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善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)

2022-06-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月20日(月)10時59分28秒

歴史研究者なら誰でも見ている『公卿補任』を素材に、善空事件に関与したとされる六条康能・資緒王・源資顕の経歴を調べてみましたが、まあ、率直に言って公家社会においては余りたいしたことのない人たちですね。
信西入道(藤原通憲)の子孫は仏教界では有名人を輩出していましたが、公家社会ではそれほどの家柄ではなく、資緒王・源資顕兄弟の白川伯王家も同様です。
さて、善空事件を初めて詳しく分析されたのは森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994)ですが、森氏の『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2021)を見ると、事実関係の面では特に進展はなさそうです。
同書での善空事件の説明は既に紹介済みですが、森氏が、

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しかし正応三年二月に、後深草上皇が出家して伏見天皇の親政が開始されると、伏見にとって善空の排除が必須となり、翌四年五月、伏見は側近の京極為兼を鎌倉に派遣して執権北条貞時に訴え、排除を断行することになる(『実躬卿記』)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

とされる点には若干の違和感を覚えます。
というのは、正応三年(1290)二月十一日、四十八歳の後深草院は亀山殿で出家し(法名「素実」)、引き続き行われた「亀山殿御逆修」には前年九月七日に出家済みの「禅林寺法皇」亀山院も参加したりしています(二月十二・十三日)。
そして翌月三日、後深草院が亀山殿から常磐井殿に戻って間もなく、甲斐源氏の浅原為頼父子三人が富小路内裏に乱入し、親政を始めたばかりの伏見天皇を暗殺しようとする大事件が発生します。
『増鏡』によれば、

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 同じ三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思して御占あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにか、と誰も誰も思し騒ぐに、その九日の夜、衛門の陣より恐しげなる武士三四人、馬に乗りながら九重の中へはせ入りて、上に昇り、女嬬が局の口に立ちて、「やや」といふ者を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋縅の鐙着て、ただ赤鬼などのやうなる面つきにて「御門はいづくに御寝るぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教ふれば、南ざまへ歩みゆくままに、女嬬うちより参りて、権大納言典待殿・新内侍殿などに語る。
 上は中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いとあやしきさまをつくりて入らせ給ふ。内侍、剣璽取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げにけり。春宮をば中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へ徒歩にて逃ぐ。その程の心の中どもいはん方なし。
 この男をば浅原のなにがしとかいひけり。からくして夜の御殿へたづね参りたれども、大方人もなし。中宮の御方の侍の長、景政といふ者、名のり参りていみじくたたかひ防ぎければ、きずかうぶりなどしてひしめく。かかる程に二条京極の篝屋、備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りてときをつくるに、合はする声わづかに聞えければ、心やすくて内に参る。
 御殿どもの格子ひきかなぐりて乱れ入るに、かなはじと思ひて、夜の御殿の御しとねの上にて浅原自害しぬ。太郎なりける男は南殿の御帳の中にて自害しぬ。弟の八郎といひて十九になりけるは大床子のあしの下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、あまたしてからめんとすれば、かなはで、自害すとても、腸をばみなくり出して、手にぞ持たりける。そのままながら、いづれをも六波羅へ舁き続けて出しけり。
 ほのぼのと明くるほどに、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ又さらに春日殿へなる。大方、雲の上けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、また常磐井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすりさわぐさま、言の葉もなし。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

ということで、伏見天皇・中宮(西園寺鏱子、永福門院)・春宮(後伏見天皇)は本当に危機一髪、女官たちの機敏な対応により辛くも逃げることができた訳です。
この後、六波羅が捜査を始めると、「三条宰相中将実盛」の家に伝わる「鯰尾」という刀で浅原為頼が自害したことが判明し、三条実盛の背後に亀山院がいるのではないかが疑われます。
ここに亀山院は人生最大のピンチを迎える訳ですが、弁解の書状を鎌倉に送ったりして、結局は逃げ切ることに成功します。
ということで、親政を始めたとたんに殺されかけた伏見天皇にしてみれば、当面の最大の課題は浅原事件の真相解明と責任者の追及ですね。
それに比べたら、善空事件など全くどうでもよいレベルの話です。
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