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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その9)

2022-09-15 | 唯善と後深草院二条
「特色」の続きです。(p141以下)

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 伝記資料が僅少な地下・僧侶歌人について見たい。勅撰集や他の二条派私撰集に入集せず、『拾遺現藻和歌集』にのみ名を留める歌人は四二名にのぼる。うち二一名は僧侶である。為世・為藤の愛顧を受けていた多くの二条派歌僧の中でも、従来から注意されてきた凝然・慈寛・仲顕・道暁らの詠も見える。
 鎌倉末期の近江葛川明王院文書に登場する祐増・実隆・隆世という僧が入集している。いずれも勅撰歌人ではない。明王院は無動寺の傘下にあり、青蓮院門跡が無動寺の検校を兼帯したので(三八三)、恐らく慈道か尊円が接点となってその詠がもたらされたのではあるまいか。
 三八〇・一に道我と都を離れる某との贈答歌がある。この相手は卜部兼好であるが、隠名で入集した点は兼好伝に興味深い材料を加えるであろう。他の四天王では、能誉・慶雲が零、浄弁一首に比して頓阿は五首も採られている。後年二条良基が『近来風躰』で「兼好はこの中にちとおとりたるやうに人々も存せしやらむ」と評した如く、元亨頃の兼好は歌壇でさ程高い評価を得ていなかった証左となるであろう。頓阿が地下歌人中で最も早く実力を認められていた事も改めて確かめられる。
 以上、思いつくまま挙げてきたが、歌人の伝記的事項については作者略伝も参照していただければ幸いである。
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道我と某「よみ人しらす」氏の贈答歌は次の通りです。

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     遠き国へまかるとて立よりて侍ける人の
     秋はかならす返るへきよし申侍しかは
                    法印道我
380 □□〔かきヵ〕りしる命なりせはめくりあはん秋ともせめて契をかまし
     返し             よみ人しらす
381 [      ]命をしらぬ別こそ秋とも契るたのみなりけれ
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小川氏の頭注によれば、

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380 道我集一〇四「兼好法師あつまへ下りさまに立ちよりて侍りしに、秋はかならすのほるへきよし申し侍りしかは」、兼好集六九、初句「かきりしる」、信拾遺七四六、初句「かきりある」

381 道我集一〇五、兼好集七〇、初句「行末の」
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とのことですが、『兼好自撰歌集』に出てくるので、この贈答歌はけっこう有名ですね。
ただ、ちょっと奇妙なのは、兼好は『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)三月一日の時点で既に勅撰歌人であることとの関係です。
即ち、小川氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)によれば、

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勅撰集の作者表記
 鎌倉時代後期に戸籍も住民票もあるはずはないが、兼好について何とか同時代人による身分証明が見つからないものだろうか。
 勅撰和歌集における作者表記が、示唆を与えてくれる。
 兼好は元応二年(一三二〇)に成立した、十五番目の勅撰集である続千載集に初めて入集した(雑歌下・二〇〇四)。その作は遁世後の思いを述べる一首である。

    題しらず          兼好法師
  いかにしてなぐさむ物ぞうき世をもそむかですぐす人にとはばや
  (どうやって心を落ち着かせるものなのか。遁世もしないでこの辛い世間で過ごす人に尋ねてみたい)

 兼好は以後の七つの勅撰和歌集に連続して計十八首採られるが、作者表記はすべて「兼好法師」である。
【中略】
 勅撰集編纂はいわば中世の国家事業であるから、集中の表記はその人物の社会的な扱いを反映している。撰者はもちろん、歌人にとってもそれは大きな関心事であった。官職か、実名か。出家者であれば俗名か法名か。また身分が低い歌人は「よみ人知らず」(隠名入集)とされるが、どのくらい低いとそうなるのか。こうした点を間違えればトラブルの種ともなり、かつその集の疵ともなる。作者表記は厳密に規定され、重要な故実として撰者を出す歌道師範家のもとで蓄積され、体系化されていた。
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とのことです。(p11以下)
この後、勅撰集の作者表記の原則が詳しく説明された後、次の結論となります。(p15)

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 以上のことからすれば、勅撰集の「兼好法師」の表記は、おのずとその出自層を語っていたのである。仮に朝廷に出仕した経験があっても、六位で終わったことを示す。西行と同じく侍品に属することは明白である。もし通説のように蔵人・左兵衛佐のような官に昇り五位に叙されたならば、遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである。続千載集完成の数年後、元亨二年(一三二二)三月に成立した私撰集の拾遺現藻和歌集(撰者未詳)で兼好の作は「よみ人知らず」にされてしまった。こうした私撰集もまた勅撰集に準じて編纂されるので、要するに侍品としても隠名か顕名か定まらない程度の身分であった。
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『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を初めて読んだとき、私は「勅撰集の作者表記」の考証の鮮やかさに感動しましたが、改めて『拾遺現藻和歌集』との関係を考えてみると、若干の疑問も浮かんできます。
即ち、二条派の有力歌人と思われる『拾遺現藻和歌集』の編者は、僅か二年前に二条派の総帥・為世が編んだ『続千載集』において兼好が「顕名」とされていたことを知らなかったのであろうか、という疑問です。
まあ、この時期は兼好などまだまだ下っ端の歌人ですから知らなかったのかもしれませんが、知っていてわざわざ「よみ人知らず」としたのであれば、『拾遺現藻和歌集』撰者の兼好に対する悪意がありそうです。
また、自分が勅撰歌人となったことに大いに誇りを感じていたであろう兼好が、仮に『拾遺現藻和歌集』を見て、自分が「隠名」で登場していることを知ったならば、相当な屈辱を覚えたのではなかろうかと思います。
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