妹。
遊義門院兵衛佐 生没年・世系未詳。『とはずがたり』巻五に登場。
平宗泰女 生没年未詳。北条(大仏)宗泰女、貞直の姉妹か。 

F 1首
公顕室(今出川前右大臣室)生没年未詳。堀川具守女か。続千載以下に2首。
権大納言典侍(後醍醐院)生没年未詳。北畠師重女。堀川具親と密通、のち洞院公泰室(『増鏡』)。続千載以下に2首。
平重村女 生没年未詳。(重村は北条(常葉)政長男。1首)
章義門院(?-1336)伏見院皇女、誉子内親王。京極派。玉葉以下に12首。
伏見院新宰相 生没年未詳。藤原親忠女。伏見院に殉じて出家。京極派。玉葉以下に29首。1
後二条院新大納言 生没年未詳。法眼良珍女。皇女珉子内親王を産む。
宣子(従三位宣子)(?-1321)藤原為顕女。二条兼基妾、道平母。新後撰以下に33首。
平時夏母 伝未詳。(時夏は北条(名越)長頼男あるいは長頼息備前守宗長男。1首) 
万秋門院二条 伝未詳。
寿成門院備前 生没年・世系未詳。(※寿成門院(1302-62)は後二条天皇皇女)
藤原宗郷女 伝未詳。 
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その9)

2022-09-15 | 唯善と後深草院二条
「特色」の続きです。(p141以下)

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 伝記資料が僅少な地下・僧侶歌人について見たい。勅撰集や他の二条派私撰集に入集せず、『拾遺現藻和歌集』にのみ名を留める歌人は四二名にのぼる。うち二一名は僧侶である。為世・為藤の愛顧を受けていた多くの二条派歌僧の中でも、従来から注意されてきた凝然・慈寛・仲顕・道暁らの詠も見える。
 鎌倉末期の近江葛川明王院文書に登場する祐増・実隆・隆世という僧が入集している。いずれも勅撰歌人ではない。明王院は無動寺の傘下にあり、青蓮院門跡が無動寺の検校を兼帯したので(三八三)、恐らく慈道か尊円が接点となってその詠がもたらされたのではあるまいか。
 三八〇・一に道我と都を離れる某との贈答歌がある。この相手は卜部兼好であるが、隠名で入集した点は兼好伝に興味深い材料を加えるであろう。他の四天王では、能誉・慶雲が零、浄弁一首に比して頓阿は五首も採られている。後年二条良基が『近来風躰』で「兼好はこの中にちとおとりたるやうに人々も存せしやらむ」と評した如く、元亨頃の兼好は歌壇でさ程高い評価を得ていなかった証左となるであろう。頓阿が地下歌人中で最も早く実力を認められていた事も改めて確かめられる。
 以上、思いつくまま挙げてきたが、歌人の伝記的事項については作者略伝も参照していただければ幸いである。
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道我と某「よみ人しらす」氏の贈答歌は次の通りです。

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     遠き国へまかるとて立よりて侍ける人の
     秋はかならす返るへきよし申侍しかは
                    法印道我
380 □□〔かきヵ〕りしる命なりせはめくりあはん秋ともせめて契をかまし
     返し             よみ人しらす
381 [      ]命をしらぬ別こそ秋とも契るたのみなりけれ
-------

小川氏の頭注によれば、

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380 道我集一〇四「兼好法師あつまへ下りさまに立ちよりて侍りしに、秋はかならすのほるへきよし申し侍りしかは」、兼好集六九、初句「かきりしる」、信拾遺七四六、初句「かきりある」

381 道我集一〇五、兼好集七〇、初句「行末の」
-------

とのことですが、『兼好自撰歌集』に出てくるので、この贈答歌はけっこう有名ですね。
ただ、ちょっと奇妙なのは、兼好は『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)三月一日の時点で既に勅撰歌人であることとの関係です。
即ち、小川氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)によれば、

-------
勅撰集の作者表記
 鎌倉時代後期に戸籍も住民票もあるはずはないが、兼好について何とか同時代人による身分証明が見つからないものだろうか。
 勅撰和歌集における作者表記が、示唆を与えてくれる。
 兼好は元応二年(一三二〇)に成立した、十五番目の勅撰集である続千載集に初めて入集した(雑歌下・二〇〇四)。その作は遁世後の思いを述べる一首である。

    題しらず          兼好法師
  いかにしてなぐさむ物ぞうき世をもそむかですぐす人にとはばや
  (どうやって心を落ち着かせるものなのか。遁世もしないでこの辛い世間で過ごす人に尋ねてみたい)

 兼好は以後の七つの勅撰和歌集に連続して計十八首採られるが、作者表記はすべて「兼好法師」である。
【中略】
 勅撰集編纂はいわば中世の国家事業であるから、集中の表記はその人物の社会的な扱いを反映している。撰者はもちろん、歌人にとってもそれは大きな関心事であった。官職か、実名か。出家者であれば俗名か法名か。また身分が低い歌人は「よみ人知らず」(隠名入集)とされるが、どのくらい低いとそうなるのか。こうした点を間違えればトラブルの種ともなり、かつその集の疵ともなる。作者表記は厳密に規定され、重要な故実として撰者を出す歌道師範家のもとで蓄積され、体系化されていた。
-------

とのことです。(p11以下)
この後、勅撰集の作者表記の原則が詳しく説明された後、次の結論となります。(p15)

-------
 以上のことからすれば、勅撰集の「兼好法師」の表記は、おのずとその出自層を語っていたのである。仮に朝廷に出仕した経験があっても、六位で終わったことを示す。西行と同じく侍品に属することは明白である。もし通説のように蔵人・左兵衛佐のような官に昇り五位に叙されたならば、遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである。続千載集完成の数年後、元亨二年(一三二二)三月に成立した私撰集の拾遺現藻和歌集(撰者未詳)で兼好の作は「よみ人知らず」にされてしまった。こうした私撰集もまた勅撰集に準じて編纂されるので、要するに侍品としても隠名か顕名か定まらない程度の身分であった。
-------

『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を初めて読んだとき、私は「勅撰集の作者表記」の考証の鮮やかさに感動しましたが、改めて『拾遺現藻和歌集』との関係を考えてみると、若干の疑問も浮かんできます。
即ち、二条派の有力歌人と思われる『拾遺現藻和歌集』の編者は、僅か二年前に二条派の総帥・為世が編んだ『続千載集』において兼好が「顕名」とされていたことを知らなかったのであろうか、という疑問です。
まあ、この時期は兼好などまだまだ下っ端の歌人ですから知らなかったのかもしれませんが、知っていてわざわざ「よみ人知らず」としたのであれば、『拾遺現藻和歌集』撰者の兼好に対する悪意がありそうです。
また、自分が勅撰歌人となったことに大いに誇りを感じていたであろう兼好が、仮に『拾遺現藻和歌集』を見て、自分が「隠名」で登場していることを知ったならば、相当な屈辱を覚えたのではなかろうかと思います。
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その8)

