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禅助と宇都宮頼綱の関係

2010-05-12 | 中世・近世史

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 5月12日(水)01時04分30秒

横内裕人氏の「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院」には、禅助という仁和寺の高僧についての詳しい説明があります。
この人は御室性仁法親王(後深草院の息)が適当な後継者がない状況で死に臨んだとき、法流が絶えるのを防ぐために本来御室のみに承継されるはずの最秘事を伝授され、また極秘の文書類を暫定的に預かったのですが、その立場を利用して秘事・秘書を勝手に後宇多院に流してしまった人で、まあ、仁和寺から見れば業務上横領の正犯(後宇多院が教唆犯)、獅子身中の虫のような存在です。

http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm

禅助の父は中院通成なので、後深草院二条にとっては親同士が従兄弟、つまり「はとこ」の関係になりますね。
さて、今日、たまたま読んだ三枝暁子氏の「『一遍聖絵』成立の背景」(『遥かなる中世』18号、2000)には、次のような記述がありました。

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 この通成について注意されるのは、宇都宮頼綱の女を室に迎えている事実である。『尊卑分脈』によれば、通成の子の通頼・通教・禅助の三人が、頼綱の女を母としている。宇都宮頼綱は、北条時政の女婿で有力な御家人であったが、時政の将軍実朝暗殺の陰謀に加担したとされ、陳弁に努めた後出家を遂げている(法名蓮生)。その後熊谷直実との出会いをきっかけに、法然に帰依し、法然没後はさらに証空に師事した。『西山上人縁起』には、証空が頼綱に「汝は今生一世の芳契にあらず。多生の師弟なり」と語ったことが見えている。そして証空が、当麻曼荼羅の模写を信濃善光寺に納めた際には檀越をつとめ、さらに西山往生院に荘園を寄進するなど、証空に対して経済的援助も惜しまなかった。
 また頼綱は、十三代集のほとんどに和歌を載せており、歌人としても有名である。中西隋功氏が指摘されているように、頼綱を祖とする宇都宮歌壇の特色は、証空浄土教の和歌への投影にあった。したがって土御門通成は、義父頼綱が証空に深く帰依していたことと、証空が自身の叔父であることにより、二重に西山義と関わりを持っていたのである。
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禅助の母方の祖父は宇都宮頼綱で、関東とのつながりがあるんですね。
また、禅助としては仁和寺で真言宗の高僧となる人生の他に、浄土宗西山義の僧として生きるという人生も多分ありえたはずですね。
だから何なんだと言われればそれまでの話ですが、関東とのつながりを持った人は気になるので、備忘録として書いておくことにします。

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