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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その8)

2022-09-14 | 唯善と後深草院二条
「特色」の続きです。(p141)

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 時代状況に直接連結するような事柄ではなくとも、各歌人の伝記に新たに加えられる点は多い。そのいくつかを指摘したい。
 まず、現存者対象という性格から、歌人の生存年代を知る目安となる。例えば、本集は京極派に冷たいにもかかわらず、為兼の姉従二位為子を二首入集させているのは注目される。正和五年頃没という通説は再考の余地があろう。
 鷹司冬平の関白辞退翌年の「述懐百首」(六八五)や、源知行(行阿)の「光源氏物語の心をよみ侍ける哥中に」の詠(五六八)は、各個人の事績として大いに興味を惹かれるものである。
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いったん、ここで切ります。
鷹司冬平は『拾遺現藻和歌集』に二十二首も入っていて、入集数ランキングでは邦良親王・小倉実教と並んで第九位ですね。

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d2d8eddea4b8e2ffa9a4daa7821841a

冬平詠の685番は、

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     正和三年の秋の比述懐百首をよみ侍ける中に
                     前関白太政大臣
685 [      ]けに恋しけれ今は身のよその雲井の秋の夜の月
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というものです。
「作者略伝・索引」によれば、鷹司冬平は、

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冬平(前関白太政大臣) 建治元年(一二七五)~嘉暦二年(一三二七)正月十九日、五十三歳。藤原。鷹司基忠男。従一位関白太政大臣。号後称念院。後宇多院の評定衆。「この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へる」(増)、二条派の権門歌人ながら、伏見院に信任された(井)。日記は逸文のみ。『後称念院殿装束抄』あり。嘉元・文保・正中百首、伏見院三十首以下の催しに出詠。新後撰以下に八一首。続現葉、藤葉作者。22首〔二、一七、四〇、八三、一〇九、二四八、二六三、二七七、三一二、三四四、三五九、三六五、四〇〇、四一六、四五九、五一〇、五一四、六一八、六八五、七〇三、七四九、八一三〕
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という人物ですが(p184)、政治的経歴を補足すると、延慶元年(1308)、花園天皇の摂政となり、同三年(1310)に太政大臣、同四年(1311)以降、三回に渡って関白となっています。

鷹司冬平(1275-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%86%AC%E5%B9%B3

『拾遺現藻和歌集』の685番は「正和三年の秋の比」の歌なので、延慶四年(応長元、1311)三月に初めて関白となり、正和二年(1313)七月、父・基忠の服喪で関白を辞した翌年のことですね。
685番は欠損が多く、小川氏がいかなる意図で「各個人の事績として大いに興味を惹かれるものである」と書かれたのかは分かりませんが、政治史の観点から面白いのは、むしろ正和四年(1315)の第二回目の関白就任と翌五年の辞任です。
その顛末は小川氏が「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)で詳細に明らかにされていますが、正和四年(1315)九月二十一日、伏見院が冬平を関白に還補させたことが幕府の激怒を呼び、同年末の京極為兼逮捕と翌年の第二回目の流罪に直結します。

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 さて幕府から伏見院の「非拠」の最たるものとして突き付けられていたのが、第三項の「執柄還補事」であった。
 これは正和四年夏、関白近衛家平が辞意を洩らし、左大臣二条道平と前関白鷹司冬平が後任を競望したことに始まる。関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例であった。五月二十日には伏見院が「可被仰合関東云々」と関東申次に諮り、ついで六月十九日には院宣と冬平の款状二通、および道平の祖父・師忠・父兼基の款状が伝達されている(『公衡公記』)。
 やがて幕府は「事書案」にある如く、「任道理可為聖断」というこのような場合の決まり文句を返答して来た。それは、八月十日に幕府評定が開かれ、二条摂関家に対して「御先途御理運之条、雖勿論候、勅書之趣、暫可令期便宜給之由、被戴候上者、可令相待 公家御計給歟」という回答がなされたことからも裏付けられる。こうして九月二十一日鷹司冬平の還補となった。翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任であるとの主張が通ったが、もともと冬平は伏見院の覚えめでたい人物であった(『井蛙抄』巻六)。
 ところが、この関白交代が幕府の心証をひどく害した。「事書案」には「執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有其聞、被痛思食」とある。驚いた伏見院は、幕府が「可為聖断」というから冬平を還補させたのである、意が道平に在ったのならば最初からそう申せばよいではないか、と述べている。幕府が態度を硬化させた原因には二条摂関家が何らかの働きかけをしたことも推測されよう。そして関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる。為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した。そして冬平は結局在任一年にも満たず正和五年八月二十三日に退けられ、道平が関白となった。なお、二条摂関家にこの「事書案」が伝来したのは、以上のような経緯と関係があるのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbdb37ad5fab78cb7543aef8279b6e0a

冬平はこんな大騒動を惹き起こしながら、後に三度目の関白を望むなど、なかなかしぶとい人物ですね。
なお、『増鏡』にはこうした騒動は一切描かれておらず、冬平は延慶元年(1308)の花園天皇即位の場面に「十一月十六日御即位、摂政後照念院殿<冬平>、けふ御悦申ありて、やがて行幸に参り給ふ」(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p32)と登場した後は全く無視されています。
そして、嘉暦二年(1327)、巻十四「春の別れ」の最終場面に、

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 二月になれば、やうやう故宮の御一めぐりの事ども、永嘉門院にはいとなませ給ふも、あはれ尽きせず。鷹司の大殿<冬平>もうせ給ひぬ。この頃の世には、いと重くやんごとなくものし給へるに、いとあたらし。北政所は中院の内の大臣通重の御はらからなり。それもさま変はり給ひぬ。近ごろよき人々多くうせ給ふさまこそ、いと口惜しけれ。
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という具合いに(同、p162)、その死が簡単に記録されています。
小川氏が「作者略伝・索引」で引用されるように、確かに「この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へる」という表現はありますが、『増鏡』の中では「故宮」邦良親王の一周忌の記事の付け足しのような扱いであり、冬平が『増鏡』の中で「いと重くやんごとなく」扱われている訳ではありません。
『増鏡』には摂関家関係の記事が極めて少なく、その扱いも概ね冷淡で、これが『増鏡』作者についての、再改説後の小川剛生説を含む通説の最大の問題点ですね。
コメント
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