2022-09-14 | 唯善と後深草院二条
「特色」の続きです。(p141)

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 時代状況に直接連結するような事柄ではなくとも、各歌人の伝記に新たに加えられる点は多い。そのいくつかを指摘したい。
 まず、現存者対象という性格から、歌人の生存年代を知る目安となる。例えば、本集は京極派に冷たいにもかかわらず、為兼の姉従二位為子を二首入集させているのは注目される。正和五年頃没という通説は再考の余地があろう。
 鷹司冬平の関白辞退翌年の「述懐百首」(六八五)や、源知行(行阿)の「光源氏物語の心をよみ侍ける哥中に」の詠(五六八)は、各個人の事績として大いに興味を惹かれるものである。
-------

いったん、ここで切ります。
鷹司冬平は『拾遺現藻和歌集』に二十二首も入っていて、入集数ランキングでは邦良親王・小倉実教と並んで第九位ですね。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d2d8eddea4b8e2ffa9a4daa7821841a

冬平詠の685番は、

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     正和三年の秋の比述懐百首をよみ侍ける中に
                     前関白太政大臣
685 [      ]けに恋しけれ今は身のよその雲井の秋の夜の月
-------

というものです。
「作者略伝・索引」によれば、鷹司冬平は、

-------
冬平(前関白太政大臣) 建治元年(一二七五)~嘉暦二年(一三二七)正月十九日、五十三歳。藤原。鷹司基忠男。従一位関白太政大臣。号後称念院。後宇多院の評定衆。「この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へる」(増)、二条派の権門歌人ながら、伏見院に信任された(井)。日記は逸文のみ。『後称念院殿装束抄』あり。嘉元・文保・正中百首、伏見院三十首以下の催しに出詠。新後撰以下に八一首。続現葉、藤葉作者。22首〔二、一七、四〇、八三、一〇九、二四八、二六三、二七七、三一二、三四四、三五九、三六五、四〇〇、四一六、四五九、五一〇、五一四、六一八、六八五、七〇三、七四九、八一三〕
-------

という人物ですが(p184)、政治的経歴を補足すると、延慶元年(1308)、花園天皇の摂政となり、同三年(1310)に太政大臣、同四年(1311)以降、三回に渡って関白となっています。

鷹司冬平(1275-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%86%AC%E5%B9%B3

『拾遺現藻和歌集』の685番は「正和三年の秋の比」の歌なので、延慶四年(応長元、1311)三月に初めて関白となり、正和二年(1313)七月、父・基忠の服喪で関白を辞した翌年のことですね。
685番は欠損が多く、小川氏がいかなる意図で「各個人の事績として大いに興味を惹かれるものである」と書かれたのかは分かりませんが、政治史の観点から面白いのは、むしろ正和四年(1315)の第二回目の関白就任と翌五年の辞任です。
その顛末は小川氏が「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)で詳細に明らかにされていますが、正和四年(1315)九月二十一日、伏見院が冬平を関白に還補させたことが幕府の激怒を呼び、同年末の京極為兼逮捕と翌年の第二回目の流罪に直結します。

-------
 さて幕府から伏見院の「非拠」の最たるものとして突き付けられていたのが、第三項の「執柄還補事」であった。
 これは正和四年夏、関白近衛家平が辞意を洩らし、左大臣二条道平と前関白鷹司冬平が後任を競望したことに始まる。関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例であった。五月二十日には伏見院が「可被仰合関東云々」と関東申次に諮り、ついで六月十九日には院宣と冬平の款状二通、および道平の祖父・師忠・父兼基の款状が伝達されている(『公衡公記』)。
 やがて幕府は「事書案」にある如く、「任道理可為聖断」というこのような場合の決まり文句を返答して来た。それは、八月十日に幕府評定が開かれ、二条摂関家に対して「御先途御理運之条、雖勿論候、勅書之趣、暫可令期便宜給之由、被戴候上者、可令相待 公家御計給歟」という回答がなされたことからも裏付けられる。こうして九月二十一日鷹司冬平の還補となった。翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任であるとの主張が通ったが、もともと冬平は伏見院の覚えめでたい人物であった(『井蛙抄』巻六)。
 ところが、この関白交代が幕府の心証をひどく害した。「事書案」には「執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有其聞、被痛思食」とある。驚いた伏見院は、幕府が「可為聖断」というから冬平を還補させたのである、意が道平に在ったのならば最初からそう申せばよいではないか、と述べている。幕府が態度を硬化させた原因には二条摂関家が何らかの働きかけをしたことも推測されよう。そして関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる。為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した。そして冬平は結局在任一年にも満たず正和五年八月二十三日に退けられ、道平が関白となった。なお、二条摂関家にこの「事書案」が伝来したのは、以上のような経緯と関係があるのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbdb37ad5fab78cb7543aef8279b6e0a

冬平はこんな大騒動を惹き起こしながら、後に三度目の関白を望むなど、なかなかしぶとい人物ですね。
なお、『増鏡』にはこうした騒動は一切描かれておらず、冬平は延慶元年(1308)の花園天皇即位の場面に「十一月十六日御即位、摂政後照念院殿<冬平>、けふ御悦申ありて、やがて行幸に参り給ふ」(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p32)と登場した後は全く無視されています。
そして、嘉暦二年(1327)、巻十四「春の別れ」の最終場面に、

-------
 二月になれば、やうやう故宮の御一めぐりの事ども、永嘉門院にはいとなませ給ふも、あはれ尽きせず。鷹司の大殿<冬平>もうせ給ひぬ。この頃の世には、いと重くやんごとなくものし給へるに、いとあたらし。北政所は中院の内の大臣通重の御はらからなり。それもさま変はり給ひぬ。近ごろよき人々多くうせ給ふさまこそ、いと口惜しけれ。
-------

という具合いに(同、p162)、その死が簡単に記録されています。
小川氏が「作者略伝・索引」で引用されるように、確かに「この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へる」という表現はありますが、『増鏡』の中では「故宮」邦良親王の一周忌の記事の付け足しのような扱いであり、冬平が『増鏡』の中で「いと重くやんごとなく」扱われている訳ではありません。
『増鏡』には摂関家関係の記事が極めて少なく、その扱いも概ね冷淡で、これが『増鏡』作者についての、再改説後の小川剛生説を含む通説の最大の問題点ですね。
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その7)

2022-09-13 | 唯善と後深草院二条

『増鏡』作者が世良親王のように特段の業績を残さないまま早世してしまった人物について極めて高い評価をしている点、『増鏡』作者と当該人物の間に何か特別な関係があったことを窺わせますが、再改説後の小川剛生説を含む通説が『増鏡』作者とする二条良基(1320-88)の場合、世良親王との特別な関係は窺えないようですね。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6

さて、「特色」の続きです。(p141)

