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「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)

2022-09-06 | 唯善と後深草院二条
唐突ですが、ここで東国の初期浄土真宗の世界から中世和歌の世界に移動したいと思います。
今まで何度も言及してきたように、唯善(1266-1317)は中院雅忠(1228-72)の猶子で、後深草院二条(1258生)の八歳下の義理の弟です。
そして、後深草院二条は平頼綱・頼綱夫人と直接の面識があり、飯沼助宗とは男女の仲を疑われるほど親しかったのだそうです。(本人談)

「新将軍久明の東下」
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
「飯沼判官との惜別、熱田社」
http://web.archive.org/web/20150514084840/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-12-iinumahangan.htm

加えて、唯善は嘉元元年(1303)、幕府が「専修念仏停廃」令を出したときに機敏に対処し、真宗門徒を禁令の対象外とするとの「下知状」を迅速に獲得するなど、政治的に極めて有能な人物です。
ここから私は、唯善は正応四年(1291)の横曽根門徒・性海による『教行信証』出版事業に際しても、平頼綱の後援を得るために義姉・後深草院二条の強力なコネクションを利用しただろうと推測します。

東国の真宗門徒に関する備忘録(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7cb2575c49bed5a1dae4ed319a1477bc

ただ、この推測は、結局のところ『とはずがたり』の鎌倉訪問記、特に平頼綱・飯沼助宗父子関係エピソードが事実の記録であることを前提としています。
国文学者はもちろん、網野善彦・永原慶二・森茂暁氏といった大御所クラスを含む歴史研究者の大半は、宮廷編のエロ話を含む『とはずがたり』の全体を事実の記録だと考えるので特別な問題は生じませんが、私の場合、『とはずがたり』は自伝風の小説であって、宮廷編のエロ話は殆ど全部虚構だ、という立場なので、そちらを虚構としながら鎌倉訪問記は何故信用するのか、虚構と事実の記録を区別する基準は何なのか、という問題も生じます。
さしあたり東国訪問記に関しては、『とはずがたり』以外の客観的な史料から後深草院二条の東国での活動が裏付けられれば相当の信頼性は確保できるので、私としても従来からそのような史料を探しており、「早歌」の作者「白拍子三条」の分析から一応の成果は得たつもりです。
即ち、鎌倉後期に武家社会で流行したテンポの速い歌謡である「早歌」の作詞・作曲者として「白拍子三条」なる女性がいるのですが、種々の間接的な証拠から、これは後深草院二条の「隠名」であり、後深草院二条は「早歌」のパトロンである金沢北条氏と接点を持っていたと思われます。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d
第三回中間整理(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f6f8f9b9b6304d2a185c8cb9e7d468e
『とはずがたり』の妄想誘発力
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee45f887bd97eb7174c49da4d6e4210c

しかし、「早歌」の関係で確認できたのは、あくまで後深草院二条と金沢北条氏の接点であって、得宗家との関係は分かりませんでした。
ところが、最近読んだ小林一彦氏の「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第5号、2000)で「昭慶門院二条」という歌人の存在を知り、この謎めいた女性歌人にヒントがあるのではないかと感じたので、「昭慶門院二条」を少し探ってみることにします。
なお、紛らわしいのですが、「昭慶門院二条」とは別に、北畠師親(1241-1315)の娘の「昭慶門院一条」という女性が存在しており、こちらは亀山院皇女の昭慶門院喜子に出仕し、『新後撰和歌集』以下、勅撰集に21首入集していて、それなりに有名な歌人です。
北畠師親の曾祖父は源通親なので、後深草院二条とは又従兄妹の関係となります。
師親は後深草院二条より十七歳年上ですが、『とはずがたり』では「粥杖事件」と「持明院殿蹴鞠」の場面に登場しており、二条とは親しい関係だったようですね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260
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津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(その5)

2022-09-06 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p306)

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 とすると唯善のとった行為の是非は別としても、留守職をめぐる相論の直接の対象が廟堂ならびに敷地であったことは留意すべきで、留守職を追われた唯善が名実ともに「親鸞上人之遺跡」であるためには廟堂内に安置された親鸞影像と遺骨の奉持が必要不可欠であったのではなかろうか。そして、『存覚一期記』当該条に「田舎人々群集彼所云々」と表記されたことは、例えば親鸞の消息中に「さてはゐなかのひとゞゝ、みなとしごろ念仏せしは」と見え、その娘・覚信尼のしたためた東国門徒への書状の宛名が「志んらん上人のゐ中の御てしたちの御なかへ」あるいは「ゐ中の人ゝの御中へ」であったことを視野に入れるならば、京都・大谷の地にあった親鸞影像が鎌倉・常葉の地に安置され、近在の人々が興味本位で見物に集まったと解するよりは、むしろそれは「親鸞上人之遺跡」が奉持する大谷廟堂の親鸞影像として迎え入れられ、これを拝すべく唯善に与した東国門徒を中心に参集があり得たと考えるのが自然であろう。
 なお、唯善の鎌倉での活動拠点であったという「常葉」の地に及んでおくと、長谷の地にある高徳院銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)の背後の山の反対側の谷合いに位置する「常盤」の小字名「一向堂」に比定されており〔挿図11〕、かの地は隣接して北条政村(一二〇五~一二七三)の広大な常盤亭が存在し、その嫡流の煕時が十四世紀初頭において幕府の要職にあったこと、あるいは、常葉の地が北条時茂(一二四一~一二七〇)以来、常葉北条氏の本拠地であった事実も無視し難く、唯善によるかの地の選定にかれらの容認もしくは何らかの配慮があったことを窺わしめる。
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「唯善によるかの地の選定にかれらの容認もしくは何らかの配慮があったことを窺わしめる」に付された注(34)を見ると、

