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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その22)

2022-06-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月28日(火)11時38分36秒

前回投稿では『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条を引用しましたが、翌日の二十八日条には、

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廿八日、 卯、去夜任人粗伝聞、
参議藤頼藤、弁官次第転任、但権右中弁藤信経・両少弁如元云々、右近中将藤為雄、
即補蔵人頭、右兵衛督藤資藤、即移正階、是関東御挙之故云々、為雄朝臣元右兵衛
督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉、此外事不逞委記。
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とあって、蔵人頭だった葉室頼藤が参議に昇進したこと、二条資藤が従三位に叙せられたこと等が記されていますが、私には「為雄朝臣元右兵衛督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉」の意味が分かりません。
何となく底意地の悪そうな書き方なので、為雄は蔵人頭にはなれたものの、それ以外の希望は満たされなくてザマーミロ、みたいなことでしょうか。
ま、それはともかく、二条資藤の昇進は「是関東御挙之故云々」とのことで、実躬は関東の推挙で昇進すること自体は当然と考えていますね。
また、実躬は自身の昇進のために「以内々女房申入仙洞了」(二十七日条)としているので、もちろん女房口入にも肯定的です。
要するに実躬は自身の出世と家格の向上以外には特に関心がなく、「政道」のあり方にも、「政道口入」の是非にも特に見識のない自己中心的な俗物です。
ま、別にそうした生き方が悪いという訳ではなく、大半の公家はそんなものでしょうが、実躬の如き人物の為兼評を、小川氏のようにことさらに重視する必要もないのでは、と私は考えます。
さて、それではいよいよ小川論文の最終節に入ります。(p44)

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   七 おわりに

 本稿では為兼の土佐配流につき「正和五年三月四日伏見法皇事書案」を紹介して考察し、永仁の佐渡配流についても私見を述べた。両度の配流の起きた背景には差異はなく、治天の君である伏見院の政務になんらその座を与えられていない為兼の「政道之口入」によってひきおこされたものである。とりわけ正和には鷹司冬平の関白還補が伏見院の失政として問題となって、為兼らがその元凶とみなされたことで、遂に処罰に至ったのであった。
 ただし、持明院統もよくよく近臣に壟断されやすい体質であった。そのことが事態をより深刻にしたといえるが、後伏見院の時になっても近臣や女房の口入は絶えなかった。見かねた重臣の今出川兼季が五ヶ条の意見を奉って、院中の綱紀を粛清するよう献言している。しかし兼季が「一切可被停女房内奏之由」を強調したのに対し、花園院はあながち女房の非とはせず「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」と反論したことは、誠に示唆に富んでいよう。
 京極派和歌が閉鎖的な歌壇、すなわち院や女院と少数の近臣・女房からなる、固定的なメンバーによって創作されていたことは、既に常識となっている。そういう濃密な君臣関係こそが和歌史に遺る傑作を生む土壌を培った。『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう。しかし、それは一方で為兼の如き近臣をはびこらせる温床となった。幕府はある時期まで、大覚寺統よりも、果断な処置がとれず自己管理能力に乏しい持明院統を危険視していたとさえ思えるのである。
 以上はやや極端に過ぎた見方かもしれない。しかし、もはや治天の君でさえ恣意が許されない時代であった。持明院統の文学に対する高い評価はもちろん当を得ているが、伏見院の治世が為兼を生みだし、そして最終的には為兼を排除しなければならなかった背景についても考察をめぐらし、その意味するところを冷静に観察することも必要であろう。
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小川論文はこれで終わりです。
「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」に付された注(36)を見ると、これは『花園院宸記』正中二年(1325)十二月十五日条で、後醍醐親政期の話ですね。
また、「『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう」に付された注(37)には、

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(37)岩佐氏『宮廷女流文学読解考 総論中古編』(笠間書院 平11・3)は「大覚寺統政権下にも又、儒仏の学は栄えても女房日記はあらわれない」(二四頁)との指摘がある。
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とあります。
小川論文についてのまとめは次の投稿で行いますが、「おわりに」の書き方を見ると、小川氏が『実躬卿記』などに関して相当に強引な史料操作を行いつつつ持明院統を批判する背景には岩佐美代子批判という隠れた意図もありそうですね。
このあたりの事情は、歴史研究者にはちょっと分かりにくいと思いますが。
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