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元亨頃には、後宇多・邦良と後醍醐の関係は既に円滑を欠いていた(花園院宸記 正中元年六月廿五日条)。従って「御なからい、うはべはいとよけれどもまねやかならぬ」(増鏡<春の別れ>)と噂された、後醍醐と邦良の贈答が二組も見える(二六・七、三二一・二)のは意味深長である。経継が「後二条院宸筆の御記」を見て道我に送った哀傷詠に、後宇多が返歌した贈答(七七九・八〇)があり、源親教・教時父子、藤原敦季など、歌人としてあまり聞こえるところがない後二条・邦良の側近の詠も採られている等、後二条系皇族とその関係者に比較的厚い印象も受ける。
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『増鏡』巻十四「春の別れ」の冒頭、正中元年(1324)に後宇多院が重病となって後醍醐が見舞った後、邦良親王行啓の場面となりますが、そこに「御なからい、うはべはいとよけれどもまねやかならぬ」という表現が出てきます。
即ち、

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 そののち御孫の春宮行啓あり。世をしろしめさむ時の御心づかひなど、いま少し細やかに聞えしらせ給ふ。宮は先帝の御かはりにも、いかで心の限りつかうまつらん、とあらまし思されつるに、あかず口惜しうて、いたうしほたれさせ給ふ。
 御門の御なからひ、うはべはいとよけれど、まめやかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、ただ大方につけて、よにあるべきことども、又このごろ少し世に恨みあるやうなる人々の、わが御心にはあはれと思さるるなどあまたあるをぞ、御心のままなる世にもなりなん時は、かならず御用意あるべくなど聞え給ひける。中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々の事にやありけん。
 その夜はとまり給へるも知ろしめさで、夜うちふけて、少しおどろかせ給ひて「春宮はいつ返り給ひぬるぞ」とのたまふに、うち声づくりて近く参り給へれば、「いまだおはしましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色あはれなり。大方の気色、院の内のかいしめりたるありさまなど、よろづ思しめぐらすに、いとかなしきこと多かれば、宮、うち泣き給ひぬ。
 心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月廿五日つひに隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。
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とのことで(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p122以下)、邦良親王派の「中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々」は後醍醐天皇に冷遇されていた訳ですね。
後宇多院はそれを心配しており、邦良親王の世になったら必ず引き立ててやれよと遺言したそうですが、二年後の嘉暦元年(1226)、邦良親王も亡くなってしまいます。
『増鏡』では邦良親王薨去の記事も長大ですね。(同、p142以下)

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 月日程なく移り行きて、嘉暦元年になりぬ。弥生の初めつ方より、春宮例ならずおはしまして、日々に重らせ給ふ。さまざまの御修法ども初め、御祈りなにやかやと、伊勢にも御使奉らせ給へど、甲斐なくて三月廿日つひにいとあさましくならせ給ひぬ。
 宮のうち火を消ちたる心地して惑ひあへり。御めのとの対の君といふ人、夜昼御かたはらさらずさぶらひなれたるに、いみじき心まどひ、まことにをさめがたげなり。限りと見え給ふ御顔にさし寄りて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、えおはしましやらじ。今ひとたび、御声なりとも聞せさせ給ひて、いづ方へも御供に率ておはしましてよ」と声も惜しまず泣き入り給へるさま、いとあはれなり。
 すべて宮の内とよみ悲しぶさま、いはん方無し。【後略】
-------

ということで、周囲の嘆きの場面が延々と続きます。
そして、

-------
 有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふさまならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの宮こに参らんと同じやうに上らんとて、いまだかしこにものせられつるに、かくあやなきことの出で来ぬれば、いみじともさらなり。三月つごもりやがて頭おろす。心の内さこそはと悲し。
  大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな
 宮こにも、前の大納言経継、四条三位隆久、山の井の少将敦季、五辻少将長俊、公風の少将、左衛門佐俊顕など、みな頭おろしぬ。女房には、御息所の御方、対の君、帥君、兵衛督、内侍の君など、すべて男・女三十余人、さま変はりてけり。【後略】
-------

という具合いに、三十数名が出家という事態となります。(同、p147)
中でも、幕府への工作のために鎌倉にいた六条有忠は鎌倉で出家しますが、その時に有忠が詠んだ歌が『増鏡』巻十四の巻名「春の別れ」となります。
ところで、小川氏は「源親教・教時父子、藤原敦季など、歌人としてあまり聞こえるところがない後二条・邦良の側近」と書かれていますが、「作者略伝・索引」によれば、源親教(生没年未詳、源資平男、従三位非参議)は邦良親王薨去の嘉暦元年ではなく、嘉暦三年に出家とのことなので(p177)、「側近」とまで言えるのか、若干の疑問も感じます。
教時については、小川氏自身が「邦良親王の近臣か」とされていますね。(p182)
ま、そんな細かなことはともかく、『増鏡』に邦良親王派の代表として挙げられている「中御門の大納言経継、六条の中納言有忠、右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞えし人々」は、中御門俊顕を除き、いずれも『拾遺現藻和歌集』に採歌されていて、中御門経継(1257-?)は二十一首、六条有忠(1281-1338)は十一首、山科教定(1271-1330)は三首ですね。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その6)

2022-09-12 | 唯善と後深草院二条
「北条宗宣勧進住吉社三十六首」の作者については、後で「北条貞時勧進三島社十首」と比較して論ずることとし、「特色」に入ります。(p140以下)

-------
 『拾遺現藻和歌集』の歌風は、伝統的で平板な二条風を逸脱するものではない。永福門院・花園院・従二位為子・伏見院新宰相らの僅かな京極派歌人の作も、穏やかな詠を撰んでいる。従って『続千載集』『続後拾遺集』、あるいは『続現葉集』などの風躰と質的な差異は認めがたい。本集が独自の歌風を志向しているかどうかは、今後の検討に俟たなければならない。ここでは聊か表面的ながら、本集から得られる新たな歌壇史的知見をいくつか指摘しておくにとどめたい。
 『拾遺現藻和歌集』の最大の特色は、やはり、後宇多院を中心として盛況を呈した元亨頃の歌壇や二条派廷臣歌人たちの動向が具体的につかめる点であろう。文保二年(一三一八)二月、後醍醐の践祚にともなって、第二次後宇多院政が開始される。後宇多はその政治力を存分に発揮し、花園を退位に追い込んだだけでなく、春宮にも嫡孫邦良を立てる事に成功したが、一方で、

  我すめは人目もかれぬ山里になをもひまなきあさまつりこと(二八七)
  □〔思ヵ〕ひすつる世を鶯のなにとたにいつる春日も時そありける(六二二)

