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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その13)

2022-09-19 | 唯善と後深草院二条

それでは『拾遺現藻和歌集』での「昭慶門院二条」の歌・四首を確認しておきます。

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     七夕別といふ事お
                照〔昭〕慶門院二条<有忠卿歟>
146 □□〔あひヵ〕みても猶こそあかね七夕の秋の一夜の袖のわかれち

     たいしらす      照〔昭〕慶門院二条
479 □〔はヵ〕てはまたうきいつわりになりやせん行末しらぬ人の契は

                昭慶門院二条
553 □〔うヵ〕きなからおもひいてゝもしのふるやつらさにこりぬ心なるらん

     平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に
554 □〔たヵ〕のむそよさめなん夢の後まてもむすふとみつる契かはるな
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554が問題の歌ですが、ここには作者名がありません。
ただ、『拾遺現藻和歌集』の配列の通例から見て、作者名がない場合は直前の歌の作者、即ち、ここでは553の作者である昭慶門院二条が554の作者となります。
同じ作者が連続する場合の作者名の省略は、553・554以外にも、

229・230(権大納言公賢〔洞院〕)
251・252(法皇御製〔後宇多〕)
371・372(前中納言有忠〔六条〕)
421・422(法印定為) 
529・530(今上御製〔後醍醐〕)
768・769(法皇御製)
810・811(法皇御製)

とあって、553・554を疑う理由はありません。
特に372の詞書は「平宗宣朝臣すゝめ侍ける住吉社三十六首哥に」、422の詞書は「平宗宣朝臣すゝめける住吉社卅六首哥に」となっていて、554の「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」とよく似ていますね。
554に作者名がない点に関し、「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第5号、2000)において、小林一彦氏は、

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17「□〔たヵ〕のむぞよ…」は『拾遺現藻集』に見られる一首だが、そこでは作者名の記載が無く空白となっていた。撰集類の通例で直前歌の作者記載を承けるとすれば、作者は「昭慶門院二条」ということになる。この人物については、昭慶門院に仕えた女房歌人であるらしいが、詳しいことは分からない。『拾遺現藻集』は元亨二年(一三二二)三月一日の成立であり、当時の現存作者ばかりの詠歌を集めている。三島社十首に出詠が確認できる歌人のうち、為道の二十二歳が勧進者である貞時と並んで最も若く、昭慶門院二条が出詠者の一人であれば、少なくとも彼らと同程度の年齢には達していたはずであろう。主人である昭慶門院が文永七年(一二七〇)の生まれであることから、仮に同年齢として正応五年当時は二十三歳、すると『拾遺現藻集』成立時には五十三歳で生存していた計算になる。彼女を除く他の参加歌人は、いずれも当時の京・鎌倉を代表する歌人たちである。為道以外の面々は、すでに勅撰集への入集をはたして相応の歌歴を重ねていた。次の『新後撰集』で勅撰歌人の列に加わる為道は、御子左家の嫡子であり、若年でこのメンバーに加えられて不思議はない。これに対し、昭慶門院二条は勅撰歌人でもなく、歌歴も不詳、若くして和歌を勧進される必然性に乏しい。三島社十首は、当時、関東に滞在していた人々を中心に勧進されたものと思われることや、男性歌人ばかりの中に女房歌人は彼女ただ一人であることも気にかかる。ただ、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥に」という詞書を見る限りにおいては、同じ機会の詠作であると認めてよいように思える。先に記した通り、17は『拾遺現藻集』では作者名の記載がなかった。同集は歴史民俗博物館蔵本のみの孤本で、一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡も存し、その本文は必ずしも良質とは言えないようである。現時点では、可能性を指摘するに留めておきたいと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b48d539ba45bd1c2ba1a6516376b834b

とされていますが、「一部に類題集などが竄入したかと思われる痕跡」というのは558から561までの四首のことで、位置は近いものの、553・554とは関係ありません。
小川剛生氏も「『拾遺現藻和歌集』の研究」の「部立」において、

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巻九は雑の四季詠、哀傷・釈教・神祇は巻十に含まれる。底本は破損による判読不能箇所が多く、また誤写誤読も少なからず見受けられるが、内容的に最も問題となるのは巻七恋上の次の歌群であろう(破損は□で示した。〔 〕内は推定、以下同じ)。

    嘉元百首哥たてまつりしとき     二品法親王<覚>
 □〔よヵ〕ひ々々にまつもはかなしうたゝねの夢ちはかりをたのむ物とは(五五六)
    恋の哥中に
 はてはまたねられぬとこのさむしろになくさむ夢の契たになし(五五七)
 崎<さき> 入月ををしまかさきのあま人の心なき身も猶したふらし(五五八)
 □〔澤ヵ〕<さは> 月さえて雲ふきはらふ秋風のをとさへたかきふしのなるさは(五五九)
 □〔渡ヵ〕<□〔わヵ〕たり> われのみかへなみにぬるゝ袖の上の月をもわたすよとの川ふね(五六〇)
 □□前衣 夜さむなる雲の衣を月になをきせしとはらふ峯の松風(五六一)
                      法親王<承>
 □□〔さめヵ〕ぬるをたかつらさとかかこたましあふと見えつる夢の別路(五六二)

五五七と五六二の二首の連接は自然であるが、五五八~五六一は明らかに異質であり、また覚助法親王の詠でもあるまい。内容も恋歌ではないし、上に一首に相当する題があることからすれば、別な文献から纔入したものとみるべきであろう。例えば類題集の月歌群かとも憶測されるが、現在のところこの四首を他の歌集に見出していない。
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とされています。(p132以下)
「拾遺現藻和歌集巻第八」「恋哥下」は528から始まって617まで続きますが、この中で558~561だけが恋とは関係なく、作者名もなく、歌の前に「崎」「澤」「渡」などの歌題らしきものを置いている点で「明らかに異質」です。
『拾遺現藻和歌集』は上部に欠損が目立つだけで、全体的には「その本文は」結構「良質」ですね。

コメント
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