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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その14)

2022-09-20 | 唯善と後深草院二条

「昭慶門院二条」の四首のうち、私には、

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     七夕別といふ事お
                照〔昭〕慶門院二条<有忠卿歟>
146 □□〔あひヵ〕みても猶こそあかね七夕の秋の一夜の袖のわかれち
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が特に興味深く思われます。
<有忠卿歟>の <  > は小川著にはなくて、小さい字になっているのを表現するために私が付加した記号ですが、この小さな四字は元々の原本にはなくて、写した人が書き加えた注記でしょうね。
小川論文の「書誌」によれば、田中穣氏旧蔵、国立歴史民俗博物館現蔵本には「山科蔵書」の長方形朱印が押されていて、

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印記は山科忠言(一七六二~一八三三、従一位権大納言、冷泉為村の外孫に当たる)のものである。田中本の内には同じ「山科蔵書」の印記を持つ歌書が他にも何点か含まれている。それらは戦国期の同家当主・権大納言言継(一五〇七~七九)の書写にかかるものが多いが、『拾遺現藻和歌集』の筆跡は言継、あるいはその父言綱・息言経らとも異なっており、今の所、忠言以前の伝来は未詳とせざるを得ない。
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とのことですが(p131以下)、「有忠卿歟」の注記者は『拾遺現藻和歌集』のような珍しい歌集を書写しているのですから入集歌人にも歌壇事情にもそれなりに詳しい人だったはずです。
そして、そのような人ですら「昭慶門院一条」ならともかく「昭慶門院二条」などという歌人は聞いたことがなく、あるいはこれは六条有忠の間違いではなかろうかと思って、小さな字で「有忠卿歟」と注記した訳ですね。
この注記者が何故に六条有忠を連想したのかは分かりませんが、しかし、「昭慶門院二条」が554番の作者であることを疑う理由がないのであれば、六条有忠は146番の作者ではあり得ません。
何故なら六条有忠は弘安四年(1281)生まれで、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」が成立した正応五年(1292)には僅か十二歳だからです。
小川氏の「作者略伝・索引」によれば、六条有忠は、

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有忠(前中納言─) 弘安四年(一二八一)~暦応元年(一三三八)十二月廿七日、五十八歳。源。六条有房男。正二位権中納言。後宇多院伝奏。嘉暦元年三月、邦良親王に殉じて関東で出家(増)、法名賢忠。八十番詩歌合、文保百首、亀山殿七百首、石清水社三首歌合等に出詠。玉葉以下に一七首。続現葉、臨永、松花、藤葉作者。11首〔一三八、一四九、二八三、三七一、三七二、四八五、五一六、六七〇、七三五、七四六、七八六〕
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という人物であり(p158)、「嘉暦元年三月、邦良親王に殉じて関東で出家」した様子は、『増鏡』巻十四「春の別れ」に次のように描かれています。

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 有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふさまならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの宮こに参らんと同じやうに上らんとて、いまだかしこにものせられつるに、かくあやなきことの出で来ぬれば、いみじともさらなり。三月つごもりやがて頭おろす。心の内さこそはと悲し。
  大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな
 宮こにも、前の大納言経継、四条三位隆久、山の井の少将敦季、五辻少将長俊、公風の少将、左衛門佐俊顕など、みな頭おろしぬ。女房には、御息所の御方、対の君、帥君、兵衛督、内侍の君など、すべて男・女三十余人、さま変はりてけり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c56d8d6fa5409d920088d7bfc06b183c

この「大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな」という有忠の歌が『増鏡』巻十四の巻名になっており、『増鏡』作者は六条有忠に相当な注意を払っていますね。
ま、それはともかく、教育と才能に恵まれた人なら十二歳でそれなりの歌を詠むことは可能でしょうが、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」は得宗・北条貞時が主導した公式の奉納歌ですから、僅か十二歳の少年が参加できるはずがありません。
従って、「昭慶門院二条」=六条有忠の隠名の可能性はなさそうです。
さて、554番の作者が「昭慶門院二条」であることから最もシンプルに導かれる結論は、『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)を遡ること三十年前、正応五年(1292)に「昭慶門院二条」を名乗る女性が実在して、その女性が「昭慶門院二条」の名前で「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」を詠んだということになります。
しかし、これもあり得ません。
何故なら、「昭慶門院二条」が仕えた昭慶門院に女院号宣下があったのは永仁四年(1296)八月十一日であって、正応四年の時点では問題の人物も「昭慶門院二条」を名乗れるはずはないからです。

昭慶門院(1270-1324)
https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159

となると、ひとつの合理的な推論としては、「昭慶門院二条」を名乗る人物は実在したけれども、その人物は正応五年(1292)には別の名前で「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」に参加した、ということになりそうです。
六条有忠説も存在したことを考慮すると、当該人物を女性と限定することも適切ではないので、仮にX氏とすると、小林一彦氏によれば、

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 正応五年(一二九二)、伊豆国の一の宮である三島社に十首和歌が奉納された。人々に十首を詠むように勧めたのは北条貞時である。【中略】
 貞時は『新後撰集』を初出とし、『新千載集』までの六集に、あわせて二十五首の入集をみる勅撰歌人である。東国屈指の武家歌人であると言ってよいであろう。正応五年の三島社十首は、その貞時の初期の和歌事跡としても注意される。彼の勧めに応じたのは、京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融ら、当代一流の歌人達であった。正応五年三島社十首は、京洛においても個々の作品が引かれ言及されているところを見ると、おそらく一書として纏められ流布していたのであろう。残念ながら、現在では散佚してしまったらしく、その全容を窺うことは不可能であり、拾遺される詠作も二十首に満たない。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/695f1ab47994ad952f212bf7fb05708b

とのことなので、正応五年の北条貞時はもちろんX氏の名前を知っていて、かつ、北条貞時にとってX氏は「京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融ら、当代一流の歌人達」と並ぶ力量の歌人であったことになりますね。
また、「正応五年三島社十首は、京洛においても個々の作品が引かれ言及されているところを見ると、おそらく一書として纏められ流布していたのであろう」とのことなので、その断簡が将来発見され、そこにX氏の名前が書かれている可能性も皆無ではないかもしれません。
しかし、そうした微かな可能性に期待する訳にもいかないので、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者の周辺、特にこれらの人物が鎌倉でどのような活動を行っていたかを検討することにより、X氏との交流の片鱗が窺えないかを考えてみたいと思います。

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