等、再び院中に政を聴いた感懐を率直に伝える詠が見られる。真言密教研鑽の志が強かった後宇多は、元亨元年暮に院政を停止、政務を後醍醐に譲っている。
 後醍醐の入集歌二六首のうち二三首は新出歌である。「嘉元四年後二条院三十首」の詠があり、若年期から和歌に熱心であった事が察知されるが、「嘉元百首御哥中に」(二五七)という詞書を持つ詠が一首ある。嘉元百首の現存本は二七名の歌人の作を伝えるが、他にも八名の詠進が確認されている。これだけでは断定し難いものの、嘉元元年に十六歳であった後醍醐が出詠した可能性も考えられよう。
 後宇多は邦良を鍾愛した。その懇ろな交流は亀山殿菊合の折の贈答(三五〇・一)にも窺える。一方後宇多は「尊治親王の子孫に於いては、賢明の器、済世の才有らば暫く親王として朝に仕え君を輔けよ」(原漢文)と厳命し、後醍醐の皇子には皇位継承を断念させた。但し、後醍醐の第二皇子世良は後宇多の妹昭慶門院喜子内親王に養育され、女院の厖大な所領の相続人に指定されていた。第一皇子尊良を閣いて、世良の詠が本集に三首も入っている事は、如上の事情からであろう。富裕な女院のもとに、後宇多は近臣としばしば御幸し、元亨元年十月には三首歌合も行なわれた(二四六、二七六、三五二)。光吉集三〇四は「太宰帥<世良>親王家に御幸ありて」とするが、世良が既に女院と同居していたからであろう。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
私の関心は「昭慶門院二条」にあるので、昭慶門院に関係する歌を挙げておきます。

-------
     照〔昭〕慶門院に御幸ありける〔ママ〕庭残菊といふ
     ことを人々つかふまつりける次に
                     法皇御製
246 庭の面に老の友なる白菊は六十のしもやなをかさぬらん

     照〔昭〕慶門院に御幸ありて三首哥合侍
     ししに松下落葉といふ事を
                     第二親王<世>
276 □□□によその紅葉を吹よせて嵐そ松の色にそえける

     昭慶門院に御幸ありて人々翫ける同
     枝につけゝる哥         前大納言定〔実〕教
352 雨露のめくみにそむる紅葉はのちしほは君が御代の数かも
-------

「法皇」は後宇多院(1267-1324)、「第二親王<世>」は世良親王(?-1330)、「前大納言定〔実〕教」は小倉実教(1294-1349)です。
亀山院皇女の昭慶門院(1270-1324)は後宇多の三歳下の異母妹で、没年は後宇多と一緒ですね。

https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159

そして昭慶門院と同居していた世良親王は、「作者略伝・索引」によれば、

-------
世良(第二親王<世>) 延慶元年(一三〇八)頃~元徳二年(一三三〇)九月十七日、二十三歳位か。後醍醐院皇子。元亨四年三月十二日元服(花)。太宰帥、上野守。将来を嘱望され、議定にも参仕(後光明照院関白記嘉暦三・十・十七)。続後拾遺以下に二首。藤葉作者。3首〔三六、二七六、四四〇〕
-------

とのことですが、少し補足すると母は橋本実俊(西園寺公相男、1260-1341)の娘「遊義門院一条」で、乳父が北畠親房ですね。
『増鏡』巻十四「春の別れ」には、嘉暦二年(1327)の記事に、

-------
 かくて今年も暮れぬれば、嘉暦も二年になりぬ。一の宮御冠して中務の卿尊良の親王と聞ゆ。去年より内に御とのゐ所して渡らせ給ふ。【中略】
 二の宮は西園寺の宰相中将実俊の女の御腹なり。帥の御子世良の親王と聞ゆ。昭慶門院とりわき養ひ奉らせ給ふ。この宮は御めのと源大納言親房なり。それもうちうち、うへの御衣にて、御門南殿へ出でさせ給へば、御供にさぶらはせ給ふ。
-------

とあります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p161)
また、少し後、元徳二年(1330)の記事には、

-------
 今年も人多く俄か病みして死ぬる中に、帥〔そち〕の御子重く悩ませ給ひてあへなくうせ給ひぬ。内の上、思し嘆く事おろかならず。一の御子よりも御才などもいとかしこく、よろづきやうざくに物し給へれば、今より記録所へも御供に出でさせ給ふ。議定などいふ事にも参り給ふべしと聞えつるに、いとあさまし。御めのとの源大納言親房、我が世尽きぬる心地して、とりあへず頭おろしぬ。この人のかく世を捨てぬるを、親王の御事にうちそへて、かたがたいみじく、御門も口惜しく思し嘆く。世にもいとあたらしく惜しみあへり。
-------

とあり(p178)、親房は世良の死を受けて「我が世尽きぬる心地して」出家してしまいます。
世良親王は早世したので結果的に何の業績も残していない人ですが、『増鏡』の作者は「一の御子よりも御才などもいとかしこく、よろづきやうざくに物し給へれば、今より記録所へも御供に出でさせ給ふ。議定などいふ事にも参り給ふべしと聞えつるに」と激賞していて、これは人物評価に甘くない『増鏡』の作者にしてはちょっと珍しい書き方ですね。

世良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
遊義門院一条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%BE%A9%E9%96%80%E9%99%A2%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%B1%80
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その5)

2022-09-11 | 唯善と後深草院二条
「撰集資料」の続きです。(p139)

-------
 一方、持明院統・京極派の催しからの撰入は、二条派歌人も出詠した公的な会に限られているようである。9・10は純粋な京極派の歌合で、二条派の撰集が採用したのは珍しいが、実兼・俊光が出詠しているからであろう(両人は元亨頃大覚寺統にも近かった)。武家の入集もさほど多くはなく、関東歌壇には関心が薄いようである。恐らく撰者の手許にも資料がなかったのであろう。但し17住吉社三十六首は宗宣の在京中の勧進であろうが、本集によれば洞院実泰や花山院家定のような貴顕も動員した催しであった事が判明する。
-------

僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」、即ち、

3、△正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首     一首
15、△延慶以前将軍久明親王家歌会             一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首

の内、「延慶以前将軍久明親王家歌会」の歌は、

-------
      式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ
      侍りける時          平時綱
366 □〔うヵ〕つろはぬ色にてしりぬよゝをへてひさしかるへきそのゝくれ竹
-------

というもので(p62)、「式部卿親王」が第八代将軍・久明親王です。
「作者略伝・索引」によれば、歌人としての久明親王は、

-------
久明(式部卿親王) 建治二年(一二七六)九月十一日~嘉暦三年(一三二八)十月十四日、五十三歳(将軍執権次第)。後深草院皇子。一品式部卿。正応二年十一月征夷大将軍、延慶元年七月解任。上京。歌を好み将軍時和歌所を設置(夫木抄)、冷泉為相女を後室とす。新後撰以下に二二首。拾遺風躰、柳風、続現葉作者。5首〔五〇、二九六、七二九、七八四、七九一〕
-------

という人物です。(p183)

久明親王(1276-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

平時綱は武将・政治家としては無名ですが、「作者略伝・索引」によれば、

-------
時綱(平) 生没年未詳。五位美濃守。北条(佐介)時員男。『玉葉』に一首。2首〔三三九、三六六〕
-------

とのことです。(p179)、
平時綱の366番の歌には「式部卿親王家にて人々題さくりて哥よみ侍りける時」とあるだけで年次は明記されていませんが、小川氏が「延慶以前」とされているように、これは将軍在任中に鎌倉で行われた歌会であることが明らかですね。
さて、問題の「正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首」と三番目の「正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首」は北条一族が主催する勧進和歌として類似するので、後者は前者の性格を窺う史料として興味深いですね。
そこで、その参加者と撰歌を見てみます。

