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津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(その2)

2022-09-03 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p301以下)

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一、常敬寺「親鸞聖人」像の伝来をめぐって

(1)京都・大谷の親鸞廟堂の造営と影像の造立

 弘長二年(一二六二)十一月二十八日、齢九十で没した親鸞の遺体はすぐに門弟の手で荼毘に付され、遺骨は鳥部野の北辺に埋葬されたという。そして十年後の文永九年(一二九二)冬、親鸞の墓所は改葬され、大谷の地に親鸞の廟堂を新たに造営することとなった。このことについて永仁三年(一二九五)十月十二日の奥書をもち、信らの曽孫・覚如が自ら詞書を記した京都・本願寺所蔵『善信聖人絵』には以下のごとく記されている。

 文永九年冬此、東山西麓鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、同麓より
 西、吉水の北辺に遺骨を堀渡て、堂閣を立、影像を安す。

 この詞書に対応して描かれる親鸞の廟堂(以下、大谷廟堂と呼ぶ)は、瓦葺の六角円堂で前三方に開閉式の扉が設けられていたが、廟堂内の様子については本願寺本『善信聖人絵』が石塔(笠塔婆)だけを安置するのに対し〔挿図5〕、本願寺本『善信聖人絵』(もしくはその原本)成立の二か月後の同年十二月十三日に作成された旨を覚如が自ら奥書に記す三重・専修寺所蔵『善信聖人親鸞伝絵』では、石塔を中央に安置して、その後方に背屏をもつ椅子に趺坐して合掌する親鸞影像を安置する〔挿図6〕。後者は描き方から考えて影像であったとみるのが穏当であろう。
 本願寺本と専修寺本に認められる大谷廟堂内の相違について、司田純道、源豊宗、福山敏男の三氏による異なる解釈が示されているが、ここで前掲の詞書に「文永九年冬此(中略)堂閣を立、影像を安す」とあるものの、同時代の関係文書にみえる廟堂の呼称〔表1〕が、永仁四年(一二九六)七月十七日付「良海沽却于善信上人遺弟中状」以降において、それまでの「御はか」・「御めうたう(廟堂)」から、「御影堂」もしくは「影堂」に変化している事実はやはり無視し難く、すると、三氏の説の中では司田純道氏がこのことに留意しつつ、本願寺本『善信聖人親鸞伝絵』の完成した同年十二月を挟んで、十一月二十八日が親鸞の祥月命日に当たることに着目して、この祥月命日にあわせて大谷廟堂に安置すべく親鸞影像が造立安置されたと解したことは、後述するごとく、大谷廟堂の親鸞影像に該当する可能性が高い常敬寺「親鸞聖人」像が作風の検討から十三世紀末頃の造立と推定できることとも矛盾せず傾聴すべきではなかろうか。
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いったん、ここで切ります。
挿図5と挿図6を実際に見れば一目瞭然なのですが、「東京文化財研究所刊行物リポジトリ」のPDFでも図像は見えないようになっていますね。
要するに西本願寺蔵の『善信聖人絵』には石塔だけ、高田専修寺蔵の『善信聖人親鸞伝絵』には石塔と親鸞像が描かれているのですが、司田純道氏は前者と後者の制作時期のズレの期間に親鸞像が追加されたものと考え、津田氏も司田説に賛成されている訳ですね。
さて、続きです。(p303)

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 そして、この廟堂に安置された親鸞像は、次項で述べる「唯善事件」に係わって廟堂敷地の本所であった青蓮院から発給された延慶二年(一三〇九)七月二十六日付「下知状」に「親鸞上人影像遺骨等事(中略)所詮、彼影像者、為門弟顕智等之造立」を明記しており、親鸞晩年の高弟・下野高田の顕智(一二二六~一三一〇)を中心とする東国門徒の造立になるものであった。
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この後、「この合掌する親鸞像ということで想起される」絵画・彫刻の作例についての説明がありますが、省略して「唯善事件」の説明に移ります。
既に『本願寺史』等を用いて何度も繰り返してきた説明と重複しますが、一般的には重視されていなくても、私の立場からはけっこう重要と思える記述があるので、煩を厭わず引用します。(p304以下)

