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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その4)

2022-09-10 | 唯善と後深草院二条
「撰集資料」の続きです。(p139)

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 現存者対象であるため撰歌範囲も限られ、大半は永仁以降の催しである。嘉元・文保の両応製百首を出典とする歌は全体のほぼ三分の一弱におよぶ。成立直前、元亨頃の大覚寺統関係者の催しからの撰歌が目立つのも特徴的である。特に25亀山殿千首(散逸。続後拾遺<七六>ほかによれば元亨二年の催行。作者は後宇多・忠房・邦省・為世・公明・為藤・実教・経継・光吉・道我ら)からは三〇首もとっている。本集序では、

 たゝおしなへてもゝしきの雲の上人、はこ屋の□〔山ヵ〕の月の位より野辺にをふる
 かつら、林にしけき木の葉のたくひまて目〔本ノマゝ〕にきゝ耳に見る哥をかきあつ
 めつゝ、むもれ木のひとしらすみちにふける心さしをあらはすといえとも、くれ竹の
 よにもらむそしりをしらすなん。

と述べているが、『増鏡』<秋のみやま>にも、元亨頃は「院にも内にもあさまつりごとのひまひまには御歌合のみしげう」とあり、互いに構成員を重ならせつつ、仙洞・禁裏・春宮に歌壇が形成され、それぞれ旺盛な活動を展開した時期であった。本集成立の根源的なエネルギーはそこにあると考えてさしつかえないであろう。聖護院覚助法親王、後宇多の猶子であった忠房親王、後二条の第二皇子邦良親王らはいずれも歌好みで、二条派歌人のパトロン的存在であった。
 2・12・18は鎌倉後期歌壇史上大きな意義を有する催しで、既に行き届いた考察が発表されているが、いずれにも僅かながら逸文を新加する事ができる。
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いったん、ここで切ります。
『増鏡』の「院にも内にもあさまつりごとのひまひまには御歌合のみしげう」は「29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合」に関する記事からの引用ですね。
『増鏡』では、この直前に『続千載集』に関する面白い記事があります。
即ち、

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 当代もまた敷島の道をもてなさせ給へば、いつしかと勅撰のこと仰せらる。前藤大納言為世承る。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらんかし。【中略】
 さて大納言は、人々に歌すすめて、玉津嶋の社に詣でられけり。大臣・上達部よりはじめて歌よむと思へる限り、この大納言の風を伝へたるは洩るるもなし。子ども孫どもなど、勢ひことに響きて下る。
 まづ住吉へ詣づ。逍遙しつつののしりて、九月にぞ玉津嶋へ詣でける。歌どもの中に、大納言為世、
  今ぞ知る昔にかへるわが道のまことを神も守りけりとは
 かくて、元応二年四月十九日、勅撰は奏せられけり。続千載といふなり。新後撰集と同じ撰者の事なれば、多くはかの集に変はらざるべし。為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて、いま少しこの度は心にくき様なりなどぞ、時の人々沙汰しける。
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とのことで(井上宗雄氏『増鏡(下)全訳注』、p69以下)、宿敵・京極為兼が伏見院の庇護の下に『玉葉集』を撰進した際の鬱憤を晴らした二条為世が一族と二条派歌人を率いて意気揚々と玉津島社に参詣したことが描かれています。
ただ、『増鏡』作者の為世に対する視線はいささかシニカルで、『続千載集』はかつて為世が撰進した『新後撰集』と変わり映えはしないけれども、「(子息の)為藤中納言は、いささか考えの深い人で、(その助力があったからか)いますこし、(前集より)この『続千載』のほうが趣深い風体である、などと時の人々は評判したのであった」(井上訳、p71)との評価です。
『拾遺現藻和歌集』では、「45、〇元応二年秋二条為世勧進玉津嶋社歌合」は四首ですね。
そして、この後、

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 院にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみしげう聞えし中に、元亨元年八月十五夜かとよ、常よりことに月おもしろかりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、ことなる御遊びなどもあらまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿におはしますころにて、糸竹の調べは折あしければ、例のただうちうち御歌合あるべし、とて侍従の中納言為藤召されてにはかに題奉る。
 殿上にさぶらふ限り、左右同じ程の歌よみをえらせ給ふ。左、内の上・春宮大夫<公賢>・左衛門督<公敏>・侍従中納言<為藤>・中宮権大夫<師賢>・宰相<維継>・昭訓門院の春日<為世女>、右、藤大納言<為世>・富小路大納言<実教>・同中納言<季雄>・公脩・宰相<実任>・少将内侍<為信女>・忠定朝臣・為冬、忠守などいふ医師もこの道の好きものなりとて召し加へらる。
 衛士のたく火も月の名だてにや、とて安福殿へ渡らせ給ふ。忠定中将、昼の御座の御はかしを取りて参る。殿上のかみの戸を出でさせ給ひて、無名門より右近の陣の前を過ぎさせ給へば、遣水に月のうつれる、いとおもしろし。安福殿の釣殿に床子たてて、東南におはします。上達部は簀子の勾欄に背中おしあてつつ、殿上人は庭にさぶらひあへるもいと艶なり。
 池の御船さし寄せて、左右の講師隆資・為冬のせらる。御みきなど参るさまも、うるはしきことよりは艶になまめかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず。いと心もとなし。照る月波も曇りなき池の鏡に、いはねどしるき秋のもなかは、げにいとことなる空の気色に、月もかたぶきぬ。明けがた近うなりにけり。上の御製、
  鐘の音もかたぶく月にかこたれて惜しと思ふ夜は今夜なりけり
と講じあげたる程、景陽の鐘も響きをそへたる、折からいみじうなん。いづれもけしうはあらぬ歌ども多く聞こえしかど、御製の鐘の音にまさるはなかりしにや。かくて今年も又暮れぬ。
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という具合いに、「29、〇元亨元年八月十五日夜内裏歌合」の様子が華麗な文体で詳細に綴られます。
このように、『拾遺現藻和歌集』の撰歌範囲の行事に関する『増鏡』の叙述には相当詳細なものがあり、しかも『続千載集』への評価のように歌壇事情の機微に通じていることを窺わせる記事が見られます。
『拾遺現藻和歌集』と『増鏡』の関係を論ずる準備は出来ていませんが、非常に面白いテーマですね。
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