-------
      平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十〔六脱〕首
      哥の中に           左大臣
30 ふかき夜の涙やくもるさはひめの霞の袖にやとる月かけ

      【詞書略】          左大臣
96 □〔なヵ〕みかくるはまなのはしもうきぬ成たかしの山の五月雨の比

      【詞書略】          左大臣
200 [     ]のした葉の秋風にひとりある人や月をみるらん

      【詞書略】          前右大臣<家>
279 □〔山ヵ〕影はつもる木の葉のふかけれは雪よりさきに道そたえぬる

      【詞書略】
372 □〔住ヵ〕吉の神にまかせておさまれる御代にさかへよしきしま道〔ママ〕

                     前大納言為世
373 □〔たヵ〕えすなを神そまもらん住吉の松のせ〔本ノマゝ〕ちなるしきしまの道

      【詞書略】
422 □〔山ヵ〕河のいはもとこすけこすなみのしたにやついにおもひくちなん         
      【詞書略】          法印長舜
762 行末のおほつかなさもなかりけり老や身をしる恨なるらん
-------

「左大臣」は洞院実泰(1270-1327、公守男、従一位左大臣)で、この人は『拾遺現藻和歌集』全体で十四首採られていますが、その中の三首が「北条宗宣勧進住吉社三十六首」からですね。
「前右大臣<家>」は花山院家定(1283-1342、家教男、従一位右大臣)です。
372番は直前の371番に「前中納言有忠」とあるので、372番では名前が省略されています。
有忠(1281-1338、正二位権中納言)は『増鏡』に奇妙な記事がある六条有房の息子で、邦良親王派の中心であり、『増鏡』によれば邦良親王薨去に際して関東で出家した人です。
373番には詞書がありませんが、これは直前の372番に「平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社の三十六首哥に」とあって、同じ催しの歌なので省略されているからです。
「前大納言為世」は、もちろん二条派の総帥・二条為世(1250-1338、為氏男、正二位権大納言)ですね。
422番も名前が省略されていますが、直前の421番に「法印定為」とあります。
定為(生没年未詳)は為氏男で、為世の兄弟ですね。
「法印長舜」は生没年未詳で、二条派の歌僧です。
以上、六人の略歴を見ると、北条宗宣の勧進といっても、参加者は全て京都の貴族・僧侶ですね。
そもそも住吉社への奉納和歌である上に、北条(大仏)宗宣は永仁五年(1297)七月に六波羅探題南方に就任し、乾元元年(1302)正月まで在京なので、六波羅探題在任中の催しだろうと思われます。
小川剛生氏もそう推定されていますね。(p9)

北条宗宣(1259-1312)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%AE%A3
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その4)

2022-09-10 | 唯善と後深草院二条
「撰集資料」の続きです。(p139)

-------
 現存者対象であるため撰歌範囲も限られ、大半は永仁以降の催しである。嘉元・文保の両応製百首を出典とする歌は全体のほぼ三分の一弱におよぶ。成立直前、元亨頃の大覚寺統関係者の催しからの撰歌が目立つのも特徴的である。特に25亀山殿千首(散逸。続後拾遺<七六>ほかによれば元亨二年の催行。作者は後宇多・忠房・邦省・為世・公明・為藤・実教・経継・光吉・道我ら)からは三〇首もとっている。本集序では、

 たゝおしなへてもゝしきの雲の上人、はこ屋の□〔山ヵ〕の月の位より野辺にをふる
 かつら、林にしけき木の葉のたくひまて目〔本ノマゝ〕にきゝ耳に見る哥をかきあつ
 めつゝ、むもれ木のひとしらすみちにふける心さしをあらはすといえとも、くれ竹の
 よにもらむそしりをしらすなん。

と述べているが、『増鏡』<秋のみやま>にも、元亨頃は「院にも内にもあさまつりごとのひまひまには御歌合のみしげう」とあり、互いに構成員を重ならせつつ、仙洞・禁裏・春宮に歌壇が形成され、それぞれ旺盛な活動を展開した時期であった。本集成立の根源的なエネルギーはそこにあると考えてさしつかえないであろう。聖護院覚助法親王、後宇多の猶子であった忠房親王、後二条の第二皇子邦良親王らはいずれも歌好みで、二条派歌人のパトロン的存在であった。
 2・12・18は鎌倉後期歌壇史上大きな意義を有する催しで、既に行き届いた考察が発表されているが、いずれにも僅かながら逸文を新加する事ができる。
-------

いったん、ここで切ります。
『増鏡』の「院にも内にもあさまつりごとのひまひまには御歌合のみしげう」は「29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合」に関する記事からの引用ですね。
『増鏡』では、この直前に『続千載集』に関する面白い記事があります。
即ち、

-------
 当代もまた敷島の道をもてなさせ給へば、いつしかと勅撰のこと仰せらる。前藤大納言為世承る。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらんかし。【中略】
 さて大納言は、人々に歌すすめて、玉津嶋の社に詣でられけり。大臣・上達部よりはじめて歌よむと思へる限り、この大納言の風を伝へたるは洩るるもなし。子ども孫どもなど、勢ひことに響きて下る。
 まづ住吉へ詣づ。逍遙しつつののしりて、九月にぞ玉津嶋へ詣でける。歌どもの中に、大納言為世、
  今ぞ知る昔にかへるわが道のまことを神も守りけりとは
 かくて、元応二年四月十九日、勅撰は奏せられけり。続千載といふなり。新後撰集と同じ撰者の事なれば、多くはかの集に変はらざるべし。為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて、いま少しこの度は心にくき様なりなどぞ、時の人々沙汰しける。
-------

とのことで(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』、p69以下)、宿敵・京極為兼が伏見院の庇護の下に『玉葉集』を撰進した際の鬱憤を晴らした二条為世が一族と二条派歌人を率いて意気揚々と玉津島社に参詣したことが描かれています。
ただ、『増鏡』作者の為世に対する視線はいささかシニカルで、『続千載集』はかつて為世が撰進した『新後撰集』と変わり映えはしないけれども、「(子息の)為藤中納言は、いささか考えの深い人で、(その助力があったからか)いますこし、(前集より)この『続千載』のほうが趣深い風体である、などと時の人々は評判したのであった」(井上訳、p71)との評価です。
『拾遺現藻和歌集』では、「45、〇元応二年秋二条為世勧進玉津嶋社歌合」は四首ですね。
そして、この後、

