学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その2)

2020-03-09 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月 9日(月)11時06分34秒

ウィキペディアの「姫の前」の記事、なかなか優れた内容ですが、これは森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を参照しているからですね。

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鎌倉時代中期の政治家。六波羅探題として長期在京し兄泰時の執権政治を支え、朝廷からも絶大な信頼を得ていた。鎌倉帰還後は豊かな政治経験を活かし、連署として若き執権時頼を補佐し幕政を主導した。重時が遺した現存最古の武家家訓は、当時の生活や思想を垣間見ることができて貴重。鎌倉幕府政治の安定化に大きく寄与した重時の生涯を辿る伝記。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b35312.html

この森氏の著作が出るまでは『吾妻鑑』から消えた後の「姫の前」の人生は明確には分かっていなかったようです。
そこで、出発点として森氏の著作から少し引用してみます。(p2以下)

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 重時の母は比企藤内朝宗の娘である(『鎌倉年代記』・前田家本「平氏系図」)。朝宗は、頼朝の流人時代の恩人比企掃部允遠宗・比企尼夫妻の子(兄弟とも)で、元暦元年(一一八四)正月の源義仲の滅亡後、頼朝から北陸道勧農使に任ぜられて活躍している。建久三年九月二十五日、朝宗の娘は義時に嫁した。もとは姫前〔ひめのまえ〕と号した幕府の官女であり、容顔はなはだ美麗にして「権威無双の女房」であったと伝える。義時の執心を知った頼朝は、義時に離別しないことを約した起請文を書かせて、その嫁取りを認めたという(『吾妻鑑』)。その出自からみて義時の正室となったと考えられる。義時と彼女との間の最初の男子が重時の四歳年長の次兄朝時である。また重時の同母姉妹には内大臣土御門(源)定通の妻となった女性がいる(『平戸記』仁治三年<一二四二>正月十九日条)。『尊卑分脈』によると彼女は竹殿と号し、最初は大江広元の嫡子親広の「妾」であったが、のちに定通の「妾」になったとされている。遅くとも貞応元年(一二二二)までには定通室となっていたことが知られる(『葉黄記』宝治元年六月三日条)。
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「歴散加藤塾」サイト内の「吾妻鏡入門」を借用させてもらうと、北条義時と「姫の前」の結婚に関する原文は、

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建久三年(1192)九月大廿五日甲午。幕府官女〔号姫前〕今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女。當時權威無雙之女房也。殊相叶御意。又容顔太美麗云々。而江間殿。此一兩年。以耽色之志。頻雖被消息。敢無容用之處。 將軍家被聞食之。不可致離別之旨。取起請文。可行向之由。被仰件女房之間。乞取其状之後。定嫁娶之儀云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma12-09.htm

というものですね。
さて、森氏の著作に戻って、上記引用部分から少し先の箇所を引用します。(p5以下)

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 なおここで重時の母について再度述べておきたい。重時が元服したころ、母の比企朝宗娘はすでに没していたようである。しかも鎌倉ではなく、京都で死去していた。やや煩雑となるが、以下にその間の事情をみておこう。
 藤原定家の日記『明月記』嘉禄二年(一二二六)十一月五日条に除目の記事があり、侍従に任じられた源資道(輔通)の注記に、「(源)具親朝臣の子、(北条)朝時の同母弟、関東挙状、相国(西園寺公経)に申す」とみえている。定家は、源輔通は具親の子で、北条朝時の同母弟にあたり、その任官に際し幕府から関東申次西園寺公経を通じ推挙があった、と記したのである。朝時の母、つまり重時の母でもある比企朝宗娘は、源具親に再嫁し、輔通を産んでいたのである。源頼朝が北条義時に、朝宗娘との結婚に際し、離別するなと誓わせていた約束は守られなかったのであった。
 『公卿補任』によると、源輔通は宝治二年(一二四八)六月、従三位に叙し、翌建長元年(一二四九)六月七日、四十六歳で没したことが知られる。輔通が元久元年(一二〇四)生まれであることがわかる。したがって、朝宗娘が源具親に再嫁したのは前年の建仁三年(一二〇三)以前のこととみられる。建仁三年といえば、この年九月に比企氏の乱が起こり、能員をはじめとする比企一族が滅亡した大事件が鎌倉であった。北条義時が比企朝宗娘と別れた、つまり離別したのは、輔通が生まれた時期と、比企氏が反逆者として滅んだことを考え併せると、比企氏の乱がその直接の理由であったと思われる。北条氏が比企氏を謀叛人として滅ぼした以上、義時は朝宗娘と離縁せざるを得なくなったのである。義時と別れた朝宗娘は、程なく上洛し、建仁三年末ころに源具親の妻となったと推定できる。
 しかし『明月記』承元元年三月三十日条には、「昨日、(源)具親少将の妻、遂に亡逝すと云々」とあり、再嫁後、わずか三年ほどで京都で死去したこと知られる。年齢は三十代くらいか。婚家と実家との権力闘争が彼女の運命を狂わせた。薄幸な人生といわざるを得ないであろう。
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うーむ。
比企氏の乱の戦闘自体は9月2日の一日限りですが、比企氏は当時大勢力だったので、その関係者の捜索・処分は長引き、いくら義時の正室とはいえ、「姫の前」も自身の運命について不安が全くなかった訳ではなさそうです。
また、一族滅亡とはいえ、武家社会の最高クラスの女性が京都に移動するにはそれなりの時間がかかるでしょうし、また貴族社会の一員に再嫁するにもそれなりの時間がかかるはずです。
更に再婚相手の源具親にしてみれば、比企氏の乱の直後だと、比企氏の女性を匿った、みたいに幕府に疑われでもしたら殺されかねない非常に不安定な時期ですね。
源輔通が元久元年(1204)の何月に生まれたのかは分かりませんが、「輔通が生まれた時期と、比企氏が反逆者として滅んだことを考え併せると」、「義時と別れた朝宗娘は、程なく上洛し、建仁三年末ころに源具親の妻となったと推定」するのは、スケジュール的にはずいぶん無理が多いように感じます。
まあ、そこまで慌ただしい話ではなく、むしろ「婚家と実家との権力闘争」が激発する前に、既に義時と「姫の前」の婚姻は破綻しており、「姫の前」が京都に行って源具親と再婚した後、比企氏の乱が勃発した、と考える方が自然ではないかと思います。
もともと「姫の前」は源頼朝の「家子専一」(p1)、側近中の側近として活躍していた北条義時からの結婚の申し込みを何度も撥ねつけるような気位の高い女性であり、また、離縁しないとの起請文を書いたのは義時であって、「姫の前」はそんなものは書いていませんから、「姫の前」から義時に三行半を突きつけるのは自由です。
結局、「姫の前」と源具親の再婚は、北条重時が生まれた建久九年(1198)以降のいつか、という程度のことしか言えないのではないですかね。

比企氏の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E5%93%A1%E3%81%AE%E5%A4%89
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