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(2)「唯善事件」の顛末と親鸞影像の鎌倉・常葉の地への鎮座

 ところで、かの大谷廟堂の敷地は親鸞の娘・覚信尼(一二二四~一二八三)が文永十一年(一二七四)に後夫・小野宮禅念(?~一二七五)から譲渡されたもので、これを覚信尼は建治三年(一二七七)に親鸞の「はかところ(墓所)」に寄進している。すなわち、そこに建てられた廟堂ともども帰属は親鸞の教えを在地で守る東国の門徒(門弟)中にあった。そして、管理守護する役目(留守職)に覚信尼みずからが当たり、以後も覚信尼の子孫の中で適任者が親鸞の東国門徒中の承認を得て留守職に就任すべきとした。それゆえ、弘安六年(一二八三)十一月、自らの死期を悟った覚信尼は時代の留守職を先夫・日野広綱(?~一二四九頃)との間に生まれた覚恵に譲ることを東国門徒中に申し出て、その了承のもと覚恵がこれを継職するところとなった〔表2〕。
 そして、覚恵は永仁四年(一二九六)以前において母・覚信尼と後夫・小野宮禅念との間に生まれた異父弟で常陸奥郡に住む唯善の窮状を見かね、家族ともども呼び寄せて廟堂に同居させている。もとより、覚恵と唯善の二家族が生活をするには廟堂の敷地は手狭であったため、永仁四年(一二九六)七月、常陸奥郡門徒の協力により南隣の土地が購入されて廟堂敷地の拡張がはかられることとなり、これにともない廟堂背後の北側坊舎に居住した覚恵は北殿、南側坊舎に居住した唯善は南殿と称されて、東国門徒の廟堂参拝に際し南北両殿を尋ねることが慣例になったという。
 その後、正安三年(一三〇一)頃より唯善の大谷廟堂留守職懇望が表面化し、策謀をめぐらすに及んで、これを快く思わない東国門徒は対抗策を講じ牽制を行った。しかしながら唯善は、徳治三年(一三〇六)には重病で留守職に耐えないことを理由に覚恵から廟堂の鍵を強要するとともに、子息・覚如ともども廟堂敷地から退去させて、ここに唯善の廟堂占拠という事態に発展した。
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ここに書かれたことには目新しい点はひとつもなくて、従来からこうした説明がなされて来たのですが、良く読むと変なところもあります。
唯善の「窮状」を傍観していた「常陸奥郡」の人々は、唯善が京都に戻ると突然親切になって、唯善が居住する為に大谷廟堂の南隣の土地を購入してくれた、というストーリーに矛盾はないのか。
唯善は本当に東国で「窮状」に陥っていたのか。
そのような説明は誰がしているのか。
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津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(その1)

2022-09-03 | 唯善と後深草院二条
猶子と実子の関係を正確には何と呼んだらよいのか分かりませんが、親鸞一族でありながら本願寺教団側からは獅子身中の虫として嫌われている唯善(1266-1317)が中院雅忠(1228-72)の猶子で、後深草院二条(1258-?)と近い関係にあるらしい、という一点を手掛かりに色々調べてきました。
しかし、もともと浄土真宗の知識・素養に乏しい私には、現時点ではこのあたりが限界のようです。
そこで、二年後くらいに改めてもう少し深めることにして、初期浄土真宗というテーマはいったん休もうと思います。
ただ、今までの検討に際して、青山学院大学教授・津田徹英氏の「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(『美術研究』375号、2002)という論文に非常に助けられていたのですが、この論文には殆ど言及して来なかったので、将来の再開に向けた橋頭保として、少しだけ整理しておこうと思います。
津田論文は「東京文化財研究所刊行物リポジトリ」で検索するとPDFで読めますが、参照の便宜のため、適宜引用させてもらうことにします。