-------
 院にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみしげう聞えし中に、元亨元年八月十五夜かとよ、常よりことに月おもしろかりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、ことなる御遊びなどもあらまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿におはしますころにて、糸竹の調べは折あしければ、例のただうちうち御歌合あるべし、とて侍従の中納言為藤召されてにはかに題奉る。
 殿上にさぶらふ限り、左右同じ程の歌よみをえらせ給ふ。左、内の上・春宮大夫<公賢>・左衛門督<公敏>・侍従中納言<為藤>・中宮権大夫<師賢>・宰相<維継>・昭訓門院の春日<為世女>、右、藤大納言<為世>・富小路大納言<実教>・同中納言<季雄>・公脩・宰相<実任>・少将内侍<為信女>・忠定朝臣・為冬、忠守などいふ医師もこの道の好きものなりとて召し加へらる。
 衛士のたく火も月の名だてにや、とて安福殿へ渡らせ給ふ。忠定中将、昼の御座の御はかしを取りて参る。殿上のかみの戸を出でさせ給ひて、無名門より右近の陣の前を過ぎさせ給へば、遣水に月のうつれる、いとおもしろし。安福殿の釣殿に床子たてて、東南におはします。上達部は簀子の勾欄に背中おしあてつつ、殿上人は庭にさぶらひあへるもいと艶なり。
 池の御船さし寄せて、左右の講師隆資・為冬のせらる。御みきなど参るさまも、うるはしきことよりは艶になまめかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず。いと心もとなし。照る月波も曇りなき池の鏡に、いはねどしるき秋のもなかは、げにいとことなる空の気色に、月もかたぶきぬ。明けがた近うなりにけり。上の御製、
  鐘の音もかたぶく月にかこたれて惜しと思ふ夜は今夜なりけり
と講じあげたる程、景陽の鐘も響きをそへたる、折からいみじうなん。いづれもけしうはあらぬ歌ども多く聞こえしかど、御製の鐘の音にまさるはなかりしにや。かくて今年も又暮れぬ。
-------

という具合いに、「29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合」の様子が華麗な文体で詳細に綴られます。
このように、『拾遺現藻和歌集』の撰歌範囲の行事に関する『増鏡』の叙述には相当詳細なものがあり、しかも『続千載集』への評価のように歌壇事情の機微に通じていることを窺わせる記事が見られます。
『拾遺現藻和歌集』と『増鏡』の関係を論ずる準備は出来ていませんが、非常に面白いテーマですね。
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その3)

2022-09-09 | 唯善と後深草院二条
「撰集資料」に入ります。(p137以下)

-------
 『拾遺現藻和歌集』の編纂の方針を探る一助として、本集が採歌した、歌会・歌合・定数歌等の催しを、左の【年表一】に掲げた。
【年表一】
 <凡例>
(1)名称は集中の詞書の表記に準じ、年代順に配列した。私的な定数歌などは省いた。
(2)同じ場所での時期的に近接した催しと推定されるものは、一群に示した。
(3)詞書に明記されていなくとも、証本や他文献との題の一致によって年次が判明する催しはこれを冠して示した。
(4)単に「内裏歌合に」等とのみあって、同一の催しか判然としない場合には*を付した。
(5)〇は大覚寺統・二条派主催の、×は持明院統・京極派主催の、△は関東歌壇関係者による行事。

1、 文永二年(一二六五)白川殿七百首          一首
2、〇弘安百首                      九首
3、△正応五年(一二九二)北条貞時勧進三島社十首     一首
4、×永仁元年(一二九三)八月十五日夜内裏五首      一首
5、〇同年八月十五日夜後宇多院十首            二首
6、〇永仁四年仙洞(後宇多院)歌合            一首
7、〇永仁五年仙洞(後宇多院)歌合            一首
8、〇永仁六年亀山殿五首歌合               三首
9、×乾元二年(一三〇三)閏四月伏見院五十番歌合     二首
10、×同年五月伏見院三十番歌合              三首
11、〇嘉元百首                     九七首
12、×嘉元元年(一三〇三)伏見院三十首         一〇首
13、〇嘉元四年後二条院三十首              二〇首
14、〇嘉元年間後二条院歌合                一首
15、△延慶以前将軍久明親王家歌会             一首
16、×延慶三年(一三一〇)八月十五日夜内裏十五首     一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首
18、〇覚助家五十首                   二〇首
19、〇文保以前尊治家歌会                 一首  
20、〇文保百首                    一七二首
21、〇文保二年(一三一八)八月常磐井殿探題詩歌会     三首
22、〇元亨元年(一三二一)九月二十五日亀山殿五首    一一首
23、〇同年十月昭慶門院(=世良親王家)三首歌合      三首
24、〇同年亀山殿二首                   二首
25、〇元亨二年亀山殿千首                三〇首
26、〇亀山殿暮秋二十首                  二首
27、〇後宇多院法門五十首                 一首
28、×八月十五日夜後伏見院十首              一首
29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合            四首
30、〇内裏三首                      一首
31*、〇内裏歌合                      四首
32、〇元亨元年八月十五日夜邦良家歌合           五首
33*、〇邦良家歌合                     三首
34、〇邦良家三首                     三首
35、〇邦良家三十首                    一首
36+、〇邦良家歌会                     二首
37、〇邦良家探題歌会                   一首
38、〇忠房家七百首                    二首
39、〇忠房家七首                     三首
40、〇忠房家歌合                     一首
41、〇邦省家五十首                    七首
42、 西園寺実兼家十首                  三首
43、 花山院家定家歌合                  一首
44、〇元応元年(一三一九)六月小倉公雄勧進北野社三首   一首
45、〇元応二年秋二条為世勧進玉津嶋社歌合         四首
46、〇元亨二年為世家探題千首               一首
47、 元応二年十一月桓守勧進日吉社三首歌合        一首     
-------

いったん、ここで切ります。
〇×△の記号別に数えると、

 〇 34
 × 6
 △ 3
 無 4

となっており、「大覚寺統・二条派主催」が72.3%と圧倒的多数ですね。
「昭慶門院二条」が登場する「北条貞時勧進三島社十首」は僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」の一つで、他は、

15、△延慶以前将軍久明親王家歌会             一首
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 八首

となっています。
また、採歌の多いものから並べ直してみると、上位十位は、

20、〇文保百首 172
11、〇嘉元百首 97
25、〇元亨二年亀山殿千首 30
13、〇嘉元四年間後二条院歌合 20
18、〇覚助家五十首 20
22、〇元亨元年(一三二一)九月二十五日亀山殿五首 11
12、×嘉元元年(一三〇三)伏見院三十首 10
2、 〇弘安百首 9
17、△正和元年(一三一二)以前北条宗宣勧進住吉社三十六首 8
41、〇邦省家五十首 7

ということで、文保百首・嘉元百首を合計すると269首もあり、上位十位の合計で384首ですね。
なお、いかなる催しに際しての歌か分からないものも多数ありますので、【年表一】の47項目の歌数を全部合計しても456首であり、全826首の55.2%程度ですね。
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訂正とお詫び:「長沼宗秀」について