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(34)ここで真宗門徒と鎌倉幕府および北条氏との結びつきを振り返ってみるとき、文暦二年(一二三五)に行われた一切経供養に先立つ、幕府による一切経の書写・校合への親鸞の関与〔親鸞が孫・如信(一二三五~一三〇〇)に語ったことを本願寺覚如が元弘元年(一三三一)にまとめた『口伝鈔』に記される鎌倉における親鸞の一切経校合に関するエピソードにもとづく。従来、この逸話は虚構とされていたが、『吾妻鏡』等の記事に照らし合わせて検証し史実と指摘したのは注29の峰岸純夫前掲論文で、平松令三氏が『親鸞(歴史文化ライブラリー37)』(吉川弘文館、一九九八年)において補強されている〕、さらには、親鸞の高弟・性信の門弟であった性海が幕府執権・北条貞時の内管領・平頼綱を後援に得て親鸞撰『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を開版した先例があり〔平松令三「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」『高田学報』四〇輯(高田学会、一九五七年)のち『真宗史論攷』(同朋舎出版、一九八八年)に収録〕、重見一行「教行信証正応四年出版に関する書誌学的考証」『国語国文』第四三巻第四号(京都大学文学部国語学国文学研究室、一九七四年)、のち『教行信証の研究』(法蔵館、一九八一年)に収録〕、この二例からみてもかなり濃密であったとみなくてはならない。とすると唯善が鎌倉・常葉の地に親鸞影像の安置をなし得たことについても、本文で指摘したように、その伝承地「一向堂」が北条政村の常葉亭に隣接し、さらには、常葉の地が常葉北条氏の本拠地であった事実は無視し難い。ここで唯善の行実に照らすならば嘉元元年(一三〇三)九月の「専修念仏停排」の発令に際し、東国門徒から集めた数百貫の銭貨をもって自ら鎌倉幕府に働きかけたあたりに北条氏との接点を想定し得るのではなかろうか。ちなみに、その折、鎌倉幕府の六番引付頭人に政村嫡流の北条煕時(一二七九~一二一五【ママ】)がおり、唯善の鎌倉下着が考えられる延慶二年七月十九日以降にあって、北条煕時は八月まで一番引付頭人の職にあり、また、同年四月九日からは寄合衆として北条得宗家で開かれる寄合に加わり幕政に参画する地位にあったことから〔佐藤進一「附録 鎌倉幕府職員表復原の試み」『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(岩波書店、一九九三年)、北条煕時との関わりを想定するのも一案かもしれない。
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とあります。
峰岸純夫氏の「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』、1985)は本当に優れた論文だと思いますが、「親鸞の一切経校合に関するエピソード」を史実とした推論の過程も見事ですね。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

さて、津田氏は「唯善の行実に照らすならば嘉元元年(一三〇三)九月の「専修念仏停排」の発令に際し、東国門徒から集めた数百貫の銭貨をもって自ら鎌倉幕府に働きかけたあたりに北条氏との接点を想定し得るのではなかろうか」とされますが、私は「真宗門徒と鎌倉幕府および北条氏との結びつき」として重要な三つの出来事のうち、二番目の「性海が幕府執権・北条貞時の内管領・平頼綱を後援に得て親鸞撰『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を開版した先例」の時点で既に「北条氏との接点」があったと想像します。
そして、その「北条氏との接点」には政村流の常盤北条氏が存在していたのかもしれませんが、私は、唯善は後深草院二条を介して、北条貞時との接点もあったのではないかと考えています。
この点、『とはずがたり』だけが根拠では弱いので、後深草院二条と北条貞時の関係を客観的に基礎づける別の史料がないかなとずっと探していたのですが、最近、「正応五年北条貞時勧進三島社十首」にヒントがありそうなことに気付きました。
その点は後で述べます。
北条貞時は歌人として非常に優れていて、普通の武家歌人の水準を遥かに超えた存在なのですが、これは歴史研究者にはあまり知られていないでしょうね。

北条貞時(「やまとうた」サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sadatoki.html
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