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/

さて、津田論文の全体の構成は次のようになっています。

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はじめに
一、常敬寺「親鸞聖人」像の伝来について
(1)京都・大谷の親鸞廟堂の造営と影像の造立
(2)「唯善事件」の顛末と親鸞影像の鎌倉・常葉の地への鎮座
(3)下総国下河辺庄への寺基の移転
二、常敬寺「親鸞聖人」像の概要と作風
(1)概要
(2)作風
三、「唯善与同位」覚念の遺跡寺院が伝えた「親鸞聖人」像
むすびにかえて─中世真宗肖像彫刻研究への視座
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「はじめに」の冒頭では、一般的な親鸞のイメージを形成している西本願寺所蔵の「鏡御影」や「安城御影」の特徴を整理された後、次のように続きます。(p300以下)

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 さて、本稿において以下に取り上げる僧形座像〔挿図4〕は、今後、中世真宗の肖像彫刻を考える上で重要な位置を占めるであろうと私考するが、従来、論議の俎上にのぼることが全くなかったのも事実である。この僧形座像を伝える常敬寺(浄土真宗本願寺派)は、千葉県東葛飾郡関宿町中戸に所在し、元禄十一年(一六九八)、慧空によって編纂された『叢林集』ほか近世の本願寺周辺で編まれた真宗叢書類等が一致して親鸞の孫・唯善の遺跡と認める寺院である。そして、かの僧形座像は現在も常敬寺御影堂(本堂)中央の須弥壇上の宮殿内に本尊として安置され、「親鸞聖人」の木像として厚く信仰がなされている。
 ちなみに、常敬寺に伝来したこの僧形座像は、千葉県下における鎌倉時代に遡る本格的肖像彫刻との評価のもと、昭和五十二年(一九七七)には千葉県指定の有形文化財となったが、指定登録名称を「木像伝親鸞聖人像(傍点筆者)」としたことは留意すべきであろう。その表記から指定に際して寺伝に配慮しつつも親鸞像とすることになお抵抗があったことを窺わせる。ところが、来歴について検討を重ねてみるとき、親鸞の没後、京都・大谷の地に造営された親鸞の廟堂に安置され、のち延慶二年(一三〇九)に起こった、いわゆる「唯善事件」によって鎌倉・常葉(常盤)の地にもたらされた親鸞影像に該当する可能性が高く、まさしく寺伝にいう「親鸞聖人」像であったということになる。とすると、何故これまで寺伝が素直に信用されなかったかとうことにも問題は及ぶであろうが、もとよりそれは今日、我々が抱く親鸞のイメージとも深くかかわっている。
 すなわち本稿は、常敬寺「親鸞聖人」像が京都・大谷の地に建てられた親鸞の廟堂に安置すべく最初に造立された親鸞影像であることを明らかにするとともに、その考察を通じ親鸞のイメージをめぐる基本的問題を浮かび上がらせることを目的とし、併せて筆者が関心を寄せる中世真宗肖像彫刻研究の序としたいと思う。
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「木像伝親鸞聖人像」の「伝」に傍点が振られています。
この親鸞聖人像は千葉県公式サイトで見ることができます。

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 合掌して坐る老僧の像。寺では宗祖親鸞聖人の等身の御影像として伝えられている。眉をしかめ、やや面長で鼻が高く、口を真一文字に結び、顎のがっちりした相貌と、やや肩を怒らせ肘を張って合掌する姿に、像主の強靱な性格が表現されている。
 ヒノキ材の寄木造で、像の高さは70cmです。頭部および体幹部は前後左右の4材をつなぎ合わせ、両体側、脚材、両肘、両手がつなぎ合わされている。現在は黒漆塗りとなっているが、当初は彩色が施されていたものと思われる。
 写実性の強い相貌や、形式化の目立たない衣の処理などから見て、鎌倉時代後期の作品と考えられる。生前の像主の長寿を願って造像される寿像か、死後間もなく、像主の印象が強く残るころにつくられた追善像と思われる。
 親鸞像については、京都・西本願寺所蔵「鏡御影」あるいは「安城御影」などの代表作例から、その相貌の特徴として、眉をはね上げ、襟首に帽子を巻き、腹前で両手先で一重の数珠を執るというイメージがありますが、本像はこれと異なるため伝親鸞聖人坐像となっている。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p131-048.html
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