2022-09-09 | 唯善と後深草院二条
前回投稿で、

-------
なお、武士8名の中に「長沼宗秀」とありますが、これは長井宗秀の誤りでしょうね。
長井宗秀は京極派に近かった人です。

長井宗秀は京極派歌人か?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d121582dfb441a2befb6af471f2e3403
京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7189df37b63ed5d3821a7689d7bf839
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

小川氏は長井宗秀と相性が悪いのか、最近の論文でも変なミスをしていますね。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
-------

と書いてしまいましたが、私の全くの勘違いだったので削除しました。
そもそも『拾遺現藻和歌集』に登場する「長沼宗秀」は藤原姓なので、大江姓の「長井宗秀」のはずがありません。
小川著の「作者略伝・索引」によれば、

-------
宗秀(藤原) 生没年未詳。長沼宗泰男。五位。正安元年十二月六日将軍家政所下文にて亡父の所領地頭職を安堵され(園城寺文書 鎌倉遺文二〇三一三号)この時左衛門尉。正和元年四月十四日譲状執筆(武蔵長沼宗雄氏文書 鎌倉遺文二四五九一号)、時に前淡路守。元徳元年(一三二九)二月生存(金澤貞顕書状 鎌倉遺文三〇五〇五号)。為道十三回忌詠あり(続千載二〇八九)、新後撰以下一九首。柳風、続現葉、藤葉作者。3首〔六一二、六五四、六七六〕
-------

とのことで(p186)、何から何まで大江姓の「長井宗秀」と異なります。
この時期の「宗秀」といえば長井宗秀に決まっているだろうという思い込みから、「作者略伝・索引」も実際の入集歌も確認しないまま昨日の投稿をしてしまいました。
お詫びして訂正します。
なお、「藤原宗秀」の入集歌は次の通りです。

-------
612 □〔うヵ〕らみても猶こそしたへ恋しさのうきにまさるゝ心ならねば

654   たいしらす
   □〔我ヵ〕のみそ心をつくす時鳥またてはたれかはつねきくらし

676 □〔唐ヵ〕衣すそのゝ原の女郎花をのか妻とや鹿の鳴らん
-------

また、歌人としての「大江宗秀」は次のような人物です。(水垣久氏「やまとうた」サイトより)

-------
大江宗秀 おおえのむねひで 文永二~嘉暦二(1265-1327)

羽前国長井荘を本拠とする長井氏の出。大江匡房の裔、関東執権広元の玄孫にあたる。宮内権大輔時秀の息子。兄弟に貞広がいる。北条実時の娘を娶り、貞秀をもうける。子孫には歌人が多く出た。
関東評定衆。甲斐守・宮内大輔・掃部頭を歴任し、正五位下に至る。
京極派の武家歌人。正応四年(1291)~永仁四年(1296)頃、京極為兼・冷泉為相らが出詠した歌合に参加している。新後撰集初出。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/munehide.html

武家歌人としては長沼宗秀よりも著名な大江宗秀は『拾遺現藻和歌集』が成立した元弘二年(1322)三月一日時点で存命ですが、おそらく京極派ゆえに採られなかったのだろうと思います。
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その2)

2022-09-08 | 唯善と後深草院二条
「入集歌人」に入ります。(p135)

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 『拾遺現藻和歌集』は、序文より元亨二年(一三二二)三月一日の成立と知られる。公卿歌人の位署と照合しても、これに矛盾を来す例は殆どない。ただし、四月五日に参議を退いた中納言経宣が前参議と表記されているのは成立以前に修訂されたのであろうが、それでも八月十一日に左大臣洞院実泰が辞職した結果生じた三公転任の人事が反映されておらず、九月に没した実超や西園寺実兼が作者となっているので、遅くとも同八月までの最終的完成とみられる。
 「現藻」の語は「現存者の詠藻」の意と解され、実際現存歌人対象の集である(なお「拾遺」の意については後述する)。歌人はすべて一八二名(隠名および詞書歌の作者は除く)。内訳は俗人男子九六人、女性三〇人、僧侶五六人。十首以上入集の歌人一九名を上位から示す。

 ①後宇多院 38首 ②二条為世 32首 ③西園寺実兼 30首 ④定為 27首 ④小倉公雄27首
 ⑥後醍醐天皇26首 ⑦二条為藤 25首 ⑧三条実重 24首 ⑨鷹司冬平 22首 ⑨邦良親王 22首
 ⑨小倉実教 22首 ⑫中御門経継 21首 ⑫覚如法親王 21首 ⑭二条道平 16首 ⑮洞院実泰14首
 ⑯六条有忠 11首 ⑯冷泉為相 11首 ⑱後伏見院 10首 ⑱二条為定 10首

 後宇多・後醍醐・邦良の大覚寺統三代が十位以内に入り、第二位の宗匠為世以下、定為・為藤・為定ら二条家一門、その門弟分で大覚寺統に近い廷臣歌人、公雄、実教、経継、有忠らが顔を揃えている。また、久しく朝野に勢威を振るった実兼が三位に在り、冬平、道平、実重、実泰といった、二条家に好意的な権門歌人が家格・歌歴に応じてそつなく採られている。但し、二条派および大覚寺統系の歌人で占められている中で、十八位の後伏見院と十六位の冷泉為相は異彩を放っている。
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この後、「十首未満の歌人について、歌壇内の勢力別に主要歌人と歌数を挙げると次の如くである」として、大覚寺統10名、二条家・二条派22名、持明院統6名、京極派3名、歌道家3名、権門6名、大覚寺統系廷臣15名、僧侶8名、武士8名が列挙されますが、煩瑣なので省略します。
六首入集の「昭慶門院一条」は「二条家・二条派」ですが、四首入集の「昭慶門院二条」はどこにも入っておらず、分類不能ということですね。
ま、それはともかく、続きです。(p136以下)

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現存する二条派歌人と大覚寺統関係者を重視し、持明院統と京極派を冷遇していることが確認できよう。配所に在る為兼は勿論入っていないし、その猶子であった忠兼・為基らも閉め出されている。
 この性格は、同じ鎌倉末期に相次いで編まれた二条派の私撰集、『続現葉和歌集』『臨永和歌集』『松花和歌集』と同一である。就中本集成立の翌元亨三年の撰とされる『続現葉集』とは一〇六名の作者が共通している。
 しかし、二条家の庶流は為実以外見当たらない。西園寺家でも兼季・道意・覚円、また廷臣では花山院師賢・滋野井実前・源具行などの、一応力量あると目された歌人が入集していない。その事情は不明だが、『続現葉集』が現存十巻で七八五首を数えるのに較べれば、『拾遺現藻和歌集』はかなり小規模であり、必ずしも当時の歌人を網羅しようとした撰集であるとは考えにくい。
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「入集歌人」は以上です。
なお、二条派の私撰集といっても、『臨永和歌集』『松花和歌集』は本当に鎌倉最末期、幕府崩壊の直前に「鎮西歌壇」で生まれたもので、『拾遺現藻和歌集』とは入集歌人の層もかなり違いますね。

