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善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その2)

2022-06-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月20日(月)13時49分37秒

従来、善空事件についてある程度まとまった見解を提示されたのは森幸夫氏と筧雅博氏(『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』、講談社、2001)だけですが、筧氏も善空事件と浅原事件は別個独立に論じておられます。
もちろん私も「弘安十年・正応元年ころより」、「翌四年五月、伏見は側近の京極為兼を鎌倉に派遣して執権北条貞時に訴え、排除を断行することになる(『実躬卿記』)。これにより京都での善空一派の力は弱まり、永仁元年四月の貞時による頼綱誅滅(平禅門の乱)とともに、善空は完全に没落する」まで、短く数えて四年、長く数えると足掛け七年もダラダラ続いた善空事件と、騒動自体は正応三年(1290)三月十日の僅か一日で終わった浅原事件との間に何らかの因果関係があるとは考えていません。
ただ、浅原事件は善空事件の曖昧さを解明するヒントになるのではないかと思います。
善空事件はその出発点、即ち正応元年(1288)十月に東使、佐々木時清・矢野倫益の二人が、(『勘仲記』の著者、勘解由小路兼仲の推測によれば)「伯二位資緒卿・伝奏兵部卿康能朝臣」の「不測涯分、補佐政道、口入叙位除目、於事有過分」を改めるように指示し、朝廷がこれに応じて二人を「勅勘」したにもかかわらず、二人はこの時点で失脚していないことが、まず不思議です。
失脚しないどころか、六条康能は正応三年(1290)正月十九日に任参議、叙従三位、翌正応四年(1291)正月六日に後深草院の「当年御給」により正三位と、むしろ昇進しており、資緒王の弟の源資顕も正応三年二月七日に正四位上に昇り、同年十一月二十一日には少将から中将に転じています。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その17)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03370a791c4d0dec8b2a9865cc22c7ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a17e8b4881a9045cf30f728113fbff8

後深草院が幕府の意向をあえて無視してこうした人事を専断したとは考えにくいので、おそらく善空上人と「六波羅探題北条兼時の被官長崎新左衛門入道性杲と平七郎左衛門尉」の巻き返しがあったものと思われますが、長崎新左衛門入道性杲と平七郎左衛門尉の二人も正応四年(1291)五月以降、京都から鎌倉に召喚されたようです。
こうした状況の変化をどのように捉えればよいのか。
私見では、そもそも平頼綱政権は一枚岩ではなく、反安達泰盛の一点で結びついた北条一門(中心は連署の大仏宣時か)と平頼綱以下の得宗被官の連合体と想定します。
そして平頼綱が露骨に朝廷との接近を図ったため、京都では平頼綱派の影響力が強く、これが善空上人の活動の温床となったと想定します。
更に、正応三年(1290)三月の浅原事件の発生までは、六波羅から鎌倉へ伝わる情報は平頼綱派に偏り、朝廷が鎌倉の意向として受け取った情報も、実際には平頼綱派によって歪められた情報になっていたと想定します。
ところが、浅原事件の結果、真相究明と責任追及のために京都と鎌倉の情報交換が活発化し、その副産物として、従来、鎌倉が得ていた京都情報が必ずしも正確ではなく、平頼綱派により歪められていたことが得宗の北条貞時、そして連署の大仏宣時を中心とする反頼綱派に伝わったと想定します。
他方、朝廷からすれば、従来、善空上人等の意向が鎌倉の意向だと思って我慢していたのに、どうもそうでもないらしい、ということが分かってきたと想定します。
以上、想定を重ねてみましたが、平頼綱政権が一枚岩ではないという最初の想定は細川重男氏なども言われていることであり、まあ、確実だろうと思います。
そして以降の想定も、善空事件の奇妙に曖昧な推移と、平禅門の乱に至る過程をそれなりに合理的に説明できる推論なのではなかろうかと考えます。
当時、京都と鎌倉の人的交流はそれなりに活発でしたが、ただ、霜月騒動で幕府首脳部の半数を粛清し、安達派の御家人、少なくとも五百人を殺害した平頼綱の「恐怖政治」が行なわれていた時代ですから、何か知っていても、万一のとばっちりを恐れて言えないことも多かったはずです。
そうした不自由な情報環境が浅原事件の副産物として解消され、平頼綱の虎の威を借りた狐どもが京都で好き勝手やってるらしいぞ、ということが鎌倉の反頼綱派に伝わり、京都でも、善空一派の不正を鎌倉に訴えても安心らしいぞ、という見込みが立ったからこそ、伏見天皇は京極為兼を鎌倉に派遣した、と私は考えます。
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