四月初めの中間整理(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4c276671befcb6ece6cf1e8589eb0ec
四月初めの中間整理(その14)~(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbabbcf7e6d0394b5518ea5767d8dcc1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1aaae9b12e863bbe3cdd79e902fa06f0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccc27cc6ee235a7fdee81021fcdbf7ef
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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)

2022-09-08 | 唯善と後深草院二条
それでは「昭慶門院二条」を探究すべく、小川剛生氏の『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見て行くことにします。

https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/syuigenso.htm

同書は大きく翻刻と「『拾遺現藻和歌集』の研究」に分かれていますが、まずは概要を把握するため、後者の「はじめに」を引用します。(p131以下)

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 鎌倉時代末期成立の私撰和歌集『拾遺現藻和歌集』は、現在のところ田中穣氏旧蔵、国立歴史民俗博物館現蔵の一本が知られるのみである。既に川瀬一馬氏編『田中教忠蔵書目録』(自家版 昭57・11)に於いて、
  拾遺現藻和歌集   一冊。室町末期寫。巻首端少々損缼。「山科蔵書」朱印記を捺す。裏打、大本。
と紹介されているが、その内容につき言及した文献はこれまでなかったようである。ここでは、書誌・部立・入集歌人・撰集資料・特色・撰者・意義といった基礎的な事項につき順に解説していくことにしたい。
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「書誌」を見ると、室町後期の写本で、「山科蔵書」の朱印が押されていて、これは山科忠言(1762-1833)のものだそうです。
ただ、

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田中本の内には同じ「山科蔵書」の印記を持つ歌書が他にも何点か含まれている。それらは戦国期の同家当主、権大納言言継(一五〇七~七九)の書写にかかるものが多いが、『拾遺現藻和歌集』の筆跡は言継、あるいはその父言綱・息言経らとも異なっており、今の所、忠言以前の伝来は未詳とせざるを得ない。
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とのことです。(p132)
ついで「部立」に入ると、「 『拾遺現藻和歌集』は冒頭に仮名序を置き、全十巻、八二六首から成る。別に詞書に含まれる歌が三首ある。部立と歌数は次のようになっている」(同)とのことで、巻一から順番に、春歌(80首)、夏歌(54)、秋歌(133)、冬歌(78)、賀(32)、離別羇旅(36)、恋歌上(114)、恋歌下(90)、雑歌上(99)、雑歌下(110)だそうです。
そして、

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巻九は雑の四季詠、哀傷・釈教・神祇は巻十に含まれる。底本は破損による判読不能箇所が多く、また誤写誤読も少なからず見受けられるが、内容的に最も問題となるのは巻七恋上の次の歌群であろう(破損は□で示した。〔 〕内は推定、以下同じ)。
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との指摘の後、556~562番の歌が掲出されていて、558~561が「明らかに異質」なので、「別の文献から纔入したものと見るべき」(p133)だそうです。
「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」は553番なので、その直後に「別の文献から纔入したものと見るべき」部分があることから、小林一彦氏は、

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先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b48d539ba45bd1c2ba1a6516376b834b

と判断されたようですが、556番までの流れは自然なので、553番の作者を552番と同じく「昭慶門院二条」の作品と考えて無理はないと思われます。
この点、後で改めて検討します。
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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その4)

2022-09-07 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p101以下)

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17「□〔たヵ〕のむぞよ…」は『拾遺現藻集』に見られる一首だが、そこでは作者名の記載が無く空白となっていた。撰集類の通例で直前歌の作者記載を承けるとすれば、作者は「昭慶門院二条」ということになる。この人物については、昭慶門院に仕えた女房歌人であるらしいが、詳しいことは分からない。『拾遺現藻集』は元亨二年(一三二二)三月一日の成立であり、当時の現存作者ばかりの詠歌を集めている。三島社十首に出詠が確認できる歌人のうち、為道の二十二歳が勧進者である貞時と並んで最も若く、昭慶門院二条が出詠者の一人であれば、少なくとも彼らと同程度の年齢には達していたはずであろう。主人である昭慶門院が文永七年(一二七〇)の生まれであることから、仮に同年齢として正応五年当時は二十三歳、すると『拾遺現藻集』成立時には五十三歳で生存していた計算になる。彼女を除く他の参加歌人は、いずれも当時の京・鎌倉を代表する歌人たちである。為道以外の面々は、すでに勅撰集への入集をはたして相応の歌歴を重ねていた。次の『新後撰集』で勅撰歌人の列に加わる為道は、御子左家の嫡子であり、若年でこのメンバーに加えられて不思議はない。これに対し、昭慶門院二条は勅撰歌人でもなく、歌歴も不詳、若くして和歌を勧進される必然性に乏しい。三島社十首は、当時、関東に滞在していた人々を中心に勧進されたものと思われることや、男性歌人ばかりの中に女房歌人は彼女ただ一人であることも気にかかる。ただ、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書を見る限りにおいては、同じ機会の詠作であると認めてよいように思える。先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。
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第二節はこれで終わりです。
小林氏は若干の疑念を抱いておられますが、小川剛生氏が校訂された『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見ると、この歌の作者が「昭慶門院二条」であることを疑う理由は特になさそうに思えます。
さて、昭慶門院は、

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1270-1324 鎌倉時代,亀山天皇の皇女。
文永7年生まれ。母は藤原雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王となり,4年院号をあたえられる。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母。亀山天皇から甲斐(かい),越前(えちぜん)などのおおくの荘園を譲与された。元亨(げんこう)4年3月12日死去。55歳。名は憙子(きし)。法名は清浄源。
【デジタル版 日本人名大辞典+Plus】

鎌倉後期の女院。名は喜(憙)子。生年は文永7(1270)年とも。法名は清浄源。亀山院の皇女。後醍醐天皇の皇子世良親王を愛育し,同親王の元服をみた日に没したことが『花園天皇宸記』に記されている。同女院に集積された皇室領は世良親王に伝領された。
(森茂暁)
【朝日日本歴史人物事典】

https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159

という女性です。
亀山院皇女の喜子内親王が「昭慶門院」という女院号を得たのは永仁四年(1296)ですから、正応五年(1291)の三島社十首の時点で、問題の女性の女房名が「昭慶門院二条」であったはずはありません。
では、どのような名前だったのか。
その謎を解明するため、今は国文学界の重鎮となられた小川剛生氏の最初の著作、『拾遺現藻和歌集 本文と研究』に向かうこととします。
小川氏は1971年生まれですから、この本を出されたときはまだ二十五歳くらいですが、本当に老成した筆致なので、とても若い大学院生が書いた本とは思えないですね。

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国立歴史民俗博物館蔵『拾遺現藻和歌集』を底本に翻刻した初めての書。巻末に特色・撰者などに関する考察と資料「『拾遺現藻和歌集』の研究」と、作者略伝・索引及び四句索引を付す。

https://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/syuigenso.htm

小川剛生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%89%9B%E7%94%9F
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